*冀東皮影戯の「翻書影」について [#t3842228]
RIGHT:山下 一夫
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*1.はじめに [#n8823998]
河北省の唐山や楽亭を中心に行われている冀東皮影戯は、長く中国の影絵人形劇――皮影戯の代表と見なされてきた。近年、非物質文化遺産保護政策によって中国各地の影絵人形劇が注目を浴びたことで、冀東皮影戯の存在はやや相対化された感もあるが、それでも例えば、唐山市皮影劇団が今なお国家を代表する影絵人形劇団として扱われるなど、冀東皮影戯が特別視される状況に変わりはない。
しかしそれは、中国各地の影絵人形劇を比較検討した結果、冀東皮影戯の芸術性が高く評価されたため、というわけではない。もちろん、冀東皮影戯が様々な点で価値を有する芸能であることは言うまでもないが、それは中国の他地域のさまざまな影絵人形劇であっても同様である。にもかかわらず冀東皮影戯がこうした評価を得たのは、日中戦争期にいくつかの劇団が行った抗日活動が評価されたという、多分に政治的な側面も存在する。しかしそれ以上に大きく作用したのは、これが北京で行われた影絵人形劇だったという点である。
北京には旧時、二種類の影絵人形劇があった。一つは旗人相手の堂会を中心に活動した「北京西派皮影」で、もう一つは河北の冀東皮影戯芸人たちによる北京での出張公演が常態化することで形成された「北京東派皮影」である((北京の影絵人形劇については、千田大介「北京西派皮影戯をめぐって」(『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』、平成9―11年度科学研究費基盤研究(C)研究成果報告書、2001年、pp66―95)を参照。))。前者はいわば北京の「土着」の影絵人形劇で、現在の北京皮影劇団もその流れを引いているのに対し、後者は外地の劇種という性質を基本的に保持していた上、現在では消滅している。それにもかかわらず後者の方が注目されたのは、1920年代における中国民俗学の有り様に関わっている。
北京で顧頡剛氏らによって民俗学研究が始められた当時、北京西派は旗人の没落で活動が停滞していたのに対し、東派は比較的活発に活動していて、かれら研究者の目に触れやすかった。実際、顧頡剛氏が「灤州影戯」執筆の過程で調査を行った李脱塵氏も、また1940年代に澤田瑞穂氏が接触した劇団も、いずれも北京東派皮影の芸人であった。特に前者の研究が古典となったことは、その後の中国における影絵人形劇観に大きな影響を与えたと言えるだろう。
また、当時の研究が台本資料の収集・分析を一つの柱としたことも重要である。しかもそれは、口頭で伝えられている台本を口述記録するという方法ではなく、市場などに出回っている、既存の書写テキストを買い集めるというものだった。現在台湾の中央研究院傅斯年図書館に所蔵されている「俗文学資料コレクション」は当時そうして収集されたものだし、李家瑞氏の『北京俗曲略』など初期の中国影絵人形劇研究も、集められた台本――これを「影巻」という――から読み取ることのできる韻文の分析に偏重していた。これは、本格的な文化人類学の手法が確立する以前にあって、文献によって客観的な研究資料を確保しようとした結果であったが、一方でそこには、かれらの『歌謡周刊』という雑誌名が示すように、『詩経』採詩官説に代表される伝統的文学観や、文字資料としての韻文に価値を置く文人的な発想も流れ込んでいた。そうした中にあって、台本を口伝で行う「流口影」の北京西派皮影ではなく、書写された台本を見ながら上演する「翻書影」の北京東派皮影が注目されたのは、いわば当然のことであった。
