『都市芸研』第十一輯/現代中国相声事情 の変更点

Top/『都市芸研』第十一輯/現代中国相声事情

*現代中国相声事情 [#y2181cde]
RIGHT:氷上 正
#contents

**はじめに [#a4783bf0]

ここ数年来、中国相声(漫才)の復活・盛況がメディアに取り上げられており、実際私も幾つかの小劇場に足を運んだが、観客の入りは上々のようであった。1990年代の相声の状況を考えれば、その注目度はまさに雲泥の差である。90年代に私は何度か北京に足を運んだが、相声を舞台で見ることは殆どできなかった。

相声が誕生しておよそ100年といわれる。その間、相声を取り巻く環境はさまざまに変化して現在に到っている。ここでは、その環境の変化を振り返りながら、主に現在の相声の状況とその状況をもたらした要因を探ってみるつもりである。

**一 [#i46d74b3]

2003年は中国・北京の大衆演芸の代表格とも言える相声が誕生してから凡そ100年ということであろうか、中国中央テレビ局(CCTV)では、この年の3月から月1回のペースで1年をかけて『中国相声一百年』というタイトルの中国相声のドキュメントを放映した。全12回に分けて放映された各回のタイトルは次の通りである。

>「相声の起源」「相声の成長」「相声の継承」「相声の名人たち」「相声の新生」「相声の春」「相声の苦難」「相声の再生」「相声の繁栄」「相声の広がり」「相声の困惑」「相声の希望」((このドキュメンタリーは、放映後VCDやDVDとして河北百霊音像出版社から発売された。原題はそれぞれ次の通りである。&lang(zh-cn){〈相声的起源〉〈相声的成长〉〈相声的传承〉〈相声群星谱〉〈相声的新生〉〈相声的春天〉〈相声的磨难〉〈相声的重生〉〈相声的繁荣〉〈相声的涉猎〉〈相声的困惑〉〈相声的希望〉}))

#ref(100.jpg,,《中国相声一百年》)

それぞれの回では、貴重な映像資料や相声芸人から台本作家、作家や評論家など、相声に関わりのある各界の人物へのインタビューなどを織り交ぜながら、相声誕生から2003年時点までの相声の歴史を振り返っている。

この番組を通して見ると、清末の朱紹文(窮不怕)によって現在の相声のスタイルが作られてから100年あまりの経過の中で、相声における幾つかの転換期があったことが分かる。その中でも大きな転換期は1949年の中華人民共和国の成立期及び文化大革命期、さらに改革開放政策による中国社会主義市場経済への移行期ということにでもなろうか。

中華人民共和国成立により、それまでの大道芸としての相声を含む大衆演芸が、国家の重要な文化政策の一環として大いに活かされることとなった。相声などの大衆演芸を組織する様々な機関が生まれ、芸人たちもそれに従って国家公務員のような存在となってくる。さらに、これまでの俗受けする、いわゆる下卑た表現や下ネタのような内容も改められるようになった。この間の事情に関しては『中国相声史』第三編第一章で詳細に記されている。((王決・王景寿・藤田香著『中国相声史』(北京燕山出版社 1995年、新版は百花文芸出版社 2012年)新版179-199頁。))

こうした相声を取り巻く環境の変化は、岳永逸の言うところの「元来、暮らしを立てるために、あるいは人を楽しませるためにおこなわれた大道芸としての相声は、政治のための相声へと性格を変え、主に宣伝・教化の任務を担わされるようになった」((岳永逸著、藤川美代子・白莉莉訳「生活・政治・商品――文化・社会生態としてみる草の根の相声――(原題:生活、政治与商品:作為文化社会生態的草根相声)」(『比較民俗研究』26 2011年)125頁。))ため、いわゆる我々日本人の考えるような娯楽演芸としての性格とは、かなり異なるものとなった。もちろん相声が笑いを原点としていることに変わりがないが、その笑いの質は大きく変わり、ある種の毒を持った風刺的面白みというより、毒の部分を除いた国家建設にたいする謳歌的、肯定的な笑いを誘う内容となった。

