北京西派皮影戯錫慶班をめぐって――北京・冀中・冀東皮影戯形成史考†
1.はじめに†
旧時、北京の西城を中心に行われていた北京西派皮影戯は、現在の北京皮影劇団の属する流派であり、北京を代表する芸能の1つであるが、研究対象として取り上げられることは稀である。それは、西派皮影戯が満州貴族の堂会で主に上演されていたため民国以降急速に衰え、研究者の目に触れる機会がほとんどなかったこと、影巻(皮影戯台本)が口伝であったため、民国初年に影戯班が次々と解散した後、文献資料がほとんど残らず研究資料が乏しいことなどが理由として挙げられる。
そこで本稿は、清末の影戯班である錫慶班に注目する。同影戯班が恭王府ゆかりの北京西派の影戯班であったことを明らかにするとともに、その影巻や影人について北京西派・東派皮影戯の関係を中心に考察する。その上で、河北省保定市の冀中皮影戯との比較対照を通じ、戯曲史の研究成果を参照することで、北京・冀東・冀中皮影戯の形成過程について考察したい。
2.錫慶班†
2.1.北京の影戯班†
北京西派皮影戯の戯班については、翁偶虹1985および劉季霖2004に詳しい。それらに基づいてまとめると、以下のようになる。
王府影戯班†
果親王府影班 怡王府影班 莊王府影班 粛王府影班 慶王府影班 端王府影班 恭王府影班
清代中期~後期†
戯班名 | 時期 | 所在地 | 班主 |
南永盛 | 嘉慶間 | 絨線胡同 | |
北永盛 | 道光間 | 新街口一帯 | |
祥順班 | 道光間 | 西単北大街堂子胡同 | 路徳成 |
福順班 | 咸豊間 | 西四頒賞胡同 | 路福元 |
清末(光緒以降)†
戯班名 | 所在地 | 班主 |
西天合 | 西単辟才胡同東口外 | 甄永利 |
天富班 | 宣武門外達智橋老柿子店 | 于得水→傅子雲 |
永慶班 | 右安門外火道口 | 孟某 |
和成班 | 地安門外辛寺胡同*1 | 鄧和宣 |
永和班 | 徳勝門外 | 彭禄 |
祥慶班 | 西四北報子胡同 | 魏殿臣 |
德順班 | 西四北大街毛家湾西口 | 路耀峰(路宗有) |
これらの影戯班のうち、現在の北京皮影劇団の前身である路家班(祥順班・福順班・徳順班)については、翁偶虹1985や劉季霖2004を通じてある程度の情報が得られるが、しかし古い影人は失われ影巻も存在しないなど、資料は豊富ではない。
一方、北京東派の影戯班については、顧頡剛1983・斉如山1935・関俊哲1959などに記載がある。それらをまとめたのが以下の表である。
戯班名 | 所在地 | 班主 | 顧 | 斉 | 関 | その他 | 記事 |
三楽班 | 崇文門内 | 周瘸子 | 〇 | 〇 | |||
鴻慶班 | 東単牌楼以北路東 | 丑子 | 〇 | 〇 | |||
毓秀班 | 煤渣胡同東口外 | 王瑞 | 〇 | ||||
永楽班 | 灯市口 | 白四 | 〇 | 〇 | |||
栄順班 | 銭糧胡同 | 李真 | 〇 | 〇 | |||
裕順班 | 東四牌楼六条胡同 | 張煥章 | 〇 | 〇 | |||
同楽班 | 東四牌楼六条胡同対過路西 | 趙連仲,趙海源 | 〇 | 〇 | 〇 | ||
三義班 | 後門外提督衙門旁 | 王萬杭 | 〇 | 〇 | |||
徳勝班 | 後門方磚廠 | 高徳然 | 〇 | 〇 | |||
玉順和班 | 東四牌楼弓箭大院 | 楊進光 | 〇 | 〇 | |||
楽春班(楽春台) | 東四牌楼四条対過/弓箭大院(翁) | 陳薫,陳旭/白玉璞(翁) | 〇 | 〇 | 翁偶虹 | ||
裕慶班 | 絨線胡同 | 傅成志 | 〇 | 民国初年 | |||
慶民昇 | 東四牌楼五条胡同 | 李峻峰・李脱塵 | 〇 | 〇 | 民国初年 | ||
知盛合 | 劉寛 | 〇 | |||||
魁盛合 | 楊季広 | 〇 | |||||
勝友軒 | 馬大人胡同南 | 白玉璞 | 澤田瑞穂1954 | 1941解散 |
東派の影戯班では、慶民昇の李脱塵が顧頡剛のインフォーマントとして知られるほか、李家瑞1933が中央研究院史語所が毓秀班鈔本を多数収集していることに言及するなど*2、西派よりも資料は豊富に残っている。
2.2.錫慶班と愛新覚羅載瀅†
以上の北京皮影戯に関する先行研究から錫慶班の名称を見出すことはできない。しかしそれらとは別に、錫慶班が北京西派皮影戯の戯班であったとの証言がある。
1940年代、北京東華門の外には骨董店が建ち並んでおり、そのうちの一軒が同級生の叔父の経営で、彼の叔父は文化財の専門家だった。私はしばしば店を訪ねて彼と語りあい、多くの知識を学んだ。また彼から1930年代にドイツのオッフェンバッハ皮革博物館が西城派錫慶班の影絵を購入した経緯や、当時のアメリカ大使のレントン・スチュアートが清の王府の影箱を購入した詳細を知った。*3
これは、蘭州大学医学部教授で現在はシドニー在住の劉徳山氏へのインタビュー記事である。劉徳山氏は1926年天津の生まれで、1951年に北京大学医学院を卒業しているが、皮影戯の蒐集家としても知られ、26の影戯箱・影戯夾、計1,800点もの影人コレクションを誇り、その一部は『中国美術全集』にも掲載されている。
記事で言及されるオッフェンバッハ皮革博物館は、正確にはドイツ皮革博物館といい、皮革産業の一大中心地であるオッフェンバッハ・アム・マインに1917年に設立された*4。同博物館は中国皮影戯の影人を多数収蔵しており、その図録としてサイモン1986が刊行されている。そこには、影幕の上部に掲げたものと思われる錫慶班の戯班名の牌子や、錫慶班の所在地を記した紙(以下名刺と呼ぶ)が掲載されている。ここから錫慶班が「三座橋」の「銀貝勒府」の影戯班であったことが分かる。
サイモン1986によると、これらはドイツ皮革博物館の皮影戯コレクションで最も有名な「満州族王子」の皮影戯コレクションであるという。同博物館が錫慶班の影戯箱を購入したのは1931年のことであるとされており*5、劉徳山氏の証言とも付合する。
その満州族王子=銀貝勒について、サイモン1986に以下の記載がある。
北京からの報告によると、銀貝勒は載瀅と同一の人物である。*6
『清史稿』巻二十四「徳宗本紀」二、同卷二百二十一「恭親王奕訢伝」、同巻一百六十五「表五」などによると、愛新覚羅載瀅は恭親王奕訢の次子で、鍾端郡王奕詥の嗣子となり同治七(1868)年に貝勒位を世襲、光緒十五(1889)年に郡王位を加えられるが、同二十六(1900)年の義和団事件発生後、かつて義和団を擁護していたとして爵位を奪われ帰宗する。奕訢の長子載澂の没後、載瀅の子の溥偉が恭親王を世襲している。
『光緒順天府志』には、その貝勒府の場所に関する記述が見られる。
瀅貝勒府は三転橋の西にある。謹んで考えるに、愉王の諱は允禑、聖祖の十五子で、諡号を恪という。後に鍾郡王府となり、鍾王諱奕詥は宣宗の八子で、諡号を端という。後嗣がなく、恭親王の子の貝勒・載瀅を後継ぎとした。*7
三転橋は三座橋の別名である。また、趙志忠1998は以下のように述べる。
鄭親王端華は咸豊十一年に死を賜り、爵位を不入八分輔国公に落とされ、その邸宅は鍾郡王奕詥に分け与えられた。同治七年に奕詥が没すると、その屋敷は爵位を回復した鄭親王承志に与えられた。奕詥の後を継いだ載瀅はやむなく元の愉郡王府に入った。……載濤が爵位を継いだ後、この邸宅はまた「濤貝勒府」と呼ばれるようになり、現存している。*8
『清史稿』巻一百六十五「表五」によると、奕詥の嗣子は奕譞の第七子載濤で、光緒二十八(1902)年に奕詥の嗣子となり貝勒を世襲、同三十四(1908)年に郡王位を加えられている*9。濤貝勒府は恭王府と柳蔭街をはさんだ西向かいにあり、民国十四(1925)年に輔仁大学に貸し出され、現在はその邸宅が北京市第十三中学の、庭園が北京師範大学化学系のキャンパスになっている*10。
以上のように、ドイツ皮革博物館所蔵の錫慶班名刺に見える銀貝勒はすなわち瀅貝勒であり、その貝勒府は現在の濤王府であった。錫慶班名刺は載瀅が貝勒であった1868~1889年の間に作られたのであろう。崇彝『道咸来朝野雑記』以下のように見える。
かつて、王公の屋敷は、多く、高腔班あるいは崑腔班を養成し抱えていた。慶事があると、屋敷の中で劇を演じさせ、他の屋敷で慶事があるときに、借りることもできた。全ての屋敷が戯班を抱えていたわけでは無い。*11
錫慶班という名前が付けられており、名刺もあることから、皮影戯班も外部で上演していたのだろう。
載瀅が「帰宗」したのち、錫慶班が維持されたのか解散したのかはわからないが、影戯箱が箱主である彼とともに恭王府に帰したことは確実である。劉季霖2004は、
