『都市芸研』第十三輯/中国の国産アニメーションと影絵人形劇

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中国の国産アニメーションと影絵人形劇――1950年代を中心に

山下 一夫

1.はじめに

現在ではあまり見られなくなってしまったが、かつて中国の都市部では影絵人形劇の公営劇団による上演があちこちで行われていた。そこで上演されていたのは伝統的な影絵人形劇ではなく、人民共和国成立後にソ連の人形劇が導入されることで成立した、児童向けの「近代的」な演目であった。

筆者は前稿「中国の影絵人形劇の改革とオブラスツォーフ」において*1、1952年のオブラスツォーフ訪中がこの分野の成立の契機となったことを明らかにした。また別稿「黒竜江省の影絵人形劇 その系統と伝承」においては*2、1959年初演の演目『禿尾巴老李』について分析し、この作品が中国の新しい影絵人形劇成立のメルクマールとなったことを述べた。ただ両原稿ともに、人民共和国初期の段階で影絵人形劇とアニメーションが一体のジャンルとして展開した可能性に触れながらも、この問題について詳細に検討することができなかった。そこで本稿では、1950年代に中国の国産アニメーションと影絵人形劇がどのように展開し、分野として一体化していったかを検討し、あわせて両者の性質について考察を行ってみたいと思う。

2.ソ連風アニメと人形劇

前稿で検討したように、中国では人民共和国成立後すぐにソ連の人形劇とアニメーションが模倣対象として導入された。このうち人形劇は、そもそも中国にはソ連のような児童向けの人形劇という発想が無かったため、受け皿となった伝統的な影絵人形劇の芸人たちにとっては衝撃的な内容であったものと思われる。またその学習は、オブラスツォーフの全国巡回という方法が取られたため、現地の人形劇関係者は訪問時の短時間の上演のみから全体的な方向性を吸収し、それをもとに自分たちで新しい人形劇を考え出した。オブラスツォーフから「子ども向けの短時間の影絵人形劇」・「動物の掛け合いによるパントマイム」・「西洋風のバックグラウンドミュージック」といった要素を引き出し、それを既存の亀や鶴の影絵人形にあてはめた影絵人形劇『亀と鶴』は、まさにその典型であった。

一方のアニメーションは、当事者たちの間に「児童向けの分野」という認識が先行して存在していた。人民共和国初期に中国のアニメーション製作を担ったのは、満映を前身とする東北電影製片廠で日本人の持永只仁が育成に関わった人々だったが、かれらは日中戦争期にアメリカのディズニーアニメなども見ていたし、国共内戦期に解放区の長春でソ連の『灰色首の野がも』を手本にして、のちの児童向け国産アニメ第一号である『謝謝小花猫』(ありがとう小猫さん)の製作を始めていた*3。長春ではすでに作画に必要なセルなどもソ連から輸入されていたし*4、造形面・技術面・物資面のいずれの分野においてもソ連の影響を受けていたため、アニメーションが「ソ連風の児童向け作品」に進むことは、中華人民共和国成立の時点ですでに既定路線となっていた。この点において、アニメーションは人形劇よりも一歩「先に進んで」いたといえる。

東北電影製片廠は1950年に上海電影製片廠美術片組に改組され、長春時代から製作していた『謝謝小花猫』を完成させた。これは悪さをする鼠たちを猫が捕まえ、ニワトリの夫婦に感謝されるという内容の動物アニメである。監督としてクレジットされている方明は、持永只仁の中国名である(脚本は児童文学者の金近)。

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アニメ『謝謝小花猫』(上海電影製片廠美術片組)*5

上海電影製片廠美術片組は続けて1951年に『小鉄柱』(鉄柱ちゃん、監督:方明・特偉、脚本:靳夕)、1952年に『小猫釣魚』(小猫の魚釣り、監督:方明、脚本:金近)を製作した後、1953年に『採蘑菇』(きのこ狩り、監督:特偉、脚本:金近、技術指導:方明)を発表する。これは、二匹の小ウサギが採ったきのこをめぐって仲違いをするが、道に迷った一匹をもう一匹が助けたことで仲直りをするというもので、どちらかというと野暮ったい感じのデザインだった『謝謝小花猫』に比べると、ウサギのデザインが『灰色首の野がも』に非常によく似ており、この数年間でのソ連アニメの消化状況がうかがわれる。