また侯宝林、馬三立などの1930年代から活躍していた相声の名人たちも、それまでの社会的地位の低かった芸人という身分から、新国家建設に寄与する存在として、世間から認められることになった。彼らの相声は新国家建設に相応しく、内容的にはより“健康的”となり、国家建設に邁進する人々にとっては笑いによる激励や癒しという効果もあった。

しかし、こうした相声を含めた大衆芸能の幸せな時期も、そんなに長く続きはしなかった。文化大革命(1966年~1976年)という伝統文化にとっては致命的な政治的嵐のなかで、相声の芸人たちもその職業を変えざるを得なくなった。その中にはやむを得ず引退したり、迫害のために亡くなったりした芸人たちもいた。ただ、文化大革命も終焉に近づいた1970年代になると少しずつではあるが、相声芸人たちも復活してきたようである。

1977年、文化大革命もようやく終焉を迎え、相声も含めた様々な伝統文化が復活し、さらにこれまでの鬱屈を晴らすかのように、相声本来の持ち味であった風刺を発揮し、人々の熱狂的な歓迎を受けた。ラジオではいつでも相声を聞くことができるようになった。ただ、それまで相声が演じられていた茶館や小劇場が次第に数を減らし、ラジオや新たなメディアであるテレビでの上演や、また比較的広い劇場などで演じられるようになり、観客との距離やライブ感が重要な要素である相声が次第に本来のスタイルを失いつつあった。

**二 [#d75061c8]

1980年代後半から1990年代になると、相声を含めた大衆演芸は春節(旧正月)の大型バラエティ番組である“春節交歓の夕べ”((&lang(zh-cn){“春节联欢晚会”}))で取り上げられる以外は、次第に一般庶民の前に現れることが少なくなりつつあった。さらに人気のある相声芸人たちも、似たようなジャンルの小品(コント)を演じたり、映画やテレビの司会業に本業を移したりしていく。大野によれば「市場経済の中で、メディア露出が多く知名度の高い一握りの役者ばかりが地方の商業公演に呼ばれ私腹を肥やす〈走穴〉(所属の劇団に無断で他の舞台に立つこと)がはびこる一方、これまで役者たちを養ってきた官製の文芸団体は、経営の行き詰まりから規模の縮小や合併、減俸を余儀なくされた」((大野香織「活気を取り戻した中国・漫才(相声)事情」(『幕』69号 2009年)56頁。))という状況であった。

そうした状況に危機感を抱いた相声を含めた大衆演芸の関係者はさまざまな試みをして、大衆演芸の復活を期した。その一つとして1986年、天津に北方曲芸学校という中国で唯一の大衆演芸の芸人を養成する学校を設立した。建学の方針は“伝統を継承し、新しいものを創り出す((&lang(zh-cn){“继承传统,开拓创新”}))”というものであった。

この学校には設立まもない1990年に私も見学させてもらったことがあった。((拙稿「「北方曲芸学校」訪問記」(『中国芸能通信』第三号 1990年)1-3頁参照。))専門学校ということで規模はそんなに大きくなかったが、語り物の芸人の養成や演奏楽器を専門とする学科など五つの学科に分かれており、その際にはいくつかの実演も見せてもらった。相声は語り物の学科に含まれていた。楽器を伴奏に使った語り物が素晴らしかったのに比べ、相声を演じた学生はまだ生硬さが残り笑わせるといった段階ではなかったのを覚えている。ただ、その当時は民営の養成所のようなものが生まれるような状況ではなかったので、こうした若手の芸人を養成するという試みは、いつか必ず開花するであろうし、してほしいと思ったものである。