現在、ドイツ・オッフェンバッハ市の皮影博物館は中国北京の恭王府影班の皮影を収蔵している*12
としているが、これは錫慶班を指している。
3.錫慶班鈔本をめぐって†
3.1.『紅梅閣』錫慶班本と車王府本†
『北平国劇学会図書館書目』(傅惜華1935は下巻「影書類」に影巻を収録している。そこには、以下の4種の錫慶班鈔本が見える。
『玉蘭掃北』(光緒十年鈔本)・『山水縁』・『薄命図』・『
斌 鉄剣』
『斌鉄剣』は『鑌鉄剣』の誤りであろう。
北平国劇学会図書館の旧蔵資料は基本的に中国芸術研究院図書館に継承されているが、これら4種は同図書館のカード目録に見えない。いずれも梅蘭芳旧蔵資料であるため、梅蘭芳記念館に移管されている可能性がある*13。
このほか中国芸術研究院図書館は、錫慶班鈔本の『紅梅閣』残本四巻を所蔵している。『北平国劇学会図書館書目』に掲載されておらず、中国芸術研究院図書館に収蔵された経緯は不明であるが、梅蘭芳記念館所蔵資料はアクセスが困難であるため、現在目にすることのできる錫慶班影巻の本戯はこれのみである。筆者は2017年11月に中国芸術研究院を訪問し、『紅梅閣』を閲覧した。
『紅梅閣』は明の周朝俊の伝奇『紅梅記』に基づいており、南宋の末年、裴禹と盧昭容が紅梅の枝を縁に結ばれることを描く。錫慶班本『紅梅閣』で特筆すべきは、その字の美しさである。極めて丹精で細い行書体で書かれており、教養の高い人物が抄写したことが窺える。また煤や蠟が落ちたり、虫が挟まったりといった、影巻を見ながら上演した痕跡も見られなかった。東派・冀東皮影戯の影巻は芸人が読みながら上演するためのもので、俗字が多用され字が汚いものが大多数を占めるのと、まったく様相が異なっており、芸人が上演時に見るため、あるいは手控えとして抄写したものでないことは確実である。
貝勒府の影戯班とはいえ、芸人の教養水準が高かったとは考えにくいので、芸人以外の人が抄写したのであろう。おそらくは、西太后が京劇を鑑賞する際に台本を見ていたのと同様に、皮影戯を鑑賞する際に字幕代わりに閲覧する目的で貝勒府の者が抄写したのであろう。
『紅梅閣』は『俗文学叢刊』にも影印が収録されている。『俗文学叢刊』は台北の中央研究院歴史語言研究所傅斯年図書館に所蔵される、1928~1932年に収集された俗曲コレクションを影印・出版したものであるが、『紅梅閣』は車王府曲本「某種戯詞」十八種の一つで、「車王府曲本」と印刷された枠線付きの用紙が使われていることから、1925年の第一回購入分を1928年から1929年にかけて中央研究院が抄写したテキストであることがわかる*14。第一回購入分は北京大学に帰したとされるが、確かに戦葆紅等2016に『紅梅閣』八巻が見える*15。
『紅梅閣』の錫慶班鈔本と車王府曲本の字句は、ほぼ一致する。下表は劇の冒頭のセリフ、および第二巻で、裴禹が盧府の梅の枝を手折ろうとして塀の内側に落ち、盧昭容と出会った後の歌唱の比較である。
錫 | 〔出李讓紅面羅帽〕 |
車 | 〔出李讓紅面羅帽〕 |
錫 | 生來心強氣傲。不喜勢力徒豪。義勇之士愛結交。怎奈命運顛倒。 |
車 | 生來心胸性傲。不喜勢力土豪。勇義之士愛結交。怎奈命運顛倒。 |
錫 | 俺姓李名讓,字表謙五。年方二十一歲。在只常州─無錫縣大義村居住。先父早年去世。止有寡母在 |
車 | 俺姓李名讓,字謙─五。年交廿 一歲。在只常州府無錫縣大義村居住。先父早年去世。只有老母在 |
錫 | 堂。生我弟兄二人。兄名李儉。不幸上年病故。嫂嫂何氏。亦相斷而亡。撇下一個侄女。乳名會娘。 |
車 | 堂。生我弟兄二人。兄名李儉。不幸上年病故。嫂嫂何氏。 相斷而亡。撇下一個侄女。乳名會娘。 |
錫 | 生來心靈性巧。凡事一見就會。年方一十六歲,至今尚未受聘。只也不在話下。昨─有官媒張氏,來 |
車 | 生來心性靈巧。 年方一十六歲,至今尚未受聘。這也不在話下。昨日有官媒 ,來 |
錫 | 到我家。說平章賈思道差遣─義子賈現勤,來至無錫縣,挨門挑選美女,要將會娘入冊。好候差官親 |
車 | 到我家。說平章賈思道差遣他義子賈現勤,來至無錫縣,挨門挑選美女,要將會娘入冊。好候差官親 |
錫 | 來驗看。俺一聽此言心頭火起,便將官媒真罵一頓,立刻攆出門 去,那官媒臨行之時,嘴裡都都囔 |
車 | 來驗選。俺一聞此言心頭火起,便將媒婆怒罵一頓,立刻攆出門外去,那官媒臨行之時,嘴裡都都囔 |
錫 | 囔。說甚麼等差官到來再講。我所以這兩天未肯出門,單等差官到來,看他怎樣。 |
車 | 囔。說 等差官到來再講。我因此這兩天不曾出門,單等差官到來,看他怎樣。 |
錫 | 〔唱〕姑娘問名合姓 著義留神請細聽 小生也在不唐住 姓裴名禹字順清 |
車 | 小生也在錢塘住 姓裴名禹字順清 |
錫 | 先父曾居翰林院 度宗駕下巴臣稱 不孝罪逆延考批 椿萱相繼赴幽明 |
車 | 先父曾作翰林院 慶宗駕下把臣稱 不孝罪送喪老娘 椿萱相繼赴幽明 |
錫 | 撇我孤苦人一個 忿志雲窗把書攻 去年邀幸游泮水 取仲文童第一名 |
車 | 撇我孤苦人一個 忿志芸窗把書功 去年僥倖游泮水 敢中文童第一名 |
錫 | 虛度光陰十七歲 牛郎未遇織女星 家寒寄居昭慶寺 多虧 良友郭穉恭 |
車 | 虛度光陰十七歲 牛郎未遇織女星 家寒寄居昭慶寺 多戲了良友郭穉公 |
錫 | 他見我學富五車才高八斗 彼此伴讀講禮窮經才在他家會文轉 酒厚失規越禮行 |
車 | 他見我學富五車才高八斗 彼此伴讀講禮經 才自他家會文轉 酒後失規越禮行 |
錫 | 不該拆取紅梅樹 多有冒犯望海容 該巴打恭身施禮」〔昭容〕 昭容心里暗叮嚀 |
車 | 不該拆取紅梅樹 多有冒犯望含容 說巴打弓忙失禮」 昭容心里暗叮嚀 |
錫 | 細聽此言卻不假 提他先父我知名 |
車 | 細聽此言卻不假 提起他父我知名 |
セリフ・歌詞ともに、異同の大半は発音・字形が近い漢字に誤ったものであり、字句はほぼ一致する。セリフの冒頭は「六。七。七。七。」という句式であるが、これは讃の一種、〔誇將賦〕であろう。また、錫慶班本は第一~四巻しか残らないが、各巻に収められる範囲は、車王府本と同じである。
従来、車王府本の「某種戯詞」は、冀東皮影戯のレパートリーとの共通性から、北京東派の影巻であると考えられてきたが*16、錫慶班本と共通することから北京西派の影巻である可能性が出てきた。一方、冀東皮影戯のレパートリーの一覧として最も充実している温景林1986も『紅梅閣』を著録しており、巻数は車王府曲本と同じ8巻であるので*17、冀東系の影巻である可能性も排除できない。
3.2.ハーバード・イエンチンの錫慶班単齣影巻集†
北京皮影戯のレパートリー上の特色は、折子戯が多いことにあるとされる。そして『燕影劇』や車王府曲本所収影詞8種、早稲田大学演劇博物館所蔵本など、北京皮影戯の単齣影巻集が幾つか存在することが知られており、千田大介2001・山下一夫2004などは、それらの収録する演目から、西派の影巻である可能性が高いとしている。一方、戸部健2017によって、アメリカのハーバード・イエンチンに「皮影戯劇本118種」と総称される全24冊の北京皮影戯単齣影巻集が収蔵されていることが報告されたことで、北京皮影戯の単齣影巻集が数多く存在していることが明らかになった。それらの所収演目をまとめたのが下表である([]は原書でタイトルが欠落しており、筆者が補ったもの)。
燕影劇 | 白蛇傳(借雨傘、金山寺、斷橋、合鉢、祭塔)、無底洞、混元盒、戲珠、百草山、麻姑跳神、天仙送子、百壽圖、賜福、走鼓毡綿、棋盤會、拋彩逐婿、擊掌、別窰、雙別窰、搬窰、探窰、鴻雁捎書、迴龍閣、報喜、雙鎖山、殺四門、探病、竹林計、闖山、抱盔頭、扒柳樹、七子八婿、打金枝、太平橋、小罵城、大罵城、抱盒、狄青投親、胡迪謗閻、斬豆娥、倒庭門、打口袋、打灶、小姑賢、平安吉慶、坐樓、爭夫、打棗、花亭、借䯼髻、掃雪、送米、探監、要嫁粧、雪梅教子、三娘教子、雙官誥、聽琴、逛燈、鬧洞房、當皮相、一疋布、打麵缸、偷蔓菁、偷蘿葡、教書謀館、放腳、母女頂嘴、老媽開嗙、男開嗙、兩怕、三怕、小龍門、上粧臺 |
車王府曲本 | 三疑記、大拝壽、字差、老媽開謗、收青蛇、金銀探監、岳玉英搬母、路老道捉妖 |
ハーバード・イエンチン「皮影戯劇本118種」 | |
v.1. 錫慶班 | 收威、洛園、失釵(失釵對釵)、雙鎖山、殺四門、放腳、探窰、天仙送子 |
v.2. 裕慶班 | 竹林計、五雷轄、闖山、小姑賢、殺四門 |
v.3. 裕慶班 | 打灶、高老莊、放腳 |
v.4. 錫慶班 | 罵閻、雙冠、金山寺、獻瑞、慶壽、送子、賜福 |
