『都市芸研』第十一輯/竜江皮影戯の成立と哈爾浜児童芸術劇院

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竜江皮影戯の成立と哈爾浜児童芸術劇院

山下 一夫

1.はじめに

中国全土で行われている影絵人形劇の中で、黒竜江省で行われているものを竜江皮影戯と称する。筆者は前稿「東北皮影戯研究のために――凌源および哈爾浜」において*1、竜江皮影戯には(一)望奎の江北影・双城の江南影・哈爾浜の老児影の三種類があること、(二)北京西派皮影戯などに連なる可能性がある満人皮影戯の古層の上に、清末から民国に河北から伝わった冀東皮影戯の新層が重なっていること、の二点を指摘した。整理すると以下のようになる。

江北影(望奎県)同治年間の伝来満人皮影戯
清末民初の伝来冀東皮影戯
江南影(双城市)東派(現在の東官鎮一帯)、流口影満人皮影戯
西派(現在の団結満族郷一帯)、翻書影冀東皮影戯
老奤児影(哈爾浜市内)王華班冀東皮影戯

さて、竜江皮影戯は2011年5月に第三批国家級非物質文化遺産の指定を受けたが、申請にあたって作成された「申請書」には、その形成について以下のように記されている。

「竜江皮影戯」は、江南影・関裏影・遼寧影など、異なる風格を持つ影絵人形劇の流派が融合して形成された。形成された場所は、民国初年の哈爾浜の道外北市場である。当時ここは「哈爾浜の天橋」と称され、影絵人形劇の様々な流派が集まっていた。その中には江南影の双城を代表する影絵人形劇の芸人、冀東からやってきた老影の様々な戯班の著名芸人、瀋陽の「久清茶社」からやって来た影絵人形の名人などがいた。かれらはそれぞれ北市場の朗蔭軒茶社・陳白三茶社・南市場茶社・新民曲芸社・新穎茶社・馨香茶社・松花江茶社、さらに同記影院・大国光電影院などで上演を行った*2

ここでは上に見た江北影・江南影・老児影の三種に加え、「関裏影」(河北の楽亭影を指す)や「遼寧影」などが民国初年の哈爾浜で融合した結果、竜江皮影戯が形成されたとしている。

また国家級非物質文化遺産指定によって、2011年には現地メディアによる紹介記事や、地元研究者による研究論文が多く書かれた。例えば新華社黒竜江分社は、竜江皮影戯について以下のように伝えている。

清末の段階ですでに、影絵人形劇は民間芸人によって河北から黒竜江にもたらされていた。後に、これら河北の芸人と黒竜江の現地の芸人が共同で影絵人形劇を発展させ、独創性を打ち出して一派を成した。これを「竜江皮影戯」と言い、河北・湖南の影絵人形劇と並んで中国の伝統的影絵人形劇の「三大家」と称される*3

一般的に中国を代表する影絵人形劇としては河北の冀東皮影戯が挙げられるが*4、この記事は竜江皮影戯が湖南皮影戯とともに、これと並ぶ伝統的影絵人形劇の「三大家」と称されている、と記している。

また竜江皮影戯の独自性について、新華社黒竜江分社はさらに別の記事で以下のように述べている。

「竜江皮影戯と他の影絵人形劇の流派を比べた時に、最大の違いは歌い方にある。」于九文氏は記者にこう述べる。河北の伝統的な影絵人形劇は、喉をつまんでファルセットで歌うが、竜江皮影戯はすべて自然の発声で歌い、さらに黒竜江の方言を大量に混ぜることで、東北人の豪放さ・勇壮さを際だたせるのだという*5

この記事では、哈爾浜の老芸人である于九文氏の話として、竜江皮影戯は河北の冀東皮影戯と異なり、喉をつまんでファルセットを出す「掐嗓子」の技法を用いないこと、また黒竜江の方言によって行われることを記している。

この他、哈爾浜学院の宋媛・郭陽は、竜江皮影戯の特徴について以下のように述べている*6

まず河北の楽亭影が黒竜江の双城一帯に伝わり、後に清の騎兵の大量流入に河北の芸人たちが付き従い、黒竜江の各地に影絵人形劇をもたらし、農村の人々に歓迎された。後に人々の好みを満足させるため、現地の方言を導入し、また東北の民歌の曲や(現地の伝統的な楽器である)単鼓の音楽の精華を取り入れ、メロディの改革も行って、人形の造型からメロディに至るまで全面的に改めた。それによって高らかで激しく、豪放さのある黒竜江独特の影絵人形劇が形成された。

ここでは竜江皮影戯が、冀東皮影戯が伝来した後、現地の方言や、東北の民歌のメロディなどの影響を受け、音楽的に変化して形成されたものだとしている。

以上の記述を合わせると、竜江皮影戯は(一)黒竜江、さらに東北各地の影絵人形劇が融合して形成されたもので、(二)「本家」の冀東皮影戯では行われていた掐嗓子の技法を用いず、(三)東北地方のメロディや方言の影響を受けて音楽的に独自の性質を獲得している、ということになる。

これら「竜江皮影戯の特徴」についての言説は、黒竜江の影絵人形劇の理解としてはやや問題がある。特に、いずれの記事でも解放以前からの状況であるかのように語っているが、実際にはこれらは戦後の省劇団の動向と密接に関わりながら成立したものである。

そこで本稿は、こうした言説の背後にある問題を、哈爾浜児童芸術劇院(以下、省劇団と呼ぶ)の成立史を踏まえて検討するとともに、あわせて戦後中国の影絵人形劇の性質について考察を行ってみたいと思う。

