『都市芸研』第三輯/2003年度廈門・泉州寺廟調査報告 の変更点

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*2003年度廈門・泉州寺廟調査報告 [#t4f6eae6]
RIGHT:二階堂 善弘
**はじめに [#o02d13f5]

中国の民間信仰研究においては、台湾における事例を取り上げる場合が多い。これは大陸などで行われにくくなった廟会や、各種の宗教行事が旧時と同じように行われているからであろう。もっとも実際には台湾の廟については、福建に由来するものが大半を占めており、かなり地方性が強い。例えば、媽祖・王爺・保生大帝・清水祖師といった台湾において著名な神は、元来は福建地方において信仰されていたものである。そのため、福建と台湾の民間信仰は表裏一体と言えるほど密接な関係を持つのであり、台湾の民間信仰を理解するためには、福建の宗教の状況についても調査する必要がある。筆者はこれまでも台湾の民間信仰について、幾つかの考察を行ってきたが
((拙稿「台湾新荘市の寺廟について」(『コミュニケーション学科論集・茨城大学人文学部紀要』第5号・1999年)115~129頁、及び拙稿「台北保安宮と保生大帝」(『コミュニケーション学科論集・茨城大学人文学部紀要』第7号・2000年)55~63頁などを参照。))
、これまで福建地方には足を踏み入れる機会が無かった。その後2004年2月19~23日の期間、ようやく福建地方の南部を訪れることができた。残念ながら業務の都合上長い時間は訪問できず、廈門と泉州の若干の廟宇を目睹し得ただけであったが、得るところも多かったので、以下にて若干の報告を行いたい。
**1.廈門・泉州の寺廟 [#odd524f8]

台湾における民間信仰の多くは、福建地方からもたらされたものである。媽祖や王爺や保生大帝などの神が福建起源の神であることは、いまさら指摘するまでもないであろう。のみならず、関帝や玄天上帝といった中国全土で祭られる神が台湾に入る際も、福建を経由して流入しているのである。そしてこれらの神々の廟があった場所は、すなわちある特定の地方の出身者たちの居住区を示すものであった。

台湾の民間信仰は、特に福建南部との結びつきが強い。例えば、泉州の安渓県の出身者たちは清水祖師を信奉し、漳州の出身者は開漳聖王を祭り、泉州の恵安県から来た者は霊安尊王を信奉し、泉州同安県より来た者は保生大帝を祭祀する((荘芳栄『台湾地区寺廟発展之研究』(中国文化大学史学研究所博士論文・1987年)27頁。))
。

一般に民間信仰の廟は、主に「分身」「分香」と呼ばれる行為を通じて信仰を伝播させていく。台湾の多くの廟が福建の廟を「祖廟」として扱うのは、このような経緯を経ているからである((林国平『閩台民間信仰源流』(福建人民出版社・2003年)248頁。))
。当然ながら、福建と台湾の廟にはその形態において類似性が高い。また、人々の生活に廟が密着しており、至る所に廟が存在するという点も台湾と似ている。

廈門は早くから港として発展したところであるが、元来は同安県に属する。廈門の南方が漳州であり、北側には泉州が位置する。現在の泉州市には、恵安・南安・安渓・晋江などが含まれる。台湾の諸廟にはこれらの諸県から分香してきたものが多い。
**2.南普陀寺(廈門) [#qd3b2df8]

南普陀寺という名称は、観音菩薩の道場として有名な普陀山にちなんで名付けられたと思われる。唐代より存し、その淵源は宋代に遡るというが、現在のような大伽藍が形成されたのは、清の康煕年間であるとされる。寺院の構造自体は、天王殿・大雄宝殿・蔵経閣・方丈といった一般的なものである。この寺の特色として知られるのは、むしろ寺院の後部に存在する奇岩群である。

#ref(image7PC.JPG,,南普陀寺)

#ref(imageL0P.JPG,,南普陀寺後部の庭園)

**3.天后宮(泉州天后路) [#oaa70b90]

天后路の天后宮は、媽祖を祭祀する廟としては、非常に古い由来を持つとされる。その創建は南宋天慶年間であるという。広大な面積を有しており、広い山門の後ろには戯台がある。