この作品は、1959年に湖南省皮影木偶芸術劇院によって影絵人形劇の演目に移植された。前稿で検討したように、湖南省皮影木偶芸術劇院は1956年初の児童向け影絵人形劇『亀と鶴』を製作した劇団である。かれらは続けて同じパントマイム劇の『両朋友』と『貪心的猴弟弟』を1957年に製作した。『亀と鶴』が内容的にはオブラスツォーフの翻案であっても、人形自体は既存のものを利用したのに対し、『両朋友』と『貪心的猴弟弟』は作劇面だけでなく、人形も新しくデザインした「ソ連風」のものを使っている。こうした造形面の変化は、1950年代前半の国産アニメのスタイルが、数年遅れて「ソ連化」した影絵人形劇にも流れ込んだ結果だろう。

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影絵人形劇『両朋友』(湖南省皮影木偶芸術劇院)*6

そして両作を受けた『採蘑菇』では、さらに新しい方式が採用された。これについて、湖南省皮影木偶芸術劇院の李軍は以下のように述べている*7

1960年冬、かれら(注・当時の湖南省皮影木偶芸術劇院のスタッフたち)は、第二回全国木偶皮影戯会演で、新たに創作した童話劇『採蘑菇』と、「大躍進」の生活を反映させた『夜戦蓮花江』を上演した。前者は影絵人形寓言劇『亀と鶴』・『両朋友』・『貪心的猴弟弟』などのパントマイムの後、初めて動物にセリフを付けた影絵人形童話劇であり、新しい創造である*8

『採蘑菇』はパントマイム劇ではなく、「普通の」セリフ付きの演目として製作されたのである。造形面で国産アニメに近づいた『両朋友』と『貪心的猴弟弟』の後を受け、それならばいっそ国産アニメそのものを影絵人形劇にしようということになったのだろう。その結果、この作品はアニメーションの影絵人形劇化の第一号となった。

湖南省皮影木偶芸術劇院の『採蘑菇』は、アニメを単純に影絵人形劇に移植したわけではない。李軍はまた以下のように述べている*9

『採蘑菇』という演目は、もともと常才智が1959年に連環画をもとに改編したもので、すでに何年も上演されており、大変よい出来映えである*10

アニメーション作品そのものではなく連環画に基づいたのは、セリフも文字に起こされているし、映像も一枚絵として描き起こされているので、台本や人形を作る上で便利だったからだろう。またかれら自身、フィルムを手元に置いて何度も見返すというような環境に無かったことも推測される。それは一般の人々も同じで、当時アニメーションを享受できるのは北京や上海などの大都市に居住する一部の階層に限られており、普通はこうした連環画などで受容するほかはなかった。その点で『採蘑菇』の影絵人形劇化は、高価なフィルムに触れることのできない人々にとって「代替物」の役割を果たし得たのだろう。そしてそれは、人間の演劇=人戯の廉価版として機能するという、人形劇=偶戯の持つ一般的な特質とも重なる問題である。

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影絵人形劇『採蘑菇』(湖南省皮影木偶芸術劇院)*11

なお、ここで改編者として名の挙がっている常才智は、1966年に上海電影学校美術片編導系を卒業後、しばらく上海電影製片廠美術片組で働き、後に湖南省皮影木偶芸術劇院に移ってきた人物である。上海電影製片廠美術片組には他にも、著名な人形劇作家で後に上海木偶皮影劇団の団長となる虞哲光も発足時から参加しているが、こうした人事はアニメーションと人形劇を近似した分野と見做す党の文化政策が背景にあると考えてよいだろう。そしてそれが結果的にこうしたアニメ原作の影絵人形劇を成立させる原因ともなったのである。