v.5. 錫慶班 | 借傘、火熖山、芭蕉扇、棋盤會、闖山、聽琴、倒庭門 |
v.6. 永順和 | 抱妝盒、走鼓氈綿、寫狀、打灶王、要嫁妝、罵閻 |
v.7. 喜慶班 | 雄黃陣、偷蘿蔔、偷蔓菁、盗靈芝草、送傘、遊西湖 |
v.8. 喜慶班 | 送子、夜宿花亭、姐妹爭夫、小姑賢、斬竇娥、碰城 |
v.9. 永順和 | 拋彩球、打金枝、七子八婿、探病、趕妓、借衣、合鉢(缺)、兩怕、祭塔 |
v.10 永順和 | 無底洞、盗靈芝、馬鞍山、謀館 |
v.11 永順和 | 顯魂、百草山、爬柳樹、殺四門 |
v.12 吉順班 | 當皮箱、殺嫂、送米、打口袋 |
v.13 吉順班 | 開謗、官誥、扒柳樹、無底洞 |
v.14 吉順班 | 大封官(六月雪後部)、胡延廷搬兵 |
v.15 吉順班 | 收周德威、打虎、打瓜精 |
v.16 吉順班 | 拋藍、打圍、搬母、審桑氏、祭石人 |
v.17 吉順班 | 五雷霞、回違、抱妝盒、壹匹布 |
v.18 吉順班 | 報喜、洞房、雪梅教子、三娘教子、小龍門、百草山、跳神 |
v.19 吉順班 | 長坂坡 |
v.20 吉順班 | 盜靈芝、雄黃陣、寫狀、打灶、掃雪 |
v.21 吉順班 | 別窰、稍書、借䯼髻 |
v.22 吉順班 | 先生推磨、母女頂嘴、小罵城、搧墳、三疑、三怕 |
v.23 吉順班 | 借䯼髻(坐樓)、拷玉、小上墳、打棗、棋盤會、闖山 |
v.24 | 雙鎖山 |
演博本 | [八仙過海]、[祭塔]、[顯魂/殺艘]、扒柳樹、抱盔頭、雙官誥、無底洞、[要嫁妝]、[放腳]、[稍書]、平安吉慶 |
これら単齣影巻集が非常に近しい関係にあることは、収録劇目を見れば明らかである。また表に記したように、ハーバード・イエンチンの単齣影巻集は、大半が影戯班の名称を明記しているので、そこから流派や時代といったコンテクストを絞り込むこともできよう*18。
まず注目されるのが、錫慶班のテキストが3冊(v.1・4・5)含まれることである。それらの単齣影巻集はお世辞にも字が上手いとは言えず、かつ俗字や略字が多用されているなど、『紅梅閣』と様相をまったく異にしており、芸人の手になることは明白である。
また錫慶班鈔本各巻の表紙には、v.1は「拾参本」、v.5は「頭本」、v.4は「㭭本」と書いてあるので、元々、13冊以上に及ぶセットであったことがわかる。一方、v.4の「献瑞」の後の第15葉表は、表紙と同様に収録単齣の題名を並べ、「同順班記」と記しており、そこに書かれた収録単齣は、v.4の表紙に書かれた題名と重複している。これはおそらく、錫慶班の原本の欠落を、同順班鈔本によって補ったものであろう。このためv.4所収の「金山寺」・「双
ハーバード・イエンチン所蔵本に記された影戯班では、v.2・3の裕慶班が斉如山1935に民国時期の比較的新しい東派の影戯班として挙がっているので、北京西派・東派の影巻が混在していることになる。
次に、影巻の字句を比較してみよう。紙幅の関係上、『燕影劇』・錫慶班・裕慶班および永順和の四種がある「殺四門」の比較結果のみを掲げる。表は、劉金定が宋太祖に見参する場面のセリフ、および劉金定と于洪との戦いの場面の〔三趕七〕を比較したものである。
燕 | (胤上城)好太祖天子。站在城頭往下 看。 但見一位女子。 |
錫 | (印上城)好太祖天子。占在城頭往下一看。 但見一位女子。 |
裕 | (上印) 呀,果有一員女將,頭代的鳳紫金盔,身穿鎖子銀葉甲, |
永 | 但見為首女子, |
燕 | 擎刀 跨 馬。生的風流俊俏。 十七八歲。 |
錫 | 擎刀 跨 馬。生的風流俊俏。 十七八歲 |
裕 | 內襯大紅征袍,腰束碧玉胭脂帶,手使青同偃月刀,坐跨桃紅馬,生的風流, 年紀不過十七八歲。 |
永 | 生的風流俊俏, |
燕 | 往下開言。便問那一女子。到此何事。那裡人氏。姓甚名誰(金白) 好劉金定舉四抬頭一看 |
錫 | 望下開言。便問那一女子。道此何事。那裡人氏。姓甚名誰」 好劉金定舉目台頭一看。 |
裕 | 城下女子,你姓字名誰,到此何是」 萬歲容丙」(唱) |
永 | 望下便叫,城下那一女子, 姓甚名誰,到此何事」 |
燕 | 但見城頭站立一人。 面如重棗。 想是當今萬歲。 |
錫 | 但見城頭站立一人。 面如重棗。 想是當金萬歲。 |
裕 | 只見城頭一人站。 兩邊又有仲將遂。頭代沖天冠一頂。面如重棗鳳蠶眉。 |
永 | 呀,城上黃羅傘下一人, 面如重棗,五柳長髯,必是 萬歲, |
燕 | 待奴下馬 (下下馬上跪白) 萬歲。 臣女劉金定見駕。奴配與高君保為妻。特來 |
錫 | 待奴下馬 (下 馬上跪白) 萬歲萬歲。臣女劉金定見駕。奴配與高君保為妻。特來 |
裕 | 忙下征駝把話回。 叩頭盡禮呼萬歲。…… |
永 | 待我下馬才是 (下) 萬歲萬歲,臣女劉金定, 許配 高君保為妻,前來 |
燕 | 報號 (胤白)那女子你說的雖然有理。但是無憑無據難信(金白) 現有銀鞭為証。 |
錫 | 報號 」 那女子你說的总然有里。但 無憑無俱難信」 現有銀鞭為征。 |
裕 | |
永 | 報號來了」 你說高君保是你丈夫, 無有憑俱朕當難信」 萬歲不信,現有銀卞為証」在 |
燕 | 繫上城頭一觀 |
錫 | 細上城頭一觀」 |
裕 | |
永 | 那里」萬歲戲上城頭一看」 |
燕 | (唱)空中照 雲霧迷 |
錫 | (唱)空中照 雲物迷 |
裕 | (唱)空中照 雲霧迷 |
永 | (唱)空中照 雲霧迷 |
燕 | 抬頭一看 認的仔細 |
錫 | 台頭一看 認的仔細 |
裕 | 抬頭一看 認的仔細 |
永 | 台頭一看 認的仔細 |
燕 | 原是刀一口 也不為出奇 |
錫 | 原是刀一口 也不為出奇 |
裕 | 原是刀一口 也不為出奇 |
永 | 元是刀一口 也不算出奇 |
燕 | 斬我卻不能夠 取出聖母神旗 |
錫 | 斬我卻不能夠 取出聖母靈旗 |
裕 | 斬我卻不能夠 取出聖母神旗 |
永 | 斬我卻不能夠 取出聖母神旗 |
燕 | 往空一展飛刀落 往上沖殺催征駒(下) |
錫 | 往空一展刀收下 往上沖殺崔征駒」 |
裕 | 往空一指刀收下 往上沖殺催征駒(下) |
永 | 望空一恍刀收了 沖殺上去催征駒(下) |
燕 | (于唱)發了怔 兩眼直 |
錫 | 發了怔 兩眼直 |
裕 | (于唱)發了怔 把眼直 |
永 | (于唱)發了怔 兩眼直 |
燕 | 飛刀祭起 半虛空裡 |
錫 | 飛刀祭起 半虛空裡 |
裕 | 飛刀祭起 半天空里 |
永 | 飛刀祭起 半虛空里 |
燕 | 一幌不見了 真乃怪又奇 |
錫 | 一恍不見了 真乃怪又奇 |
裕 | 一恍不見了 真乃怪又奇 |
永 | 一恍不見了 真乃怪又奇 |
燕 | 未把女將斬 並未落在地皮 |
錫 | 未把女將斬首 並未落在地皮 |
裕 | 未把女子斬首 也未落在地皮 |
永 | 未把女將斬首 並未落在地皮 |
燕 | 心中發糊說奇怪 又見女子來對敵 |
錫 | 心中發胡說奇怪 又見女子來對敵 |
裕 | 心中發糊說怪□ 又見女子來對敵 |
永 | 心中氣恨說奇怪 又見女子來對敵 |
セリフについては、『燕影劇』と錫慶班はほぼ一致し永順和も似ている。裕慶班は他のテキストでセリフである部分を歌唱にしているなど若干異なるが、それでも類似の表現が使われている部分が見受けられる。一方、後の〔三趕七〕については、いずれもほとんど同じである。
この他にもいくつかの影巻を比較してみたが、ほぼ全てが、多少の相違こそあるものの、基本的に同じ影巻であると見なしうる範囲内に収まった。ここから、北京皮影戯の単齣影巻集は、西派と東派で共有されていたという推測が成り立つ。
さて、比較に使用した影巻のうち、ドイツ・シノロジストのウィルヘルム・グルーベとエーミール・クレープスによって編まれた『燕影劇』について、劉季霖氏は北京西派の代表的演目を網羅することから、西派のものであると断定している*19。『燕影劇』の編纂過程については山下一夫2004に詳しいが、そこではラウファーの以下の「解説」を引いている。
テキストを詳細に研究するために、クレープス氏は北京で影絵芝居の劇団をよんでそれらの演目を上演させた。かれはそれで気が付いたことをこう加えている。「ついでに言うと、かれらは自分で厳密なテキストを持っているという訳ではなく、はやりの日常的な冗談をその中に織り交ぜたりするのだ。喜劇『三怕』をやっているとき、例えば登場人物の女性の一人はこう言った。わたしはワゴン・リー・ホテル(原注:北京にあるヨーロッパ系ホテル)に招かれているので、これから行くところなのですよ、と。」*20