やがて、2002年になってこの北方曲芸学校は天津市芸術学校と合流し、天津市芸術職業学院の曲芸学科となった。曲芸学科の中にはむろん相声も含まれ、数多くの相声芸人が養成されており、CCTV相声大会で入賞した芸人も少なからずいるようである。

また、著名な相声芸人の馮鞏は中央戯劇学院と協力して“相声大専班”を設けたのち、2010年には北京電影学院とも協力して、全国初の“相声学士”を養成する本科相声専業班を設けている。

そこでこうした、芸人の養成に力を入れる一方で、観客から遠ざかった芸人に実際の舞台を提供する必要があった。芸人の息遣いの聞こえる舞台、小劇場でのライブでの上演こそ相声を含む大衆演芸復活の決め手になるであろうとのことである。その一つとしては、北京や天津に以前には数多くあった、お茶を飲みながらお芝居や曲芸をみる場所、即ち茶館の復活である。

茶館の復活の先鞭をつけたのは“老舎茶館”であった。北京の目抜き通り前門西大街にあるこの茶館は、古くからあるものではなく、1988年に実業家の尹盛喜が茶の文化を含めた伝統文化を継承していくために設立したのであった。ここでは、北京伝統文化の雰囲気を醸し出すため、相声を含めた大衆演芸や奇術の芸人たちが舞台に立ち、お茶をすする観客の目の前で芸を披露するのであった。老舎茶館の経営を受け継いだ尹智君は、2002年に全面的に改装し、お茶だけでなく北京風味の食事も提供し、観客が北京の風味を味わいながら、演芸を楽しめるようにした。((拙稿「現在を生きる中国の伝統演芸」(『三色旗』737号 2009年)5頁参照。))この老舎茶館の影響か、天津や北京に茶館や小劇場が次第に復活してきた。
#ref(laoshe.jpg,,老舎茶館)

小劇場の復活、見直しにはまた別の動きもあった。その一つは、相声の危機を感じた、現役の著名な相声芸人たちによる、相声に本来あるべきライブ感を呼び戻すための“小劇場に帰ろう”((&lang(zh-cn){“回归剧场”}))という動きであった。2003年10月に李金斗が率先して北京の相声芸人を組織し“北京週末倶楽部”を設立した。“北京週末倶楽部”は毎週土曜日、北京東城文化館の三階にある小劇場で“相声大会”を手ごろな価格のチケットで演じているため、若者だけでなく家族連れなど比較的広い層に人気がある。

今一つは、1980年代後半から注目されだした中国東北地区の芸能、“二人転”の影響が考えられる。その人気の立役者となったのが“二人転”芸人の趙本山であった。趙本山が全国的に知られるようになったのは、1990年旧正月大晦日にテレビで放映されるバラエティショー“春節交歓の夕べ”の小品(コント)に出演してからであった。彼の人気の秘密は“二人転”で培った即興性と東北地区の方言を交えた泥臭いセリフ、観客との絶妙な間の取り方であった。それ以来、“春節交歓の夕べ”に趙本山のコントは欠かせなくなり、中国のコメディ王と自他ともに認める存在となった。

彼は“二人転”という自分の原点となった芸能に対する思いは強く、東北地区に“劉老根大舞台”という“二人転”専門の劇場を設けた。2009年には北京にも“劉老根大舞台北京劇場”を設立した。また劇場を設立すると同時に、後継者養成にも力を入れ多くの弟子たちが活躍している。更に彼は“本山メディアグループ”という文化産業グループの理事長として、お笑いをビジネス産業にまで広げ、“二人転”芸人たちの受け皿を作り上げている。((拙稿「現在を生きる中国の伝統演芸」(『三色旗』737号 2009年)6-7頁参照。))こうした趙本山の動きは90年代には凋落状況にあった相声に少なからず影響を与えたと思われる。少なくとも芸人と舞台の関係を改めて相声芸人たちに見直す機会を与えたであろう。