影絵人形劇『採蘑菇』は、中央で開催された第二回全国木偶皮影戯会演で上演され、北京をはじめ各地の公営影絵人形劇団で共有されていっただけでなく、同様にアニメ原作の影絵人形劇が製作される契機となった。魏力群は以下のように述べている*12

湖北省広徳の影絵人形劇は、1963年に浙江省海寧の影絵人形劇団から童話劇の『亀と鶴』、『小花猫釣魚』、『双鶏闘』、『採蘑菇』、さらに現代劇『半夜鶏叫』などを学習した*13

ここから、湖南省皮影木偶芸術劇院の演目である『亀と鶴』と『採蘑菇』が、ほかの劇団で作られた『双鶏闘』、『半夜鶏叫』などとともに、浙江省海寧の劇団を経由して湖北省広徳の劇団でも行われたことが解るが、この中にもう一つ、『小花猫釣魚』という演目がある。浙江省海寧の劇団というのは海寧県劇団を指すが、その後身である中国浙江海寧皮影芸術団では現在でもこの『小花猫釣魚』を常演演目としている。これは1951年の国産アニメ『小猫釣魚』を影絵人形劇化したものである。タイトルを「小花猫」としたのは、同じく持永只仁監督・金近脚本で作られた1950年の『謝謝小花猫』の影響だろう。この演目は他の有力な公営劇団の初期の資料に現れないため、恐らく1963年以前に海寧県で作られたものと思われる。

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影絵人形劇『小花猫釣魚』(中国浙江海寧皮影芸術団)*14

3.民族路線

ここでアニメーションに話を戻そう。上海電影製片廠美術片組の国産アニメは、先に述べたように年を追うごとにソ連風のデザインに近づいていったが、1955年の初の国産カラーアニメ『烏鴉為什麼是黒的』(カラスはなぜ黒いのか、監督:銭家駿・李克弱、脚本:一凡)に至って、さすがに「ソ連に傾斜しすぎている」という批判が起こった。

そうした意見が提出されたのは幾つかの理由がある。最も大きかったのは、『烏鴉為什麼是黒的』がほぼ完全にソ連の『灰色首の野がも』のコピーだったことである。これは、上海電影製片廠美術片組を支えた持永只仁が1953年に帰国したことも関わっている。二人の監督のうち、銭家駿は民国期に蘇州で独自に抗日アニメなどを作成し、また李克弱は延安で美術工作を行っていた人物であるが、いずれも持永只仁の後を埋めるのには明らかに力不足であった。また1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって中ソ関係が次第にぎくしゃくし出したことも、こうした批判の背景を成しているものと思われる。

こうした状況のもと、上海電影製片廠美術片組は以後「中国の民族色」を重視するという方針を打ち出した。これには、1941年に上海で中国初の国産長編アニメ『鉄扇公主』(西遊記鉄扇公主の巻)を製作し、中華人民共和国成立後国外にいた万氏兄弟のうち、1954年に万籟鳴、1956年に万古蟾が相次いで帰国し、いずれも上海電影製片廠美術片組に配属されたことで、持永只仁の後を埋める作品作りが可能になったことも関わっている。また、『烏鴉為什麼是黒的』は確かにソ連の作品のコピーであったが、それは逆に作画スタッフはそうした作品を作ることができるまでに技術的に成長しており、以後は独自色を出せる段階まで来たことも意味している。

そして1956年、上海電影製片廠美術片組は『驕傲的将軍』(傲慢な将軍、監督:特偉、脚本:華君武)を発表した。これは、封建時代の中国を舞台に、自らの武芸を鼻に掛けた将軍が、訓練を怠って豪奢な生活を送った結果、敵国に攻め入れられて身を滅ぼすという内容である。キャラクターの造型に伝統演劇の臉譜を応用しており、前作までの「バタ臭さ」を払拭し、中国の民族色を前面に打ち出した作品となった。この「民族路線」は成功し、好評をもって迎えられた。

