『都市芸研』第十七輯/常熟宣巻調査報告

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常熟宣巻調査報告――虞山鎮の一講経先生に即して

佐藤 仁史・陳 明 華・張 笑 川

1、調査の経緯

本稿は、筆者が近年に江蘇省常熟市で開始した宣巻に関する現地共同調査の一端を報告するものである。佐藤が参加してきた太湖流域社会に関する調査班は、2004年度~2006年度科学研究費基盤研究B「清末民国期、江南デルタ市鎮社会の構造的変動と地方文献に関する基礎的研究」、2008年度~2011年度科学研究費基盤研究B「解放前後、太湖流域農漁村の「郷土社会」とフィールドワーク」(以上、研究代表者・太田出)の一環として、宣巻芸人のライフヒストリーや活動状況に関する調査を呉江を中心として進めてきた*1。その成果の一部として、佐藤仁史・太田出・稲田清一・呉滔編『中国農村の信仰と生活――太湖流域社会史口述記録集』(汲古書院、2008年)、佐藤仁史・太田出・藤野真子・緒方賢一・朱火生編『中国農村の民間藝能――太湖流域社会史口述記録集2』(汲古書院、2011年)を刊行した*2。そして、後者の出版を目処として呉江における宣巻芸人に対する調査は一旦終止符が打たれた。

その後も佐藤は、宣巻芸人との交流や単発的なインタビューは継続していたものの*3、浙江山間部でのフィールドワークに調査の重点が移っていたため、時間上の制約などもあり2011年までの調査への補充を行っている状態が続いていた。このような状況を大きく変える契機となったのがある宣巻芸人との偶然の出会いである。

佐藤は2015年11月に蘇州科技学院(現蘇州科技大学)における会議に参加すべく、蘇州を訪れた。当該大学は蘇州郊外の景勝地として著名な上方山麓の石湖湖畔に位置している。11月16日、人文学院の黄阿明副教授の案内により湖畔を歩き、姑蘇台*4という建物を参観していた時のことである。聞き慣れた宣巻とおぼしき節回しが姑蘇台内の一角から聞こえてきたので、もしやと思い音のする方向に進んでいくと、果たしてそこでは2人の老女が念仏のようなものを唱えていた。ところで、佐藤が呉江でみた宣巻は「絲弦宣巻」と呼ばれる、芸能化が著しく進展した形態をとっており、一般に「上手」と「下手」と言われる歌い手2人に、二胡と揚琴奏者を従えた4人~5人編成となっている。かような状況は呉江以外でも、隣接する嘉善における実態を紹介した車錫倫による調査報告や*5、筆者が上海市青浦区金沢鎮付近で目撃した宣巻でも同様の形態をとっていたから、少なくとも改革開放政策以降に復興した呉江一帯の共通点とみてもよかろう*6。これに対して、姑蘇台で上演されていたのは、絲弦宣巻へと発展する前の形態である木魚宣巻であり、この形態が常熟一帯では依然として上演されていることを小耳にはさんでいたものの、実際に目撃したことで、この形態での宣巻が行われる地域の民俗の実態や地域社会構造に対する具体的な角度からの関心が芽生えることになった。このことが常熟における調査の発端である*7。宣巻が一段落ついた際に聞いてみると、常熟虞山鎮謝橋管理区からやってきた宣巻芸人と太倉市城廂鎮からやってきた霊媒(現地では「仏娘」「師娘」などと称される)であった。そのうち、宣巻芸人の陳麗文女史からは、当日持参していた『財神宝巻』『聖科』『総管宝巻』『太仙宝巻』という4種の宝巻を撮影させていただき、後日のインタビューを快諾していただいた。

写真1 上方山伽藍塔院(2017年12月2日、佐藤仁史撮影)
写真2 上方山での宣巻風景(2017年12月2日、佐藤仁史撮影)

その後、研究分担者として参加している2014年~2018年度科学研究費基盤B「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会――台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」の一環として、佐藤は陳明華と張笑川の二氏の協力を得て、2016年3月以降、木魚宣巻が行われている常熟やその周辺地域である張家港や太倉、蘇州市呉中区などにおいて宣巻芸人のインタビュー調査、所蔵宝巻の調査・撮影、上演の参観、宣巻活動を組織した霊媒や進香組織に対するインタビュー調査などを進めてきている*8。そのうち本稿では、常熟の一芸人の活動に焦点をあて、その略歴と具体的な上演場面、所蔵宝巻の概要について概説するものである。