この実演確認について、山下一夫2004は「劇団の名前はおろかその上演場所、さらには劇団員の名前すらも全く触れていない」*21としているが、サイモン1986に以下の記載があった。
その上演場所は隆福寺だった。グルーベとクレープスによって一座の台本すべてが翻訳された(バイエルン学術アカデミーによって1915年に出版)ことで、他の流派と対照的に、北京の影絵人形劇の演目は、きちんと記録に残っている。*22
当時、東派の影戯班は多くが東四・隆福寺一帯に拠点を置いていたので、東派の上演が参照されたことは確実である。一方、東派皮影戯は翻書影であるので、自らの影巻を見ながら上演したはずであるので、『燕影劇』の元になった影巻は上演した影戯班のものではなかったことになる。これは、錫慶班影巻と『燕影劇』・裕慶班などの影巻が基本的に同じものであったように、単齣影巻集が西派・東派を超えて広く北京の影戯班の間で共有されていたことを示している。
これら単齣影巻集の折子戯が冀東地域で演じられていないことについては山下一夫2004に詳しいが*23、その一方で、清末・民国時期に裕慶班などの東派影戯班でそうした折子戯が演じられていたことも明らかになった。
これは北京という大都市でのさまざまな上演ニーズを満たし、西派・涿州影が占めていた堂会上演市場に食い込むために、冀東から北京に進出した影戯班もそうした折子戯の上演に対応する必要があり、西派の芸人・影戯班から影巻を入手して上演するようになったのであろう。こうした単齣影巻集を所有し上演できることが、北京東派皮影戯と冀東皮影戯の相違点であったのかもしれない。
3.3.北京西派・冀東皮影戯の影巻とレパートリー†
北京西派皮影戯と冀東皮影戯は異なる劇種ではあったが、用いられる曲調や曲牌の句法はほぼ共通していた。劉季霖2004は北京西派皮影戯の曲調・曲牌として以下を掲げる*24。
- 豎弦:〔正音腔〕・〔三趕七〕・〔大金辺〕・〔小金辺〕・〔小東腔〕・〔五字数〕
- 横弦:〔大悲調〕・〔小悲調〕・〔還陽調〕・〔玉字調〕
- 曲牌:〔鴛鴦扣〕・〔柳枝腔〕・〔銀紐糸〕・〔南鑼北敲〕・〔畳断橋〕・〔䯼髻腔〕・〔湖広調〕・〔山坡羊〕・〔好姐姐〕・〔跑竹馬〕・〔点絳唇〕・〔黄竜滾〕・〔撲灯蛾〕・〔石榴花〕・〔粉蝶児〕
豎弦・横弦は、それぞれ京劇の正調・反調に相当し、長短句のものを含むが、いずれも板腔体であるとする。
一方、劉栄徳等1991によれば、冀東皮影戯には以下のような曲調・曲牌がある。
〔七字句〕・〔十字錦〕・〔三趕七〕・〔大金辺児〕・〔小金辺児〕・〔讃語〕・〔三字経〕・〔平腔〕・〔花腔〕・〔淒涼調〕・〔大悲調〕・〔小悲調〕・〔遊陰調〕・〔還陽調〕・〔五字賦〕・〔大哭么二三〕・〔小哭么二三〕
西派の〔正音腔〕が冀東で〔平腔〕と呼ばれるなど、名称の相違が見られるものの、同じ名称のものの句式は基本的に一致する。両者の差異は、西派が高腔の風格を多く留めるのに対して、東派・冀東皮影戯は梆子腔により接近している点、すなわち歌唱という芸人の技芸レベルのものであり、影巻としての差異はほとんどないといえよう。
北京西派・東派皮影戯のレパートリーについて、劉季霖2004は「兩派所演劇目毫不相同的」とする一方で、いくつかの共通する演目があるともしている*25。両者のレパートリーを比較してみると、『六月雪』・『混元盒』・『樊梨花』・『劉金定』など、さらに錫慶班の本戯、『山水縁』・『薄命図』・『鑌鉄剣』・『紅梅閣』も冀東と共通している*26。このうち『鎮冤塔』は、岳飛の子・岳霄の北征を描いており、前掲単齣影巻集の「罵閻」・「争夫」の本戯であるが、劉豊慶1986によれば「老四大部」の1つに数えられる、清初の影巻であるというので*27、あるいは西派皮影戯ともともと同じものであるのかもしれない。
関俊哲1959は、以下のように述べる。
北京東・西派両派皮影戯の節回しはかなり異なるとはいえ、影巻のスタイルは概ね一致し、いずれも七字句・五字句と三趕七を歌詞の主要なスタイルとしている。この点から見て、両者の起源と発展には密接な関係があるようだ。*28
北京西派と東派で共通の単齣影巻集が使われ、また本戯も共通していたことは、両者が清末に至るまで密接な関係にあった証左であるといえよう。
4.錫慶班の影人をめぐって†
4.1.ドイツ皮革博物館の2つの影戯箱†
ドイツ皮革博物館の北京皮影戯コレクションには、錫慶班影戯箱のほかに、乾隆年間の影戯箱がある。後者が購入された経緯について、サイモン1986は以下のように述べる。
1934年、乾隆影戯箱がコレクションに加えられた。それもまた、中国の貴族階級の一族に由来するものである。*29
また、ケルンやストックホルム民族誌博物館に同デザインの影人が収蔵されるという。
これらの影人のデザインは、劉季霖氏旧蔵(現在は上海博物館蔵)の王府の影人とも似かよっている。劉季霖氏はこれらを「精工紗彫」と呼び、実演には用いずに後台に展示するためのものであったとする。サイモン1986は、これらを乾隆帝八十歳の万寿慶節での上演のために制作されたものだとする。
清王朝の正式な年代記『清史』の記述によると、1790年8月に皇帝の80歳を祝う行事が催された。太和殿に御出座され、皇親、大臣、モンゴルの汗、安南国王、朝鮮・ミャンマー・南掌からの貢使、各省の土司、台湾の生番などが慶賀の例を行った。祝典の後、寧寿宮・乾清宮で宴席を賜り、席上、皮影戯が演じられた。宮殿に現存する二つの舞台のうちひとつは、寧寿宮にある。*30
筆者が『清史稿』・『清実録』を確認した限りでは、乾隆帝八十歳の万寿慶節で皮影戯を上演したとの記述は見あたらなかった。サイモン1986によれば、それはキール大学のゲオルク・ヤーコブ教授の考証によるというが、今後、詳細を確認する必要があろう。
4.2.錫慶班の影人†
サイモン1986に掲載される影人写真を見る限り、同博物館が所蔵する典型的な北京西派皮影戯の造形を有する影人は、いずれも乾隆影戯箱のものである。
一方、錫慶班コレクションは、生・旦の顔の枠線に色を塗り、眉と目尻が一本の曲線で連続し、サイズは30cm弱という、北京東派風の影人となっている。また、以下の記述から桐油を塗布していたことがわかる。
影絵人形は油紙で梱包され、米粉がふりかけられていたにもかかわらず、おそらく南海の夏の暑さのせいだろう、荷物全体のなかでくっつきあっていたため、慎重に互いを引き剥がさなければならなかった。*31
冀東系の影人は高温多湿の場所に重ねて置いておくと、表面に塗布された桐油が溶け出してくっついてしまうものだ。これも錫慶班の影人が東派風である証左である。
錫慶班は西城の恭王府の影戯班であり、劉徳山氏の証言から西派の劇団であったことは確実であるが、影人は東派的なものを用いていたことになる。かといって、錫慶班が東派に属したことにはなるまい。
劉季霖氏旧蔵の北京西派影人『水漫金山寺』の水族の造形は、錫慶班の影人とほぼ一致する。また趙敬蒙2004に見える冀中皮影戯の影人画像には冀東風のデザインのものが見られるが、冀中皮影戯は後述のように北京西派皮影戯と密接な関係を持つ。さらに、ドイツ皮革博物館が所蔵する上右図の影人は、錫慶班に由来するものではなく、サイモン1986のキャプションは東派のものだとしている。顔の造形は確かに東派的であるが、東派にはない人馬一体の「馬上樁」であり、高さが53cmと大きいなど、西派の特徴を併せ持っている。
そもそも北京西派皮影戯の彫刻方法は、「尖刀口」から東派の影響を受けて「斉刀口」に変化したとされるように*32、西派と東派は相互に影響を及ぼし合う関係にあり、清末にはそれが影人デザインにも及んでいたと考えられよう。現在の皖南皮影戯では、陝西風の影人によって破損した影人を補充して用いているが、筆者が調査時に芸人に尋ねたところ、デザインの差異にはまったく無頓着であった。デザインの差異にこだわるのは、むしろコレクターとしての視点であるのかもしれない。
翁偶虹1985は以下のように述べる。
西派影戯と東派影戯は芸術としてはさして違いがなく、流派が異なるだけであるが、似ている中にも違いがあ
る。*33
錫慶班影人も影巻と同様、西派と東派の「似ている中に違いがある」状況を具体的に示している。
5.北京・河北の皮影戯†
5.1.冀中皮影戯†
以上のように、北京西派皮影戯と東派・冀東皮影戯は、影巻にある程度の互換性があり、また影人についても東派風のデザインのものが錫慶班で使われるなど、まさしく「似ている中にも違いがある」という状況にあった。これは、北京西派皮影戯と東派・冀東皮影戯が、そもそも同根から生じていることを強く示唆している。
