『都市芸研』第七輯/柳亜子と『春航集』

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柳亜子と『春航集』

藤野 真子

1.『春航集』出版の背景

柳亜子(1887-1958)の文芸活動において、演劇に深く関わったのは20世紀初頭のごく短い時期に限られている。最もよく言及されるのは革命的気概に満ちあふれた『二十世紀大舞台』「発刊詞」(1904)であり、多くの戯曲史で中国演劇史上重要なトピックスとして扱われている。しかし、これは柳亜子が継続的に演劇と関わってきた結果生み出されたのではなく、時代の潮流に乗じたプロパガンダ的言説と見なされるべきものである。一方で、柳亜子にはこうしたプロパガンダ的言説の対極とも言うべき、ある俳優に陶酔した結果生まれた大部の編著が残されている。初期上海京劇の名旦である馮子和をフィーチャーした『春航集』上下冊である。

後日柳亜子自身は、桂林において田漢や欧陽予倩らの主宰する歴史劇に関する座談会に参加した際、その席上で「私は演劇については全くの素人で、過去に阿英と史料についての討論をしたことはあるが、歴史についてもまた特に深く研究しているわけではない」*1と謙虚に語った。しかし、『春航集』出版に前後する時期の文章を目の前にすると、柳亜子がこうした「演劇の素人」としての自覚を持っていたとは考えづらい。

この点を鋭く攻撃したのが、おそらく同時代の上海で最も伝統演劇に対する造詣が深く、且つ厳格な批評眼の保持を自負していた劇評家の馮叔鸞である。彼の柳亜子に対する批判についてはこれまで拙論でも度々言及してきたが、あらためて『嘯虹軒劇談』(1914年中華図書館)に収録された、その名も「告柳亜子」という長文の一部を挙げてみたい。

(柳亜子が)芝居を語り党派をうち立てるのに至っては、ぬけぬけとえらそうなことを言っているが、ほとんど天人が大言壮語するようなものである。亜子はややもすれば『春航集』を彼方まで光を放つものだと誇るが、試しに尋ねよう、馮子和がかつてその名を上海中に馳せ、みなが傾倒したとき、誰が亜子の名など知っていただろうか、と。いま、『春航集』は世に出たが、馮子和の容貌・演技に対する名声は逆に昔ほどのことはなくなっている。上品にあざ笑って、春航(馮子和)を辱めているようなものだ。亜子は自らを反省せず、なおしきりに不平を述べ他人を戒めることに励んでいる。ああ、なんと厚顔なことであろうか。

全体に感情的な文章であるが、その言わんとすることを総括すると、演劇(伝統劇)の知識を十分に持ち合わせない人間がさも訳知り顔で演劇論をぶち、すでに落ち目の俳優を大々的に持ちあげるのみならず、演劇論の専門家たる自身に対して挑戦的な態度を取るのは怪しからんということに尽きる。実際、二人の間には激しい応酬があったとされるが、演劇に対する元々のスタンスに大きなずれがある以上、両者の議論は建設的たり得なかったことであろう。

馮叔鸞は中国の伝統演劇界に今日的な批評の概念を最も早く持ち込んだ一人であり、柳亜子に厳しい視線を投げかけるのもやむを得ない。しかし、馮叔鸞ほどの演劇的素養をもって劇評を発表していた人間はむしろ少なく、大多数の人々は彼が批判したように「自身の単純な好悪の念に基づき」その目で観た舞台を思うままに記していた。何をもって「批評」と言うのか、未だ社会的コンセンサスが得られていなかったこの時代にあって、今日的には正当であるかもしれない馮叔鸞の主張は、大方の賛同を得るには至らなかったのではないだろうか。柳亜子もいかに馮叔鸞に批判されようと、『春航集』を世に問うた時点では、馮子和を熱狂的に賛美する自身の言説に何ら疑問を抱いていなかったに違いない。

これまで筆者は馮子和に関する論考を著すにあたり、同時代の情報源としてこの『春航集』に多くを負っている。1910年代の上海においては、文芸雑誌の創刊、大新聞の娯楽欄における劇評(劇談、劇話)の登場と、演劇をリアルタイムで記録・批評する場は次第に確立されつつあったが、伝統劇に関する単著の出版はテキスト集(唱本、戯考)を含め、まだ少ない。ましてや一人の俳優について、これだけの紙幅を割いて記述した著作は見かけない*2。加えて、馮叔鸞のような批評を生業とする人物をはじめ、多くの京劇愛好者が北方の俳優を重視したのとは異なり、はじめから京劇の「正統性」「規範性」へのこだわりを持たない柳亜子の手により、上海京劇の一時代が切り取られ提示された意義は大きい。加えて、北方の四大名旦が隆盛期を迎える前夜であるこの時期、とりわけ梅蘭芳に先んじて、同じ旦である馮子和をメインで取り扱ったことは注目に値する。

かつて筆者は1999年発表の「柳亜子と演劇」(『季刊中国』第58号)第二章において、『春航集』の存在意義について触れ、柳亜子が演劇の素人であるゆえに該書の演劇改革における実効性は認めがたいものの、同時代の記録としては一定の価値を持ち、且つ一般読者向けの著作として「芸術と出版メディア、そして観客との有効な連携関係を作り上げた」と評した。この基本的スタンスについては現在も変化はない。また上記論文で繰り返し述べたが、柳亜子は馮子和という俳優と出会い、その舞台表現が文学者としての審美眼に叶ったからこそ演劇と深い縁を結ぶに至ったのである。ゆえに、『春航集』は馮叔鸞の批判をまたずとも、近代的演劇学の視点に立って見れば厳密な学問的裏付けに乏しく、馮子和の舞台に関する感想や彼に着想を得た作品を集めた柳亜子のプライベート文集としての印象が表面に強く出ていることは否めない。