調査日時調査地点調査内容調査者
表1 宣巻調査
第1回2015年11月16日蘇州市上方山姑蘇台上演参観、宝巻撮影佐藤仁史、黄阿明(蘇州科技学院)
第2回2016年3月18日常熟市虞山鎮謝橋管理区永紅村陳家橋袁巷廟(常福禅寺)インタビュー佐藤仁史、陳明華、張笑川、孟凱麗(蘇州科技学院大学院生)
第3回2016年10月3日同上上演参観、宝巻撮影陳明華、張笑川、朱小屏(蘇州科技大学)、楊夢橋(蘇州科技大学学生)
第4回2017年11月25日蘇州市上方山楞伽塔院上演参観、インタビュー佐藤仁史、張笑川
第5回2017年12月2日常熟市福山鎮衛国公褚太尉廟上演参観、宝巻撮影佐藤仁史、張笑川、董聖蘭(南京大学大学院生)
第6回2018年8月24日張家港市妙橋鎮金村インタビュー、宝巻撮影佐藤仁史、張笑川、陳明華、張嘯(蘇州科技大学大学院生)

2、ある宣巻芸人の略歴――陳麗文女史

陳麗文女史の経歴と活動の概況を理解するために、2016年3月18日に常熟市虞山鎮謝橋管理区*9永紅村陳家橋袁巷廟に赴き、初歩的なインタビュー調査を実施した。陳麗文女史は謝橋公社東方紅大隊の出身であり、永紅村陳家橋袁巷廟は宣巻芸人としての活動の本拠地としている廟である。以下は、インタビュー記録から略歴をまとめたものである*10

図1  常熟関連地図

常熟における宣巻芸人は「宣巻先生」或いは「講経先生」などと称され、謝橋永紅村では一般的に講経先生という呼称が用いられるという。陳麗文女史に対しても例外ではない。陳女史は1956年に謝橋公社東方紅大隊において出生した。数え年(以下同)で9才の時に小学校に通い始めたものの、5年生の時に中途退学を余儀なくされた。14才より工場において働き始め、18才で生産大隊が経営するセメント用紙袋工場での生産に従事した。21才で人民公社が経営する合糸子工場に転職した。34才の時まで勤務し、工場が破産してしまったため離職を余儀なくされた。その後、自宅において紡績関係の仕事(做横机)を行っていた時期もあったが、縁あって宣講先生となった。

当時、陳女史の夫の両親は体調が良くなく、年中病気に見舞われていた。近隣の人々は彼女があまりにも困っていると感じたため、陳女史に神明を詣でて焼香することを勧めた。ある日、陳女史が王市鎮北塘に東岳大帝廟を参拝した際、突然東岳大帝に「憑依」されて(したがって、彼女は「仏娘」でもある。現地の方言では「寄娘」とも呼称される)「見染められ」、講経をせよとの神命が下ったという。爾来、陳女史は何人かの師匠より学んだ。そのうちの一人が現地では名の知られた講経先生である唐永年という梅里人であり、彼は常熟水利局副局長を務めたことがあった。徒弟制度の伝統的な方式ではまず赤い絨毯を敷いてその上で弟子がひざまずいて深々とお辞儀をする(磕頭)ことになっていたが、陳女史が師匠についた時にはそこまで形式に拘泥することはなかった。師匠の側では、宝巻、経板、磬、木魚など上演に必須の道具を弟子のためにあらかじめ準備していた。弟子は師匠が宣巻をしているときに傍らにあって学習した。修業期間が終わると、陳女史は師匠とともに宣巻をし、学びながら上演した。

1993年以降、陳女史は独立して活動するようになった。当時は専ら太倉において宣巻を行っていたが、近年では活動の重心を虞山鎮永紅村陳家橋に移すようになった。なぜならば、太倉においては講経先生が多く活動するようになり競争が激しくなったこと、また自分の年齢が高くなったため、体力面でも現地に出かけていくことが負担になったからだという。

現在、陳麗文女史は1年に200回(「場」)の宣巻を行い、1回は8-9時間に及ぶ。一般的に言って、1回は2人の講経先生の協力によって上演される。商売が多い時には3人の講経先生が必要となり、それ以外に2人の助手(附工)の手も必要となる。2016年10月3日の講経においては、いくつかの部分については他の2人の講経先生によって担われた。1人は附近の金星大隊の銭姓の者であり、もう1人は福山公社建設大隊も袁姓の者である*11。陳家橋村付近における講経先生は陳麗文のみであるが、周辺の謝橋管理区一帯における講経先生の人数はかなりに上るという。このような事実からも常熟における民俗文化復興の広がりを推測することが可能であろう。

3、常熟謝橋陳家橋袁巷廟宣巻調査――金公大人生日の場合

第3回調査では、陳麗文女史の本拠地である陳家橋袁巷廟において2016年10月3日に開催された金公大人生日に関する宣巻活動を参観した。以下ではその際の宣巻儀式の概要を紹介する。筆者による共同調査では事例の蓄積が絶対的に不足しているため、儀礼の詳細については今後の現地調査での情報の蓄積に期したい。なお、常熟宣巻の儀礼に関しては、丘慧瑩氏による先行研究に詳しいので併せて参照されたい*12

