『都市芸研』第一輯/地方志工作者と地域史研究 の変更点

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*地方志工作者と地域史研究―追悼顧炳権先生―
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*地方志工作者と地域史研究―追悼顧炳権先生― [#h8b5afbc]

RIGHT:佐藤 仁史

RIGHT:佐藤 仁史

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本来ならば、その日は知的な刺激と充実をもたらしてくれる一日になるはずであった。2000年9月2日、筆者は藤野真子、三須祐介両氏とともに滬劇研究家の周良材氏の自宅を訪れた。難治の病を医師から宣告され、入院生活を余儀なくされていた周氏の回復を祝い、藤野、三須両氏を中心として中国都市芸能研究会が準備を進めていた民国期の滬劇の形成及び発展の過程に関する調査について打ち合わせを行うためである。「生還」した周氏の元気な様子に、訪問の路上で抱えていた些かの不安が消し飛んだのもつかの間、その周氏の口から浦東新区史志徴集編纂室編審の顧炳権先生が1999年11月に急逝していたことを知らされたのはあまりに皮肉なめぐり合わせである。なぜなら滬劇調査を開始した当初、関心が先行して具体的な人脈をほとんど持たなかった我々に周氏を紹介してくれたのが他ならぬ顧炳権先生であったからである。

本来ならば、その日は知的な刺激と充実をもたらしてくれる一日になるはずであった。2000年9月2日、筆者は藤野真子、三須祐介両氏とともに滬劇研究家の周良材氏の自宅を訪れた。難治の病を医師から宣告され、入院生活を余儀なくされていた周氏の回復を祝い、藤野、三須両氏を中心として中国都市芸能研究会が準備を進めていた民国期の滬劇の形成及び発展の過程に関する調査について打ち合わせを行うためである。「生還」した周氏の元気な様子に、訪問の路上で抱えていた些かの不安が消し飛んだのもつかの間、その周氏の口から浦東新区史志徴集編纂室編審の顧炳権先生が1999年11月に急逝していたことを知らされたのはあまりに皮肉なめぐり合わせである。なぜなら滬劇調査を開始した当初、関心が先行して具体的な人脈をほとんど持たなかった我々に周氏を紹介してくれたのが他ならぬ顧炳権先生であったからである。


*顧先生との出会い
 [#sbf54506]
*顧先生との出会い [#sbf54506]

顧炳権先生と私の出会いは1995年の夏のことである。明清期上海の一宗族に関する卒業論文を族譜を用いて書き上げた直後であった当時、私は、修士論文のテーマも江南地方の宗族に関する研究を予定しており、関連族譜の収集を進めていた。その際、族譜が存在していることばかりでなく、その族人が残した文集が現存すること、族人の地域社会における活動が地方志に掲載されていたり、地方志編纂に携わったりしていること、などに注意を払っていた。多賀秋五郎編纂の族譜目録と米国ユタ協会編纂の目録以外に、当時刊行されたばかりであった上海地区の新編地方志の地方文献欄を調べていく中で、いくつかの宗族の存在が分析対象として浮かび上がってきた。そのうちの一つが上海陳行秦氏であり、筆者はこれに大いに関心を持ってその族譜の入手を図った。しかしながら、その族譜である『上海陳行秦氏支譜』は新編の『上海県志』の編纂に供するために刷られた油印本が関係者に配布されたのみで、一般の所蔵機関に所蔵されていないことが判明し、入手を半ばあきらめかけていた。ある日、私が収集する史料の内容についてかねてより伝えてあった復旦大学人口研究所の侯楊方氏(現同大学中国歴史地理研究中心)から、浦東に上海の地域史や郷土史料に精通した人物がいるということが伝えられた。そこで、史料に関するご教示を請うべく95年夏に侯氏とともに川沙鎮にある顧炳権先生のご自宅を訪問したのが顧先生との初めての対面であった。幸運なことに顧先生は『上海陳行秦氏支譜』のコピーを所蔵しており、その複写を依頼すると快諾してくれたことに加えて、族人である秦錫田の著作『享箒続録』を贈呈していただいた((秦錫田『享箒続録』3巻、1941年石印本、とその本編である『享箒録』8巻、1930年石印本、はともに上海図書館古籍部に所蔵されている。筆者はこれらの史料を用い、秦錫田の言動に即して清末民初の官民関係や地方政治構造の変容を論じた。拙稿「清末・民国初期における一在地有力者と地方政治―上海県の《郷土史料》に即して―」『東洋学報』第80巻2号、1998年、参照。))。秦錫田は挙人の資格をもち、江蘇省諮議局議員を務めるなど、清末から民国初期にかけての地方政治において極めて興味深い活動をした人物であった。しかし、清末以降の時代にほとんど関心がなかった当時は、期待した明末清初期に関連する史料が得られなかったことにむしろやや失望したことを覚えている。そして、これらの史料は他の史料とともにダンボールに無造作に押し込んで、押入れの片隅に片付けてしまった。その後、清末民初期の地域社会の変容に関心が移った96年になって、この時に頂いた史料に改めて眼を通してみるとそれらが極めて有用である史料であることに驚かされたのをきっかけに、秦氏や秦氏と関係のあった地方エリート達が残した他の有用な史料の存在を突き止めることができた。これらの史料を得られなければ、郷鎮社会という具体的な地域社会の側から清末民初の国家―社会関係の変容の特質を解明することへの問題関心を鮮明にし、それを具体的な形で表現することは到底不可能であったろう。今になって振り返れば、当時刊行された直後の新編『川沙県志』の編纂に際して、当時の川沙県の県域内ばかりでなく、上海県、南匯県といった広義の浦東地区全域にわたって広く関連史料の収集を行い、目を通していた顧先生は、陳行秦氏に関連する郷土史料が地域社会構造の変動を分析する上で好個の史料であることを知っていたからこそ、様々な便宜を図ってくれていたのであろう。