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アニメ『驕傲的将軍』(上海電影製片廠美術片組)*15

1957年、上海電影製片廠美術片組は上海美術電影製片廠に改組されたが、民族路線は継承され、1958年に万古蟾が『猪八戒吃西瓜』(八戒がスイカを食う、監督:万古蟾、脚本:包蕾)を製作した。天竺へ向かう旅の途中、三蔵法師から食べ物を探すように言われた猪八戒が、見つけたスイカを独り占めにし、それを見た孫悟空にからかわれるという内容である。「民族路線」という点では、中国の古典である『西遊記』を題材にすることで『驕傲的將軍』よりもさらに進んでいると同時に、中国の伝統的な影絵人形を用いたストップモーションアニメという、手法的にも新たなジャンルに挑戦している。影絵人形劇をアニメーションのスクリーンに移した本作は、影絵人形劇という分野を世間に知らしめたということもあり、その後いくつかの劇団によって本来の影絵人形劇に「復元」され、上演が行われている*16

1958年には、もう一つやはりストップモーションアニメの手法による木偶人形アニメ『火焰山』(監督:靳夕、技術指導:万超塵)が製作された。万超塵も万氏兄弟の一人だが、万籟鳴や万古蟾と違って中華人民共和国成立後も国内にとどまり、上海電影製片廠美術片組にも最初期からメンバーとして参加していた人物である。『火焰山』も『猪八戒吃西瓜』と同じく『西遊記』に題材を採っており、やはり民族路線の上にあるものと言えるが、この作品は火焰山の炎を消すために孫悟空が鉄扇公主から芭蕉扇を借りるという、万氏兄弟が1941年に発表したアニメ『鉄扇公主』と同じエピソードになっている。その意味では民国期の作品の再生産ということになるが、その間には京劇や影絵人形劇の改革が挟まっており、単純な「焼き直し」とはなっていない。

アニメ『猪八戒吃西瓜』(上海美術電影製片廠)*17

京劇で『火焰山』に相当する演目としては、もともと崑曲に由来する『芭蕉扇』(『借扇』)が行われていたが、中華人民共和国成立後に「階級闘争」の視点から改編され、名称も『孫悟空三借芭蕉扇』に改められていた。そしてその影響下に湖南省皮影木偶芸術劇院が影絵人形劇『火焰山』という演目を作成し、1955年4月に北京で開催された「第一届木偶戯皮影戯観摩演出会」で上演を行っている*18。これもやはりすぐに各地の公営劇団で共有されており、同年に開催された「黒竜江省音楽舞蹈観摩会」で黒竜江省民間芸術劇院が影絵人形劇『火焰山』を出品しているし*19、また1957年には河北省唐山の唐山専区実験皮影社の演目リストにも「整理(移植)」の項目に『火焰山』の名前が見える*20

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影絵人形劇『火焰山』(湖南省皮影木偶芸術劇院)*21

木偶人形アニメは人形劇とアニメーションの中間的メディアと言え、影絵人形劇とも親和性があることを考えると、靳夕と万超塵がタイトルを『鉄扇公主』とせず『火焰山』としたのも、1958年の段階ですでに全国の劇団で共有されていた影絵人形劇の演目が念頭にあるものと考えてよいだろう。いわばこれは、前章で述べた「国産アニメの影絵人形劇化」とは反対の、「影絵人形劇の国産アニメ化」である。

1950年代後半は先にも述べたように、影絵人形劇では『亀と鶴』以降オブラスツォーフの理念が深化していった時期でもあった。そうして中国の伝統芸能の影絵人形劇が「ソ連化」する一方、外国に由来するアニメーションは対照的に民族路線に邁進し、その中で「ソ連化」以前に影絵人形劇が作った伝統的物語の改編演目を参照していったということになる。

4.大鬧天宮

1961年に、上海美術電影製片廠は中国の国産アニメの最高傑作と言われる『大鬧天宮』(大あばれ孫悟空、監督:万籟鳴、脚本:万籟鳴・李克弱、演奏:上影楽団・上海京劇院楽隊)を製作した。『猪八戒吃西瓜』や『火焰山』同様、『西遊記』に題材を採っており、その点ではやはり民族路線の上にあるものと言えるが、一方で万氏兄弟は『鉄扇公主』公開直後から本作の構想を練っており、実際いったんは新華影業公司の張善琨と製作に合意しながら頓挫した経験を持っていて、実に20年を経てようやく完成したことになる。