(1)宣巻の上演背景と場所

上演場所は、常熟市虞山鎮謝橋管理区永紅行政村陳家橋村の袁巷廟(「常福禅寺」とも称せられている)である。この廟は県道4号線と福陳路と交差点付近に位置する。農歴九月初三の金公大人生日に際して廟会が挙行され、その一部として宣巻が行われた。廟内においては同時に、別の部屋において九月十九観音菩薩生日の宣巻が行われていた。

写真3 袁巷廟外観(左。右は常福禅寺)(2016年10月3日、陳明華撮影)

(2)宣巻が行われる空間と供物

宣巻は廟の正庁で行われた。図2のごとく、正庁は柱を基点として5つの部分に区切られており、北壁の部分は外側をガラスで囲い、内部に神像を安置してあった。正面中央は金公大人の神像があり、その前には案台が置かれ、その上にバナナやリンゴなどの果物、包子、餃子、花生、酒などの食品や飲料品、及び筒に入れられた筆や扇子などが多く積み上げられていた。村民は金公大人を大隊書記に比定しているため、書写のために毛筆を供する必要があるのである。案台の左右にはそれぞれ花や桶状の爆竹が供されていた。東側には白色の木馬が1つ、西側には褐色の木馬が1つ置かれていた。案台にはさらに南の方向に3つの卓が連続して置かれていた。最も北側にある卓(中一卓)には南から北に向かって、大杯清水3杯、小杯17杯,精進料理1皿、プラスチック製の花3輪が置かれていた。中間の二卓(中二卓と中三卓)には3組(大型のもの2基と小型のもの1基)の蠟燭が置かれ、南北の方向に並んでいた。3組の蠟燭の真ん中には香炉3つが置かれた。また、くじを入れた竹筒1つとポエ1組があった。中四卓はもっぱら講経先生の使用に供された。卓上には木魚、引磬、醒木などの伴奏器具と宝巻、未使用の蠟燭、黄色の紙、念珠などが置かれた。これらの卓の両側には「和仏人」(唱和者)が座った。宣巻儀式の過程において和仏人の数は固定不変ではない。常に人の入れ替わりがあり、6人から10数人までの差があった。「和仏人」はみな老年の女性であった。

写真4 袁巷廟正庁(神堂)(2016年10月3日、陳明華撮影)

右側の2間は東岳大帝(現地では「皇帝太太」とも称される*13)、雷公、雷母(現地では「閃電娘娘」とも称される)、銭糧監管(総管のことか?)の神像が供され、神像前の卓には供え物と蠟燭が置かれた。東一の神像は閃電娘娘であり,神像には案台はなく、卓(東1卓)が1つあるのみであった。その上には、マントウ(饅頭)やリンゴ等の供物があり、1組の蠟燭が点されていた。東二の神像は東岳大帝(現地では「皇帝」とも称される)であり、神像の前には案台があって、そこには筆架と毛筆2本が置かれていた。村民によれば、東岳大帝は生死を判断する権限を有しているから、判断を記すための毛筆を供する必要があるのだという。東二卓には清茶が大杯に3杯と小杯に2杯が供され、そしてバナナや葡萄、リンゴ、瓜子、糖、包子などの供物があった。そして、1組の蠟燭と2つの香炉があり、香炉と果物を盛った皿との間には3つのビニールの花が並べられ、黄色の紙で折って作った台座が置かれていた。また、2つの神像(東岳大帝と雷母)の間には小さな神像が2つあり、それぞれ雷公と銭糧監管であった。

最も左側(西一卓)の1間には神像はなく、したがって供物が置かれる方卓もなく、ただ紙箱などが乱雑に積まれただけの状態であった。西二卓前の神像は子孫娘娘であり,2つの卓台が置かれていた。西二北卓には北から南に向かって、浄水が大杯3杯と小杯2杯、3碗のシロキクラゲの飲料品、水餃子などが入れられた碗、そしてバナナや菱角、リンゴ、包子が入れられた4皿などが置かれていた。西二南卓には北から南に向かって、ブドウ、落花生、飴、瓜子それぞれ1皿、香炉1つ、蠟燭1組が置かれていた。

(3)宣巻儀礼

宣巻儀礼は次の3段階に大別される。

① 請仏開経

まず、講経先生である陳麗文が神像に向かって立ち、経文を1段念唱した。和仏人は蠟燭や線香を就けるなどの手伝いをしていた。廟にやってきた村民らはみな次々に供卓の周囲に集まり、和仏人と一緒に唱和し、講経先生の指示に従って神明を拝んだ。また、自ら神像の前にやってきて参拝を行う女性もいた。神明を拝み共に唱和する者の多くは老年婦人であり、3名の男性が線香を点しにきたのみであった。