彼の芸風は地方独特のあくの強さと泥臭さを特徴とするが、その故か都会のインテリや若者たちには今一つ受けがよくなかった。そうした中で登場したのが、相声の救世主ともいえる相声芸人の郭徳綱であった。

**三 [#l36ed084]

1980年代後半から凋落傾向にあった相声が2005年に一躍脚光を浴びることになった。その立役者が天津出身の相声芸人の郭徳綱である。郭徳綱は1973年生まれ、芸人の家柄ではなく父親は警官で、母親は身体が弱かったため、よく父親に連れられて紅橋倶楽部という演芸場に行き、そこでお芝居や演芸をみていた。この頃見た芝居や演芸が彼の相声芸人としての経歴に大きな影響を与えたと郭自身はいっている。やがて評書(講談)芸人について評書を学び、天津の評書芸人たちから薫陶を受ける。その後、常宝豊を師匠として正式に相声を学び始める。彼は多くの師匠に弟子入りして評書から相声へと芸域を広げていった。((郭徳綱編著『郭徳綱 話説北京』「附録一 我叫郭徳綱」(中国城市出版社 2006年)309-319頁参照。 ))

彼の演じる相声は新作ではなく、むしろ彼の芸歴に相応しくより古典的なスタイルであり、出し物もいわゆる古典ものが殆どである。子供の頃からさまざまな演芸を学び、多くの舞台に立つことによって培ったアドリブの効いたテンポのよい話しぶりと観客との絶妙な間合いによって、それまで相声に興味を持っていなかった若い人々の中からもいわゆる“郭徳綱ファン”((&lang(zh-cn){“纲丝”}))が数多く生まれた。

ただ、郭の相声が多くの人々に受け入れられるまでには、それなりの年月を要したようである。1990年代初め頃から天津と北京を往復していたが思うようにはいかなかった。やがて3回目の北京入りになった1996年に、郭徳綱を中心にした相声芸人グループである徳雲社を設立した。徳雲社は当初広徳楼や中和劇院など北京の劇場を転々として活動を行っていたようである。((勝股高志「郭徳綱の相声について」(『愛知学院大学教養部紀要』55 2008年)75-76頁参照。))この頃は観客が一人の時もあったようである。だが次第にメディアに取り上げられるようになり、2004年からは相声発祥地、北京の天橋にある天橋楽茶園を本拠として活動するようになった。徳雲社のメンバーは「長年舞台を離れていたベテラン、北京大学中文系古典文献学科卒業生の徐徳亮(のちに脱退)など、基礎技能や古典演目に長じる者が多く」((前掲大野香織「活気を取り戻した中国漫才(相声)事情」57頁。))いたため、話芸としての技術や風格を備えていた。それと同時に、アドリブとして流行語や時事ネタなどを巧みに交えた。そのため、従来の相声ファンだけでなく、趙本山の泥臭い笑いについていけない、都会的笑いのセンスを求めていたインテリ層や若者に受けられていった。“非著名相声芸人”((&lang(zh-cn){“非著名相声演员”}))を自称する郭徳綱は、地道に小劇場において話芸を磨いた自信なのか、テレビに出演している著名な相声芸人を皮肉り、それがまた観客に受けた。残念ながら、郭徳綱自身は人気が出るにつれ、小劇場での舞台から遠ざかって、大劇場やディナーショーでの興行やテレビで司会をしたり、テレビドラマ、映画などにも出演したりし、小劇場での舞台は徳雲社に所属する若手相声芸人たちに譲るようになっている。こうした“非著名相声芸人”から“著名相声芸人”になった郭徳綱に痛烈な皮肉を投げかける記事も少なからず見うけられ
る。((たとえば、皇城草根「郭徳綱炸醤麵応該是什麼味児?」(『商業文化』10月号 2010年)16頁では、徳雲社の看板を掲げながら、全く舞台に出ない郭徳綱を皮肉っている。))
#ref(deyun.jpg,,徳雲社)