2.温長淮

省劇団の成立について、筆者は前稿で以下のように述べた*7

解放後の1951年に、江南影西派の第二世代にあたる双城の温長淮の劇団が哈爾浜市に呼ばれ、松江省皮影戯実験工作隊に改組されて、城内に定住して党の宣伝工作を担うこととなり、さらに1954年には「黒竜江省木偶皮影芸術劇院」となった。…(略)…その後省劇団は文化大革命でいったん活動を停止した後、1972年に「哈爾浜市民間芸術劇院皮影劇団」の名で復活し、さらに1984年には「哈爾浜児童芸術劇院皮影劇団」となって現在に至っている。一方の、戦前から城内で上演を行っていた張栄久らの劇団は、1957年に哈爾浜曲芸団皮影隊へ改組され、しばらくは伝統演目の上演を行っていたが、1965年に解散を命じられ、メンバーは全員ドラム缶工場での労働に従事することとなり、老児影は消滅した。

例えばこのうち老児影は、冀東皮影戯の中でも都会的に洗練された一派で、哈爾浜市内にも根付いていたのだから、彼らがそのまま省劇団となっても良かったはずである。にもかかわらず、江南影西派に属する双城の温長淮がわざわざ呼ばれて哈爾浜市内に入り、省劇団の中心となったのは、背景に共産党の政治的な方針が存在していた。前出の非物質文化遺産の「申請書」は、温長淮について以下のように記している。

温長淮、男、1918年生、1979年逝去。家は代々影絵人形劇の芸人である。幼い頃から父に付き従って芸で身を立て、楽器も歌もこなすことができた。組織能力も極めて高く、20歳の時に戯班の主人となり、芸人たちを組織して、東北各地で流動的に上演を行った。日本帝国主義が投降した後、かれは影絵人形劇という伝統的な芸術方式によって社会に奉仕した。すなわち、黒竜江地区の土地改革運動と連携して多くの新作演目を上演し、中国共産党の有力な宣伝媒体となったのである。温長淮はまた、1950年に(黒竜江省の前身である)松江省の民間芸人の代表として、東北地区文学芸術工作者代表大会に出席した。これ以後、温長淮の戯班の名声は、双城・呼蘭・阿城・賓県・尚志などの地域で高まった。1951年5月、双城から哈爾浜に移り、松江省民間芸術工作隊を成立させ、全省の広大な農村・郷鎮で活躍して、反革命運動の鎮圧・新婚姻法の制定・農村の整党工作などと連携し、『不要馬虎』・『小二黒結婚』・『小女婿』・『劉胡蘭』などの演目を上演した*8

また温長淮の弟子にあたり、先の新華社の記事でも言及されていた于九文は、自著『影縁 中国民間伝統文化芸術――竜江皮影』で以下のように述べている。

『影縁』

1946年に双城の土地改革が始まると、温長淮は影絵人形劇の上演隊を率い、土地改革工作隊とともに農村に分け入り、土地法大綱を宣伝し、婚姻法を宣伝し、『白毛女』・『小二黒結婚』・『蔣介石的末日』・『劉胡蘭』など一連の現代劇を上演して、土地改革工作において大きな役割を果たした。後には朝鮮戦争の「抗美援朝」のために『美軍暴行』『二老捐献』などの演目を双城で上演しただけでなく、招かれて付近の幾つかの県でも上演し、温長淮の影絵人形上演劇団はこれらの地域で短期間のうちに大きな影響を与えた*9

日中戦争後最初の「解放区」となった東北地区で、共産党は社会主義的政策を実行するにあたって、一般人にとって重要なメディアであった影絵人形劇に注目し、これを利用した宣伝工作を計画した。そこで双城の温長淮が選ばれたのは、土地改革など農村部での工作を優先した共産党の方針に基づくのかも知れないし、あるいは穿った見方をすれば、哈爾浜の都市芸能であった老児影に比べ、経済的に裕福だったとは思えない農村部の温長淮の方が利用しやすかったのかも知れない。いずれにしても温長淮の宣伝工作が成績を収めたことで、今度は運動を省全体に拡大させるため、かれらを哈爾浜市内に連れてきたのだろう。すなわち温長淮の戯班の省劇団への昇格は、かれの芸が芸術的に評価されたためではなく、共産党の政策に基づくものであった。

こうした状況は、冀東皮影の本拠地である河北省唐山も同様である。唐山に数多くの戯班があった中で、戦後「中国を代表する影絵人形劇団」である「唐山市皮影劇団」となったのは、後述する斉家班のような芸のレベルの高さで知られた戯班ではなく、戦争中から共産党の指示の下に抗日宣伝を行っていた新長城影社と抗日影社であった。

中華人民共和国成立後、共産党は人形劇を用いた宣伝工作をさらに全国的に推し進めた。その際にモデルケースとなったのが黒竜江の省劇団であった。中国の影絵人形劇全体の中で、歴史的に見ても決して突出した存在というわけではない竜江皮影戯が、湖南皮影戯や河北の冀東皮影戯とともに皮影戯の「三大家」と称されるに至ったのはこのためである。ところが現在ではそうした文脈が忘れられてしまい、冒頭に紹介した記事でも、それがあたかも芸術的水準にもとづく選定であったかのように説かれている。