1、2名の和仏人は宝巻を読み上げながら、黄紙を折って四角形を作り、それらをアーチ型に組み合わせて中三卓と中四卓の間に置き、「洛陽橋」と称した。この過程は「造橋」と呼ばれるものである。これ以外に、様々な色をした紙を折って花、花籠、馬蹄銀(村民はこれを「寿生錠」「長寿錠」と称する)などを作り、洛陽橋の前に置いていた。造橋は宣巻儀礼全体の開始部分に過ぎない。ただ、造橋にはやや時間がかかるため、宣巻そのものが始まった後にも続いた。請仏開経は通常10分前後で行われる。

② 宣巻

宝巻は紅色のシルクの布に覆われていた。神明を招いた(請仏)後にしばらく休み、陳麗文女史と和仏人が共に経文の1節を唱え、シルクの布をめくることで宣巻が開始された。今回の宣巻で唱えられた宝巻は『玉皇宝巻』『受生宝巻』『雷祖巻』『孝順巻』『東岳巻』『双富貴』であった。最初に宣じられたのは『玉皇宝巻』であった。2番目は『受生宝巻』であり、この日金公大人の誕生日を祝うために特別に加えられたものであった。紙を折って洛陽橋が作られたのも『受生宝巻』の上演に合わせたものであった。宣巻の際には「我要去造橋」という唱文が加えられた。

写真5 講経先生(中央)と和仏人(2016 年10 月3 日、陳明華撮影)

続く宝巻はそれぞれ廟内に安置されている神明に対してのものであった。『雷祖巻』は雷公(現地では「雷公大帝」とも称され、勧善懲悪を管掌する)に対して、『孝順巻』は雷母に対して、『東岳巻』は東岳大帝に対して、『双富貴』は子孫太太に対してそれぞれ宣唱されたものであった。

宣巻の際、講経先生が講じたり唱したりする節の変化は、醒木を叩いたりすることで示された。すなわち、講じ終わると醒木を叩いて1段落をなし、そしてまた唱に入るのである。唱が終わると醒木を叩き、続いて講の節に入った。唱う時間は固定されておらず、長い時も短い時もあった。講経先生が宝巻の講唱を終える時には、『大悲咒』など仏教の経咒を加えることになっている。

宣巻儀礼に過程においては、村民達は神明に参拝するために随時入ってきた。そのうち、中老年の女性が大半を占め、男性は少なかった。特筆すべきは2組の夫婦が子供を連れて祈福のための参拝にきたことであった。

図2 金公大人生日における講経の空間配置図

③ 「交銭糧」と「表焚」

すべての宝巻の宣唱が終わった後、講経先生によって「疏頭」が念じられる。これは、三界の神明に報告するためであり、常熟地区の宣巻においては不可欠の一環である。常熟白茆地区の「疏頭」は一般的に「疏文」と「牒文」とに分けられる。「疏文」とは鬼神に対して祈福する祝文のことを指し、「牒文」とは即ち神明と交わす契約に類似したものを指す*14。しかしながら、今回の宣巻においては「疏文」があるのみであった。疏文は「一忱上達、万聖遥通」を表題としていた。講経先生は金公大人に向かって立ち、和仏人も講経先生の背後に起立した。講経先生が先に疏文の冒頭部を読み上げ、続いて疏文全体を念じ終わると、和仏人に合図して手の中に納め、正面の金公像に向かって3度拝んだ。そして、再び講経先生が疏文の末尾を読み上げ、国家安泰、社会太平、商売繁盛などを祈願した。念じ終わると紅色の封筒(両側は貼り付けない状態にしてあった)に入れて四卓に置いた。最後に、講経先生が経文を念誦し、他の者は念じながら金公大人を拝んだ。

続いて、講経先生が合掌して一節話すと、封じた袋が卓上に置かれ、人々は紙で折った洛陽橋や花籠、紙の花、寿生錠などを廟外の穀物干し場(晒場)にある専用のレンガ造りの建物に持って行き、金公大人の案台に置かれていた爆竹もまた晒場に運ばれた。

その後、東二神台の銭糧監管の神像を運び出し、1人が銅鑼を叩く中で、もう1人が晒場まで抱きかかえていった。銭糧監管は右手に刀を、左手に人頭をぶら下げていた。晒場に到着するすると、銅鑼担当者の案内のもとで、人々は神像を抱きかかえながら、洛陽橋などを焼いているレンガ造りの建物の周りを3度回った。その後、紙銭などを燃やしているレンガ造りの建物に向かって、銭糧監管の神像を木の腰掛け(木凳)に置いた。この寓意はこれらの銭糧を管理する際に、妖魔鬼怪が奪いくることを防止するためである。洛陽橋やその他各種の紙で作られたものを燃やす際には同時に爆竹を鳴らし、儀式が終了したことを示した。