顧炳権先生と私の出会いは1995年の夏のことである。明清期上海の一宗族に関する卒業論文を族譜を用いて書き上げた直後であった当時、私は、修士論文のテーマも江南地方の宗族に関する研究を予定しており、関連族譜の収集を進めていた。その際、族譜が存在していることばかりでなく、その族人が残した文集が現存すること、族人の地域社会における活動が地方志に掲載されていたり、地方志編纂に携わったりしていること、などに注意を払っていた。多賀秋五郎編纂の族譜目録と米国ユタ協会編纂の目録以外に、当時刊行されたばかりであった上海地区の新編地方志の地方文献欄を調べていく中で、いくつかの宗族の存在が分析対象として浮かび上がってきた。そのうちの一つが上海陳行秦氏であり、筆者はこれに大いに関心を持ってその族譜の入手を図った。しかしながら、その族譜である『上海陳行秦氏支譜』は新編の『上海県志』の編纂に供するために刷られた油印本が関係者に配布されたのみで、一般の所蔵機関に所蔵されていないことが判明し、入手を半ばあきらめかけていた。ある日、私が収集する史料の内容についてかねてより伝えてあった復旦大学人口研究所の侯楊方氏(現同大学中国歴史地理研究中心)から、浦東に上海の地域史や郷土史料に精通した人物がいるということが伝えられた。そこで、史料に関するご教示を請うべく95年夏に侯氏とともに川沙鎮にある顧炳権先生のご自宅を訪問したのが顧先生との初めての対面であった。幸運なことに顧先生は『上海陳行秦氏支譜』のコピーを所蔵しており、その複写を依頼すると快諾してくれたことに加えて、族人である秦錫田の著作『享箒続録』を贈呈していただいた((秦錫田『享箒続録』3巻、1941年石印本、とその本編である『享箒録』8巻、1930年石印本、はともに上海図書館古籍部に所蔵されている。筆者はこれらの史料を用い、秦錫田の言動に即して清末民初の官民関係や地方政治構造の変容を論じた。拙稿「清末・民国初期における一在地有力者と地方政治―上海県の《郷土史料》に即して―」『東洋学報』第80巻2号、1998年、参照。))。秦錫田は挙人の資格をもち、江蘇省諮議局議員を務めるなど、清末から民国初期にかけての地方政治において極めて興味深い活動をした人物であった。しかし、清末以降の時代にほとんど関心がなかった当時は、期待した明末清初期に関連する史料が得られなかったことにむしろやや失望したことを覚えている。そして、これらの史料は他の史料とともにダンボールに無造作に押し込んで、押入れの片隅に片付けてしまった。その後、清末民初期の地域社会の変容に関心が移った96年になって、この時に頂いた史料に改めて眼を通してみるとそれらが極めて有用である史料であることに驚かされたのをきっかけに、秦氏や秦氏と関係のあった地方エリート達が残した他の有用な史料の存在を突き止めることができた。これらの史料を得られなければ、郷鎮社会という具体的な地域社会の側から清末民初の国家―社会関係の変容の特質を解明することへの問題関心を鮮明にし、それを具体的な形で表現することは到底不可能であったろう。今になって振り返れば、当時刊行された直後の新編『川沙県志』の編纂に際して、当時の川沙県の県域内ばかりでなく、上海県、南匯県といった広義の浦東地区全域にわたって広く関連史料の収集を行い、目を通していた顧先生は、陳行秦氏に関連する郷土史料が地域社会構造の変動を分析する上で好個の史料であることを知っていたからこそ、様々な便宜を図ってくれていたのであろう。

*経歴と著作の紹介
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*経歴と著作の紹介 [#k422a934]