河北省では、唐山を中心とする冀東地域以外でも、皮影戯が行われている。張家口市蔚県には陝西省大茘から伝わった灯影戯があり*34、邯鄲市を中心とする冀南地域では河南・山東から伝わった皮影戯が行われているが*35、ここでは北京西派皮影戯の比較対象として、保定一帯で行われている冀中皮影戯に注目する。
冀中皮影戯については、龐彦強等2005、および趙敬蒙2004に詳しい。以下、それらに従って概要をまとめる。
保定では「老虎調」と「涿州影」の2種類の皮影戯が行われており、前者は主に保定南部、順平県・望都県・定州市・蠡県などで、後者は主に保定市北部で行われている。
老虎調の音楽について、龐彦強等2005はいう。
「老虎調」の歌唱は、芸人の「乾唱」(徒歌)で、地声を使い、文場の伴奏を用いず、武場の大羅・大鐃・大鈸・鐺・鼓板などの伴奏だけを用い、弋陽腔と同じ声腔体系に属する。*36
乾唱とは、伴奏がつかない歌唱のことで、弋陽腔の特色とされる。曲調は板腔体の〔平調〕を主とし、〔繍花灯〕・〔白口歌〕・〔河西調〕・〔大悲調〕・〔小悲調〕などの曲牌も用いられる。
一方涿州影は、伴奏に京胡・二胡・四胡・揚琴・小三弦などの「文場」を用い、板腔体を主とし〔浪蕩腔〕・〔還魂調〕・〔琴腔〕・〔悲調〕・〔鎖板〕などの曲調・版式があり、〔三趕七〕などの曲牌も用いられる。また、明代に蘭州から伝播したとの伝承を持つ。龐彦強等2005によると、滄州皮影戯・献県段村皮影戯も同様の伝承を持っており、同系統であると思われる。
なお、芸人の略伝などから、両者ともに行当ごとに別の芸人が歌唱する方式であったことがわかる。
北京西派皮影戯に関する文献・先行研究では、劉季霖2004が保定皮影戯に言及する。
「老虎影」は涿州大影の前身である(1980年に保定地区文化館の岳館長一行が「涿州大影が北京に伝わった後の行く末」を訪ねて我が団(筆者注:北京皮影劇団)にやってきた。持参した録音資料と写真から、現在に至るまで保定地区の農村では「老虎調」皮影戯が行われており、その節回しと影人の造形は北京西城派皮影と概ね同じであった)。*37
また劉季霖2004は、北京西派皮影戯の形成について、以下のように述べる。
北京の涿州大影は甘粛蘭州から伝わったもので、華亭・陝西・山西中部・山西南部を経て娘子関を超え、後に保定地区で既に行われていた「老虎調」皮影戯の曲調と融合した。元々の節回しの基礎の上に、陜西の碗碗腔、河北の合合腔などを吸収し、現在の涿州影の曲調を形成した。現在、河北の保定地区群衆芸術館内に「老虎調」の歌唱の録音が収蔵されているが、北京の涿州大影のいくつかの曲調と、テンポが若干遅いだけでとても似ている。明の正徳三(1508)年、北京で「百戯大会演」が催され、涿州大影は北京での上演に参加し、それ以前から北京で行われていた「梆子仏」と合流し、今日演じられる西城派涿州影となった。*38
以上の説明は、碗碗腔や合合腔の形成がいずれも清代であることからいささか妥当性を欠くものの、北京西派の源流とされる老虎影と冀中老虎調は同じものであると考えて良かろう。
また、北京西派皮影戯は涿州影とも呼ばれており、名称が冀中の涿州影と共通しているのみならず、曲調や蘭州起源伝承も共通しており、両者が同じ劇種であるのは明白である。
ともなると、北京西派皮影戯は老虎影から発展した、すなわち弋陽腔本来の「乾唱」から、文場の伴奏付きの声腔へと発展したことになる。これについては、戯曲史研究の成果を参照しつつ考察する必要があろう。
5.2.京腔と皮影戯†
弋陽腔は明代後期に北京へと伝播した後、清代にかけて盛行し、京腔を形成したことが知られる。以下、その形成と変遷過程について、程志2007などによって概観する。
北京への弋陽腔の流入は明代に遡る。明の徐渭の『南詞叙録』にいう。
今、役者どものいう弋陽腔は、江西に発祥したもので、両京・湖南・福建・広東で行われている。*39
明代中期には北京で行われていたことがわかる。また、明の沈徳符の『万暦野獲編』にいう。
今上帝(筆者注:万暦帝)になって始めて、玉熙宮にさまざまな劇を設けて、外部の劇を学ばせ、弋陽・海塩・崑山などがみな揃っていた。*40
「外部の劇」を学ばせていることから、万暦年間の北京で弋陽腔が盛行していたことがわかる。そして清代には「南崑、北弋、東柳、西梆」(斉如山『京劇之変遷』)と言われるように、北方で弋陽腔が大いに流行し土着化が進む。康熙二十三(1684)年に刊行された、王正祥『新訂十二律京腔譜』は、北京において弋陽腔が京腔へと発展したことを示すメルクマールとされる。
乾隆年間後期になると、魏長生の北京進出、四大徽班晋京などを通じて、花部が勃興する。それは京腔にも影響を及ぼす。『揚州画舫録』卷五「新城北録下」に以下のように見える。
京腔ではもともと宜慶・萃慶・集慶など(の劇団)が名声を博していたが、四川の魏長生が秦腔を北京にもたらしてから、その容色と技芸は宜慶・萃慶・集慶を圧倒してしまい、そのため京腔がそれを模倣し、京腔と秦腔の区別が無くなった。*41
魏長生は乾隆四十四(1779)年に「滾楼」を上演して北京で大いに名声を博しているので、京腔の秦腔化はそれ以降に進展したことになる。秦腔の特色は、胡弓の伴奏にあった。『燕蘭小譜』卷之五にいう。
四川の役者が琴腔で売り出した。甘粛の曲調で、西秦腔という。楽器は笙や笛を用いず、胡弓を主、月琴を福とする。楽譜は「あーうー」と話しているかのようで、歌の下手な女形は、それでつたなさを隠している。*42
胡弓(原文「胡琴」)の伴奏について特記しているのは、当時の北京で徒歌、あるいは崑曲のような笛・笙の伴奏が一般的だったことを示す。ここから乾唱であった京腔が、乾隆年間後期に秦腔の影響を受けて、胡弓の伴奏を導入したことがわかる。
また、清の李光庭の『郷言解頤』巻三「優伶」にいう。
そのころ宜慶・翠慶など(の劇団)があり、崑曲と弋陽腔に乱弾を交えていた。「府」や「官」と呼ばれ(原注:京班は半ば王府に隷属しており、官腔と呼ばれ、また高腔とも呼ばれた。)、その拍子は淫猥とは異なるものだった。いかんせん曲調が高音で歌う者が稀で、60年で知る者が少なくなっていった。*43
『揚州画舫録』と劇団の名称が共通していることから、京腔と官腔・高腔は同じ劇種を指すことになる。ここから、京腔の劇団が王府に属していたことがわかる。
以上の京腔の変遷に照らすと、老虎影の乾唱は魏長生登場以前の古い時期の京腔のあり方を留めており、北京西派(涿州影)で用いられる高腔は秦腔の影響を受けて胡弓の伴奏を導入し「京腔と秦腔の区別が無くなった」京腔であることが推測される。佟晶心1934は北京皮影戯の声腔について、以下のように述べている。
北平には今でも琴腔が保存されている*44
琴腔の名称は冀中涿州影にも見えているが、前引『燕蘭小譜』によれば西秦腔、すなわち秦腔の別名である。
また、『道咸以来朝野雑記』に以下のように見える。
また影戲というものがあり、紙をのり付けした大きな四角い枠を舞台とし、人形は皮を切り抜いたものをさまざまな色に染め、人のように舞わせる。歌唱はいくつかの種類に分かれ、灤州調・涿州調および弋腔がある。昼夜、舞台の中に灯をぶら下げて影を映し、炎を使った幻術の芝居が美しく、そのため影戯と呼ばれる。今はみな衰えてしまった。*45
従来の論考では、これを北京皮影戯が東西両派に分かれた証拠として引用しているが(例えば江玉祥1999、p.194)、「弋腔」の二文字を無視している。以上に論じてきたところをふまえれば、この「弋腔」が老虎影を指しているのは明白であり、道光年間に至っても北京ではなお乾唱形式の皮影戯が存在していたことが窺える。
前掲『郷言解頤』は、京腔の劇団が多く王府に属していたとするが、同時期には多くの王府が皮影戯班を抱えており、また西派皮影戯は満州貴族の堂会で多く上演されていたとされるので、ここに京腔と北京皮影戯の接点を見出すことができる。
北京西派皮影戯や冀中涿州影には、前述のように甘粛省蘭州から伝播したとの伝承がある。これについて、周寿昌の『思益堂日札』巻七「読曲雑説」に以下のように見える。
今の楽部にもそれぞれ土調がある。例えば……甘粛には蘭州引がある。……蘭州引は都の影戯が演じている。*46
この記事は『思益堂日札』の十巻本のみに見えることから、五巻本成立後(1850年頃)から周寿昌が没した光緒九(1884)年までの間に書かれたことがわかる。
