『都市芸研』第七輯/海寧皮影戯における蚕神儀礼

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海寧皮影戯における蚕神儀礼
――『馬鳴王』をめぐって

山下 一夫

1.はじめに

浙江省東部に位置する嘉興市は、養蚕業がたいへん盛んな場所として知られる。かつては同地域だけで中国における絹糸生産量の半分以上を占め、一帯で生産された絹糸は大運河を通って京師に運ばれただけでなく、上海や寧波などから海外にも輸出されていった。

その嘉興市に海寧皮影戯と称される影絵人形劇がある。旧時には多くの戯班が存在し、また杭州や上海にも伝播するなど、非常に盛んに行われた。ただ、これがいつ頃形成され、どのように伝承されてきたものなのか、またどのような受容層に支えられてきたものなのか、詳しいことは解っていない。宋室の南遷によって開封から杭州に移植された皮影戯が起源だとする説を唱える者もいるが*1、南宋の芸能が今日まで絶え間なく伝承されてきたと考えることは、中国演劇史の一般的な状況からして難しいだろう。また明代南戯四大声腔の一つである「海塩腔」の曲調を受け継いでいるのではないかともされているが、この方面における比較検討はなされておらず、詳細は不明である。いずれにしても現在、具体的な内容が解っているのは民国期以降の状況のみである。

さて、民国期に活動していた戯班を見ると、例えば郎家班は斜橋、徐玉林班子は木香村、魏柏栄班子は周王廟というように*2、いずれも嘉興や海塩などの城内ではなく、街から遠く離れた農村に位置している。これは、海寧皮影戯は、基本的には主に農村部において需要があり、また芸人も農民が業余で行うという、一種の農村芸能であったためである。こうした形態は、中国の多くの地域の皮影戯においても多く見られることではあるが、嘉興がほかと違うのは、農家が農作以外に養蚕にも従事していることであり、そのため当地の皮影戯は養蚕の習俗と結びついた特徴を有している。

具体的には、皮影戯と蚕神信仰との関わりである。嘉興市一帯では旧時、養蚕農家を中心に、蚕を司る神である「蚕神」が広く信仰された。かれらは蚕の無事な成長を願い、様々な方法でこの蚕神に加護を祈った。これによって生み出される儀礼空間において、海寧皮影戯は大きなマーケットを持っていたのである。

本稿ではそうした海寧皮影戯と蚕神信仰との関わりのうち、『馬鳴王』という演目の上演をめぐる問題を取り上げ、その性質について検討してみたいと思う。

2.皮影戯『馬鳴王』

2008年夏期に実施した調査において、海寧皮影戯の芸人である徐二男氏が口承で伝えてきた『馬鳴王』のテキストを採集した。徐二男氏は現在、塩官風情街演出班子に所属しているが、これは実質的に民国期に活動していた徐玉林班子の後裔で、同テキストもこの戯班に由来するものと思われる。以下にその全文を掲げる。