それでは、顧炳権先生の略歴と主要な研究内容について振り返ってみたい。1995年から99年夏の最後の訪問まで顧先生とは合計5回お会いしたが、実は、顧先生の経歴について本人の口から語られたことはほとんどなかった。訪問が史料の閲覧や研究者とインフォーマントの紹介の依頼を目的としていため、雑談の際にもプライベートな面に話が及ばなかったこともその理由の一つであるが、それ以外の理由もあったように思われる。現在知りうる限りによれば、顧炳権は1936年12月に川沙県に生まれた。80年代以前は軍隊や農村、政府機関における仕事に従事したという。この間の詳細の経緯についてはほとんど不明であるが、後日聞いた話に拠れば、とりわけ農村における「任務」に従事している間に相当の困難を経験したとのことである。筆者からのたびたびの依頼に対して常に好意的に対応してくれたのと同時に、自分自身に関することやご自身の意見をほとんど述べることがなかったのは、顧先生の性格にもよるところもあったであろうが、それ以上に、現代史の荒波にもまれた世代が自然と身につけた特有の慎重さによるところが大きかったように思われる。
顧先生が川沙県(現在の浦東新区)において地方志編纂に従事し始めたのは1980年代に入ってからのことである。それまでの経歴にもかかわらず、地域の事情に精通した能力が求められる地方志編纂事業に40歳を越えてから従事できたことは、顧先生の知識が若き日にすでに相当の蓄積量を誇っていたことを示すものであろう。顧先生の研究成果は主に4つの項目に分けられる。
第1は、県志の編纂である。新編『川沙県志』では副主編として実質的な編纂代表の大任を果たしている。この県志の特徴は参照した地方文献を明示していることと同時に、後にも述べるように、竹枝詞のような「民俗資料」を積極的に活用している点にある。晩年には定年退職の年齢を迎えたにもかかわらず、強く請われて続志編纂の任にあたっていた。ご存命であったなら、続志が優れた地方志となることに多大な貢献をしたであろうことは想像に難くない。
第2は、辞典や工具書の編纂である。これは県志編纂と相互補完的な基礎作業として位置づけられる。顧先生は、『上海市浦東新区地名志』(上海、上海理工大学出版社、1994年)では常務主編を、『浦東辞典』(上海、上海書店、1996年)では主編を務め、その徹底した史料収集によってこれらを有用な工具書に仕上げている。また、彼の辞典や工具書の編纂は浦東地区に限定されたものではなく、その風俗や民俗に対する広い関心と知識を反映して、『中国茶酒辞典』(長沙、湖南出版社、1992年)と『中国飲食文化辞典』(合肥、安徽人民出版社、1994年)では編者の一人を務めている。
第3は、「郷土史」の掘り起しである。顧先生が公にした論考の多くは地方志編纂という仕事の関係上、川沙の地方志や人物、民俗に関するものに集中している。なかでも、民国期における地方志の名作との誉れ高い『民国川沙県志』と当該書に対する黄炎培の貢献に関する論考が知られている((このような性質の代表的な論考に、顧炳権「略談黄炎培与『川沙県志』」『中国地方志通訊』1983年第3期、がある。))。顧先生は『民国川沙県志』の質の高さを単に黄炎培個人の功績に帰結させず、黄炎培や彼の周辺にいた在地のエリート達の地方志編纂に対する情熱を、広義の「浦東」において清代中期から形成されてきた「浦東学派」ともいうべき知識人のネットワークの中で捉えんとしていた。周知の通り、黄炎培については職業教育運動や清末民初の地方政治における活動について研究が集中してきたが、彼の行動を支えた背景を長期的な在地社会とのかかわりにおいて捉えるこの視点は極めて示唆に富む。なぜなら、挙人の資格を有するなど伝統的な知識人として出発した黄炎培が近代的な知識や革命思想を吸収し、国家観や秩序観を構築していく過程には、伝統的な知識による解釈が影響している部分が少なくなかったからである((黄炎培が上海浦東同郷会の会所建築の募金に際して記した『上海浦東同郷会募金購地建築会所宣言』(1933年刊)では「国難急矣。何為興此土木。不知吾同郷会会所之建籌、正欲救国難耳。……今真欲救中華危亡乎。当然須有主義、有方法、而其万不可少之一条件。必須人人抛棄其自私自利的箇人観念、先結成小群、合若干小群成大群、合若干大群成全国一大群。造全国一大群成、而国本立、国立強、国命永。区区日本何足道哉。」と述べており、このことを端的に示している。

))。このような視点から顧先生は『黄炎培与浦東学派』という30万字にも及ぶ著作を夙に書き下ろされていたが、経費の問題で出版社との間で折り合いが合わず、結局は未公刊のままで終わったことは大変惜しまれる。
第4は、民俗資料への着目である。とりわけ従来十分に注目されてこなかった竹枝詞が有する史料としての価値に着目し、上海地区の竹枝詞の収集・整理に一貫して精力的に取り組んだことが、地域史研究の基礎作りにもたらした功績は大きい。公にされた著作に『上海風俗古迹考』(上海、華東師範大学出版社、1993年)と『上海洋場竹枝詞』(上海、上海書店出版社、1996年)があり、いずれも上海市中心部に関する風俗を詠った竹枝詞を整理したものである((補注:最近、『上海洋場竹枝詞』の姉妹編である『上海歴代竹枝詞』(上海、上海書店出版社、2001年)が出版された。これは上海農村部の竹枝詞4000首を整理したものである。))。