3.東北皮影戯の「融合」

温長淮と共に双城からやってきて省劇団の中心メンバーとなった芸人に傅栄奎がいる。「申請書」には以下のように記されている。

傅栄奎、男、1924年生。1940年に鄭広成に弟子入りして、「竜江皮影戯」の歌い方を学んだ。専門は「浄」と「生」の二つの役柄である。また影絵人形劇で主に用いられる弦楽器の「大四弦」も学んだ。当時、時間があると人々のために「竜江皮影戯」を上演した。芸人の温長淮に付き従って東北各地で上演を行い、かれの歌の独特な味わいは多くの人々を惹きつけた。かれは歌だけでなく大四弦も弾け、時にはさらに人形の操作も行い、東北地区では極めて著名な影絵人形劇芸人であった*10

師匠の鄭広成は「三広」と称された双城第二代芸人の一人である。歌だけでなく大四弦も弾け、人形の操作もできるというと、非常に多才な人物であるかのように見えるが、少人数で行う農村での上演ではごく一般的なあり方に過ぎない。むしろこれは、歌い手と楽器演奏者が役割分担をすることで洗練の度合いを深めていた新興の老児影などより「遅れていた」ことを表す、とすら言えるだろう。

省劇団創設に関わった双城の芸人には、他に金伝武がいる。

金伝武、1928年生、黒竜江省双城県西北の農豊村の出身。1951年に黒竜江省皮影団に参加し、当該劇団の影絵人形劇の基礎を作った人物の一人。1953年に第一回民間芸術匯演に参加し、優秀上演賞を獲得した。1955年に第一回全国木偶皮影観摩演出大会に参加、1958年に東北三省福建前線慰問上演に参加、1959年に北京での上演に参加、1961年に全国巡業上演に参加。金伝武は絶えず歌唱芸術のレベルの向上を行い、黒竜江の影絵人形劇の「小梅蘭芳」の称号を得た。金伝武の声は歯切れが良く、明朗でつやもあり、音域も広かった。その歌はたおやかで暖かみがあり、優美で深みもある上、明晰かつ細やかな風格を持ち、人々から賞賛された*11

金伝武は温長淮より10歳下、傅栄奎よりも4歳下で、省劇団に参加した時はわずか23歳であった。上の記事にもあるように、不断の努力によって後に「黒竜江の小梅蘭芳」とまで称されるようになるが、そこで指導に当たったのは実は双城の芸人ではなく、唐山の名芸人の斉秉勛であった。

斉秉勛は戦前は斉家班の班主として活動した昌黎県の芸人で、現在中国の影絵人形劇を代表する人物として知られる斉永衡の父親である。河北では解放後、前述のとおり政治的理由によって新長城影社・抗日影社を中心に唐山市皮影劇団が発足したが、斉秉勛の斉家班は別に昌黎県皮影社へと改組され、唐山の影絵人形劇の中央からいわば外された形になっていた。しかしその芸人としての力量の高さに目を付けた政府は、かれを哈爾浜に派遣して、芸の面ではいささか心許ない省劇団の若手養成に当たらせたのである*12。金伝武の成長も、もちろん本人の資質や努力による部分もあるが、こうした哈爾浜の省劇団を重視する政府の方策の結果だったとも言えるだろう。

政府による「てこ入れ」はこれだけではない。1955年には、瀋陽の著名芸人である高殿卿が省劇団に連れて来られた。

高殿卿、1914―1988年、遼寧省瀋陽の出身。小さい頃から影絵人形劇を愛好し、王静軒・梁湘甫・王世斌・邵東方などの師匠について、影絵人形劇のすべての役柄の人形操作・人形作成・楽器演奏・歌を学び取り、厳しい指導のもとでさまざまな技巧を身につけた。1937年に瀋陽の北市場戴家茶社で、関裏影の名芸人である張縄武・高栄武・鄭久恒・李雲亭・陳宝森・劉奎武・趙復礼などと共に舞台に立ったことは大きな収穫となり、大いに芸を高めた。その後、撫順・錦州・四平・長春・双城・哈爾浜などで流動的に上演を行った。1955年に黒竜江省民間芸術劇院に配属され、その中心的な芸人となった。同年、かれが人形操作をした『火焔山』が黒竜江省音楽舞踏観摩会に参加、優秀上演賞を獲得した。1959年、北京の人民会堂で開催された全国群英会で影絵人形劇『禿尾巴老李』を上演し、好評を得た*13

高殿卿は芸人として極めて高い能力を持ち、省劇団配属後は上演の中心的役割を担った。後述する省劇団の代表作『禿尾巴老李』の成功も、かれの力量に負うところが大きい。

昌黎の斉秉勛や瀋陽の高殿卿の参加によって、省劇団の影絵人形劇は双城色が薄まった。冒頭で言及した「黒竜江、さらに東北各地の影絵人形劇が融合して形成された」という竜江皮影戯の特徴も、実はこうした動きを指すものと思われる。戦前の黒竜江には数種類の影絵人形劇が分布し、さらに流動的に活動していた芸人・戯班も外地からやって来てはいたが、それらはあくまで別個に存在していたに過ぎない。「融合」が起こり、現在言うところの竜江皮影戯という影絵人形劇の「種類」が成立したのは、政府が省劇団に東北の人材を集中させた結果だと考えるのが自然だろう。

注意したいのは「申請書」の記述である。非物質文化遺産である以上、それなりの歴史と独自性とを有することを表明する必要があるため、斉秉勛や高殿卿の属した戯班が戦前に哈爾浜に来ていたことに注目し、これに言及することで、「融合」がこの段階で起こったかのように見せる、いわば「辻褄合わせ」をしたものと思われる。