戦後は冀東皮影戯が中国における「指導的」立場を担ったこともあり、翻書影は他地域でも取り入れられたが、しかし中国各地の影絵人形劇は元来そのほとんどがいわゆる流口影である。つまり、冀東皮影戯が中国の影絵人形劇の代表と見なされる原因の一つを作った翻書影というあり方は、皮肉にも中国の影絵人形劇を代表していない。にもかかわらず、冀東皮影戯が持つこうした特殊性は、従来の研究ではあまり問題にされてこなかったように思われる。
そこで本稿では、冀東皮影戯の根拠地の一つである遼寧省凌源で2011年8月に実施した現地調査に拠りつつ、冀東皮影戯における翻書影の性質について検討するとともに、これが冀東皮影戯をどのように特徴付けているかという問題について、考察を行いたいと思う。
*2. 翻書影の機能 [#l4a5db03]
中国の影絵人形劇の中で翻書影は珍しい部類に入るということは先に述べた。しかし一方で、これが影絵人形劇に都合の良い上演方法であることも確かである。台本を見ながら上演すれば、芸人が台詞や歌詞を覚える負担を軽減できるが、観衆の前で何らかの動作・演技を行う他の演劇・芸能では不可能か、可能であっても甚だ不格好なことになる。しかし影絵人形劇であれば、スクリーンに遮られて芸人の姿が観客から見えないため、そうしたことを気にせず、堂々と台本を見ることができる。
凌源市旭日皮影芸術団の芸人である高桂英氏と范艶超氏は、インタビューに対し上演と影巻の関係について以下のように述べている((2011年8月25日に凌源市内で行ったインタビューによる。以下同じ。))。
> 上演は影巻を見ながら行う。しかし上演時に始めて見るのではなく、事前に全員で読み、内容を確認する。今まで行ったことのない演目でも、影巻を持ってきて内容を理解しさえすれば、上演は可能である。
翻書影は、台本を事前に目を通して内容を把握した上で、もう一度確認しながら上演するというもので、それはそのまま、芸人たちによる新たな演目の習得のあり方とも重なっている。演目の習得は本来もっと難しいはずだが、それが翻書影という方法によって比較的容易になっているのだ。
なお、以前の調査で収集した陝西省の弦板腔皮影や碗碗腔皮影の台本は、おおむね一演目一冊程度となっていた((拙稿「2004年度新収皮影影巻目録――陝西省礼泉県弦板腔皮影および華県碗碗腔皮影」(『近代北方中国の芸能に関する総合的研究―京劇と皮影戯をめぐって―』、平成14年度~平成16年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書、2005年、pp97―100)、および「華県碗碗腔皮影戯『玩瓊花』影印・解説」(『中国都市芸能研究』第四輯、2005年、pp81―106)を参照。))。他地域の影絵人形劇の台本も、長さはほぼ同様である。しかし冀東皮影戯の伝統演目の影巻はこれらに比して群を抜いて長い。例えば、凌源市旭日皮影芸術団が所蔵している影巻は以下の通りである((「凌源市旭日皮影芸術団影巻一覧表」に基づく。これは劇団の上演可能演目リストを兼ねている。))。
>鳳凰釵‥‥‥14冊&br;鴛鴦劍‥‥‥10冊&br;鐵樹開花‥‥8冊&br;雙祠堂‥‥‥9冊&br;姜朋征西‥‥12冊&br;雙魁傳‥‥‥8冊&br;忠節義‥‥‥10冊&br;龍門陣‥‥‥10冊&br;平西涼‥‥‥14冊&br;秦英征西‥‥12冊&br;薛超征西‥‥18冊&br;紫金鐘‥‥‥10冊&br;蕉葉扇‥‥‥10冊&br;絲絨帶‥‥‥11冊&br;金玉釵‥‥‥8冊&br;綠牡丹‥‥‥8冊&br;長壽山‥‥‥10冊&br;反西涼‥‥‥10冊&br;雙龍傳‥‥‥14冊&br;雙名傳‥‥‥8冊&br;白莽山‥‥‥8冊&br;四平山‥‥‥6冊