それでは、顧炳権先生の略歴と主要な研究内容について振り返ってみたい。1995年から99年夏の最後の訪問まで顧先生とは合計5回お会いしたが、実は、顧先生の経歴について本人の口から語られたことはほとんどなかった。訪問が史料の閲覧や研究者とインフォーマントの紹介の依頼を目的としていため、雑談の際にもプライベートな面に話が及ばなかったこともその理由の一つであるが、それ以外の理由もあったように思われる。現在知りうる限りによれば、顧炳権は1936年12月に川沙県に生まれた。80年代以前は軍隊や農村、政府機関における仕事に従事したという。この間の詳細の経緯についてはほとんど不明であるが、後日聞いた話に拠れば、とりわけ農村における「任務」に従事している間に相当の困難を経験したとのことである。筆者からのたびたびの依頼に対して常に好意的に対応してくれたのと同時に、自分自身に関することやご自身の意見をほとんど述べることがなかったのは、顧先生の性格にもよるところもあったであろうが、それ以上に、現代史の荒波にもまれた世代が自然と身につけた特有の慎重さによるところが大きかったように思われる。顧先生が川沙県(現在の浦東新区)において地方志編纂に従事し始めたのは1980年代に入ってからのことである。それまでの経歴にもかかわらず、地域の事情に精通した能力が求められる地方志編纂事業に40歳を越えてから従事できたことは、顧先生の知識が若き日にすでに相当の蓄積量を誇っていたことを示すものであろう。顧先生の研究成果は主に4つの項目に分けられる。第1は、県志の編纂である。新編『川沙県志』では副主編として実質的な編纂代表の大任を果たしている。この県志の特徴は参照した地方文献を明示していることと同時に、後にも述べるように、竹枝詞のような「民俗資料」を積極的に活用している点にある。晩年には定年退職の年齢を迎えたにもかかわらず、強く請われて続志編纂の任にあたっていた。ご存命であったなら、続志が優れた地方志となることに多大な貢献をしたであろうことは想像に難くない。第2は、辞典や工具書の編纂である。これは県志編纂と相互補完的な基礎作業として位置づけられる。顧先生は、『上海市浦東新区地名志』(上海、上海理工大学出版社、1994年)では常務主編を、『浦東辞典』(上海、上海書店、1996年)では主編を務め、その徹底した史料収集によってこれらを有用な工具書に仕上げている。また、彼の辞典や工具書の編纂は浦東地区に限定されたものではなく、その風俗や民俗に対する広い関心と知識を反映して、『中国茶酒辞典』(長沙、湖南出版社、1992年)と『中国飲食文化辞典』(合肥、安徽人民出版社、1994年)では編者の一人を務めている。第3は、「郷土史」の掘り起しである。顧先生が公にした論考の多くは地方志編纂という仕事の関係上、川沙の地方志や人物、民俗に関するものに集中している。なかでも、民国期における地方志の名作との誉れ高い『民国川沙県志』と当該書に対する黄炎培の貢献に関する論考が知られている((このような性質の代表的な論考に、顧炳権「略談黄炎培与『川沙県志』」『中国地方志通訊』1983年第3期、がある。))。顧先生は『民国川沙県志』の質の高さを単に黄炎培個人の功績に帰結させず、黄炎培や彼の周辺にいた在地のエリート達の地方志編纂に対する情熱を、広義の「浦東」において清代中期から形成されてきた「浦東学派」ともいうべき知識人のネットワークの中で捉えんとしていた。周知の通り、黄炎培については職業教育運動や清末民初の地方政治における活動について研究が集中してきたが、彼の行動を支えた背景を長期的な在地社会とのかかわりにおいて捉えるこの視点は極めて示唆に富む。なぜなら、挙人の資格を有するなど伝統的な知識人として出発した黄炎培が近代的な知識や革命思想を吸収し、国家観や秩序観を構築していく過程には、伝統的な知識による解釈が影響している部分が少なくなかったからである((黄炎培が上海浦東同郷会の会所建築の募金に際して記した『上海浦東同郷会募金購地建築会所宣言』(1933年刊)では「国難急矣。何為興此土木。不知吾同郷会会所之建籌、正欲救国難耳。……今真欲救中華危亡乎。当然須有主義、有方法、而其万不可少之一条件。必須人人抛棄其自私自利的箇人観念、先結成小群、合若干小群成大群、合若干大群成全国一大群。造全国一大群成、而国本立、国立強、国命永。区区日本何足道哉。」と述べており、このことを端的に示している。))。このような視点から顧先生は『黄炎培与浦東学派』という30万字にも及ぶ著作を夙に書き下ろされていたが、経費の問題で出版社との間で折り合いが合わず、結局は未公刊のままで終わったことは大変惜しまれる。第4は、民俗資料への着目である。とりわけ従来十分に注目されてこなかった竹枝詞が有する史料としての価値に着目し、上海地区の竹枝詞の収集・整理に一貫して精力的に取り組んだことが、地域史研究の基礎作りにもたらした功績は大きい。公にされた著作に『上海風俗古迹考』(上海、華東師範大学出版社、1993年)と『上海洋場竹枝詞』(上海、上海書店出版社、1996年)があり、いずれも上海市中心部に関する風俗を詠った竹枝詞を整理したものである((補注:最近、『上海洋場竹枝詞』の姉妹編である『上海歴代竹枝詞』(上海、上海書店出版社、2001年)が出版された。これは上海農村部の竹枝詞4000首を整理したものである。))。

*竹枝詞研究の可能性
 [#i487d0a4]
*竹枝詞研究の可能性 [#i487d0a4]

顧先生が竹枝詞の存在に着目した理由は極めて明快で実際的な動機による。すなわち、県志編纂に際して用いられる、歴代の地方志、文人たちが残した文集、地方档案、地方新聞などの様々な《郷土史料》の中からは必ずしも十分に得ることができない種々の情報、とりわけ、具体的な地域社会の民衆生活や風俗、地方の典故、俗語などの情報を竹枝詞が大量に収録していることが県志編纂に極めて有用であるという理由である。
「《竹枝詞》は風土記事を詠った詩として、“以詩補史”や“以詩補志”という作用を有しているのである」と述べていることにも、その竹枝詞理解が端的に現れている((顧炳権「関於《竹枝詞》的思考」『上海風俗古迹考』所収。))。このような竹枝詞理解は一定の説得力を持っているが、筆者のように歴史学を学ぶ立場からは、依然として多くの疑問が存在することも事実である。顧先生自身も指摘したように、竹枝詞研究は「〔竹枝詞の〕紹介或いは記述といった初歩的な研究段階にとどまって」いるのが現状である。この点については、「《竹枝詞》の全貌を、通時的な広がりと、地理的な広がりの両面から捉え、また様々な学問領域の多様な角度から研究を深める必要がある」
という問題提起を行っており、竹枝詞の整理がある程度進んだ段階で何らかの総括をする準備があったのかもしれない。志半ばにして逝去なされた今となっては、その総括がどのようなものであったかを知る由もない。
しかし、近代中国における地域社会構造の変容過程の特質という筆者の研究領域にひきつけて竹枝詞を残した文人たちの存在に着目すると、文人と地方社会との関係について考察するうえでの様々な線索を竹枝詞が提供してくれることに気づく。竹枝詞を残した文人が「地方社会にいる中下層知識人である」という傾向を具体的な作者や作品から見てみると、作者たちがそれらの竹枝詞を詠ったのが単なる文学的嗜好にとどまらない意図や意味をそこに込めていたことが明らかになる。例えば、筆者が以前に取り上げた上海県陳行郷の事例に即して考えてみたい。清末民国期の地方自治制によって成立した郷という末端行政区画を担ったのは市鎮に在住する生員・監生や商人から構成される地方指導層であった。彼らは同時に竹枝詞を詠う文人でもあったのだが、かかる地方指導層が竹枝詞を詠ったり、収集したりしたのはこの時期特有の課題に対応せんとしたものであったのである。陳行郷からはいくつかの有名な竹枝詞が残されている。もっとも著名なのが清末の在地知識人である秦栄光が残した『上海県竹枝詞』であり、これは、『同治上海県志』の不足を補うものとして、竹枝詞のもつ「以詩補志」の効用が刊行当時より高く評価されている((『上海県竹枝詞』は「上海灘与上海人叢書」として上海古籍出版社から1989年に出版されており、閲覧に便利である。))。彼の長男である秦錫田も清末民初期における自らの政治活動を含めた『周浦塘棹歌』という竹枝詞を遺している。更に秦錫田とともに陳行郷政を担った胡祖徳という人物も竹枝詞を遺している。胡祖徳は秦栄光の弟子であり、陳行郷を基盤としつつも県や省など上位の政治舞台でも活動した秦錫田と対照的に、一貫して郷鎮社会を活動範囲とし続けた人であった。また、自らの文章を文集として遺した二人と対照的に、彼は自分の文章を断片的にしか遺していない。生員資格を有していたものの、秦栄光や秦錫田と比べて文才という点では及ばなかったようである。胡祖徳は代々商業に従事していた一族の出身で、本人も商業に従事していたという。このような経歴による日々の実践は、地方指導層に属していたものの、実生活においても心情的にも「民衆」の生活により近い視点を彼に与えたようである。彼は街や農村に出て、民衆の間から、彼らによって語られる俗語や諺、五更調、灘簧、竹枝詞などを収集し、それを『滬諺』と『滬諺外編』という著作を編集しているのである((『滬諺』と『滬諺外編』も「上海灘与上海人叢書」に収録されている。))。『滬諺』と『滬諺外編』は貴重な史料として夙に注目されてきたが、その利用は方言研究の分野を中心にするものであった。しかしながら、このような史料を用いる際には、胡祖徳が自らを「問俗老人」と称していたように、「俗を問う」という行為がどのような意味を持っていたのかを吟味しなければならないだろう。このことは、市鎮に居住して直接「民衆」と接しつつ、自治区画の最末端である郷の事業を担っていたという彼の活動から理解されなければならない。地方自治の一つの課題として「国家」の礎となる地域統合をいかに成し遂げるのか、という問題があったことは周知の通りであるが、いくつかの史料から彼が「俗を問う」という行為がこの地域統合と密接に関連していたことがわかるのである。例えば、秦錫圭が『滬諺』に寄せた序文はその出版の目的を次のように端的にまとめている((秦錫圭『見斎文稿』「滬諺序」1928年石印本(上海図書館古籍部蔵)。))。