4.「掐嗓子」

「東北各地の融合」に続いて、竜江皮影戯の第二の特徴とされる「掐嗓子の不在」も、やはり戦後の省劇団の人選と密接な関わりがある。

そもそも掐嗓子は、はじめから冀東皮影戯全体で行われていたわけではなく、楽亭の楊寡婦班の芸人だった郭老天が始め、次第に各地に広まったものである。

楊寡婦班で旦役を担当していた芸人の郭老天は、20歳前に影絵人形劇の世界で名声を馳せ、旦役の模範となった。当時若かった楊寡婦はかれをことのほか重視していた。しかし郭老天は人気絶頂の時に突然喉を壊してしまい、影絵人形劇を歌うことができなくなってしまった。楊寡婦は医者を呼んでさまざまな治療を試みたが、まったく効果がなかった。郭老天は諦めず、毎日喉を振り絞って声を出してみたが、やはり影絵人形劇を歌うことができなかった。後にかれが手で喉をつまんで歌ってみると、何と奇跡が起こり、繊細でたおやかな歌声が出て、郭老天の人形劇が復活した。これによって、楽亭影の「掐嗓子」の歌い方が出現した。最初は「小」の役柄を歌う芸人に広まり、後にはすべての役柄の芸人が採用した*14

楊寡婦班は、その名の通り楊寡婦なる人物が道光年間に始め、民国4年まで続いた戯班である。

楊寡婦班は、また楊侍衛班とも言い、現在人々の記憶に残っている最初期の人気劇団である。楊寡婦は楽亭県新寨鎮の出身で、嘉慶・道光・咸豊を生きたが、主に活動したのは道光年間であった。楊家の先祖の楊徳潤は、乾隆12(1747)年に武挙に合格し、殿前侍衛の官職についた。また楊開基が乾隆60(1795)年に進士に合格した。家門の隆盛に従って、楊家は乾隆年間に「侍衛府班」を作った。道光年間になって、年若い楊寡婦が戯班を継いだ。楊侍衛影班は主に自らの官府での上演のためのものだったが、ほかに地方の有力者や名門豪族向けの職業的な上演も行った。楊寡婦は外部での上演のために個人の影響力を強め、戯班を職業的性質に変えた*15

先に引用した記述では、郭老天が掐嗓子をいつ「発明」したのか記載が無いが、上の内容と合わせると道光年間のことだと解る。この時期はちょうど、高述尭が『二度梅』・『鎮冤塔』・『白狐裘』・『珠宝釵』の新四大部を作成し、音楽の改良も行って、冀東皮影戯の改革運動を起こした頃であり、実は双城への影絵人形劇の伝播もこれに関係している。

高述尭老人が作成した新四大部の影絵人形劇の台本は、様々な感情を述べるのに適切な名句を生みだし、〔大板〕(すなわち慢板)も加わった。それによって物語性が強まり、曲調も豊富になって、音楽もすばらしいものとなった。人々はこの改革後の灤州影のことを楽亭影と呼んだ。…(略)…楽亭の名芸人であった馮兆祥と王兆坤は、灤州影の改革に不満を持ち、一族を率いて遠く黒竜江省双城県正白五屯の安家に移り、灤州影を歌って生計を立てた。時間が経つにつれ、現地の満人の影絵人形劇、および流入してきた西辺外影と次第に融合し、黒竜江の江南影が形成された*16

馮兆祥・王兆坤は改革を嫌って双城に移ったくらいだから、掐嗓子も行わなかったと考えるのが自然であろう。郭老天の「発明」はすべての冀東皮影戯で共有されたわけではなく、他にも遼寧省の瀋陽や岫岩など、掐嗓子を行わない地域は幾つか存在する*17

ただ、清末民初に河北から影絵人形劇が流入した望奎の江北影や、民国期に哈爾浜にやって来た張栄久らの老児影は、伝来の経緯から考えていずれも掐嗓子を行っていたと思われる。そうした中で共産党政府が、双城の温長淮と瀋陽の高殿卿という、冀東系ながら掐嗓子を行わない稀な地域の芸人を省劇団の中心に据えたため、「竜江皮影戯の特徴は掐嗓子の不在」という認識が広まることになったのだろう。

5.解放後の新作劇

省劇団は、国共内戦期の「松江省皮影戯実験工作隊」時代に『白毛女』・『小二黒結婚』・『蔣介石的末日』・『劉胡蘭』を、続く朝鮮戦争期に『美軍暴行』・『二老捐献』を上演、さらに1955年の木偶皮影匯演で『水漫金山』を行って注目を浴びたが、劇団を有名にしたのは何といっても1959年の全国木偶皮影匯演で上演した『禿尾巴老李』である。これは全国巡演を行う大ヒットとなり、以後の「竜江皮影戯」の黄金時代をもたらすこととなった*18

『禿尾巴老李』の概要は以下の通りである*19

「禿尾巴老李」(尾の無い李さん)は、黒竜江地方で長く伝えられてきた民間説話である。話は次の通り。李家に黒竜が生まれた。生まれ落ちた時、後ろに尾が生えていたため、父親がこれを切り落とした。すると竜の体に戻り、薩哈江に飛び込んで川底に潜った。川沿いに住む人々と同じ血が流れていることから、以後、黒竜は人々の苦しみや悩みに同情して、川沿いの地域の天候を調節し、いつも豊作になるようにして、人々に賞賛された。しかしそれは凶悪な白竜の憎悪と嫉妬を引き起こした。白竜は自らの軍勢にものをいわせて風や波を起こして、人々に災害をもたらし、黒竜を攻撃して、薩哈江を独占しようとした。そこで黒竜と白竜の生死をかけた戦いが繰り広げられた。黒竜は川沿い一帯の人民の支援のもとで白竜に打ち勝ち、人々の幸せを勝ち取った。人民は黒竜に感謝し、これを記念するために、薩哈江を黒竜江と改めた。