4、陳麗文女史所蔵宝巻について

第3回調査と第5回調査の際には陳麗文女史所蔵の宝巻の大部分を撮影させていただいた。現在これらは入力中であり、具体的な分析を行うにはなお一定の時間が必要である。以下では、これらの宝巻群の全貌を大づかみにするため、既公開の宝巻群の中での位置づけを考えておきたい。

2回にわたる撮影においては合計57種の宝巻を撮影した。表2はその一覧である。封面に「豫章」「袁」「三鳳堂」と署名されたものが混ざっているように、この中には陳麗文女史自らが抄写した以外の、他の宣巻芸人(講経先生)から借りたか、或いはかれらの宝巻を抄写したものが含まれていることも特徴である。また、本人の弁によれば、密接に連絡し合っている芸人とは自分が有さない宝巻を融通し合って使用することもあるという*15

番号宝巻名写抄者『常熟宝巻』分類車目録備考
表2 陳麗文女史宝巻一覧
1妙英(宝巻)素巻 
2玉皇巻素巻 
3竈介素巻中身は『竈皇宝巻』。
4開路素巻? 内容は『路神宝巻』に類似。
5香山・花名宝巻陳麗文素巻2種類がとじられている。
6(上寿)偈陳麗文科儀巻 偈の前の文字が判読できず。「寿」というシールが貼られている長さなどか考えるに「上寿」と書かれていると思われる。内容は『常熟宝巻』所蔵の『上寿宝巻』とほぼ同じ*16
7財神陳麗文素巻 
8龍王巻陳麗文素巻  
9竈皇巻陳麗文素巻 
10合家延寿豫章素巻  
11飛来城隍豫章葷巻出だしには『城隍宝巻』とある。
12太陽巻陳麗文素巻 
13周神宝巻三鳳堂葷巻  
14聖科陳麗文科儀巻 出だしに「五聖霊公」とある。内容は『常熟宝巻』所蔵の『太姆宝巻』とほぼ同じ。
15賢良巻陳麗文葷巻 
16大仙宝巻三鳳堂葷巻 
17城隍陳麗文葷巻  
18劉神陳麗文葷巻  
19無題不明葷巻 出だしに『総管宝巻』とある。
20開路巻陳麗文素巻  
21猛将巻陳麗文葷巻 
22金童巻陳麗文葷巻  
23李王巻陳麗文葷巻  
24上相宝巻陳麗文葷巻『東平宝卷』とも称される。
25高神巻陳麗文葷巻 本文出だしには「高神宝巻」とある。
26土地巻陳麗文冥巻 
27土皇宝巻陳麗文葷巻 
28土皇巻陳麗文葷巻 
29辰星陳麗文素巻中身には「解神星巻」とある。
30玉皇宝巻陳麗文素巻 
31受生宝巻陳麗文素巻  
32双富貴陳麗文閑巻? 
33聖帝冥巻 中身は『東岳宝巻』。
34金神葷巻 冒頭に「総管宝巻」とある。
35双富貴閑巻? 
36玄帝巻素巻中身は『祖師宝巻』。
37家堂素巻『家堂宝巻』のことである。
38財神素巻 
39六神巻陳麗文 六神とは門神、宅神、家神、竈神、財神、井神を指す。
40観音宝巻陳麗文閑巻 
41開関巻陳麗文科儀巻『常熟宝巻』所蔵の『開関宝巻』とほぼ同じ。
42星宿巻陳麗文科儀巻 『星宿宝巻』。
43状元巻陳麗文素巻 『状元宝巻』。
44文殊普賢陳麗文素巻 『文殊宝巻』と『普賢宝巻』。
45調薦陳麗文科儀巻 本文に『調度賛』とある。
46地蔵陳麗文冥巻本文に『地蔵宝巻』とある。
47地蔵宝巻陳麗文冥巻 
48卜芙蓉巻豫章素巻出だしには『延寿宝巻』とある。『芙蓉宝卷』とほぼ同じ。『女延寿』とも称される。
49鶴陽楼豫章素巻本文出だしには『純陽宝巻』とある。
50三官宝巻東海素巻本文出だしには『龍王宝巻』とある。
51小王宝巻陳麗文葷巻 『千聖小王』。
52借寿巻陳麗文素巻本文には『趙賢借寿宝巻』とある。
53和合如意陳麗文素巻 本文出だしには『和合宝巻』とある。
54献荷花陳麗文科儀巻  
55退星科陳麗文科儀巻內容は『常熟宝巻』所蔵の『禳星科』とほぼ同じ。
56無題不明科儀巻 55とおなじ。
57関帝巻豫章葷巻本文に『関帝宝巻』とある。