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アニメ『大鬧天宮』(上海美術電影製片廠)*22

しかしその20年の間に、『西遊記』の孫悟空が天界に反旗を翻す大鬧天宮の物語をめぐる環境は大きく変わっていた。人民共和国成立後、この話は「階級闘争を表現した寓話」だとする解釈が広まっていたのである。最初にこの説を唱えたのは、作家・児童文学者の張天翼であった。かれは1954年に発表した「『西遊記』札記」で以下のように説いている*23

天竺にお経を取りに行く物語で描かれているのは以下のような話だ。一方は神。神は支配者で、天界から地獄まで皆がその命令を聞かなければならない。もう一方は魔。支配勢力の下でもがき、起ち上がり、反乱を起こす。天の軍勢が鎮圧に来るが、魔のリーダーたちは反抗し、戦う。これは封建社会における統治階級と人民――主に農民――の間の矛盾と闘争を容易に連想させる。…(略)…孫悟空が玉帝たちに負けたのは、孫悟空が何か「悪」をした報いなのだろうか。全く違う。作者の描く孫悟空は、現実的で具体的な「人」なのだ(決して悪魔の化身などという抽象的な概念ではない)。だから我々はかれの性格、考え、感情、欲求、活動が理解できるのだし、かれを「悪」とは感じないばかりか、愛おしく思い、同情し、好意を持つのだ。かれの失敗は、「悪」は「善」に敵わないなどというわけではなく、様々な原因のために力が足りなかっただけのことなのだ*24

張天翼は「天竺にお経を取りに行く物語」と言っているが、内容的に見て『西遊記』全体ではなく、明らかに『大鬧天宮』の部分を指している。この「孫悟空階級闘争説」は、毛沢東による全面的な支持を受けた。毛沢東旧蔵書の中で、『人民文学』の張天翼のこの論文の部分に圏点が書き込まれていることはよく知られている。

中国共産党中央の指示によって、この部分を演じる京劇の演目は「より階級闘争に相応しい」ように大きく書き換えられた。脚本執筆を担当した翁偶虹は以下のように述べている*25

私が芝居の台本を書いてきた人生の中で、『大いに天宮をさわがす』は修正回数が比較的多い作品だ。1951年に李少春と一緒に最初の改編を行った後、海外公演で賞賛された。1956年、周総理の指示を徹底させ、増補して『大鬧天宮』とし、新たな姿で国内外で上演した。…(略)…馬少波から電報が届き、周恩来総理が紫光閣で我々に接見し、『大鬧天宮』の改編のことをまた相談したいと言ってきた。総理の指示は以下のようなものだった。改編にあたっては、以下三つの方面に注意するように。一つ、孫悟空を徹底的に反抗的に描くこと。二つ、天宮の玉帝の陰謀を描くこと。三つ、孫悟空の素朴な才能が文筆を弄ぶ天喜星君に勝つのを描くこと。私は総理の指示に基づき、全体をもう一度調整して五幕分を増やした*26

大鬧天宮の物語は、京劇ではもともと『安天会』という名前の演目だったが、1951年に『鬧天宮』に変更され、さらに1956年の改作の際に『大鬧天宮』に改められた。上記資料から、この時の「周総理の指示」は明らかに張天翼の説に基づいて行われたことが解る。

なお影絵人形劇は、1955年に北京で開催された「第一届木偶戯皮影戯観摩演出会」に、哈爾浜の黒竜江省皮影木偶芸術劇院が『鬧天宮』という演目を出品している*27。これは製作時期やタイトルから考えて、1951年版の京劇『鬧天宮』を参考に作られたものと思われる。この演目もやはり各地の公営劇団で共有され、現在でも河北省唐山*28や雲南省騰衝[29]などの劇団で行われていることが確認できるが、上演タイトルは『大鬧天宮』に改められている。