上演には黒竜江の方言を交え、また旧来の冀東皮影戯の腔調も用いつつ、東北の民歌風のメロディも挿入された*20。作品の成功により、省劇団はその後の演目でも同様のスタイルを用いて行くが、これが実は現在、竜江皮影戯の特徴の三番目として語られている「東北地方のメロディや方言の影響を受けた音楽の独自性」である。

作品成功の原因は、もちろん高殿卿を初めとした省劇団スタッフの上演レベルの高さもあったが、原説話を当時の共産党政府の方針に合わせて改変したという点も大きい。

『禿尾巴老李』の物語は、もともと全国的に分布する「竜母説話」の一種で、清・袁枚の『子不語』が初出となる*21

山東の文登県の畢氏の妻が、3月に池で洗濯をしていると、木の上にニワトリの卵ほどの大きさのスモモの実があるのを見つけた。暮春にスモモの実がなるとは不思議なこともあったものだと思い、採って食べてみたところ、たいへん甘美な味であった。それから腹の中がふくれて身籠もった。14ヶ月経って、2尺ばかりの小さな竜を産んだ。竜は産まれおちるとすぐに飛び去っていったが、明け方になると必ず母親の乳を飲みに来た。父親が憎んで刀を持って追い、尾を切り落としてからは、小さい竜はやって来なくなった。数年後母親が亡くなり、遺体を村に安置したところ、ある晩激しい稲光と風雨が起こり、闇の中で何かがぐるぐると回っていたようだった。翌日見てみると、棺桶はすでに埋葬されており、土が盛られて大きな墓になっていた。さらに数年して今度は父親が亡くなり、村人たちが同じ場所に埋葬したところ、その晩もやはり稲光が起こった。翌日、父親の棺桶が穴から引っ張り出されていて、まるで同じ場所への埋葬を許さないかのようであった。その後、村人たちはこれを「禿尾竜の母の墓」と呼び、天候を祈願すると必ず験があった。

この物語は全国的に存在するとはいえ、特に山東省に集中的に分布していることがすでに指摘されている*22。黒竜江の説話も山東移民がもたらしたもので、上記内容の末尾部分が「船に山東人が乗っていれば、黒竜が必ず守護する」話となっている点に、そうした痕跡が残っている。

これに対して影絵人形劇『禿尾巴老李』は、黒竜江の説話の「黒竜が山東人の船を守護する」という段を「黒竜が沿岸の人民を守護する」と変更し、一般性を持たせた上で、白竜と黒竜の戦いを「階級闘争の比喩」として描写し、「地方伝説はもともと人民の階級闘争の反映だった」と思わせる内容に仕立てている。こうした『文芸講話』路線に沿った改作は党の方針に適合しており、全国巡演が行われたのも「人民教化」のためという理由があったものと思われる。

『禿尾巴老李』の特徴としてもう一つ挙げられるのが、従来の皮影戯には無い、児童でも楽しめる演目としたことである。こうした特徴はほぼ同時期に湖南省木偶皮影芸術劇院で制作された『亀与鶴』や『両朋友』にも共通し、いずれも全国の皮影劇団に共有されていった。こうした「影絵人形劇の児童劇化」は、「社会主義国の児童文化」として、ソ連の人形劇製作者セルゲイ・オブラスツォーフの指示のもと、ソ連の人形劇や人形アニメを参考として政策的に推進されたものである*23。そして1960年代から1970年代まで、哈爾浜の省劇団は湖南とともにこれをリードする立場にあり、竜江皮影戯の「黄金時代」が到来するのである。しかしその後、状況は大きく変化する。

(影絵人形劇という)映画やテレビ以前に生まれ、現在の映画・テレビ・アニメ・マンガの先祖でもある独特の舞台上演形式は、近代的な娯楽の発展にともなって次第にマーケットから退場し、人々の視界から姿を消していこうとしている。現在、竜江皮影戯は芸人の高齢化が極めて深刻で、伝承者はほとんどが70歳から80歳であり、それ以下の芸人、特に若い芸人は少なく、ある役柄はすでに断絶し、人形の彫刻や、伝統的な上演技術、伝統的なメロディなど、いずれも失伝の危機に直面している*24

1990年代以降、改革開放政策が進展すると、省劇団の「児童向け社会主義的レパートリー」は観客が激減してしまい、一気に没落してしまうのである。また別の記事では以下のように述べる*25

「観客たちがこんなに支持してくれたことで、我々上演者は竜江皮影戯伝承の希望を見出すことができた。」「竜江皮影戯」第四代伝承者で、哈爾浜児童芸術劇院の副院長である薛兆平は言う。「現在、竜江皮影戯は後継者が急激に減少し、観客層も衰退している状況にある。」薛兆平は続ける。「哈爾浜児童芸術劇院皮影戯劇団は、影絵人形劇を上演するわが省唯一の専業団体だが、今や多くの影絵人形劇芸人は世を去るか、高齢になってしまっており、実力のある若い芸人は非常に少ない。劇団は今や2人だけの中高年の芸人が、16人の若い芸人を率いて上演・研究活動を行っている。劇団は自前の劇場が無いため、稽古をする場所も限りがあるし、上演も市街地の小中学校や一部の農村の学校だけとなっている。人形彫刻の技術も多くが失われ、その一部は失伝の危機に直面している。」