近年の民俗文化の無形文化財への登録に伴って、蘇州やその周辺地域においても、宝巻そのものや上演を採録して文字化したものを集めた資料集が陸続と刊行されるに到っている。例えば、梁一波編『中国・河陽宝巻集』全2冊(上海、上海文化出版社、2007年)、 中共呉江市委宣伝部等編『中国・同里宣巻集』全2冊(南京、鳳凰出版社、2010年)、銭鉄民編『中国民間宝巻文献集成·江蘇無錫巻』全15冊(北京、商務印書館、2014年)、常熟市文化広電新聞出版局編『中国常熟宝巻』全4冊(蘇州、古呉軒出版社、2015年)などがある。

以下では、隣接した地域ながら、異なる形式を有する呉江と常熟において上演される宝巻の違いについて、『中国常熟宝巻』と『中国・同里宣巻集』の両書を手がかりにみてみよう。

陳麗文女史より撮影させたいただいた主要上演宝巻は表2の如きである。「写抄者」の欄は宝巻の所有者を示す。先にも述べたように、懇意にしている芸人の間では宝巻の貸し借りが行われていた。「『常熟宝巻』分類」の欄は、『常熟宝巻』の「概況」に記された紹介における分類を記したものである。それによれば、現地における分類は素巻、葷巻、冥巻、閑巻、科儀巻の5種類に分けられるという。素巻とは、精進料理を食す神明の前で上演するものである。対して、葷巻は生臭料理を食す神明への上演の際に用いられるものを指す。葬礼に使用する者は冥巻と称され、夜間に上演されることから夜巻とも呼ばれた。閑巻は「白相巻」とも言われ、娯楽用に用いられるものである。科儀とは儀式に用いられるものであり、儀、科、経、懺、呪、偈などが含まれる。分類から見えてくるのは、陳女史の所蔵する宝巻に占める「閑巻」が極めて少ないこと、『和合宝巻』『開路宝巻』など現代の変化を反映した宝巻が創作されているという興味深い事実である*17

「車目録」の欄は車錫倫編著『中国宝巻総目』(台北、中央研究院中国文哲所籌備処、1998年)に所蔵された宝巻一覧との対照もおこなった。重複しているものも少なくないが、『小王宝巻』をはじめとして、ローカル色の濃厚なものについては収録されていない。こうした極めてローカルな土神に注目することも、今後検討に値する方向性であると思われる*18

第3章でもみたように、常熟の宝巻は様々な具体的な神明に対して念誦することを前提とした内容になっている。個別の上演頻度については今後の調査に委ねたいが、張家港のある講経先生は、上演が圧倒的に多いのは『香山宝巻』や『玉皇宝巻』であると述べていた*19

表3は『中国・同里宣巻集』に収められた宝巻の一覧である*20。これらは呉江の芸人が特に得意としているものを収集したものであり、ここからも呉江やその周辺地域において流布し、聴衆の歓迎を受けた宝巻の大部分を知ることが出来る。この点について角度を変えて、一芸人が具体的にどの宝巻を、どの頻度で行っていたのかをみてみたい。筆者がかつて追跡調査を行い、上演記録を閲覧させていただいた朱火生氏の宝巻別の上演頻度は表4の通りである*21

表3 『中国・同里宣巻集』所収宝巻一覧
<口頭演唱記録本>宝巻二五種(叔嫂風波、冒婚記、双富貴、雪里産子、梅花戒、白兎記、龍鳳鎖、洛陽橋、玉珮記、殺狗勧夫、新郎産子、張四姐閙東京、三拝花堂、春江月、夢縁記、頼婚記、金殿認子、珍珠衫、薬茶記、黄金印、金鎖縁、三線姻縁、姐妹封王、情義冤仇、林娘伝)
<手抄校点本>宝巻二五種(妙英宝巻、龍鳳鎖、雕龍宝扇、借黄糠、芭蕉認親、梅戒良縁、敗子回頭金不換、孟姜女、賢良記、大紅袍、双玉燕、絲羅帯、代皇進瓜、白鶴図、金枝玉葉、花架良願、馬前潑水、百鳥図軸、刺心宝巻、妻財子禄、天誅潘二、盗牌救翁、炎天降雪、失巾帕、珍珠搭)

  

宝巻名回数宝巻名回数宝巻名回数宝巻名回数
姐妹花146還魄記25乱点鴛鴦10文狀元1
新郎産子121双貴図21双夫奪妻10梅花嫁1
叔嫂風波81三線姻縁19風筝嫁9施紅菱1
白鶴図57珍珠塔17雕龍扇5百寿図1
姐妹調嫁57玉蜻蜓16金釵記4光棍買老婆1
龍鳳鎖56姐妹封王16蓮花女3半把剪刀1
双美縁56金殿奪子15顧鼎臣3婆媳風波1
紅灯花轎53劉王宝巻13双富貴2張四姐下凡1
珍珠衫49失帕記13公堂認母2子金釵1
双玉菊38半夜贈銀11兄妹拝堂1賢母良母1
三更天35魚龍記11懶婚記1代做菜1
紅楼鏡29失金帕11双女封王1梅花戒1