&br;雞寶山‥‥‥11冊&br;飛虎夢‥‥‥12冊&br;飛龍傳‥‥‥8冊&br;天汗山‥‥‥8冊&br;須彌山‥‥‥1冊&br;雙鎖山‥‥‥12冊&br;二下南唐‥‥12冊&br;楊家將‥‥‥16冊&br;破澶州‥‥‥11冊&br;包公案‥‥‥20冊&br;仙桃會‥‥‥6冊&br;久虎山‥‥‥8冊&br;岳天罡掃北‥10冊&br;靈飛鏡‥‥‥8冊&br;聚虎山‥‥‥13冊&br;夢想奇緣‥‥9冊&br;平西冊‥‥‥6冊&br;雷峰塔‥‥‥8冊&br;珍珠塔‥‥‥12冊&br;五鳳樓‥‥‥12冊&br;鳳儀亭‥‥‥1冊&br;回荊州‥‥‥1冊&br;
また、今回の調査で入手した郭永山氏旧蔵の凌源皮影影巻では((拙稿「2011年度新収皮影影巻目録――郭永山氏旧蔵凌源皮影抄本」(本誌掲載)参照。))、戦後作成された現代戯は一冊~二冊程度だが、伝統演目だと短いもので四冊(『平西冊』、『薄命図』、『金頂山』、『斉国』、『薛剛追印』、『鎖陽関』、『血水河』など)、長いものだと『青雲剣』が十六冊、『五鋒会』が十七冊、『竜鳳図』が二十二冊となっている。このほか過去に収集した影巻では、『鷹爪王』が三十一冊、『封神演義』が四十三冊となっており((「収集影巻一覧」(『近代中国都市芸能に関する基礎的研究』、平成9―11年度科学研究費基盤研究(C)研究成果報告書、2001年、pp149―151)参照。))、冀東皮影戯がいかに長い台本を有しているかが解るだろう。
これらの影巻の上演時間については、もと凌源県皮影劇団団員で、現在「国家級非物質文化遺産伝承人」に指定されている皮影芸人の劉景春氏が以下のように述べている((2011年8月24日のインタビューによる。以下同じ。))。
> 影巻は基本的に一回の上演で一冊分を行う。一冊の上演にはおおむね三時間程度を要する。全部で二十二冊の影巻なら、上演には二十二日かかることになる。
これについては、今回調査した旭日皮影芸術団による『楊家将』の上演でも、上記のインタビュー内容と同様、一日一冊、一回約三時間となっていた((2011年8月23日~26日、凌源市内で上演。本誌掲載「2011年度現地調査の概要」を参照。))。ただ、前出の范艶超氏は以下のようにも述べている。
> 影巻は、一冊を二日間かけて上演することもあり、冊数は上演日数と必ずしも等しくはならない。状況によって、臨機応変に調節することもある。
おそらく劉景春氏の言うように、基本的には一日一冊でも、影巻の冊数と予定される日数とが合わない時は、全体に影響のない範囲で調整を行う場合もあるということだろう。
全体の上演日数について、范艶超氏は以下のように述べている。
> 廟会などで行う「廟会影」は、最低で三日、長いときは十五日前後上演することもある。上演内容は、観衆の希望に応じた演目を行う。
また、凌源市竜鳳皮影芸術団の許子林氏は、以下のように述べている((2011年8月26日のインタビューによる。))。
> 影絵人形劇の上演には「廟会影」のほか、願解きなどで行う「願影」がある。日数は基本的に三日間である。演目は同じく観衆の希望するものを上演するが、一日目の最初に『三星』を、二日目の昼間に『天官賜福』を、三日目の最後に『出状元』を挟み込む形で上演する。この三つの演目は短く簡単なので、歌い慣れれば暗記できる((なお、これらの演目と関わりがあると推定される影巻が早稲田大学演劇博物館に所蔵されているが、これについては稿を改めて検討する予定である。))。
以上を総合すると、上演日数は願影なら三日、廟会影は最低三日で、長いものだと十五日前後ということになる。そうすると、前出の『竜鳳図』二十二冊も、状況によっては十五日程度に圧縮されて上演される可能性もあるが、それでも充分長いと言えるだろう。