国産アニメ『大鬧天宮』は音楽を上海京劇団楽隊が担当しているほか、造型面でも京劇の影響が容易に見て取れる作品となっているが、そこで参照されたのは上記資料で言及されている「毛主席公認の1956年版京劇」であろう。ただ、国産アニメ『大鬧天宮』の持つ「児童向け」の要素は、張天翼の説や京劇版だけからは導き出すことができない。この点については、1950年代後半に影絵人形劇に「児童向け」という性質が付与されたことから考えても、また同じく『西遊記』を題材とし、万氏兄弟が製作に関わった『猪八戒吃西瓜』や『火焰山』と影絵人形劇の関係を考えても、影絵人形劇版『大鬧天宮』が念頭にあったと考えるのが自然であろう。

5.おわりに

中国の国産アニメは、他の多くの分野と同様、1966年から始まった文化大革命で大きな打撃を受けた。上海美術電影製片廠の廠長だった特偉は隔離され、上海電影製片廠美術片組以来の作品はすべて批判された。しかし文革終了後の1978年には活動を再開し、多くの作品を次々と発表していった。特に1979年のアニメ『哪吒鬧海』(ナーヂァ海を騒がす*29、監督:王樹枕・厳定憲・徐景達、脚本:王往)は、日本からも持永只仁がスタッフとして参加し、国産アニメの復活を内外に宣言した作品となった。

アニメ『哪吒鬧海』は古典小説『封神演義』に題材を取っており、やはり1950年代後半からの民族路線の上にある作品である。『封神演義』は神仙説話の集大成としての性質を持ち、人民共和国成立後は「迷信的」と批判されたが、小説の第十二回から第十四回に相当する哪吒の物語だけは「階級闘争を反映している」と見做され、「哪吒鬧海」の名で「神話劇」に改変されて影絵人形劇を中心に上演されていた*30。こうした経緯を考えると、アニメ『哪吒鬧海』も『大鬧天宮』と同じく、影絵人形劇を参照して製作されたことが推測される。

面白いのは、このアニメは文化大革命後復興した伝統演劇にも「逆輸入」されていることである。『哪吒鬧海』は、伝統演劇の中では裴艶玲主演の河北梆子の演目が最も有名だが、これについては以下のような逸話がある*31

1980年秋のある日、裴艶玲はカラーアニメ『哪吒鬧海』をテレビで見てインスピレーションを得た。哪吒のイメージは、彼女が得意とする子どもの役柄を中心とする芝居にぴったりだったのだ。彼女はこのテーマを演劇に改編すれば必ず成功を収めると確信した。翌日、彼女は劇作家の肖芳のもとをたずねて相談し、台本を書いてもらうことを決めた。1982年、『哪吒鬧海』を上演し、都市や農村の観客、特に青少年の観客に歓迎された。『哪吒鬧海』はさらに北京電影製片廠によって戯曲映画として製作され、全国で上映された*32

1947年生まれで戦後世代に属する裴艶玲は、以前から京劇の演目の導入などを行って河北梆子の改革を進めており、国産アニメからのインスピレーションというのも、そうした彼女の個性があって初めて可能となったものではあろう。しかしこうした、人民共和国成立後に影絵人形劇で再構成され、民族路線を掲げる国産アニメに導入された物語を、文化大革命後再建の途上にあった伝統演劇が参照するという事態は、1950年代以来異なる方向を示してきた影絵人形劇・アニメーション・伝統演劇が、ここに至って相互参照関係を作り出したことを意味している。

しかし、『哪吒鬧海』で垣間見えたこの三者の新しい関係は、その後さらに発展することは無かった。1990年代の改革開放政策の進展によって、この三つの分野は再び別の道を歩むことになったからである。

まずアニメーションについては、1980年代以降日本アニメが大量に流入したことで状況が大きく変化した。日本アニメはソ連児童文化の発想とは異なる娯楽性を持っていたが、これが経済発展を享受する中国の観衆に歓迎され、『謝謝小花猫』から『哪吒鬧海』に至る国産アニメは顧みられなくなってしまった。なお2000年代に入ると中国アニメは日本アニメを「学習対象」とし、日本の製作会社の下請けなどを経て技術を身につけた後、現在では日本アニメとの差別化を行うため民族路線を打ち出しているが、これは1956年に上海電影製片廠美術片組がソ連の影響から脱却するため打ち出した方針の反復であるといえる。