このうち、上演頻度の高い5つをみてみると、『姐妹花』『新郎産子』『叔嫂風波』『白鶴図』『姐妹調嫁』である。このうち、『姐妹花』と『姐妹調嫁』は『中国・同里宝巻』には収録されてはいないものの、呉江地区の宣巻において他の芸人のレパートリーに入ることも少なくない。『姐妹花』すなわち『姐妹花宝巻』は、軍閥の支配する時代の華北において対照的な運命を辿った姉妹についての物語で、上海惜陰書局石印本には栄華物語から宣巻本に改編した旨が記されているという最も新しい部類に入る宝巻である*22。『新郎産子』は花鼓戯や越劇などでも上演される物語である。『叔嫂風波』は呉江の宣巻において普及していた演目であり、地方劇にも類似した内容のものがある物語である*23。『姐妹調嫁』の来歴については今後の調査に委ねたいが、内容から判断して民間故事に類するものとしてみてよいと思われる。『白鶴図』は、旧官僚家庭の2人の息子の数奇な運命を白鶴図という古画を道具として語った物語である。澤田瑞穂によれば、これらは宝巻の中でも新宝巻時代のうち、民国期の顕著となった新作物語時期の特徴を反映したものであると概括できよう*24

写真6 『白鶴図宝巻』(佐藤仁史所蔵)
写真7 『総管宝巻』(陳麗文所蔵、2015年11月16日、佐藤仁史撮影)

呉江との比較において極めて異なる特徴を有していることは一目瞭然である。2つの地域で重複しているのは、『双富貴』『白鶴図』『妙英宝巻』などごく一部にとどまる*25。このうち、前二者については陳麗文女史所蔵宝巻にその名が見られたが、『白鶴図』は見られない。しかしながら『常熟宝巻』には収録されているから、常熟においても相当程度普及した宝巻であると判断できよう。蘇州市の市街地を挟んでかくも大きな違いが現れたのはどのような背景に因るのかについては、今後の調査の中で探求していきたい。

5、むすびにかえて

本稿では、常熟市虞山鎮を中心として活動する一宣巻芸人(講経先生)の略歴、上演場面の紹介、所蔵宝巻の概要について紹介を行った。しかしながら、初歩的な調査に止まっており、多くの問題が今後の現地調査に委ねられている。以下では備忘録もかねて今後の課題を列挙して結びにかえたい。

第1は常熟において講経を行う場面の参与観察の事例を増やすことである*26。これには、長期休暇を利用して実際に参与観察をしつつ、観察できない部分については芸人の上演記録などを参照させてもらうしかない。後者については芸人の協力がなければなしえず、内容から言って難易度も高いと推測される。

第2は、宣巻活動を依頼するクライアントの分析である。宣巻の依頼は個別の戸による依頼が多くを占めるが、その中でも特に顕著なクライアントとして、個人企業家や商人などと、シャーマンを中心とする女性の進香組織が挙げられる。後者について筆者は拙文を記して改革開放政策がもたらした農村社会構造の結果、再び社会の周縁へと追いやられた存在として指摘したことがある*27。2017年12月2日に上方山で知り合った仏娘を2018年8月25日に訪問したところ、彼女は上方山太姆を奉じる以外に、毛沢東や楊開慧を神明として奉じていること、毛沢東と楊開慧を祭る建物を有していることを示した上で、「近年の社会は腐敗に満ちており、これらの解決には毛沢東と楊開慧の霊験に頼る必要がある」と語った*28。かような考えを生み出すに到ったこの進香組織を取り巻く状況や時代性も考察するためのさらなる材料も収集されなくてはならない。

第3は、宝巻やエゴドキュメント、インタビュー記録の整理である。宝巻については、本論でも紹介したように調査では陳麗文女史に閲覧・撮影させていただいている。インタビュー記録については、芸人、クライアントともに蓄積が不足しているので、今後集中的に実施する必要がある。