蘭州引は蘭州で行われる小曲で、一般に蘭州鼓詞と呼ばれる。北京の八角鼓が蘭州に伝播し、民間小曲を吸収して清の道光年間に形成されたとされる*47。音楽形式は曲牌体で、北京西派の音楽とは大きく異なっており、その起源であるとは考えにくい。北京西派皮影戯が蘭州起源であるとの説を耳にした周寿昌が、現地の曲種である蘭州引と短絡的に結びつけたのであろう。
では、蘭州起源説はなぜ生まれたのだろうか。筆者は、京腔が秦腔の影響で変容したことを反映したものだと考える。秦腔、即ち西秦腔は『燕蘭小譜』によれば甘粛の曲調で、流沙2014は実際に甘粛で形成されたものであるとしている*48。恐らく、秦腔化した京腔を用いるようになった影戯班の芸人が、従来の乾唱を用いる老虎影に対して、甘粛・蘭州から伝来した秦腔を取り入れた皮影戯であると説明し、それが訛って蘭州起源伝承が生まれたのであろう。冀中老虎影に蘭州起源伝承が見られない理由も、これで説明がつく。
ところで清代、保定の高陽では高腔が盛行していた。それについて、流沙1999は次のように述べる。
河北保定出身の評劇俳優・蕭玉華がかつて筆者に語ったところによると、以前、河北の高陽一帯の高腔は、声腔からいうと、「南高」・「北高」の二派に分かれていた。近代になっても、この二派の高腔はいずれもそれぞれ異なった特徴を保っていた。そのうち南高は高陽高腔の最も古く原始的な流派で、歌唱は非常に高らかで粗野、かつ高腔だけを歌い、崑曲と混じり合っていない。北高の歌唱は、比較的繊細かつ優雅で、しかも崑曲と同じ舞台に登るなど、上演の風格は崑曲の味わいが強い。この種の高腔はいわゆる崑弋班の弋腔である。清末以後、「南高」は高陽県だけに伝わり、冀中のその他の地域はほとんど全て北派高腔を唱っている。*49
これをふまえて、蘇子裕2009は以下のように述べる。
私は、「南高」とは南に向かって伝わった弋陽腔であり、いわゆる「北高」とは北方の高腔、実際には京腔のことであると考える。(p.55)*50
保定は北京より南に位置しているが、戯曲文化は南の河南・山東から北上して伝わるのではなく、北京から南下して伝わっており、南に行くほど古い形態の戯曲が残っていたことがわかる。楊懋建『辛壬癸甲録』にいう。
保定は直隷の首都であり、北京から330里離れている。都の歌楼でふるい落とされると、往々にしてその余沢が近郊を潤す。そのなかの容色・技芸に見るべきところがあり、名声の出たものは、また飛び去って、都に上るのである。*51
同書は道光十一~十四(1831~34)年に書かれたものだが、北京で失敗した役者が都落ちして保定に至り、そこで再起をはかっている。これも、衛星としたる保定が、演劇文化上、北京を補完する従属的な機能を果たしていたことを示している。
かかる北京と保定・冀中との関係性は、皮影戯においても同様であったお思われる。『廊坊戯曲資料匯編』第三輯は、廊坊の固安北王起営皮影戯について、以下のように述べる。
この皮影戯は蘭州に起源し、清の道光年間に同村に伝わった。先人の王建朝が人を率いて西天和に参加し、後に同村の芸人が「義合班」を組織した。最も盛んだったのは光緒・宣統年間で、北京・保定一帯で活動し、寺の縁日などで上演活動などを行っていたという*52。
北京と冀中の皮影戯との間に交流があったことがわかる。
以上をふまえると、保定の南部で行われる老虎影はより古い時期に北京より伝来したもので、北部で行われる涿州影は、乾隆年間末年以降に京腔の秦腔化の影響を受けた北京西派皮影戯が伝播したものであると推測できる。
各地の皮影戯を見ると、同じ地域の地方戯の声腔を用いるものが見られる一方で、例えば陝西の関中道情皮影戯で秦腔以前に流行していた道情が用いられ、浙江の海寧皮影戯で清代中期の乱弾が用いられているように、古い世代の戯曲の声腔が皮影戯に保存されている例も多々見られる。北京西派皮影戯や冀中老虎影・涿州影もそうした皮影劇種の1つであったことになる。
また、徳順班の路家が北京北郊昌平の出身であることと考え合わせると、北京西派皮影戯が北京周辺から人材の供給を受けていたことが明らかになる。西派も決して西城に閉じこもっていたわけではなく、北京の南郊・北郊との交流に立脚していたのである。この点において、北京西派は京腔となんら変わるところがないし、冀東地域と密接に結びついた東派=灤州皮影戯・楽亭皮影戯の事例とも似ている。そこから類推するに、北京南郊との交流が涿州影と名付けられた所以なのであろう。
5.3.分唱形式と福影†
北京西派・冀中・冀東・東北の皮影戯は、いずれも複数の歌唱者が行当に分かれて歌唱する、いうなれば分唱形式を採るという共通点がある。それに対して他の地域の皮影戯では、1人の主唱者があらゆる行当を兼ねて歌唱する形式が一般的である。
中国の影戯に関する最も早い記録である宋の高承の『事物紀原』巻九「影戯」に以下のように見える。
宋の仁宗の時、街に三国物語を語るのが上手い人がおり、ある者がその話に装飾を施すために絵人を作った。*53
皮影戯はこのように講談から発達した芸能であるので、1人が歌唱するスタイルのほうがより古いことは明白であり、これは逆に北京・冀中・冀東の皮影戯の近似性を際だたせている。
北京東派を含む冀東皮影戯の上演技法上の大きな特色は、男性芸人が喉笛のあたりをつまんで裏声を出す「搯脖子」と呼ばれる歌唱方法、および影巻を見ながら上演する「翻書影」である点にある。これらは他の地域の皮影戯に見られないが、上演技術をより簡便化しコストを削減する技法であるといえる。すなわち、旦の歌唱には、芸人の適性と訓練の積み重ねが必要であるが、「搯脖子」はそのコストを軽減する。「翻書影」は、いうなればカンニングペーパーの公式化であり、芸人が台本を完全に暗記するコストを軽減できる。このコスト削減指向は、影戯班の人数の増加、ひいてはコスト増をもたらす分唱方式と相反しており、分唱方式が冀東以外からもたらされたことを物語っている。
その条件を整えているのは北京以外にありえない。前述のように、北京皮影戯は王府と密接な関係があり、民間の影戯班と比べて強力な経済的後ろ盾を持っていた。そうした環境下では、分唱化によるコスト増よりもむしろ、審美性や芸術性が優先されたことだろう。
筆者は以前、北京・冀東・東北にかつて台本を暗記し、2尺の影人を用いる皮影戯が広く分布していたことを論じたことがある*54。その一つと目される福影は、大影・腹影・府影とも呼ばれ、冀東の遷安・遷西・廬竜・撫寧一帯で行われている。影巻は『封神榜』だけで、上演時に影巻を見ない。福音の音楽について、王大勇1986は以下のように述べる。
唱腔には〔哭腔〕と〔擡腔〕の二種類がある。〔擡腔〕は芸人が全員で後に続いて唱い、九腔十八調があって、歌い終わるとお終いになる。その音楽の旋律は簡単で、和尚の読経に似ている。伴奏は打楽器だけで、弦楽器は使わない。打楽器には大鐃・大鈸・碰鐘・小双鈴・雲鑼・小堂鼓・木魚などがある。上演では鈸担当が小双鈴を兼ね、大鐃が鼓を兼ねる。台詞回しは韻を踏まず、歌唱は地声で、拍子を取る鼓板もなく、碰鐘・小双鈴が序奏となる。*55
打楽器だけで弦楽器が無いことから、乾唱形式であったことがわかる。また、「全員で後に続いて唱」うというのは「幇唱」のことであろう。いずれも弋陽腔の特色として知られるが、一方、曲調・曲牌は老虎影よりも遥かに簡単である。
劉季霖2004は以下のように述べる。
北京皮影戯の芸人が唱う「梆子仏」は仏曲に似ており、一人が木行を叩き、歌唱者はゆったりと長々と歌い、僧侶の読経のようであった、後の皮影戯の〔大悲調〕などの歌い方は、その影響を強く受けている。*56
北京皮影戯の老芸人・路躍峰氏が生前に語ったところによると、北京では元朝以前に「梆子佛」と呼ばれる大影戯が行われており、河南から伝わったものである。*57
木魚の伴奏を用い、「僧侶の読経のよう」であるなど、梆子仏は福影と非常に似ていることがわかる。大型の影人を用いる「大影」であるという点も共通しており、福影は梆子仏の流れを汲むものであると考えられる。そうであるならば、老虎影・涿州影および冀東の灤州影・楽亭影などで用いられる〔大悲調〕・〔小悲調〕はここに起源することになる。
王大勇1986には、また以下のように見える。
一般に福影は三~四人で組織され、一人が影人を操作し、その他のものは楽器と伴唱を担当する。*58
ここから、福影は分唱方式でないことがわかる。
以上のように,福影は音楽・上演方式などに古い要素を留めており、その成立が老虎影より古いことは確実である。
6.おわりに†
以上に論じてきたように、清代の北京・冀中・冀東には、少なくとも4種の皮影戯が行われていた。それぞれの特徴をまとめると下表のようになる。