明永楽年間に西洋への航海を行った鄭和がここに詣でたと言われる。鄭和は航海中に媽祖の庇護を受けたとされ、その感謝の意を込めてこの廟を改築したとされる。清代においても引き続き改建が行われた((『泉州宗教大観』(中国新聞出版社・2003年)57頁。))
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なお正殿の祭神は、媽祖を中心として順風耳・千里眼、またその両側には広沢尊王と中壇元帥を祭祀していた。

#ref(imageTRF.JPG/天后宮)
#ref(imageTRF.JPG,,天后宮)


**4.開元寺(泉州西街) [#rd6c2c33]

唐代武則天の時代に創建されたという伝承を持ち、千三百年の歴史があるとされる寺院。もと興教寺・龍興寺という名称であったものが、玄宗の開元年間に開元寺と改名されたという。現在でも広大な伽藍を有する((前掲『泉州宗教大観』27頁。))
。

但し、現在ある建物の多くは、明崇禎年間に鄭芝龍によって改建されたものであるという。中でも特筆すべきは、東西にある二つの石塔で、石塔としては中国でも最古層に属し、南宋期のものである((陳鵬鵬主編『泉州文物手冊』(泉州市文物管理委員会編・2000年)53頁。))
。一般に中国の寺院は、山門・天王殿・大雄宝殿という構造を持つが、古い遺構を持つ寺院では異なる配置を持つ。この開元寺でも、本来天王殿は無かったと思われる構造を残す。

開元寺のもう一つの特色としてはヒンドゥー教の影響が挙げられる。ヒンドゥー神話のモチーフを持った幾つかのレリーフが本殿の後部の石柱部分に残されている。

#ref(image6A5.JPG/開元寺のレリーフ)
#ref(image6A5.JPG,,開元寺のレリーフ)

**5.関岳廟(泉州涂門街) [#e80e2ef9]

関岳廟は、また「通淮関岳廟」とも呼ばれ、泉州の町の中心部にある関帝廟である。現在は関帝と岳飛を祭るが、元来は関帝のみを祭祀したものであった。岳飛を併祀するようになったのは民国期から。この廟の正確な創建年代は不明。但し、明の嘉靖年間の重修を経ているとのことから、明代にはすでに存在したものと推察される((前掲『泉州宗教大観』58頁。))
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#ref(image8GG.JPG/通淮関岳廟)
#ref(image8GG.JPG,,通淮関岳廟)

関帝の人気を反映してか、また町の中心部にあるためか、極めて多くの参拝者がいた。なお、中国における最も古いイスラム寺院である清浄寺は、この廟のすぐ隣にある。
**6.宝海宮(泉州大橋下)・富美宮(泉州万寿路) [#f944af23]

宝海宮は泉州大橋の真下に位置する。外見上は一般の廟に見えるが、中身は仏菩薩を祭る寺院である。その来歴は古く、北宋に遡るとされる。長らく荒廃したまま放置されていたのを、1980年代に宗教施設として復活させたとのことである((前掲『泉州文物手冊』121頁。))
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#ref(imageFDP.JPG/宝海宮)
#ref(imageFDP.JPG,,宝海宮)

富美宮は王爺廟である。

小規模な廟ながら、閩台地区の王爺廟の「総廟」との称がある((前掲『閩台民間信仰源流』133頁。))
。ここでは蕭王爺を祭る。蕭王爺とは漢の太傅であった蕭望之のことである。これも、元来蕭王爺の信仰があって蕭望之が付会されたものであるのか、それとも、もともと蕭望之の信仰があったのかは不明である。併祀されているのは、張巡・許遠などの元帥系の神である。富美宮は明の正徳年間の造と伝えられるが、清の光緒年間に現在の位置に移築された((前掲『泉州宗教大観』61頁。))
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#ref(imageJEK.JPG/富美宮)
#ref(imageJEK.JPG,,富美宮)

**7.泉州府文廟(泉州中山路) [#q04bba50]

広大な面積を有する孔子廟である。現在ではこの周囲全体を公園のような形に整備している。ただその歴史は古く、今の位置に移されたのは宋の太平興国年間とされる	((前掲『泉州文物手冊』64頁。))
。木主ではなく、孔子の像を祭る。

#ref(imageGBT.JPG/泉州孔子廟)
#ref(imageGBT.JPG,,泉州孔子廟)

**8.県城隍廟(泉州)・府城隍廟(泉州) [#j1c3ba70]

県城隍廟と府城隍廟は、いずれも城隍神を祭祀する。双方とも訪ねた時は修理中であった。県城隍廟は中学校の中にあり、府城隍廟は、団地敷地内の奥に位置しており、いずれも非常に探しにくい所にあった。