また影絵人形劇も、ソ連風の演目が顧みられなくなったという点ではアニメーションと同じだが、テレビの普及によってそもそもジャンルとして存立できない状況に追い込まれたため、生き残りのために民族路線を打ち出さざるを得なくなった。しかしアニメのように新作を作るのではなく、時計の針を民国期に戻し、政府の非物質文化遺産政策に乗っかって「影絵人形劇は中国の伝統文化」と主張する「文化遺産」言説に突き進んだ。そうした中で、農村の業余劇団などが伝承してきた伝統演目がにわかにクローズアップされたが、中途半端に「近代化」してしまった一方の都市部の公営劇団は、1950年代以来の新編演目をそうした言説の中に挟み込むことでなんとか生存を図っているというのが現状であろう。

アニメーションも影絵人形劇も、現在はどちらも民族路線を強調しているという点では共通しているものの、その目指す方向性は全く異なっているため、ジャンルとしては完全に分離してしまった感がある。しかし両者はかつて、同じくソ連の影響下に成立し、相補関係を持ちながら展開していったことは、記憶されてしかるべきであろう。


*1 山下一夫「中国の影絵人形劇の改革とオブラスツォーフ」、『中国都市芸能研究』第十二輯、東京:好文出版、2014年、5頁-22頁。
*2 山下一夫「黒竜江省の影絵人形劇 その系統と伝承」、氷上正ほか編著『近現代中国の芸能と社会 皮影戯・京劇・説唱』、東京:好文出版、2013年、155頁-177頁。
*3 アニメーション作品の邦題は以下いずれも小野耕世『中国のアニメーション 中国美術電影発展史』(平凡社、1987年)の記述に従う。
*4 『中国のアニメーション 中国美術電影発展史』、73頁。
*5 持永只仁『アニメーション日中交流記 持永只仁自伝』(東方書店、2006年)、223頁。
*6 『皮影生涯三十年』(著者自印、1999年)、6頁。
*7 前出『皮影生涯三十年』、183頁。
*8 1960年冬天,他们在第二届全国木偶皮影戏会演时演出了新创的童话剧《采蘑菇》和反应“大跃进”生活的现代戏《夜战莲花江》。前者是继皮影寓言剧《龟与鹤》、《两朋友》和《贪心的猴弟弟》等一批优秀的哑剧之后,第一次用动物说话来表现的皮影童话剧,是又一次新的创造。
*9 『皮影生涯三十年』、15頁。
*10 《采蘑菇》这个戏,原是常才智1959年根据连环画改编的,已经上演了好几年,效果不错。
*11 『皮影生涯三十年』、1頁。
*12 魏力群『中国皮影芸術史』(北京:文物出版社、2007年)、429頁。
*13 湖北广德的皮影戏于1963年,从浙江省海宁皮影剧团学习了童话剧《龟与鹤》、《小花猫钓鱼》、《双鸡斗》、《采蘑菇》和现代戏《半夜鸡叫》等。
*14 中国浙江海寧皮影芸術団公式ウェブサイト(http://hnpyx.com/Repertoire.asp?Smenu=%BE%E7%C4%BF%BD%E9%C9%DC)。2015年1月2日閲覧。
*15 許婧・汪煬『読動画――中国動画黄金80年』(北京:朝華出版社、2005年)、23頁。
*16 一例として四川閬中皮影の王文坤の劇団が挙げられる。周睿「移影·制物·造境:四川皮影民俗文化的創意設計」、『中華文化論壇』2013年第08期、成都:四川省社会科学院、100頁-107頁。
*17 宮承波主編『動画概論』(北京:中国広播出版社、2007年)、99頁。
*18 江玉祥『中国影戯』(成都:四川人民出版社、1992年)、168頁。
*19 「黒竜江省の影絵人形劇 その系統と伝承」、166頁。