また、願影の三つの演目は短いため「暗記できる」ということは、逆に言えば他の大多数の演目はとうてい暗記できるような性質のものではないことを示しているだろう。そうすると、上に見たような冀東皮影戯の長大な影巻・上演時間は、翻書影によってはじめて可能ということになる。
*3.台本の文字 [#p4969d1c]
ここで、冀東皮影戯の影巻の例として、郭永山旧蔵『降魔陣』第一冊冒頭部分を以下に挙げてみたい(右図)。
#ref(x1-s.jpg,,降魔陣1)
#ref(x2-s.jpg,,降魔陣2)
一見してまず目に付くのが、誤字の多さである。上の抄本の第一葉の二行目から四行目にかけては以下のようになっている。
>%%%摆朝四臣%%% 金鐘三下响 文武上朝堂 文官朝帝阙 武将站龍亭」本相方宣零」利部天宦杜如輝」付马柴绍」下官李忠」
「方宣零」は「房玄齢」、「利部天宦杜如輝」は「礼部天官杜如晦」、「&lang(zh-cn){付马}」は「駙馬」のことだろう。こうした誤字を「無教養」とするのは簡単だが、当事者としては観客に音声としての台詞が伝われば充分だし、むしろ識字率が低いとされる農村部でこれだけの文字を操っていることは驚異的ですらある。
もちろん過去には文盲の芸人もいたらしい。かれらはもちろん影巻を読むことができないから、いわば「流口影」で行われる冀東皮影戯もあったことになる。ただ、主流はあくまで翻書影であることも事実で、その場合は影巻を読むことができない者は他の役割に回るという選択肢もあるだろう。これについて、まず范艶超氏による皮影上演の役割分担についてのインタビューを見てみよう。
> 皮影の上演には、文場なら四人、武場なら五人が最低必要となる。主な役割分担は、上線・下線・司鼓・拉弦の四つである。上線はスクリーンの左側に立ち、主な人形操作を行い、歌い手も兼ねる。下線はスクリーンの右側に立ち、上線の人形操作を助け、歌い手も兼ねる。司鼓は底鼓・打板・文鑼・武鑼・中鈸を担当し、歌い手も兼ねる。拉弦は司鼓の後ろに座り、四弦を演奏するが、歌い手は兼ねない。上演には、状況に応じてさらに楊琴なども加わり、多い場合には十人程度となる。
四弦を演奏する拉弦だけは歌い手を兼ねていないので、影巻を見る必要は無い。したがって、文字を読むことができない者がいる場合、ここに配置するという手がある。これに関連するのが、凌源市文化局の許克勤氏の以下のようなインタビューである((2011年8月24日に凌源市内で行ったインタビューによる。))。
> 歌い手はみな台本を見るし、司鼓も見る。鼓板の後ろに座る拉弦だけは台本を見ず、他の芸人に合わせて感覚だけで演奏を行う。なお、旧時は拉弦は盲人が多かった。影巻を見る必要が無いし、盲人は感覚に優れているからである。
実際、劉景春氏の四弦の師匠である董文氏や、許子林氏の四弦の師匠である宋広達氏は、いずれも盲人であったという。中国の伝統芸能においては盲人が絃楽器を担当することも多く、冀東皮影戯もその一つと考えられるが、それと同時に、影巻を読むことができないかれらをここに配置していると取ることもできるだろう。
*4.役柄 [#y096c6ec]
先に挙げた『降魔陣』第一冊冒頭部分に戻ると、誤字の問題以外に、テキストがほとんど台詞と歌詞だけで成り立っていることも指摘できる。%%%摆朝四臣%%%、%%%出天子%%%のように、□で囲まれているト書き部分は、分量が非常に少ない。登場人物の台詞は」という記号で書き分けられているが、これも例えば一般に流通している著名な古典戯曲作品などであれば、もう少し細かい指定があるところだろう。%%%唱%%%から歌詞部分が始まっているが、どのようなメロディを用いるのかも記されていない。