馬鳴王菩薩到府來,馬鳴王菩薩がいらっしゃって、
到倷府上看好蠶。あなたたちの所へ蚕を見にやってきた。
馬鳴王菩薩淨吃素,馬鳴王菩薩はお斎しか召し上がらず、
教得千張豆腐乾。たくさんの豆腐乾だけを所望される。
十二月十二蠶生日,十二月十二日は蚕の誕生の日、
家家打點蠶種腌。家々では蚕の卵を塩水に漬ける。
正月過去二月來,正月が過ぎて二月が来れば、
三月清明在眼前。三月の清明節はもう目の前。
清明夜裡吃杯齊心酒,清明節の夜は斉心酒を飲み、
各自用心看早蠶。皆で早生まれの蚕を見守る。
伯姆淘裡瞞得好,ご婦人が洗ってきちんと仕舞い、
包好蠶種放枕邊。蚕の卵をくるんで枕元に置いておく。
歇了三日看一看,三日休んで見てみると、
打開蠶種綠現現。蚕の卵から緑色の幼虫が出てきている。
快刀切出金絲片,金色の糸を切りとって、
引出烏蟻萬萬千。黒蟻のように群れる幼虫を引き出す。
梓樹花開睏出火,キササゲの花が咲く頃三度目の脱皮、
棟樹花開睏大眠。栴檀の花が咲く頃四度目の脱皮。
大眠捉得份量多,四度目の脱皮を終えた幼虫が多いと、
一家老小笑開臉。老いも若きも嬉しくてにっこり笑う。
當家大伯有主意,家の主人が考えて、
桑園地裡轉一轉。桑の畑を見て回る。
舊年老葉勿缺啥,去年の古い葉は欠けてはいないが、
今年要缺兩三千。今年は二三千足りないだろう。
當家娘娘有主意,家のおかみさんが考えて、
吩咐開出兩隻買葉船。船を二隻桑の葉を買いに行かせる。
一隻開到許村去,一隻は許村まで行き、
一隻開到章婆堰。もう一隻は章婆堰まで行く。
望去一片興桑園,一面の桑畑を眺めやり、
停脫船來問價鈿。船を泊めて値段を訊く。
昨日貴到三百六,昨日は三百六十まで値上がりしたのに、
今朝賤脫一大段。今日は大きく値引きしてくれた。
難為三攤老酒鈿,酒三樽分のお金を使い、
裝得船裡滿堆堆。船にいっぱいに詰め込んだ。
一櫓雙槳來得快,艪一つ櫂二つで漕げば速く進んで、
順風順勢搖到石坨邊。追い風受けて船着場までやって来た。
一根扁担兩頭尖,一本の天秤棒に二つの籠で、
一挑挑到大門前。担いで門の前までやって来た。
連吃三餐樹頭鮮,三度の飯を食べれば葉はもう無くなり、
個個通到小腳邊。蚕の幼虫がみな成熟してきた。
東山木頭西山竹,東の山は丸太で西の山は竹のよう、
起山棚接連圈。蚕を入れる木の棚を取る。
八十公公篤毛柴,八十のお爺さんは薪を集め、
七歲官官端拷盤。七歳の子供はしっかり盆を持つ。
前廳後埭都上滿,前の庭も後ろの土手もいっぱいになり、
還剩幾匾小伙蠶。あとは幾つかの蚕の幼虫が残るのみ。
上來上去嘸處上,あちこち登るが身の置き所無く、
一上上到灶腳邊。登って炊事場まで行ってしまう。
歇了三日望蠶訊,三日休むと繭を作りはじめ、
好像十二月裡落雪天。まるで十二月に雪が降ったかのよう。
大茧做得像香櫞,大きな繭は蜜柑のよう、
細茧做來像湯圓。小さな繭は団子のよう。
魯班仙師傳妙法,むかし魯班さまが素晴らしい技で、
做部絲車一萬年。糸車を造って後世に伝えた。
東邊踏出鸚哥叫,東では糸車の音が鸚哥の囀りのよう、
西邊踏出鳳凰聲。西では糸車の音が鳳凰の鳴き声のよう。
鴦鴣噠刮運絲響,糸を紡ぐ音は鴛鴦の声のよう。
夢絲臺上轉轉圓。糸はくるくる回り続ける。
粗絲要踏千萬兩,太い糸は千万両となり、
細絲踏出萬貫香。細い糸は一万貫となる。
敲落新絲棟不要,落とした新糸は棄てておけ、
等到來年好價鈿。来年になれば良い値になる。
南京客人聞得知,南京からは顧客が聞きつけ、
北京客人上門來。北京からも顧客がやって来る。
粗絲銀子用斛斗,太い糸は大きな枡で値を量り、
細絲銀子用斗量。細い糸は小さな枡で値を量る。
東至袁花並硤石,東は袁花と硤石に、
西至杭州古樓沿。西は杭州の古楼の沿岸まで。
南至沙田都賣到,南は沙田まで行って売り、
北及湖州太湖邊。北は湖州の太湖のほとりまで。
田像田地像地,田んぼは田んぼ、地面は地面、
團團四轉成方圓。くるくる回って丸くなる。
今朝做了皮影戲,今日は皮影戯をやりましたので、
年年吉慶保平安。これで毎年万事めでたし。
蠶花廿四分,蚕花が大豊作になり、
祝倷生意興隆。商売繁盛をお祈りします。

3.『馬鳴王』の上演

嘉興市一帯の養蚕農家では、清明節前後を中心として旧暦の三月から五月にかけて、蚕の幼虫が孵化する時期に戯班を呼んで皮影戯を上演し、繭糸の豊作を祈願する習俗があった。これを「蚕戯」と称する。現在では廃れてしまっているが、民国期には広く行われ、解放後の農業集団化まで続いていたという。