元来は山門、前殿、中殿を擁する広大な建築であったらしいが、現在では後殿を残すのみである。また門外に麒麟壁があったとされるが、これは現在開元寺の中に移築されている((前掲『泉州宗教大観』62頁。))
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#ref(imageT63.JPG/府城隍廟)
#ref(imageT63.JPG,,府城隍廟)

**9.元妙観(泉州東街)・東岳廟(泉州) [#h36e3ab6]

泉州元妙観は、中国の各所にある元妙観と同じく、宋の大中祥符年間に天慶観とされ、その後玄妙観と改名されたものである。清朝においては「玄」の字を避けて「元」妙観となる。蘇州玄妙観は、後にその名称を元に戻したが、泉州元妙観はそのまま元妙観となった。ただ来歴は古く、西晋代に遡るという((前掲『泉州宗教大観』55頁。))
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訪れた時はここも改築中であった。ただ繁華街にも近く、便利なためか参拝客が多かった。三清殿では中心に三清を祭り、その脇に東華帝君と西王母を祭祀する。

#ref(imageGGQ.JPG/泉州元妙観)
#ref(imageGGQ.JPG,,泉州元妙観)

泉州東岳廟は、また東岳行宮とも呼ばれる。宋代に創建され、明の万暦年間に重修されたとする。本来は「青帝」を祭祀したものであった。この青帝が東岳大帝を指すと解釈されたようだが、これについてはやや疑問もある。文革期にかなり破壊を蒙ったようで、現在は正殿だけが残されている((前掲『泉州宗教大観』66頁。))
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#ref(image7UV.JPG/泉州東岳廟)
#ref(image7UV.JPG,,泉州東岳廟)

**10.白耉廟(泉州)・花橋慈済宮(泉州中山路)・二郎廟(泉州崇福路) [#k3cea59c]

白耉廟は府城隍廟の近くにある小廟であるが、特異な廟である。開元寺にもヒンドゥー教の影響が見られるが、この廟は元来ヒンドゥー教の廟であったようだ。但し、その特色は徐々に薄れていったようで、現在は一般的な中国の廟と変わりない。「白狗廟」というのがその俗称である。主神はすなわち「毗舎耶」神である。また楊六郎・玄天上帝・田都元帥を併祀するという、かなり興味深い祭神の構成を持つ。現在の建物は1990年代に整備されたものである((前掲『泉州文物手冊』124頁。))
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#ref(imageR5U.JPG/白耉廟)
#ref(imageR5U.JPG,,白耉廟)

花橋慈済宮は、街の中心部にある小廟で、保生大帝を祭る。来歴は古く、南宋紹興年間の建であるとされる。この廟は保生大帝が生前に医業を行っていた場所であるとされ、「真人所居」の額が存する。

現在の建物は民国期に建てられたものが中心になっているが、実際には1985年に重修された。後部には医薬の神保生大帝にちなんで診療所が併設されている((前掲『泉州文物手冊』117頁。>))
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#ref(image0M8.JPG/花橋慈済宮)
#ref(image0M8.JPG,,花橋慈済宮)

二郎廟は二郎神を祀る廟であるが、その詳しい来歴は不明である。ただ、この一帯を二郎巷と称しており、その淵源は古いようである。現在の建物は1990年に建てられたものである。

#ref(imageMNP.JPG/二郎廟)
#ref(imageMNP.JPG,,二郎廟)

**おわりに [#s81e3a8a]

この他にも、広大な面積を持つ崇福寺、また伝承に基づいて建てられた泉州少林寺などの寺院も参観した。

ただ、ここで紹介したのは、規模の大きいものか、或いは幾つかの書に記載があるものに限っている。これ以外にも、とにかく街の至るところに小廟が存在し、参拝する人たちがいる。これは廈門も泉州も変わらない。宗教関連の施設がこれほどの密度を持って存在しているところは、自分が知る限り台湾の他は無い。当然ながら、鬼神を尊ぶ閩地方の文化を背景にしたものであると考えられる。今後は、これらの廟宇をもう少し信仰の系列的な観点から調査してみたい。
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-この調査は、2002~2004年度学術振興会科学研究費・基盤研究B「斎醮の研究」(課題番号14310010・研究代表者小林正美)によるものである。