顧先生が竹枝詞の存在に着目した理由は極めて明快で実際的な動機による。すなわち、県志編纂に際して用いられる、歴代の地方志、文人たちが残した文集、地方档案、地方新聞などの様々な《郷土史料》の中からは必ずしも十分に得ることができない種々の情報、とりわけ、具体的な地域社会の民衆生活や風俗、地方の典故、俗語などの情報を竹枝詞が大量に収録していることが県志編纂に極めて有用であるという理由である。
「《竹枝詞》は風土記事を詠った詩として、“以詩補史”や“以詩補志”という作用を有しているのである」と述べていることにも、その竹枝詞理解が端的に現れている((顧炳権「関於《竹枝詞》的思考」『上海風俗古迹考』所収。))。このような竹枝詞理解は一定の説得力を持っているが、筆者のように歴史学を学ぶ立場からは、依然として多くの疑問が存在することも事実である。顧先生自身も指摘したように、竹枝詞研究は「〔竹枝詞の〕紹介或いは記述といった初歩的な研究段階にとどまって」いるのが現状である。この点については、「《竹枝詞》の全貌を、通時的な広がりと、地理的な広がりの両面から捉え、また様々な学問領域の多様な角度から研究を深める必要がある」
という問題提起を行っており、竹枝詞の整理がある程度進んだ段階で何らかの総括をする準備があったのかもしれない。志半ばにして逝去なされた今となっては、その総括がどのようなものであったかを知る由もない。しかし、近代中国における地域社会構造の変容過程の特質という筆者の研究領域にひきつけて竹枝詞を残した文人たちの存在に着目すると、文人と地方社会との関係について考察するうえでの様々な線索を竹枝詞が提供してくれることに気づく。竹枝詞を残した文人が「地方社会にいる中下層知識人である」という傾向を具体的な作者や作品から見てみると、作者たちがそれらの竹枝詞を詠ったのが単なる文学的嗜好にとどまらない意図や意味をそこに込めていたことが明らかになる。例えば、筆者が以前に取り上げた上海県陳行郷の事例に即して考えてみたい。清末民国期の地方自治制によって成立した郷という末端行政区画を担ったのは市鎮に在住する生員・監生や商人から構成される地方指導層であった。彼らは同時に竹枝詞を詠う文人でもあったのだが、かかる地方指導層が竹枝詞を詠ったり、収集したりしたのはこの時期特有の課題に対応せんとしたものであったのである。陳行郷からはいくつかの有名な竹枝詞が残されている。もっとも著名なのが清末の在地知識人である秦栄光が残した『上海県竹枝詞』であり、これは、『同治上海県志』の不足を補うものとして、竹枝詞のもつ「以詩補志」の効用が刊行当時より高く評価されている((『上海県竹枝詞』は「上海灘与上海人叢書」として上海古籍出版社から1989年に出版されており、閲覧に便利である。))。彼の長男である秦錫田も清末民初期における自らの政治活動を含めた『周浦塘棹歌』という竹枝詞を遺している。更に秦錫田とともに陳行郷政を担った胡祖徳という人物も竹枝詞を遺している。胡祖徳は秦栄光の弟子であり、陳行郷を基盤としつつも県や省など上位の政治舞台でも活動した秦錫田と対照的に、一貫して郷鎮社会を活動範囲とし続けた人であった。また、自らの文章を文集として遺した二人と対照的に、彼は自分の文章を断片的にしか遺していない。生員資格を有していたものの、秦栄光や秦錫田と比べて文才という点では及ばなかったようである。胡祖徳は代々商業に従事していた一族の出身で、本人も商業に従事していたという。このような経歴による日々の実践は、地方指導層に属していたものの、実生活においても心情的にも「民衆」の生活により近い視点を彼に与えたようである。彼は街や農村に出て、民衆の間から、彼らによって語られる俗語や諺、五更調、灘簧、竹枝詞などを収集し、それを『滬諺』と『滬諺外編』という著作を編集しているのである((『滬諺』と『滬諺外編』も「上海灘与上海人叢書」に収録されている。))。『滬諺』と『滬諺外編』は貴重な史料として夙に注目されてきたが、その利用は方言研究の分野を中心にするものであった。しかしながら、このような史料を用いる際には、胡祖徳が自らを「問俗老人」と称していたように、「俗を問う」という行為がどのような意味を持っていたのかを吟味しなければならないだろう。このことは、市鎮に居住して直接「民衆」と接しつつ、自治区画の最末端である郷の事業を担っていたという彼の活動から理解されなければならない。地方自治の一つの課題として「国家」の礎となる地域統合をいかに成し遂げるのか、という問題があったことは周知の通りであるが、いくつかの史料から彼が「俗を問う」という行為がこの地域統合と密接に関連していたことがわかるのである。例えば、秦錫圭が『滬諺』に寄せた序文はその出版の目的を次のように端的にまとめている((秦錫圭『見斎文稿』「滬諺序」1928年石印本(上海図書館古籍部蔵)。))。