蚕戯上演に際しては、蚕神の一種である蚕花五聖の説話を演じる『三角金磚』が選ばれることも多かったが*3、特にこれに限るという訳ではなく、常演演目の中から点戯に応じて選ばれたものも行われた。ただその場合でも、最後に必ず前掲の『馬鳴王』が上演された。すなわちこの演目が蚕戯を特徴づけるものということになる。

『馬鳴王』は、それまで上演していた演目の背景や人形を片付けながら、白馬に乗った馬鳴王菩薩の人形を置くことで始まる。上演自体はあまり時間を要さず、唱い終わるとスクリーンとして使っていた綿紙を外して農家の女性に与える。これは「蚕花紙」と称し、縁起物として蚕の卵を包むために使われる。なお包むことを海寧方言で「包発」と言うが、これは「包拍」、すなわち「(豊作を)保証する」と同音であるという *4

嘉興市一帯には、崑劇・灘黄・花鼓戯・越劇・京劇などの人戯も分布しているが、これらが「蚕戯」の担当をすることが無いのは、一つには上演場所となる養蚕農家の広さや観客数の問題があるだろう。皮影戯は少人数での上演に適しており、費用も人戯ほどにはかからないので、うってつけなのである。

ただもう一つの理由として、海寧皮影戯自体の持つ宗教儀礼的側面も関係しているように思われる。『馬鳴王』の唱詞自体は養蚕の過程をユーモラスに唱う非常に通俗的なものではあるが、ただ冒頭部分で馬鳴王菩薩の来臨を告げることは大いに注目される。ここでは実際に人形を憑り代として馬鳴王菩薩の神霊が降臨していることを暗に示していると考えられるからである。これに続いて描写されている蚕の誕生から絹糸の出荷までの過程も、全体をこの馬鳴王菩薩が見守るという構成になっていると見なし得るだろう。上演に用いたスクリーンを縁起物として観衆に与えるのも、蚕花紙自体が神霊の憑依した人形を動かしたものであるからこそ、護符と同様の効能を期待できることになるのだ。こうした点から考えると、蚕戯および『馬鳴王』は、世俗的要素が強くなっているとは言え、宗教儀礼としての人形劇上演という性質を有していると考えられる。

実際、民国初期の郭店呉家角二和尚班子の「二和尚」や、郭店李家場馬廷峰班子の「沈小和尚」など、海寧皮影戯の芸人には和尚という言葉を名前に冠する者がいるが、これは野道士や拝懺和尚などが芸人に転じることが多かったためであるとされている *5。そうした点で海寧皮影戯は、浙江省の南に位置する福建省や広東省で行われ、宗教職能者が上演を担当する傀儡戯などに連なっていくものとも見なすことができるだろう。

4.皮影戯『馬鳴王』と民歌『馬鳴王』

さて、海寧皮影戯『馬鳴王』には、徐二男氏のテキストとは別に、海寧市檔案局が採集したテキストがある。これは「老芸人の口述に拠る」とするのみで、具体的な出所は明記されていないが、檔案局の資料整理に協力した皮影人形美術家の王銭松氏の提供になるものかとも思われる*6

両者を比較すると、基本的には同じ系統のテキストだと言うことができるのだが、檔案局テキストは韻文の最後の部分が異なっているほか、冒頭部分に徐二男氏のテキストには無い、馬鳴王の素性を語る以下のような一段がある。

馬鳴王菩薩下凡來,馬鳴王菩薩が下凡され、
身騎白馬坐蓮臺。白い馬に跨り、蓮台に座っている。
馬鳴王菩薩出身處,馬鳴王菩薩の出身は、
出身東陽義烏縣。東陽義烏県の生まれ。
爹爹名叫王伯萬,お父さんは王伯万、
母親堂上柳玉蓮。お母さんは柳玉蓮。
命裡算來無兒子,占いでは男の子は出来ない運命、
產生三個女裙釵。そして三人のお姫様が生まれた。
大姐二姐招夫去,長女と次女は結婚したが、
三姐年輕要修仙。三女は若くして神仙の修行を志した。
一修修到十六歲,十六歳まで修行をしたが、
十七歲上赴黃泉。十七歳の時に黄泉の国に赴いた。
三更托夢娘曉得,深夜に母の夢枕に立って知らせ、
香火燈燭接進來。線香の煙や蝋燭の灯りが絶えません。

このテキストによれば、馬明王菩薩はもともと「東陽義烏県」出身の女性で、上の二人の姉と違って自らは結婚せずに神仙となる修行を積み、何らかの理由によって十七歳の時に地獄へと下ったが、母親の夢枕に立って顕霊し、その後蚕神となったということになる。さて、中国で行われている馬鳴王という神格についてはすでに多くの先行研究があるが、基本的には晋・干宝『捜神記』巻十四「女化蚕」に見える以下の著名な蚕女説話の系譜を継ぐものである*7