ただ、彼はそうした皮肉、批判に対して大所帯になった徳雲社を守りきるためには多少のビジネス感覚は必要だと割り切っているようである。

もともと相声の芸人は生活するがために、人々に笑いを売るために相声を演じていたのであり、趙本山も郭徳綱も笑いをビジネスにしたということでは、ある意味で人さまのお金で生活するという芸人本来の姿に戻ったということもできるであろう。ただ、郭徳綱自身が述べているように、基本のしっかりした質の高い芸と常に新しい独自のネタを提供できることが前提になるわけではあるが。((郭徳綱口述「郭徳綱:閑散芸人二十年」(『優品』6月号、2009年)52頁参照。))

こうした趙本山や郭徳綱の成功は、若手の芸人たちを刺激し勇気づけたことは間違いないであろう。そうした中から登場したのが、若手相声芸人の高暁攀の率いる若手相声芸人グループ“嘻哈(ヒップホップ)包袱舗”であった。

**四 [#dec86e5d]

嘻哈包袱舗は2008年5月に20数名の相声好きの若者たちによって、北京の古い雰囲気の残されている鼓楼西大街にある広茗閣で産声をあげた。当初は散々な客足で、観客が一人、二人の時もあったという。嘻哈包袱舗のメンバーは、全員が“80後(80年代生まれ)”の若手相声芸人から成り立ち、相声の中にネット言葉やトレンディな話題を取り入れることによって、若い観客を引きつけている。モットーは“マッチもタバコも車も家も売らない、売るのはお笑いだけ”((&lang(zh-cn){“我们不卖火柴,不卖香烟,不卖车子,也不卖房子,卖的是乐子。”}王輝「“80”後開鋪売買楽子」(『今日民航』1月号、2010年)32頁。))である。
#ref(xiha.jpg,,嘻哈包袱舗)

設立から7カ月ほどたった2009年になり、嘻哈包袱舗の人気に火がついた。彼らの持ち味であるネット言葉やトレンディ話題を盛り込んだ相声は、“80後”の相声芸人に相応しく観客もほとんどが若者であるが、評判を聞いて子供を連れた家族連れも混じっている。なぜ嘻哈包袱舗に相声を聞きに来るのか、観客の一人はこう答えている。「伝統的な相声のエキスを保持していると同時に、現代社会の抱える様々なファクターを加味している」。((&lang(zh-cn){“是因为他们不仅保留了传统相声的精髓,还把现代社会的很多元素加了进去。”}同上。))

嘻哈包袱舗の代表である高暁攀は河北省保定出身、“80後”の1985年生まれ、現在27歳である。彼は8歳の時から青少年宮で相声を学び始めた。その後河北省芸術学校保定分校曲芸班に入学し、やがて相声芸人として有名だった馮春嶺と師弟関係を結んだという。2002年に中国北方曲芸学校大専に入学したが退学し、2003年に中国戯曲学院相声班に入学したことによって、相声の本場である天津や北京で生活することになった。ただ、当時の相声状況も反映してか、相声芸人としての生活は順調といえるものではなく、さまざまなアルバイトをしながら生活費を稼いでいたという。この頃、徳雲社の前身である華生天橋北京相声で相声を演じていたが、この頃の経験が嘻哈包袱舗を運営する際に役立っているという。((冷暖「“嘻哈王子”高暁攀:相声界我最帥」(『人生与伴侶(下半月版)』4期 2009年)10頁参照。))

2006年中国戯曲学院を卒業した高暁攀は、卒業した2006年を振り返って、この時が一つの転機であったという。同期の多くが別の職業を選択した際、彼自身は悩んだ末に、北京に残って相声を演じることを決断した。「“80後”の相声芸人は若者の中でも異なった人種で、伝統芸能に従事しているということで、彼らの考え方は同世代の若者にはなかなか理解できないのではないか((&lang(zh-cn){“‘80后’相声人是年轻人中的异类,因为从事传统行业,其很多想法让同龄人很难理解。”}同上。))」という質問に対し、高暁攀は率直に次のように現状を説明している。