>仮に今日の小学校の数を十倍にしたとしても、なおその収容可能な人数の不足が憂えられるのである。いわんや小学校で教える対象は僅かに十歳前後の少年のみであって、すでに農業、商業、工業に従事していて学齢期を越えてしまったものをどうしてこれを切り捨ててしまうことができようか。そこで滬諺が編纂されたのである。ここで用いられる言葉は、身近なものから外へと広がっており、俗語(諧語)を用いることで、読者の興味を引き出している。これらは平素聞きなれているものなので、その文字を認識させるのが容易である。また、詳細な注釈を施し、〔読者に〕一を聞いて十を知らしめるようにするのには、道徳をよりどころにしている。……ところで、国とは郷が積み重なったものである。小学校において郷土志の授業を行うことを提議するものは、その愛郷心に訴えることによって愛国を達成せんとするものである。地方の人間がその地方の音(郷音)で暗誦することで〔地方のことに〕関心を持たしめ、その愛郷心が油然として湧き上がるのを以って、自然とわが国の大国民を養成せんとするのがこの本の趣旨である。

>仮に今日の小学校の数を十倍にしたとしても、なおその収容可能な人数の不足が憂えられるのである。いわんや小学校で教える対象は僅かに十歳前後の少年のみであって、すでに農業、商業、工業に従事していて学齢期を越えてしまったものをどうしてこれを切り捨ててしまうことができようか。そこで滬諺が編纂されたのである。ここで用いられる言葉は、身近なものから外へと広がっており、俗語(諧語)を用いることで、読者の興味を引き出している。これらは平素聞きなれているものなので、その文字を認識させるのが容易である。また、詳細な注釈を施し、〔読者に〕一を聞いて十を知らしめるようにするのには、道徳をよりどころにしている。……ところで、国とは郷が積み重なったものである。小学校において郷土志の授業を行うことを提議するものは、その愛郷心に訴えることによって愛国を達成せんとするものである。地方の人間がその地方の音(郷音)で暗誦することで〔地方のことに〕関心を持たしめ、その愛郷心が油然として湧き上がるのを以って、自然とわが国の大国民を養成せんとするのがこの本の趣旨である。

ここで言及されている郷土志とは秦錫田や胡祖徳などを中心として編纂された『陳行郷土志』という初等教育における郷土教育の教科書であるが、ここでは郷土=郷鎮社会における地域統合を核としてそれを同心円状に拡大していくことで全体秩序を挽回させようとする秩序観が端的に表現されており、国家権力が退縮していた清末民初期における秩序構想の一つの方法を示している((詳しくは拙稿「清末・民国初期上海県農村部における在地有力者と郷土教育―『陳行郷土志』とその背景―」『史学雑誌』第108編12号、1999年、を参照されたい。))。『滬諺』と郷土志とが同じ目的をもつものであるというのは、郷土志が学童を対象としているのに対し、『滬諺』が学齢期を過ぎた「民衆」に日常生活で使用する身近な言葉を用いることで識字教育や社会教育を目指したというということであり、秩序構想を共有するものであったということである。ここで注目したいのは、竹枝詞が単に風土や事件を残す為に詠まれたのではなく、在地指導層が民衆を地域に統合していく為の有力な手段の一つとして認識されていたこと、すなわち、それが在地指導層と民衆との間に共有される表現形式であったということである。もちろん、胡祖徳による民俗認識は、民衆が用いる俗語には一部「猥雑」ものもあるがそのまま収録したと述べているように、士大夫的な発想に基づく啓蒙思想の範囲にとどまっていた。しかし、このような限界があるにせよかかる伝統的な発想の中から地域社会内部を満たすものへの関心が芽生え、それを共有する手段の一つとして竹枝詞が認識されていたことは注目に値しよう。
新文化運動の影響が地域社会にも広がった1920年代にはいると、清末から1910年代にかけて地方自治を担った地方指導層とは一線を画する新式知識人層が登場し、社会主義思想をはじめとする新思想を吸収して新たな秩序を模索するようになる。江南の郷鎮社会でも上海における新文化運動の影響を受け、主に言論活動や社会教育などの手段を通じて新秩序構築のための運動が行われた。このような運動を主体であった知識人層と竹枝詞との関係を示す極めて興味深い記事が残されている。例えば、呉江県盛澤鎮で発行されていた『新盛澤』では、民衆が直接感じ取ることができる経験や道徳を表現できる「民衆文学」が従来の「貴族文学」を掃蕩することが、優勝劣敗の原理に基づいたものであるとして次のように主張する((『新盛澤』37号(1924年8月11号)「民衆文学(蘧軒)」、『新盛澤』38号(1924年8月21号)「民衆文学(二)(蘧軒)」。『新盛澤』は全88号が呉江市档案館に所蔵されている。))。