*20 戸部健・山下一夫「檔案資料から見た1950年代中国の影絵人形劇」(氷上正ほか編著『近現代中国の芸能と社会 皮影戯・京劇・説唱』、好文出版、2013年、125頁-154頁)、145頁。
*21 『皮影生涯三十年』、2頁。
*22 『読動画――中国動画黄金80年』、55頁。
*23 初出は『人民文学』1954年2月号『西遊記研究論文集』(北京:作家出版社、1957年)所収本に拠った。
*24 这取经故事里所写的:一边是神,神是髙高在上的统治者,上自天界,下至地府,无不要俯首听命。一边是魔―偏偏要从那压在头上的统治势力下挣扎出来,直立起来,甚至于要造反。天兵天将们要去收伏,魔头们要反抗,就恶斗起来了。这就使我们联想到封建社会的统治阶级与人民―主要是农民―之间的矛盾和斗争。…(略)…孙悟空之所以败于玉帝他们之手,难道是由于孙悟空作了什么‘恶’而得报应么?我们说一点也不是。作者笔底下的孙悟空,是一个现实性的具体的‘人’(并不是一个抽象的概念的恶魔化身),使我们了解他的性格,思想,感情,欲求,活动;我们不但不觉得他这是‘恶’,而且还觉得他可爱,同情他,心向着他。他的失败,更不是什么‘恶’不敌‘善’,只是由于种种原因,力量不敌而已。
*25 翁偶虹『翁偶虹編劇生涯』(中国戯劇出版社、1986年)所収「三番修改『鬧天宮』」。
*26 在我编剧的经历中,《大闹天宫》是修改次数较多的一本。一九五一年,第一次我与少春合改后,已在国际演出中受到嘉许。一九五六年,贯彻周总理指示,扩编为《大闹天宫》,又以新的姿态演出于国内外。…(略)…少波电告,周总理在紫光阁接见我们,仍然是谈改编《大闹天宫》的问题。总理指示:改编本要注意三个方面,一、写出孙悟空的彻底反抗性;二、写出天宫玉帝的阴谋;三、写出孙悟空以朴素的才华斗败了舞文弄墨的天喜星君。我根据总理的指示,又把提纲重新调整,增写了五场戏。
*27 『中国影戯』、168頁。
*28 「市皮影団赴澳門参加第十八届澳門芸術節」、段海清・劉俊増主編『唐山年鑑2008』(河北人民出版社、2008年)、325頁。
*29 この邦題は他の作品と同じく『中国のアニメーション 中国美術電影発展史』に従ったが、ほかに東光徳間による映画公開時は「ナーザの大暴れ」、VHSビデオ1983年版では「ナージャと竜王」、VHSビデオ1988年版では「ナーザが海を騒がす」となっている。
*30 『皮影生涯三十年』8頁で、1965年にブカレストで開かれる第三回国際人形劇フェスティバル参加のため湖南省皮影木偶芸術劇院が準備した「既存の演目」の中にこの『哪吒鬧海』が挙がっており、また北京や河北省唐山などの公営劇団でも共有されていることを考えると、1950年代には行われていた演目だと思われるが、いつ、どの劇団によって初演が行われたのか詳細は不明で、今後の課題としたい。
*31 「裴艶玲:曹禺眼裏的“国宝”」新華網河北頻道2009-09-02 09:26:46(http://www.he.xinhuanet.com/news/2009-09/02/content_17573866.htm)、2015年1月2日閲覧。
*32 1980年秋的一天,裴艳玲从电视上看到彩色动画片《哪吒闹海》,顿生灵感,哪吒的形象和她擅长娃娃生的戏路太吻合了。她深信将这个题材改编成舞台剧,定能取得成功。第二天,她就找到剧作家肖芳商量,决定编写剧本。1982年,《哪吒闹海》排成公演,受到城乡观众、特别是青少年观众的欢迎。《哪吒闹海》还被北京电影制片厂拍摄成戏曲电影,在全国放映。