ここで薛兆平を「第四代」と言っているのは、双城影の「第三代」にあたる省劇団創設メンバーの次の世代だからであるが、両者の間には決定的な違いがある。省劇団は設立以降、伝統演目を行った形跡が無く、第四世代は『禿尾巴老李』以降の新作劇しか知らないため、戦前からの伝統演目は上演できないのだ。2011年に竜江皮影戯が国家級非物質文化遺産の指定を受けたことは先に述べた通りだが、他地域では保護の対象となった戦前からの伝統演目も、黒竜江の文化遺産政策実行の受け皿となった省劇団ではとうに失われていたのである。

かわりにかれらが保護の対象と考えたのは、省劇団の「黄金時代」に制作された、解放後の演目であった。現在の省劇団メンバーにとっては、戦後の「児童向け社会主義的レパートリー」こそが「伝統」なのである。

竜江皮影戯は1960年代と1970年代に一世を風靡したが、近年は次第に人々の目に触れることが無くなり、竜江皮影戯の愛好者も年々少なくなっている。『禿尾巴老李』・『猪八戒背媳婦』といった演目のメロディは今でも古い世代によって口ずさまれているが、前世紀に盛んに上演されたことはすでに歴史となり、文化的選択肢が多様化した中で影絵人形劇の観客は減少し、特に若い世代には全く未知のものとなってしまった。人材や設備の欠如も加わり、この伝統芸術は今や失伝の危機に直面している*26

実際、戦前の黒竜江では冀東系と満人系との二つのレイヤーのもと、流動的な戯班と土着化した戯班の両者によって影絵人形劇が行われてきただけで、「竜江皮影戯」なるものが形成されたのは省劇団においてであるから、その「特徴」が解放後の省劇団の上演を指すのも、当事者たちにとってはいわば当然のことであったのだ。

6.おわりに

以上、竜江皮影戯の特徴として現在行われている(一)東北各地の影絵人形の融合、(二)掐嗓子の不在、(三)音楽の独自性という三種類の言説を検討し、いずれも実際は戦後の省劇団において形成されたものであることを明らかにした。この背景にあるのは、戦後の党の宣伝工作の論理によって人選がなされ、形成された省劇団のレパートリーが、現在では黒竜江を代表する影絵人形劇と捉えられており、それと清末以来の伝統が意識的・無意識的に混同されて語られているという問題である。同様の言説は、非物質文化遺産政策も絡み、程度の差はあれ他の人形劇や地方劇においても行われているものと考えられる。「伝統」を戦前のものとして捉えて検討する場合は、混同して語られている可能性がある戦後の「伝統」の要素を注意深く切り分けて考えて行く必要があるだろう。

その一方で、戦後の「伝統」である新作劇については、従来あまり論じられて来なかったが、全国の県劇団で共有され、一時代を担った「新中国の児童向けコンテンツ」として、恐らく同じ枠組みで行われた新中国のセルアニメや人形アニメなどとともに再検討する必要がある。この問題については、また別稿で取り上げたいと思う。