ここで言及されている郷土志とは秦錫田や胡祖徳などを中心として編纂された『陳行郷土志』という初等教育における郷土教育の教科書であるが、ここでは郷土=郷鎮社会における地域統合を核としてそれを同心円状に拡大していくことで全体秩序を挽回させようとする秩序観が端的に表現されており、国家権力が退縮していた清末民初期における秩序構想の一つの方法を示している((詳しくは拙稿「清末・民国初期上海県農村部における在地有力者と郷土教育―『陳行郷土志』とその背景―」『史学雑誌』第108編12号、1999年、を参照されたい。))。『滬諺』と郷土志とが同じ目的をもつものであるというのは、郷土志が学童を対象としているのに対し、『滬諺』が学齢期を過ぎた「民衆」に日常生活で使用する身近な言葉を用いることで識字教育や社会教育を目指したというということであり、秩序構想を共有するものであったということである。ここで注目したいのは、竹枝詞が単に風土や事件を残す為に詠まれたのではなく、在地指導層が民衆を地域に統合していく為の有力な手段の一つとして認識されていたこと、すなわち、それが在地指導層と民衆との間に共有される表現形式であったということである。もちろん、胡祖徳による民俗認識は、民衆が用いる俗語には一部「猥雑」ものもあるがそのまま収録したと述べているように、士大夫的な発想に基づく啓蒙思想の範囲にとどまっていた。しかし、このような限界があるにせよかかる伝統的な発想の中から地域社会内部を満たすものへの関心が芽生え、それを共有する手段の一つとして竹枝詞が認識されていたことは注目に値しよう。新文化運動の影響が地域社会にも広がった1920年代にはいると、清末から1910年代にかけて地方自治を担った地方指導層とは一線を画する新式知識人層が登場し、社会主義思想をはじめとする新思想を吸収して新たな秩序を模索するようになる。江南の郷鎮社会でも上海における新文化運動の影響を受け、主に言論活動や社会教育などの手段を通じて新秩序構築のための運動が行われた。このような運動を主体であった知識人層と竹枝詞との関係を示す極めて興味深い記事が残されている。例えば、呉江県盛澤鎮で発行されていた『新盛澤』では、民衆が直接感じ取ることができる経験や道徳を表現できる「民衆文学」が従来の「貴族文学」を掃蕩することが、優勝劣敗の原理に基づいたものであるとして次のように主張する((『新盛澤』37号(1924年8月11号)「民衆文学(蘧軒)」、『新盛澤』38号(1924年8月21号)「民衆文学(二)(蘧軒)」。『新盛澤』は全88号が呉江市档案館に所蔵されている。))。

>現在「民衆文学」が必要とされているからには必ず真正の「民衆文学」を捜し求めなければならない。もし依然として知識階級が作った文学であるならば、隔たりがあることを免れない。従って現在の知識階級が作っている民衆に関する文章は、依然として真正の「民衆文学」ではない。なぜなら知識階級には往々にして一種の偏見、自私、卑劣な行為があり、その文章も決して民衆生活の本当の情緒を表現することは出来ないからである。……従って、真正なる「民衆文学」は決して知識階級が表現できるものではなく、かならず、農、工、商などに従事する人たちが、自ら体験した環境から感じ取ったものの中から表現されなければならない。〔それらは〕或いは凄惨なものかもしれないし、楽しいものかもしれない。或いは愉快なものかもしれないし、或いは憂慮や苦痛に満ちたものかもしれない。或いは悔悟や警戒の感情かもしれない。要するに、彼らが平素随意に口ずさむ、水田歌や挿秧歌、竹枝詞などこそが真正なる「民衆文学」なのである。

>現在「民衆文学」が必要とされているからには必ず真正の「民衆文学」を捜し求めなければならない。もし依然として知識階級が作った文学であるならば、隔たりがあることを免れない。従って現在の知識階級が作っている民衆に関する文章は、依然として真正の「民衆文学」ではない。なぜなら知識階級には往々にして一種の偏見、自私、卑劣な行為があり、その文章も決して民衆生活の本当の情緒を表現することは出来ないからである。……従って、真正なる「民衆文学」は決して知識階級が表現できるものではなく、かならず、農、工、商などに従事する人たちが、自ら体験した環境から感じ取ったものの中から表現されなければならない。〔それらは〕或いは凄惨なものかもしれないし、楽しいものかもしれない。或いは愉快なものかもしれないし、或いは憂慮や苦痛に満ちたものかもしれない。或いは悔悟や警戒の感情かもしれない。要するに、彼らが平素随意に口ずさむ、水田歌や挿秧歌、竹枝詞などこそが真正なる「民衆文学」なのである。