祖師爺 | 文場 | 〔三趕七〕 | 〔大・小悲調〕 | 分唱 | 影人 | 馬上樁 | |
福影(梆子仏?) | 観音 | 無 | 無 | 有? | 否 | 両尺二 | 有 |
老虎影 | ? | 無 | 無 | 有 | 是 | 両尺 | 有 |
涿州影、北京西派 | 観音 | 有 | 有 | 有 | 是 | 両尺 | 有 |
灤州影、楽亭影、北京東派 | 孔夫子 | 有 | 有 | 有 | 是 | 七寸 | 無 |
これらの4種の皮影戯の中で、福影すなわち梆子仏が最も古いのは確実である。芸人の伝承に見えるように元代に遡るとは思えないが、しかし明末清初には遡り得よう。明代に黄素志が冀東皮影戯を創始したとの説は、遷安の福影の芸人であった安心斉が李脱塵に贈った『小史』に基づくので*59、あるいは梆子仏が北京から冀東に伝来して福影が形成された歴史を反映しているとも考えられる。
清代には諸王府に影戲班が置かれ、そこで分唱方式が導入され老虎影が成立したと考えられる。老虎影は梆子仏から〔大悲調〕・〔小悲調〕などを継承し、さらにいくつかの曲調・曲牌を導入したが、基本的には乾唱形式のままであった。戯曲声腔としては、清代前期の弋陽腔ないしは京腔を反映しているものと思われる。
老虎影は乾隆末年から嘉慶年間のころ、秦腔導入後の京腔の影響を受けて文場の伴奏を導入し、涿州影すなわち北京西派皮影戯へと発展した。〔三趕七〕が導入されたのも、おそらくこの段階であろう。
冀東の灤州影・楽亭影と涿州影は、いずれも〔三趕七〕を用いており、影巻に互換性があることから、同根であることは間違いないが、一方、両者の共通レパートリーとなっている本戯はいずれも比較的古いものである。ここから、乾隆・嘉慶のころに京腔の秦腔化の影響下に形成された涿州影が、ほどなく冀東地域にもたらされ、影人デザイン・音楽・上演技法や劇目などの面で、河北梆子などの影響も受けつつ独自に発展して、冀東皮影戯を形成したものと推測される。それが、道光年間ころに逆に北京に進出して北京東派を形成したのだろう。顧頡剛1934は以下のように述べる。
道光年間のころ、発展の過程で突然二つの流派が発生した。(一)西派、(二)東派である。*60
東西両派は、東派が冀東から進出した影戯班であったことを考えれば、冀東皮影戯の北京進出によって生まれたとすべきである。
また顧頡剛1934は以下のように述べる。
初めは木魚で読経をするかのような宣巻であったが、雍正年間末に笛子を用いるように改められ、節回しも弋陽腔からいささか遠くなり、崑腔に近くなった。乾隆年間末になって、四弦琴がまた加えられ、音楽も次第に複雑になり、曲調も当然、いっそう美しくなった。咸豊年間の初めになって、南絃子が新たに勃興するとともに、まもまく首座を占めるようになった……*61
この記述は『灤州影戯小史』に基づいていると思われるが、前述の京腔との対比において推測した北京皮影戯の発展過程と概ね合致している。
錫慶班の事例に見える北京西派皮影戯と東派皮影戯の近さは、両者がかかる歴史的経緯を経て、同じ根から分かれた皮影戯であったことの反映であると理解されよう。
以上、本稿では、北京西派皮影戯の錫慶班が恭王府ゆかりの影戯班であったことを端緒に、まずその台本・影人の比較検討を通じて、北京西派と東派が非常に近しい関係にあったことを指摘した。その上で、冀中老虎影・涿州影・福影などを比較・検討し、戯曲史研究における京腔研究の成果を参照することで、北京・冀中・冀東皮影戯の形成過程を解明した。すなわち、北京西派皮影戯=涿州影は、京腔の遺響を〔琴腔〕などに留めていると思われるのである。
ところで、中国皮影戯研究の大きな枠組みを確立したメルクマール的著作である江玉祥1992は、全国の皮影戯をいくつかの「影系」に分類し、冀東や東北の皮影戯を「冀東影系」とする一方、北京西派皮影戯は「秦晋影系」に属するとしている。江玉祥氏の分類は、影人のデザインおよび祖師爺などに基づくものであるが、本稿で論じたように分唱方式や音楽の共通性などに注目すれば、それらは同系統と考えるべきである。
これに限らず、皮影戯の先行研究では戯曲史の研究成果を参照していないものが多いし、また芸人の伝承を批判的な検討をすることなくそのまま受け入れたり、影人のデザインのみに注視したりして立論している例が多々見られる。しかるに、皮影戯も伝統劇種である以上、人が演ずる伝統劇と同様に、主に声腔によって分類されるべきであるし、また研究にあたっては戯曲史研究の成果を参照するべきである。その意味で、江玉祥の提示した枠組みは、修正されていく必要があろう。
北京・河北の皮影戯については比較的資料が揃っているので、音楽や影巻などについて、さらに詳細に研究することも可能であると思われるが、それについては今後の課題としたい。
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*本PDF版は、本誌紙版刊行後に見つかった誤りを修正し、加筆した第二版である。
*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。
*1 辛寺胡同は東四十二条胡同と東四十三条胡同の間を東西に走っており、地安門外ではない。あるいは、辛安里の誤りか。
*2 p.37参照。
*3 1940年代、北京东华门外是古董店的集中地,其中一家是我同学姨父的买卖,他的姨父是文物专家。我经常到他店里和他谈论,学到了很多知识,也从他那里得知三十年代德国奥芬巴赫皮影博物馆购走西城派锡庆班皮影的经过,也知道当时的美国大使司徒雷登购走清王府影箱的细节。(張敏2015)
*4 ドイツ皮革博物館Webサイト(https://www.ledermuseum.de/、2018.2.5最終確認)による。
*5 p.12参照。
*6 Nach Angaben aus Peking ist Yin Beile mit Zai Ying identisch.(p.101)
*7 瀅貝勒府在三轉橋西。謹按:愉王諱允禑,聖祖十五子,諡曰恪。後為鍾郡王府,鍾王諱奕詥,宣宗八子,諡曰端。無嗣,以恭親王子貝勒載瀅為後。(p.380「龍頭井」)
*8 郑亲王端华於咸丰十一年被赐死,降爵为不入八分辅国公,其府就分给了锺郡王奕詥。同治七年奕詥薨,其府又还给了复爵郑亲王承志。奕詥之後载滢只好搬到了原愉郡王府。……载涛袭爵後,此府又称“涛贝勒府”,今仍存。(74页)
*9 (光緒)二十八年,改嗣奕詥後,襲貝勒。三十四年,加郡王銜。(p.5261)
*10 趙志忠1998p.74。
*11 早年王公府第,多自養高腔班或崑腔班,有喜慶事,自在邸中演戲,他府有喜慶事,亦可借用,非各府皆有戲班。(p.93)
*12 今德國奧芬巴赫市皮影博物館內收藏一份中國北京恭王府影班的皮影……(p.52)
*13 山下一夫2004、p.72参照。
*14 山下一夫2005、p.25参照。
*15 p.80参照。
*16 山下一夫2005。張軍2015は西派である可能性をそもそもまったく考慮していない。
*17 p.247。
*18 ハーバード・イエンチン所蔵影巻については、戸部健氏よりマイクロフィルムから作成されたPDFをご提供いただいた。
*19 千田2001、p.81。
*20 p.56。なお、ワゴン・リー・ホテルは、オリエント急行の運営会社であるワゴン・リー社のホテルで、中国名は六国飯店。当時の大使館街であった東巷民交街に位置し、中華人民共和国成立後、華風飯店と改称した。現在も当時の建物が使われている。民国時期においては、北京飯店とならぶ欧風ホテルとして名声を博していたという。
*21 p.62参照。
*22 Ort der Aufführungen war das Kloster "Zum Wohlstand und Glück" - Long Fu Si. Im Gegensatz zu dem Repertoire der anderen Stile ist das des Pekinger Schattentheaters durch die Übersetzung des gesamten Textbestandes einer Gruppe durch Grube und Krebs - herausgegeben von der bayerischen Akademie der Wissenschaften 1915 - gut dokumentiert.(p.99。なお、ドイツ語資料の邦訳は、慶應義塾大学大学院の岩崎佑太氏による。)
*23 p.30参照。
*24 p.58参照。