* 本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会(平成22~24年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 拙稿「東北皮影戯研究のために――凌源および哈爾浜」,『中国都市芸能研究』第九輯(好文出版,2010年),頁5―18。
*2 “龙江皮影戏”就是融合江南影、江北影、关里影、辽宁影等不同风格影戏流派而形成、它形成于民国初年的哈尔滨道外北市场,当时人们称那里为“赛北京天桥”,也是各种皮影戏流派汇聚的地方。其中有江南影的代表双城皮影艺人、有来自冀东的“老&lang(zh-cmn-Hant){奤影”多个班社的著名演员、有来自沈阳“久清茶社”的影戏名师,他们分别在“北市场”的“朗荫轩茶社”、“陈白三茶社”、“南市场茶社”、“新民曲艺社”、“新颖茶社”、“馨香茶社”、“松花江茶社”、以及“同记影院”、“大国光电影院”演出。(「非物質文化遺産申報単·竜江皮影戯」)}
*3 早在晚清时,皮影就由一些民间艺人从河北带到黑龙江。后来,这些河北皮影艺人和黑龙江当地的艺人共同将皮影戏发展创新,自成一派,称为“龙江皮影”,与河北、湖南皮影并称中国传统皮影戏“三大家”。(「哈爾浜:伝統皮影戯煥発新生機」,新華網黒竜江頻道,2011-11-14,http://www.hlj.xinhuanet.com/news/2011-11/14/c_131244475.htm
*4 冀東皮影戯が「中国を代表する影絵人形劇」と見なされるに至った経緯については、拙稿「冀東皮影戯の『翻書影』について」,『中国都市芸能研究』第十輯(好文出版,2011年),頁35―46を参照。
*5 “龙江皮影与其他皮影流派相比,最大的区别在于唱腔。”于九文告诉记者,与河北传统皮影戏捏着嗓子的假嗓唱腔不同,龙江皮影完全使用真嗓唱腔,并在其中加入大量的黑龙江地方方言,凸显东北人的粗犷与豪迈。(「老芸人五十載“竜江皮影”伝承之路」,新華網黒竜江頻道,2011-10-31,http://hlj.xinhuanet.com/news/2011-10/31/c_131222050.htm
*6 龙江皮影戏,亦称驴皮影、东北影。相传从河北乐亭影始传入至黑龙江双城一带,后随着清兵大批骑丁的涌入,河北皮影艺人随之在龙江各地延长皮影戏,并深受农村群众欢迎,后来为满足群众的审美情趣,接受了当地的语音特色,并吸收了东北民歌曲牌和单鼓音乐的营养,并在唱腔上进行更改,从影人到音乐唱腔等,全面改观,形成了高亢、粗犷、激越的黑龙江独有的皮影艺术。(宋媛、郭陽「竜江皮影造型芸術審美特徴的分析〉,『黒竜江紡績』2011年04期,頁26―28。)
*7 前出「東北皮影戯研究のために――凌源および哈爾浜」、頁15―16。
*8 温长淮,男,1918年生,1979年去世,皮影世家。自幼随父卖艺求生,能拉会唱,组织能力极强。20岁时开始独担箱主,组织几位影匠流动演出东北各地。日本帝国主义投降后,他用皮影戏这个传统艺术形式,为社会服务,紧紧配合黑龙江地区土地改革运动和中心工作,演出许多新编皮影剧目,成为中国共产党有力的宣传工具。1950年温长淮代表松江省民间艺人出席为东北地区首届文代会,从此,温长淮影箱在双城、呼兰、阿城、宾县、尚志等地声誉起。1951年5月,由双城传入哈尔滨,成立了松江省民间艺术工作队,活跃在全省广大农村、乡镇,配合镇压反革命运动,新婚姻法法令和农村整党工作,演出了皮影戏不要马虎、小二黑结婚、小女婿、刘胡兰等。(「非物質文化遺産申報単・竜江皮影戯」)
*9 1946年双城土改开始,温长淮便带领一个皮影演出队,随土改工作队一起深入农村,宣传土地法大纲,宣传婚姻法,排练了白毛女、小二黑结婚、蒋介石的末日、刘胡兰等一批现代戏,在土改工作中发挥了很大作用,后来又为配合抗美援朝排练了美军暴行、二老捐献等剧目,这些节目不仅在双城演出,还被请到附近的五六个县演出,一时间温长淮皮影演出小组在当地造成了很大的影响。(于九文『影縁 中国民間伝統文化芸術――竜江皮影』,作者自印,2009年,頁45。)
*10 傅荣奎 男 1924年生 1940年跟他师付郑广成学艺“龙江皮影戏”唱影,主攻“净、生”两个行当,并学习了影腔主弦乐器“大四弦”,在当时,一有时间为广大老百姓演出“龙江皮影戏”,随同皮影艺人温长淮在东北地区演出皮影戏,他在演出中,独具特色的唱腔韵味,赢得了广大老百姓的认可,他不但能唱,而且还会拉大四弦,有时在演出中,还能操纵皮影,也是在东北地区家喻户晓的影匠。(「非物質文化遺産申報単・竜江皮影戯」)
*11 金传武 1928年生,黑龙江省双城县西北的农丰村人。1951年参加黑龙江省皮影团,是该团皮影艺术奠基人之一,1953年参加省首届民间艺术汇演,获优秀表演奖。1955年参加全国首届木偶皮影观摩演出大会,1958年参加东北三省赴福建前线慰问演出,1959年进京汇报演出,1961年参加全国巡回演出。金传武的唱腔艺术不断地提高,被观众誉为黑龙江皮影小“梅兰芳”,金传武的嗓音清脆、明亮、甜润,音域宽广,唱腔以委婉柔和、韵味醇厚、优美隽永、清晰细腻的风格为世人所称著。(魏力群『中国皮影芸術史』,文物出版社,2007年,頁445。)
*12 劉慶豊『皮影史料』,黒竜江省芸術研究所,1986年,頁61。
*13 高殿卿,1914~1988年,辽宁沈阳市人,从小喜爱皮影艺术,曾向王静轩、梁湘甫、王世斌、邵东方等师父学习拿、刻、拉、唱皮影戏各行当,在各位严师的指导下较快地掌握了各样技巧。1937年在沈阳北市场戴家茶社与关里皮影名家张绳武、高荣杰、郑久恒、李云亭、陈宝森、刘奎武、赵复礼等同台献艺,使其受益匪浅,技艺更进。随后在抚顺、锦州、四平、长春、双城、哈尔滨等地流动演出。1955年入黑龙江省民间艺术剧院任主要演员。同年他操纵的皮影戏《火焰山》参加黑龙江省音乐、舞蹈观摩会获优秀表演奖。1959年赴北京人民大会堂为全国群英会代表演出《秃尾巴老李》影戏受到好评。(前出『中国皮影芸術史』,頁446。)