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 その他、2006年度~2008年度科学研究費若手研究B「清末民国期、江南デルタ農村の地域統合と民間信仰に関する基礎的研究」、2009年度~2011年度科学研究費若手研究B「中国建国初期、江南郷鎮社会の再編に関する現地調査」(以上、研究代表者佐藤仁史)においても関連する調査を実施した。
*2 関連する業績として、太田出・佐藤仁史編『太湖流域社会の歴史学的研究――地方文献と現地調査からのアプローチ』(汲古書院、2007年)、太田出・佐藤仁史・長沼さやか編『中国江南の漁民と水辺の暮らし──太湖流域社会史口述記録集3』(汲古書院、2018年)がある。
*3 その後上演のクライアントや民間信仰との関係については、2014年度公益財団法人JFE21世紀財団の研究助成を得て、数名のシャーマンにインタビューを行った。佐藤仁史・宮原佳昭・宮内肇「近代中国における風俗改良論――湖南・広東・江南の比較を通して」『2015年度大学研究助成 アジア歴史研究報告書』公益財団法人JFE21世紀財団、2016年。
*4 2017年12月の調査段階ではこの建物は撤去されていた。再建のためかどうかは不明である。姑蘇台は吴王闔閭と夫差が霊岩山上に建てた娯楽施設である。近年石湖風景区が設定されたことにより、石湖湖畔に再建された。
*5 車錫倫『中国宝巻研究論集』台北、学海出版社、1997年、165-170頁。
*6 呉江市地方志編纂委員会編『呉江県志』南京、江蘇科学技術出版社、1994年、巻21文化、第3章文学芸術、第4節「戯曲曲芸」。
*7 なお、常熟や張家港における宣巻の調査報告に、車錫倫『信仰・教化・娯楽――中国宝巻研究及其他』台北、学生書局、2002年、195-222頁、がある。
*8 宣巻活動を組織した霊媒や進香組織に対する分析は別の機会に稿を改めて紹介したい。
*9 この行政区は当時のものであり、現在鎮謝橋管理区は常福街道に属している。
*10 以下は、陳麗文氏口述記録(2016年3月18日採訪、未定稿)に依る。
*11 ここで用いられているの公社名や大隊名は1980年代初頭のものであり、現在の呼称とは異なるが、ここではインフォーマントの弁に従いそのまま表記した。
*12 丘慧瑩「江蘇常熟白茆地区宣卷活動調査報告」『民俗曲芸』第169期、2010年、210頁。
*13 当日儀式に参加した老年女性たちはこのように呼称していた。
*14 丘前掲論文、210頁。
*15 陳麗文氏口述記録(2016年3月18日採訪、未定稿)。
*16 陸永峰、車錫倫による呉方言宝巻研究において、当該地区の人が寿を祝う時に『八仙上寿偈』(或いは『八仙上寿宝巻』『大上寿宝巻』)を用いるという。陸永峰、車錫倫『呉方言区宝卷研究』北京、社会科学文献出版社、2012年、第140頁。
*17 「概況」『常熟宝巻』上冊。
*18 濱島敦俊は著書において江南の民間信仰を、金総管、李王、周孝子、劉猛将の併せて「総管信仰」と総括している。濱島敦俊『総管信仰――近世江南農村社会と民間宗教』(研文出版、2001年)、65-66頁。しかし、当該書において検討されているのは常熟と江陰の事例であり、江南全体に普遍性があるのか検討の余地がある。また、明清から民国期にかけての宗教政策や社会情勢の変化に伴い、民間信仰の対象にも変化が見られたと思われるが、筆者がフィールドワークで得た他の神明の事例との間に距離があり、これも今後の検討課題である。
*19 金正球氏口述記録(2018年8月25日採訪、於張家港市金村、未定稿)。
*20 本書が有する意義とその背景にあった調査の問題点については、佐藤仁史「地域文化を記録するということ――『中国・同里宣巻集』によせて」『中国都市芸能研究』第10輯、2012年、参照。
*21 佐藤仁史「一宣巻芸人の活動からみる太湖流域農村と民間信仰――上演記録演に基づく分析」太田・佐藤前揭『太湖流域社会の歴史学的研究』より転載。
*22 澤田瑞穂『増補宝巻の研究』国書刊行会、1975年、210-211頁。
*23 『中国・同里宣巻集』7頁。
*24 澤田前掲書、37-38頁。
*25 また、両地域の芸人間の比較でいえば、陳麗文女史と朱火生氏はともに『猛将宝巻』を上演している。朱火生氏所蔵『猛将宝巻』のタイトルは『劉王宝巻』となっているが、事実上内容は『猛将宝巻』とほぼ同じである。
*26 ただし、最近ではSNSの発達によって、宣巻芸人や仏娘の動向はWeChatなどのツールを用いて遠隔地においてもある程度把握することが可能となっている。SNSにアップロードされた上演や儀礼をあらかじめ理解しておくことで、現地でのインタビューや参与観察の密度を上げることができよう。
*27 佐藤仁史「“迷信”与非遺之間――関於江南的民間信仰与農村婦女的一些思考」『民俗研究』2018年第1期、42-50頁。
*28 X・YZ氏口述記録(2018年8月25日採訪、未定稿)。

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