>私たちの世代の相声芸人が置かれた環境は恵まれているとは言えない。相声専門の団体に加わるのは難しいし、アマチュアだとまず他の仕事を探して生活費を稼がなければならない。((&lang(zh-cn){“我们这一代相声人所处的境地比较尴尬,很难进入专业团体,业余玩儿还得先找个工作养活自己。” }同上。))

こうした状況の下で、高暁攀は率先して自分たちの置かれた情況を変革することに努め、自分たちの活動を次のように言っている。

>現在私が演じられる相声の演目は80ほどであるが、その内の四分の三が伝統的な内容を改編したもので、残りの四分の一が創作したものである。……創作するうえで気をつけているのは、時代とともに、時代の流れに遅れないということだ。そうすれば、必ず若い人に受け入れられるはずだ。((&lang(zh-cn){“现在我能说80段相声,其中四分之三是经过我改编的传统相声,还有四分之一是我自己创作的。……我创作的原则就是一定要与时俱进,跟得上潮流,这才能受年轻人喜欢。”}同上。))

こうした彼の行動を、ある評論家は評価して「彼は伝統芸能を“80後”に受け入れさせ、“80後”という存在を人々に再認識させた」と言っている。((&lang(zh-cn){“他让‘80后’喜欢上传统艺术,他让人们重新审视‘80后’。”}李菡丹「高暁攀 在夾縫裏笑的“80後”相声人」(『中華児女』23期2011年)34頁。))

嘻哈包袱舗が当初演じていた小劇場は、先に述べた鼓楼西大街の広茗閣で、毎週金曜日夜の公演のみであったが、2012年の段階では広茗閣以外に、安貞嘻哈劇場、嘻哈東四環劇場、崇文相声倶楽部で毎日演じられており、一週間でのべ19回、年間にすれば1008回もの公演がある。さらに演目は毎月の演目は重複しないようにして、観客に飽きられないようにしている。ただ、現在の状況に対して高暁攀は「現在の相声は市場が拡大したがために、レベルがダウンしている」((&lang(zh-cn){“目前的相声,市场很大,但艺术水准降低。”}姜琳琳「高暁攀:相声,乱在“包袱”為王」(『北京商報』2012年10月11日第G02版演芸週刊・大角色)。))と憂いを隠していない。また「我々が売っているのは芸術であり、常に洗練化を心がけ、いつまでも粗悪なものを売っていると、一時のブームとなっても、結局は相声の市場を損なってしまうだろう」((&lang(zh-cn){“我们卖的商品就是艺术,如果不够精雕细琢,一味卖很粗糙的商品。”}同上。))とも言い切っている。さらにこのようにも述べている。
#ref(guangming.jpg,,北京広茗閣の相声)


>相声市場が拡大していることは間違いない。現在の人々は生活の中に笑いや喜劇を求めているが、そのことによって相声の性格が変わってしまった部分もある。((&lang(zh-cn){“相声市场很大,这无庸置疑,现代人的生活中太需要快乐,需要喜剧。可正是这种需要,在某种程度上让相声变了味儿。”}同上。))

>相声は是非を論じる性格も持ち、笑いだけを求めるものではない。古くより現在まで、相声は人の心を和ませるものであったはずだが、現在は必ずしもそうなっておらず、笑いや、受けだけを狙っている。((&lang(zh-cn){“相声是有是非对错观念的,不能一味搞笑。从古至今相声是要解心宽的,可当下相声并不是这样。”}同上。))