もちろん、古典戯曲として我々が比較的よく目にする元雑劇や明清伝奇は「曲牌体」を用いるため、歌詞の曲牌を示す必要があるのに対し、冀東皮影戯は「板腔体」なので、これとは状況が異なると見ることもできる。ただ、同様に板腔体を用いる京劇でも、一般に流布しているテキストはやはり板式を記すのが普通であることを考えると、こうした影巻の書写方法はやはり特殊であると言わざるを得ないだろう。
メロディが書かれていないということは、芸人たちは影巻に頼らずに板式を呼び出せるということである。これに関連して、前出の劉景春氏は以下のように述べている。
凌源皮影の板式は、4/4拍子の慢板、2/4拍子の二六板(これは流水板ともいう)、1/4拍子の緊板の三種類がある。(京劇のような)散板は無い。多くの場合は2/4拍子の二六板で行う。影巻に板式は書かれていないが、それは例えば芸人の状況に応じて、4/4拍子の慢板を芸人が歌えない場合もあるし、また4/4拍子の慢板を司鼓や拉弦が習得していない場合もある。同じ影巻でも上演者によって板式が異なり得る。特定の影巻の歌詞は固定していない。どれを歌うかは、その場の状況で決まる。
影巻に書かれた歌詞に慢板・二六板・緊板のどの板式を用いるかは、上演者の都合によって決まる。主導的立場を持っているのはあくまでも上演者の側で、かれらが歌おうとする板式から台本の歌詞を読み込んでいるのである。いわば、歌詞のテキストでは上演者が影巻に従属しているのに対し、歌詞のメロディについては影巻が上演者に従属しているのだ。そうであれば、影巻にメロディの指定がないのも当然ということになる。
こうした上演者と歌詞の関係は、台詞についても同様の状況にある。前出の高桂英氏は以下のように述べる。
> 例えば王侯宰相など、地位の高い人物の場合は、それ相応の決まった話し方がある。師匠について皮影を学ぶ際、そうした台詞の話し方の類型を習得する。上演に際しては、影巻中の個々の人物の台詞を読み上げる時に、そうした類型を適用する。
つまり上演に際しては、影巻に書かれている台詞に、上演者の持つ「役柄による話し方の類型」が被せられていることになる。
役柄による類型と言った場合、まず連想されるのは、伝統演劇における「行当」である。冀東皮影戯における行当については、艶超氏が以下のように述べている。
> 上演の際、歌い手は最低でも四人必要で、生・旦・大・髯に分かれる。
「生」は男性、京劇でいう「文生」「武生」を含み、また「髯」はひげを生やした男性、すなわち京劇の「老生」にあたる。「旦」は女性を表し、「大」は京劇でいう「浄」に近いが、同じではないらしい((なお冀東皮影戯の行旦について、魯杰編著『唐山皮影』(科学出版社、2009年)では生・小(旦)・大・髯・丑・神仙鬼怪の六種、魏力群『冀東皮影』(科学出版社、2009年)では小・生・髯・浄・大・丑・妖の七種に分けている。取材地点の相違による、冀東皮影戯内部での地方差の反映である可能性もあるが、両氏が採用しているのは人形造型による行当分類で、これが唱腔による行当分類と異なっている可能性もあるだろう。))。
流口影を用いる陝西省や山西省の古い影絵人形劇は、「抱本」と称し、同一人物が異なる行当の歌唱を兼ねるスタイルが一般的なのに対し、歌い手の行当が分化していることは、冀東皮影戯の特徴の一つでもある。影巻を見て芸人同士が分担を確認しあうことでこれが可能となっているのだとすれば、これも翻書影という方法と不可分と言える。と同時にこれは、同一人物が兼ねる抱本よりも、芸人一人一人の負担を軽減する作用があるだろう。
この四つの行当は、高桂英氏の言う「役柄による話し方の類型」とも重なってくるものと思われるが、しかし例えば「文生」と「武生」とでは話し方も自ずと異なることを考えると、必ずしもイコールとはならない。おそらく、この類型と行当とは別個に存在するものと思われる。