*25 p.72参照。
*26 『六月雪』と『薄命図』は、冀東の万暦の年記を持つ台本が存在することで知られるが、芸人が根拠なしに万暦や乾隆の年号を書き入れるケースは多々見られるので、充分な検証を経ずににわかに信じることはできない。
*27 p.5参照。
*28 北京东、西两派皮影戏的唱腔虽然大不相同,但在影词的格式上却大致相同,七字句、五字句和三赶七,都是唱文的主要格式,从这一点来看,二者的起源和发展,可能有密切的关系。(P.9)
*29 1934 wurde dann der Qianlong-Satz erworben, der ebenfalls aus einer chinesischen Adelsfamilie stammt.(p.12)
*30 Gemäß den Eintragungen der offiziellen Annalen der Qing-Dynastie - qingshi - fanden im August 1790 Geburtstagsfeiern zum 80. Geburtstag des Kaisers statt. Die eigentliche Glückwunschzeremonie, an der neben den Verwandten des Kaisers auch hohe zivile und militärische Beamte, ein mongolischer Khan, der vietnamesische König, Tributgesandte aus Korea, Birma und Nanchang - einem Gebiet an der Grenze zu Yunan - sowie Häuptlinge der Ureinwohner aus verschiedenen Provinzen, z. B. Taiwan, teilnahmen, wurde im kaiserlichen Palast der Höchsten Harmonie vollzogen. Danach wurde für die Gäste - wie es Sitte war - in den beiden heute noch vorhandenen Palästen Friedliches Alter und Reinheit ein Bankett gegeben. Bei dieser Gelegenheit dürften Schattenspiele aufgeführt worden sein. Eine der beiden im Palast vorhandenen Theaterbühnen befand sich im Palast Friedliches Alter.(p.92)
*31 Es war keine leichte Arbeit, denn wiewohl die Stücke mit Reispuder bestreut und durch Ölpapiere geschützt waren, klebten sie dochwohl infolge der Sommerhitze der südlichen Gewässerin ganzen Packen zusammen und mußten sorgfältig voneinander gelöst werden.(p.12)
*32 p.62参照。
*33 西派影戏与东派影戏,艺术上并无大异,只是流派不同,而同中有异。(p.192)
*34 龐彦強等2005、p.479参照。
*35 韓麗2015、p.9参照。
*36 “老虎调”唱腔由演员干唱(徒歌),使用本嗓,不用文场乐器伴奏,只用武场的大罗、大铙、大钹、铛、鼓板等伴奏,于弋阳腔属于一个声腔体系。(p.392)
*37 “老虎影"即涿州大影的前身(1980年由保定地區文化館岳館長率隊來我團訪問,“探尋涿州大影到北京後之去向",從所帶錄音資料和照片中了解到,至今保定地區在農村中仍流傳着“老虎調"影,其唱腔及影人造型大致與北京西城派皮影相同)。(p.35)
*38 北京涿州大影係來自甘肅蘭州,經華亭、陜西、晉中,由晉南傳入娘子關,後與保定地區已流傳之“老虎調"影調融合在一起,在原有唱腔的基礎上,又吸收了陜西的碗碗腔、河北的合合腔等,就形成了今之涿州影曲調。今河北保定地區群藝館內收藏有“老虎調"唱腔錄音,它與北京之涿州大影有些腔調極相似,只是板式緩慢些。明正德年間戊辰三年(1508年)北京舉辦“百戲大會演",涿州大影隨進京參加演出,與早已流傳京城之“梆子佛"合二為一,即今日演唱的西城派涿州影。(p.151)
*39 今唱家稱弋陽腔,則出於江西,兩京、湖南、閩、廣用之。(p.114)
*40 至今上始設諸劇於玉熙宮。以習外戲。如弋陽、海鹽、崑山諸家俱有之。(p.798)
*41 京腔本以宜慶、萃慶、集慶爲上。自四川魏長生以秦腔入京師。色藝葢于宜慶、萃慶、集慶之上。于是京腔效之。京秦不分。(p.131)
*42 蜀伶新出琴腔,即甘肅調,名西秦腔。其器不用笙笛,以胡琴為主,月琴副之。工尺咿唔如話,旦色之無歌喉者,每借以藏拙焉。(p.46)
*43 時則有若宜慶、翠慶,崑、弋間以亂彈;言府言官,(京班半隸王府,謂之官腔,又曰高腔。)節奏異乎淫曼。無奈曲高和寡,六十年漸少知音。(p.54)
*44 北平尚存有琴腔。(13頁)
*45 又有影戲一種,以紙糊大方窗為戲台,劇人以皮片剪成,染以各色,以人舉之舞。所唱分數種,有灤州調、涿州調及弋腔,晝夜台內懸燈映影,以火彩幻術諸戲為美,故謂之影戲。今皆零落矣。(p.94)
*46 今樂部亦各有土調。如……甘肅則蘭州引。……蘭州引則京師影戯演之。(p.154)
*47 康睜睜2016参照。
*48 「貳、西秦腔、甘肅調及四川亂彈」(p.57)参照。
*49 來自河北保定的評劇演員蕭玉華曾經對筆者說,過去河北高陽一帶的高腔,如果從聲腔上來說,原來就分作「南高」與「北高」兩派。直到近代,這兩派高腔都還保持各自不同的特點。其中,南高為高陽高腔最古老而原始的的一派,唱腔非當高亢粗獷而且是專唱高腔,不與崑腔混在一起。北高的唱腔,則較為鈿緻優雅並且與崑曲同臺演出,在演出風格上更具有濃厚的崑曲韻味。這種高腔就是人們所謂崑弋班中的弋腔。清末以後,「南高」只有高陽縣還可以演唱,冀中其他地方幾乎全部唱北派高腔。(p.221)
*50 我以為,所謂「南高」即南方傳去的弋陽腔;所謂「北高」,即北方高腔,質際上就是京腔。(p.55)
*51 上谷為直隸省會,距京城三百三十里。日下歌樓淘汰簸揚,往往以餘波潤三輔。其間色藝稍可觀、有聲名者,又輒颺去,入長安。(p.277)
*52 这影戏源于兰州,清道光年间传入该村。先辈王建朝,领人驻过北京“西天和”后来本村艺人组成“义合班”。极盛时期为光、宣年间,活动于北京、保定一带,以“赶斋门”等从艺为生(p.49。龐彦強等2005、p.477にも転載される。なお「寺での上演活動」の原文「趕斎門」は、一般に仏寺で斎の施しを受けることを言うが、上演活動とそぐわないので、仮にこのように訳した)。
*53 宋朝仁宗時,市人有能談三國事者,或採其說,加緣飾作影人(p.495)
*54 千田大介2004。
*55 唱腔,有哭腔、抬腔两种。抬腔,全班人都跟着一起唱,有九腔十八调,唱完为止。其音乐旋律简单,近似和尚诵经。伴奏只有打击乐,没有丝弦乐器。打击乐器有大铙、大钹、碰钟、小双铃、云锣、小堂鼓、木鱼等。演出中掌钹者兼小双铃,大铙兼鼓。念不上韵,唱用本嗓,没有击节用的鼓板,由碰钟、小双铃引起。(p.62)
*56 北京影戲藝人演唱的“梆子佛"就近似佛曲,一人手敲木魚,演唱者聲音緩慢而悠長,如僧人誦經,後來皮影腔中,【大悲調】等的唱法,受此種唱腔之影響很深。(p.12)
*57 据北京皮影老艺人路跃峰先生生前说过:“在北京元朝前有一种叫`梆子佛'的大影戏,是由河南传入的。(p.19)
*58 一般福影由三至四人组成。一人操纵影人,余者掌乐器兼伴唱。(p.62)
*59 佟晶心1934、p.7。
*60 时间在道光年间,在发展的过程里忽然发生了两大派别:(一)西派,(二)东派。(p.1231)
*61 在以先只用木魚念經式的宣卷,到了雍正末年已改用笛子,腔調也離弋腔較遠,而合崑腔較近了。乃至乾隆末年,四弦琴又加入了,音樂漸漸複雜,韻調自然更覺動聽。直到咸豐初年,南絃子新軍突起,並且不久在那裡就作了主席……(p.1230)
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