この主張は胡祖徳の『滬諺』と比較すればその特徴がより鮮明になろう。ここでは「民衆」は単なる啓蒙の対象ではなく、変革の主体としての役割を明確に認識されている。そして竹枝詞は民衆が有する新たな秩序の土台となる「真正の価値」の表現形式として高い評価を与えられているのである。このような、地方の統合や秩序を形成し、維持するためのよりどころとなるべき価値とはいかなるものであったのかという問題については最近プラセンジット・ドゥアラ氏によって用いられている「本源性」(authenticity)という概念によって掘り下げていくことが可能になるように思われる((「本源性」に関する議論は、プラセンジット・ドゥアラ(山本英史・佐藤仁史訳)「《地方》という世界――政治と文学に見る近代中国における郷土――」山本英史編『伝統中国の地域像』慶應義塾大学出版会、2000年、所収、Prasenjit Duara, “The Regime of Authenticity: Timelessness, Gender, and National History in Modern China,” in History and Theory37(1998)を参照のこと。))。満洲国を主要な分析対象とするドゥアラ氏の場合は、本源性をもつ「地方」がナショナルな勢力とトランスナショナルな勢力との間でともに利用されうるというアンビバレントな側面を鋭く指摘したものである。しかし、この概念は他の時期や地域の分析においても有効な概念となりうるように思われる。すなわち、清末から1920年代にかけての地方指導層にとって地域の統合や秩序の核となるべき本源的な価値とはいかなるものであったのか、そしてそれはどのように変化したのかを考察することによって、彼らが構想した秩序観やそれに基づく行動が地域統合に果たした(果たさなかった)役割の特質を解明する手がかりになるのである。ちなみに、『新盛澤』や同時期に民族文学者として知られる柳亜子によって呉江県黎里鎮において発行されていた新聞『新黎里』の論説は、社会主義思想や国民党左派の主張、ナショナルな運動への傾斜を強めていく一方で、他方では出発点であった「地方」についての位置付けが曖昧になってしまう。このような過程の中で柳亜子に代表される在地知識人のとっての本源的な価値がどのように変化していったのかは今後明らかにされなければならないが、先に掲げた竹枝詞を含めた民俗に対するまなざしの変容は好個の手がかりになりうるだろう。

この主張は胡祖徳の『滬諺』と比較すればその特徴がより鮮明になろう。ここでは「民衆」は単なる啓蒙の対象ではなく、変革の主体としての役割を明確に認識されている。そして竹枝詞は民衆が有する新たな秩序の土台となる「真正の価値」の表現形式として高い評価を与えられているのである。このような、地方の統合や秩序を形成し、維持するためのよりどころとなるべき価値とはいかなるものであったのかという問題については最近プラセンジット・ドゥアラ氏によって用いられている「本源性」(authenticity)という概念によって掘り下げていくことが可能になるように思われる((「本源性」に関する議論は、プラセンジット・ドゥアラ(山本英史・佐藤仁史訳)「《地方》という世界――政治と文学に見る近代中国における郷土――」山本英史編『伝統中国の地域像』慶應義塾大学出版会、2000年、所収、Prasenjit Duara, “The Regime of Authenticity: Timelessness, Gender, and National History in Modern China,” in History and Theory37(1998)を参照のこと。))。満洲国を主要な分析対象とするドゥアラ氏の場合は、本源性をもつ「地方」がナショナルな勢力とトランスナショナルな勢力との間でともに利用されうるというアンビバレントな側面を鋭く指摘したものである。しかし、この概念は他の時期や地域の分析においても有効な概念となりうるように思われる。すなわち、清末から1920年代にかけての地方指導層にとって地域の統合や秩序の核となるべき本源的な価値とはいかなるものであったのか、そしてそれはどのように変化したのかを考察することによって、彼らが構想した秩序観やそれに基づく行動が地域統合に果たした(果たさなかった)役割の特質を解明する手がかりになるのである。ちなみに、『新盛澤』や同時期に民族文学者として知られる柳亜子によって呉江県黎里鎮において発行されていた新聞『新黎里』の論説は、社会主義思想や国民党左派の主張、ナショナルな運動への傾斜を強めていく一方で、他方では出発点であった「地方」についての位置付けが曖昧になってしまう。このような過程の中で柳亜子に代表される在地知識人のとっての本源的な価値がどのように変化していったのかは今後明らかにされなければならないが、先に掲げた竹枝詞を含めた民俗に対するまなざしの変容は好個の手がかりになりうるだろう。

*郷土史家と地域史研究
 [#cde5c009]
*郷土史家と地域史研究 [#cde5c009]

清末から1920年代にかけて竹枝詞がどのような人によってどのような文脈において書かれたのかという背景を筆者が研究対象とする市鎮在住の在地指導層の場合に即して考えてみた。若干言及した本源性の問題をはじめとして、竹枝詞やそこに詠われた地方風俗や竹枝詞作者の民俗観といった問題はこれから分析を進めていかなければならない領域である。このような作業は、文集や地方志、新聞に散在する竹枝詞を精査・整理し、詠われた風俗の内容を熟知する顧炳権先生のような地方志工作者の存在なくしてはなりたたない。確かに顧先生の竹枝詞研究は「郷土史研究」の域を越えるものではなく、筆者のような地域史研究と問題関心が必ずしも一致しない部分が多く存在している。しかしながら、如何に経験を重ねても外国学の地域史研究が知りうることには多くの限界があり、「郷土史研究」の成果に拠る部分が大きいことも事実なのである。また何よりも、「郷土史研究」に情熱を傾ける人々と出会い、様々な教示を得ることができたことの喜びは何物にも替えがたいものである。外国人の私に対して大きな誠意と温かさをもって接してくれたものの、特定の世代に独特の慎重さも同時に漂わせていた顧先生だったが、話が竹枝詞に及ぶと相好を崩して楽しそうにその魅力を語ってくれた光景は今でも忘れがたい。私が地域社会という角度から近代中国社会の特質を理解しようと志した入り口で、地域史について調べることの楽しさを知ることができたばかりでなく、いわば郷土史家ともいうべき人々と地域史研究との関係について考える視点を得ることができたのも顧先生との出会いによるところが大きい。顧炳権先生の業績に対する筆者の理解が不十分であることを承知しつつも、筆者が専門とする領域においてどのようにそれらを吸収できるかについて若干の考察を加えることをもって、顧炳権先生に対する追悼の意に替えたいと思う。心よりご冥福をお祈りしたい。