昔のこと。ある役人が遠くへ出掛けることになりました。家には一人娘しかいませんでした。牡馬が一頭いて、娘はたいそう可愛がっていました。父のいない寂しさに耐えかね、娘は戯れに馬に言いました。「お前が私の父さんを連れて帰ってきてくれたら、私はお前のお嫁さんになってあげる。」馬はこれを聞くや、手綱を引きちぎって走り去り、まっしぐらに父親のもとへ駆けつけました。父親は馬を見てたいそう喜んで乗りました。ところが馬はやって来た方向を見て、悲しげに鳴きます。父親は言いました。「この馬は怪我をしているわけでもないのに、もしや家になにかあったのだろうか。」父親は急いで帰りました。馬の真心に打たれた父親は馬草をたくさん与えましたが、馬は食べようとしません。馬は娘の姿を見ると、喜んだり、怒ったりして嘶きます。こんなことが一度ならず起こるので、父親は不思議に思い、こっそり娘に尋ねてみたところ、娘は「きっとこのせいです」と、事の次第をつぶさに話しました。父親は言いました。「このことは誰にも言うな。家の恥になる。お前は家を出ないように。」そして石弓で馬を射殺し、皮を剥いで庭に置きました。父親が出掛けた後、娘は隣の娘と馬の皮のところで遊んでいましたが、足で皮を踏んで言いました。「お前は畜生のくせに、人間をお嫁さんにしようなんて考えるから、こうして皮を剥がれたのよ。自業自得よね。」その言葉が言い終わらないうちに、馬の皮がばっと娘を包み込んで、飛んで行ってしまいました。隣の娘は慌てふためいて助けることもできず、父親に知らせました。父親が帰ってきて娘を捜しましたが、どこにも見あたりませんでした。数日後、大木の枝の間で、娘と馬の皮が蚕となって、木の上で糸を吐き出しているのを見つけました。その繭はとても大きく、普通の繭とは違っていました。隣の娘が取って育てたところ、数倍の糸がとれたので、この木を桑と名付けました。桑とは喪という意味です。人々は争ってこの虫を飼いました。これが、今飼われている蚕の始まりです。

これとほぼ同内容の記載が唐・皇甫『原化伝拾遺』(『太平広記』巻四百七十九「蚕女」条)、明・無名氏『三教源流捜神大全』巻三「蚕女」などにあるが、いずれも娘は一人となっている。この蚕女説話は現代の嘉興市一帯でも行われており、同内容の民話が海塩県でも採集されているが*8、同地域ではこれ以外にも実に様々なバリエーションが分布している。例えば汪維玲氏は嘉興市の蚕神説話として以下のようなものを紹介している*9

蚕花公主は武員外の娘でした。ある時、員外は兵を率いて新市(含山の隣町)と戦いましたが、負けて敵に囲まれてしまいました。蚕花公主はどうしたら良いか途方に暮れ、以下のようなお触れを出しました。「父が新市で包囲されてしまいました。父を救って国境から脱出させることができた者と、私は一生添い遂げます。」お触れが貼り出されてからだいぶ経って、一匹の白馬がこれをはぎ取って、父親を救って戻ってきました。しかし員外は事情を知ってから、娘を馬と結婚させようとはしませんでした。蚕花公主は白馬のもとに嫁ぐことをあくまで主張したので、父親は一計を案じ、召使いを身代わりにして、清明節の時に婚礼を行いましたが、白馬に見破られてしまいました。白馬が暴れるので、員外は計略がばれたと解り、火で白馬を焼き殺してしまいました。蚕花公主は白馬が殺されたと聞いて、部屋の中で壁に身をぶつけて死んでしまいました。家の者は白馬と蚕花公主を別々に含山の山頂に葬りました。二ヶ月後、蚕花公主の墓から一本の桑の木が生えてきました。葉は鮮やかな緑色で、また肉厚でした。また、白馬の墓からはたくさんの蚕が現れて、ゆっくりと蚕花公主の墓の上の桑の木へと登っていき、葉を食べ始めました。