*14 杨寡妇班旦行伴唱演员郭老天,近二十岁时,便在影坛驰名,成为旦行的圭臬,年轻的杨寡妇对他倍加重视。正当郭老天艺术火红的年代,突然坏了嗓子,唱不出影韵来。杨寡妇延医求药,为他百般调治,旦毫无效果。郭老天没有灰心,每天吊嗓喊声,但仍然唱不出影韵来。后来他用手掐着嗓子试唱,却意外地发生了奇迹,细腻悠扬的影韵脱口而出,郭老天的艺术复活了。从此,乐亭影就留下了掐嗓子唱法,先是唱“小”行的掐嗓子唱,后来各个行当都改成掐嗓子。(『楽亭文史第五輯・楽亭皮影』,中国人民政治協商会議天津市楽亭県委員会文史委員会、楽亭県文教,1990年,頁27。)
*15 杨寡妇班,又叫杨侍卫班,是现在人们记得的早期有名气的班社。杨寡妇是乐亭县新寨镇人,生活在嘉庆、道光、咸丰年代,主要活动在道光年间。杨家先人杨德润,乾隆丁卯年(1747)中武举,官居殿前侍卫。杨开基乙卯年(1795)中进士。随着家境发德发迹,杨家于乾隆间办起了“侍卫府班”。传到道光年,年轻的杨寡妇主持班社。杨侍卫影班主要是供内厅听用,也做些职业演出,包影户多位绅董富户,或名门望族。杨寡妇为了走向社会,扩大个人的影响,她把班社走向职业班社性质。(前出『楽亭文史第五輯・楽亭皮影』,頁26―27。)
*16 高述尧老先生编写的新四大部影卷的唱词格式,形成了适宜表达各种抒情的词句,增加了〔大板〕(即慢板),故事性增强、曲调丰富,音乐也好听了。人们把改革后的滦州影叫乐亭影。…(略)…乐亭名艺人冯兆祥、王兆坤因不满滦州影改革,带领家眷远走黑龙江省双城县正白五屯安家落户,以唱滦州影为生。时间长了,便与当地满族人的皮影戏,以及流入的“西边外影”融为一体,形成了黑龙江的“江南影”。(前出『皮影史料』,頁7。)
*17 瀋陽については劉季霖『影戯説』(好文出版,2004年)頁147に、また岫岩については張冬菜『中国影戯的演出形態』(大象出版社,2010年)頁190に言及がある。また現在は楽亭でも若い芸人の間では掐嗓子が廃れてきているという。劉栄徳、石玉琢『楽亭影戯音楽概論』(人民音楽出版社,1991年),頁32参照。
*18 前出『影縁』,頁48。
*19 秃尾巴老李是黑龙江地方流传已久的民间故事。传说:黑龙生于李姓家,落生之时,身后长尾,被父将尾割断,因而恢复龙体,跳入萨哈江内潜居。从此,他和两岸人民血肉相连,同情人间疾苦,保护沿江一带连年风调雨顺,五谷丰收,受到人民的赞颂。但这却因起了凶狠恶毒的白龙的嫉妒和仇恨。白龙依仗兵多势众,兴风作浪,祸害人间,企图加害黑龙,独霸萨哈江,挑起了一场黑龙、白龙之间的生死搏斗。黑龙在沿江人民的全力支援下,战胜了白龙换得了人间的幸福和安宁。人民为了感谢和纪念黑龙,将萨哈江改称为黑龙江。(「中国皮影・中国哈爾浜児童芸術劇院皮影劇団」パンフレット,頁2。)
*20 前出『影縁』,頁48―51、および高中興「禿尾巴老李」,『劇本』1961年09期,頁73―82。
*21 山東文登縣畢氏婦,三月間漚衣池上,見樹上有李,大如雞卵,心異之,以為暮春時不應有李,采而食焉,甘美異常。自此腹中拳然,遂有孕,十四月產一小龍,長二尺許,墜地即飛去,到清晨必來飲其母之乳。父惡而持刀逐之,斷其尾,小龍從此不來。後數年,其母死,殯于村中。一夕雷電風雨,晦冥中若有物蟠旋者。次日視之,棺已葬矣,隆然成一大墳。又數年,其父死,鄰人為合葬焉。其夕雷電又作。次日見其父棺從穴中掀出,若不容其合葬者。嗣後村人呼為禿尾龍母墳,祈晴禱雨無不應。(袁枚『子不語』巻八,『袁枚全集』第四集,江蘇古籍出版社,1993年,頁158―159。)
*22 祝秀麗、黄沢香「“秃尾巴老李”伝説的結構与意義」,『民俗研究』2010年3期,頁219―233。
*23 『亀与鶴』は湖南省木偶皮影芸術劇院を訪れたセルゲイ・オブラスツォーフの指示で1952年に、また『両朋友』は1960年にそれぞれ制作された。李軍『皮影生涯三十年』(著者自印,1999年),頁199―200。また、セルゲイ・オブラスツォーフ『人形劇――私の生涯の仕事』(大井数雄訳,晩成書房,1979年)を参照。
*24 随着现代娱乐业的发展,这种产生于电影、电视艺术之前,堪称现代电影、电视、动漫艺术的始祖的独特舞台表演形式正逐步退出演出市场,淡出人们的视野。如今的龙江皮影戏,艺人年龄老化非常严重,传人多在70至80岁,中年艺人特别是年轻艺人很少,有的行当已断档,手工刀雕彩绘、传统的表演技艺、皮影传统唱腔均面临失传的境地。(「伝統与現代結合 竜江皮影絶境中求新生」,中国非物質文化遺産網・中国非物質文化遺産数字博物館,http://www.ihchina.cn/inc/detail.jsp?info_id=1497
*25 “观众们如此捧场,让我们这些表演者看到了龙江皮影传承的希望。”“龙江皮影”第四代传人、哈尔滨儿童艺术剧院副院长薛兆平说,目前“龙江皮影”正呈现出传承人急剧减少、观众萎缩的局面。薛兆平说,哈尔滨儿童艺术剧院皮影戏剧团是我省唯一专业的皮影艺术表演团体,但大多数皮影戏艺人已离世或年事已高,有实力的中青年艺人稀缺,剧团仅剩两位中年演员带领16个年轻演员从事演出和研究工作。剧院没有剧场,排练场规模有限,演出只能面向市区中小学校和部分农村校园,影人雕刻制作绝技大部分也已流失,面临部分失传危险。(「伝統民間芸術重視“巴洛克”舞台竜江老皮影」,2011-01-13,http://www.hljnews.cn/fou_sh/2011-01/13/content_951882.htm
*26 龙江皮影戏在上世纪六七十年代曾风靡一时,但近年来却逐渐淡出了人们的视野,喜欢龙江皮影戏的人越来越少。《秃尾巴老李》《猪八戒背媳妇》等剧目的唱腔虽时常被老一辈人哼起,但上世纪兴盛的实况演出已然成为历史,多样的文化选择使皮影戏的观众越来越少,对于年轻一代尤为陌生。加上人才、设备的缺乏,这门传统艺术几乎面临失传。(前出「哈爾浜:伝統皮影戯煥発新生機」)

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