上に見た行当は唱腔における分類だが、冀東皮影戯はほかに、人形の整理という観点からの分類もある。范艶超氏は以下のように述べる。
>(影絵人形を入れておく)「影箱」には、頭と体を分けて入れる。体はそのまま影箱に入れ、頭は神妖包・文武官包・反王包・文武生包・帥将包・文武旦包・手包の七つの「包」に分けて入れる。反王とは叛乱を起こす人物のことで、手包は猫・犬・碗など、こまごまとしたものを入れる。
これは、人形整理という観点から芸人たちが思い浮かべやすい分類なのだろう。手包は人物ではないので、人物として挙げられるのは神妖包・文武官包・反王包・文武生包・帥将包・文武旦包の六種類である。文武生は生、文武旦は旦となるだろうが、文武官・帥将・反王・神妖は、生・大・髯のそれぞれに分配され得るので、この人形分類は唱腔の行当と基準が異なっている。また、同じように王侯将相であっても、否定的に描かれる「反王」と、肯定的に描かれる「帥将」を分けていることから、これがストーリーとも関わる分類であることが伺える。ただ、一方で文生と武生が分かれていない点などから、これも「役柄による話し方のパターン」と等価ではないのだろう。
以上の点からすると、唱腔の行当や影箱の分類などとも異なる「役柄による話し方の類型」をもとに、芸人が影巻を読み込むことで翻書影が成立していることが推測される。
*5.おわりに [#y6ff6448]
冀東皮影戯の翻書影は、比較的単純な板式と「役柄による話し方の類型」を、書写テキストである影巻の台詞・歌詞を当てはめることと言いかえることができるだろう。このスタイルはまた、長期間の上演も可能とし、他地域に類を見ない長編台本も生みだすとともに、常に芸人の負担を軽減する方向に作用してきた。
前稿で述べたように、中国東北部では、新興の翻書影による冀東皮影戯が、既存の流口影の影絵人形劇の系統を駆逐しながら発展してきた((拙稿「東北皮影戯研究のために―凌源および哈爾浜」(『中国都市芸能研究』第九輯、中国都市芸能研究会、2010年、pp5―18)を参照。))。似たような現象は中国の西北部でも起こっており、今後これらと比較検討する必要もあるが、こうした事態が発生した原因の一つとして、翻書影が芸人の負担を軽減し、上演参入のハードルを下げる機能を持つことが考えられるのではないだろうか。従来に無い長編作品も行うことができる新しい種類の影絵人形劇が、習得のし易さによってある時期から急速に広まっていった結果が、現在の冀東皮影戯の分布である可能性はあるだろう。
ただ一方で、芸人が「役柄による話し方の類型」を覚え、それをもとに台詞や歌詞を述べるというあり方は、冀東皮影戯以外の芸能でも当然あり得る。例えば流口影については、「アドリブによる低俗な即興上演」と「芸人たちの天才的な記憶力による上演」という両極の評価に振れるばかりで、冷静に語られてこなかったきらいがあるが、こうした観点から台詞や歌詞の習得・再現のプロセスについて別に検証される必要はあるだろう。それは、必ず「流口」にならざるを得ない、人間が行う京劇などのような演劇も同様である。冀東皮影戯はそうした構造を翻書影という方式で分割した点が特徴的であったと言えるが、中国の伝統演劇における台詞の類型のあり方については、もう少し注意が払われても良いのかも知れない。
&size(10){* 本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22~23年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。};