これを見た人々が蚕を飼ったのが養蚕の始まりであり、また嘉興市の西境にある含山は蚕花公主を祀る聖地となったという。これは明らかに、『捜神記』で言えば巻十四に見える「盤瓠」説話風に変化したバージョンである。そしてこの蚕花公主が馬鳴王だとされているが、説話の相違を受けてか、地域によっては両者は別個の神格だともされている。

『馬鳴王』は、こうした嘉興市に分布する蚕神説話の幾つかのバリエーションのうち、「三人目の娘」というモチーフを取り込み、かつ馬が娘を連れ去ってしまうという部分が他の要素に変わったものとすることができるが、これと同内容のものは実は当地の「蚕歌」あるいは「唱蚕花」と称する習俗で唱われている。これは毎月農暦の一日に、「馬頭娘」(馬鳴王)の塑像を載せた天秤棒を担ぎ、小鑼を叩きながら養蚕農家の間を回って、まさに『馬鳴王』というタイトルの歌を歌って歩くというものである。徐春雷氏の紹介しているテキストの冒頭部分は以下の通りである*10

馬鳴王菩薩坐蓮臺,馬鳴王菩薩が蓮台に座り、
到儂府上看好蠶。あなたたちの所へ蚕を見にやって来た。
馬鳴王菩薩坐在啥所在,馬鳴王菩薩は何処にいるかというと、
坐在東陽義烏縣。東陽義烏県にいらっしゃいます。

また、顧希佳氏の採集したテキストでは以下のようになっている *11

馬鳴王菩薩到門來,馬鳴王菩薩が門までいらっしゃって、
身騎白馬登蓮台。白い馬に跨り、蓮台に座っている。
馬鳴王菩薩勿是今年出,馬鳴王菩薩は今年現れたのではなく、
舊年出,去年現れたのでもなく、
宋朝手裡到如今。宋朝に現れ今に至ります。
馬鳴王菩薩出起啥地方,馬鳴王菩薩の出身は、
出在東陽義烏縣。東陽義烏県の生まれです。

また、嘉興市一帯ではかつて「騒子歌」という講唱文学の一種が行われていた。これは「桑子」「焼紙」「双嘴」とも称し、比較的長編の韻文を唱う芸能だが*12、これにも『蚕花書』という演目がある。ここでは馬鳴王菩薩がやはり三女となっているほか、父親の名前も「鄭百万」となっていて、内容的にも『馬鳴王』と非常に近い*13。蚕歌は曲調が騒子歌と共通しているため、前者のテキストはいわば後者の簡略版として作られ、唱われたものと思われる。

さて、上記の蚕歌を見ると、皮影戯『馬明王』とは内容的にも同じ蚕神説話のバリエーションを使っているだけでなく、韻文の構成や唱詞の字句などもほぼ同じものとなっている。つまり皮影戯と蚕歌は同じテキストを共有しているのである。

海寧皮影戯の他の演目は、テキストが台詞と唱詞に分かれており、演劇としての体裁を持っているのに対し、この『馬鳴王』は唱詞だけが延々と続くという点で特異であることを考えると、蚕歌で行っているテキストを海寧皮影戯が取り込んだものだとするのが自然であろう。蚕歌自体は旧時、養蚕農家の農民であれば行うことが出来る者が多かったことを考えると、皮影戯はそうした「誰もが知っている」歌を人形を使って上演することで、観衆の歓心を買うと同時に、人形を憑り代にするという皮影戯に特徴的なあり方をその上に被せることで、蚕神儀礼の体裁を整えたもの、とすることができるのではないだろうか。

5.おわりに

本稿で検討した蚕歌のテキスト『馬鳴王』と海寧皮影戯『馬鳴王』の関係を見ると、皮影戯は説唱からテキストを融通できるという状況にあることが解り、両者の分野上の近接性を見て取ることができる。かつて孫楷第は説唱芸能から人形劇に展開発展するという学説を唱えたが、『馬鳴王』においてはこれがテキストレベルで生じたものと言うこともできるだろう。

なお本稿で蚕神説話のバリエーションについて幾つか触れる所があったが、これは地域や集団によって異なる物語が行われていたことが背景にある。徐二男氏が伝承したテキストでは、冒頭の馬鳴王の素性を語る部分が存在していなかったのも、あるいはそこで語られていた内容が徐玉林班子と関わる集団の伝える説話と齟齬があったために削られたものなのかも知れない。