**五 [#wefd5702]

2012年現在、北京には30余りの相声を演じる小劇場があるという。そうした状況に対して、「相声の小劇場はうわべだけの繁栄で、売れた8割方のチケットは招待券である」((&lang(zh-cn){“相声小剧场只是虚假繁荣,80%都是赠票。” }車蘭蘭「相声小劇場虚火之下的艱難求生」(『北京商報』2012年5月4日大A01版 文化創意産業週刊)。))と最近郭徳綱が暴露して相声業界や世間で大変な騒ぎになったという。北京で30余りある相声の小劇場で経営的に比較的順調に運営できているのは、先に述べた徳雲社と嘻哈包袱舗のみだともいう。数十元の安いチケットで運営していくのは、小劇場にとって大きな問題となっている。嘻哈包袱舗の支配人劉星はこう述べている。

>多くの相声の劇場は常設ではなく、出演する相声芸人も兼業で、昼は会社に出勤し、夜に相声を演じて、手間賃を稼いでいる。((&lang(zh-cn){“很多相声剧场都是草台班子,演员都是兼职的,白天上班,晚上说几口相声,挣点劳务费。” }同上。))

2009年、創設された鳴楽匯は一度経営危機に陥り、昨年2011年に上半期にようやく好転したらしい。また賈玲の率いる新笑声客棧も30元のチケットで満員になっても3000元にすぎず、出演者に出演料を渡すといくらも残らず、毎月の劇場借り賃は持ち出しになっているという。ただ、小劇場の数十元のチケットに対して、これが巡業公演となるとチケット代は10倍、100倍ともなるらしい。若者の固定客をもち、トレンディ路線をとっている嘻哈包袱舗は、巡業公演も主要な収入となっているようで、毎年100回ほどの巡業公演を実施し、収入は数千万元にもなっているという。劇場収入で年収1000万元を超える徳雲社も、毎年4,50回の巡業を行っている。さらに、いくつかの相声団体は、海外公演も行っている。たとえば、郭徳綱率いる徳雲社は昨年オーストラリア公演を実施し、何雲偉・李菁率いる“星夜相声会館”はシンガポール公演を行い、かなりの収入を得たといわれている。

現在、小劇場グループは生き残りを図るために様々な独自性を出そうとしている。鳴楽匯は観客との距離をより縮めるため、舞台と観客席の境をなくして劇場全体を舞台とし、相声劇や爆笑劇など様々な革新的な相声を試みている。嘻哈包袱舗は“80後”、“90後”からなる若い芸人の特性を生かし、相声にトレンディな要素をよりいっそう取り入れ、また将来的には相声の芸人というだけでなく、芝居やコント、映画やテレビドラマなどを演じる俳優も含めた“喜劇団体”を目指しているという。また“嘻哈相声班”を設け、天津芸術学院と提携して学生を募集し、プロの相声芸人を養成し、卒業後は正規の大専の資格を与え、優秀な卒業生と契約し嘻哈包袱舗傘下の芸人とする方針であるという。((この部分の内容は、前掲車蘭蘭「相声小劇場虚火之下的艱難求生」を参照した。))

**おわりに [#la749a15]

中国社会主義市場経済のもと、中国の伝統芸能はさまざまな形で生き残りを図っている。その一つは無形文化遺産に認定され公に認められることにより、財政的援助を受け、人々の注目を再度ひきつけようという目論みである。それを意識してか、相声も北京あるいは天津に相声博物館を設立する計画があるという。

いま一つは、さきに記したように、郭徳綱や高暁攀のような相声芸人としての実力をもち、なおかつカリスマ性を備えたリーダーが、芸人を養成しつつ彼らが活躍する舞台を提供できる芸能集団を組織していくやり方である。

ただ、こうした相声を取り巻く状況の中で、日本の漫才ブームのように、現今の相声の盛況が一時のブームとして終わり再び衰退の道を歩むのか、それともこれまで培ってきた話芸としての口舌や&ruby(ま){間};の特質を生かしつつ、これから将来に向けて人々の声を代弁するような風刺を持ち味として、大衆演芸として本来あった草の根的強靭さをもって伝統話芸としての風格を形成していくのか、しばらくは見続けていく必要があるだろう。


&size(10){* 本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22~24年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。};