様々なバリエーションを持つのは一つの蚕女説話の内部だけのことではない。嘉興市一帯では馬鳴王菩薩以外にも実に様々な蚕神が信仰されており、しかも時にそれらは同一地域・集団において並立して存在するという現象も観察される。海寧皮影戯においても、蚕神の物語は他にも蚕花五聖という別の神格の由来を述べる演目『三角金磚』があり、『馬鳴王』とはまた異なる特質を有しているのだが、これについてはまた稿を改めて検討したいと思う。

* 本稿は、平成17~20年度文部科学省科学研究費・特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」民俗信仰班(「浙江・江蘇地域の道教・民俗信仰に関する廟宇・祭神・儀礼調査」研究代表者・二階堂善弘:課題番号17083038)による成果の一部である。


*1 江玉祥『中国影戯』(四川人民出版社、1992年)、228頁など。
*2 海寧檔案局(館)編著『海寧皮影戯』(山西古籍出版社、2007年)、13頁-17頁。
*3 海寧皮影戯『三角金磚』については、後述するように別稿を予定している。
*4 「蚕戯」の習俗については徐二男氏の教示による。また海寧檔案局(館)編著前掲書54頁を参照。
*5 海寧檔案局(館)編著前掲書14頁を参照。
*6 海寧檔案局(館)編著前掲書2頁に、徐二男氏や県劇団出身の沈聖標氏と並んで、この王銭松氏の名が上がっている。
*7 太古之時,有大人遠征,家無餘人,唯有一女。牡馬一匹,女親養之。窮居幽處,思念其父,乃戲馬曰:「爾能為我迎得父還,吾將嫁汝。」馬既承此言,乃絕韁而去。徑至父所。父見馬,驚喜,因取而乘之。馬望所自來,悲鳴不已。父曰:「此馬無事如此,我家得無有故乎.」亟乘以歸。為畜生有非常之情,故厚加芻養。馬不肯食。每見女出入,輒喜怒奮擊。如此非一。父怪之,密以問女,女具以告父:「必為是故。」父曰:「勿言。恐辱家門。且莫出入。」於是伏弩射殺之。暴皮於庭。父行,女以鄰女於皮所戲,以足蹙之曰:「汝是畜生,而欲取人為婦耶。招此屠剝,如何自苦。」言未及竟,馬皮蹶然而起,卷女以行。鄰女忙怕,不敢救之。走告其父。父還求索,已出失之。後經數日,得於大樹枝間,女及馬皮,盡化為蠶,而績於樹上。其蠒綸理厚大,異於常蠶。鄰婦取而養之。其收數倍。因名其樹曰桑。桑者,喪也。由斯百姓競種之,今世所養是也。
*8 「蚕花娘娘(海塩県)」。『中国民間故事集成・浙江巻』(中国民間文学集成全国編輯委員会・『中国民間故事集成・浙江巻』編輯委員会編、中国ISBN中心、1997年)、489頁-490頁。
*9 相傳蠶花公主是武員外的女兒,一次員外率兵去新市(含山鄰郷)打仗,兵敗被圍。蠶花公主情急無奈,乃出告示,云:“吾父被圍新市,凡能力救吾父出險境者,願將終身許配之…。”告示貼出已久,一匹白馬揭下告示,並就回了父親。但員外得知真情後,不許女兒與馬成親。因蠶花公主堅持要嫁給白馬,其父想了一法,以丫鬟代替公主,在清明節這天舉行婚禮,被白馬識破,白馬狂奔亂跳,員外見計敗露,火冒三丈,殺死白馬。蠶花公主聞説白馬慘遭殺害,在房中撞壁而死。家人把白馬和蠶花公主分別安葬在含山頂上。兩個月後,蠶花公主墳上長出一顆桑樹,樹葉青翠肥大;而白馬墳上出現許多蠶寶寶,這些小蠶慢慢爬到蠶花公主墳上的桑樹上,吃起樹葉來。(汪維玲「杭嘉湖蚕民信仰与養蚕禁忌」、『中国民間文化(94/4)』学林出版社、1994年。)
*10 徐春雷「蚕歌与蚕郷習俗」、『中国民間文化(第二集)』(学林出版社、1991年)所収。
*11 顧希佳「杭嘉湖蚕郷信仰習俗査考」、『民間文芸季刊』1986年第三期(上海文芸出版社、1986年)所収。
*12 海塩県志編纂委員会編『海塩県志』(浙江人民出版社、1992年)、772頁。
*13 県文化館が採集した馮茂章氏によるテキストが、中国民間文芸研究会浙江分会『騒子歌謡選』(中国民間文芸研究会浙江分会、1981年)に収録されている。