上海近代演劇史においては主要な刊行物として必ずその名が挙がる『春航集』であるが、厳密にその内容を吟味した論考はほとんど見あたらない。また筆者自身もこれまでの論考においては、批評が本来備えるべき厳密性を重んじ考察したため、『春航集』の役割をややネガティブに捉えてきた。

今回、本論ではあえて『春航集』における批評性の有無を明確には問わず、伝統演劇の発展過程で生まれた出版物の一スタイルとしてあらためて分析を加える。以下、構成紹介など旧論と重複する部分もあるが、紙幅の関係で簡略化した部分も含め、『春航集』の具体的内容を再度分析することを通じて該書に如何なる評価を与えうるか検討するものであり、旧論の一部を発展させたものとして了解されたい。

2.『春航集』の構成とその内容

『春航集』は民国2年(1913年)7月、上海広益書局から刊行された。出版に至る背景については、同書「雑纂」に収録されている胡寄塵の「春航集紀事一」(54頁、『中華民報』*3原載)という一文で、以下のように述べられている*4

  • ①清末に馮子和を知った柳亜子は次第に彼に傾倒する。民国に入って『民声報』(『民声日報』、黎元洪創刊、1912年2月~?)の文芸欄を担当した柳亜子は、馮子和を賞賛する詩文を次々と発表する。
  • ②『民声報』を去った柳亜子は『太平洋報』(宋教仁創刊、1912年4月1日~10月18日)に活躍の場を移し、南社の同人らとともに多くの文章を発表する。
  • ③同年(1912年)秋に故郷の黎里に戻った柳亜子の仕事は胡寄塵が引き継ぐが、姚鵷雛らによる馮子和批判の文章を掲載した新聞を見ると怒り、逆に賞賛する文章を見ると喜んだ。また日々、友人たちに馮子和に関する書信を書き投函していた。
  • ④当時柳亜子に同調していた南社の同人は、林百挙、陳布雷、兪剣華、姚鳳石、龐檗子、葉楚傖、朱屏子、沈道非など非常に多かった。
  • ⑤葉楚傖が『民立報』(社長は于右仁、1910年10月11日~1913年9月4日)に、管義華が『中華民報』に入って馮子和支持の論陣を張るようになってから「馮党・賈党」(「賈」は賈璧雲)という語が使われるようになった。『民国新聞』(呂志伊創刊、1912年7月25日~1913年9月)の兪剣華も馮子和支持を掲げた。
  • ⑥『春航集』の祖型にあたるものとして姚鳳石と柳亜子が小冊子の刊行を計画していたが、『璧雲集』*5出版を知り、刊行を決定した。1913年初夏に上海に出てきた柳亜子は胡に原稿を渡すと、同人らとともに馮子和の寓居を訪問、馮から写真二十枚余りを贈られる。柳亜子にとっては馮子和に傾倒して10年、初めての邂逅であった。

 

なお胡寄塵自身はこの文の最後で、自分は馮子和に関する「詩詞」は著さなかったが、『太平洋報』在籍時に書いた「批評」数本を『春航集』に収録したと述べている。

以上、馮子和に関する出版物の刊行は元々予定されていたものの、ライバルの花旦・賈璧雲をフィーチャーした『璧雲集』出版情報に危機感を覚えた柳亜子は、『春航集』の出版を早めたのではないかと推定される。また、『春航集』の奥付には柳亜子「編」、胡寄塵「校訂」と書かれているが、上記⑥を鑑みるに、『春航集』の祖型は柳亜子によって構想されており、初夏に上海で原稿を渡された胡寄塵がそれを整理したのであろう。一方、当時すでに雑誌や単行本の見返しへの写真掲載はよく行われており、特に馮子和を視覚的側面からも賞賛した柳亜子にとって、写真の掲載は言わずもがなであったことは想像に難くない。

続いて『春航集』各章について、それぞれ内容を分析していく。全体は「文壇」、「詩苑」、「詞林」、「劇史」、「劇評」、「雑纂」、「附録」、「補遺」の8章で構成されており、通しではなく各章ごとに1から頁が付されている。また一部異なる系統の人物も含まれるものの、執筆者の多くは南社の同人である。もっとも以下述べるように、その発言は意外にバラエティに富んでいる。

「文壇」

全25篇。柳亜子および南社の同人による書簡集である。一部「亜東戯迷」のような部外者と思われる人物の書簡も含まれる。一部往復書簡も見られるが、多くは単体で掲載されている。また、2、3通連続して書かれているケースもある。

古くから中国において「書簡」は単なる私信ではなく、著名な政治家や文人の場合は後年個人文集に収録されるなどして第三者の目にも触れる可能性があり、言わば文芸ジャンルの一つであった。「文壇」という題が付されていることからも明らかだが、『春航集』における書簡もまた「読まれる」ことが想定された文体および内容となっている。日付が記されていないため、掲載内容は必ずしも時間軸に沿っているとは限らないが、陳布雷「与柳亜子書」(11頁)に『太平洋報』文芸欄主編を胡寄塵が代行していることが明記され、馮子和の舞台消息をわざわざ柳亜子に知らせる内容も散見されることから、1912年秋に柳亜子が黎里へ帰ってからの書簡が中心ではないかと推測される。

柳亜子に宛てられた書簡から見いだせる各人のスタンスだが、基本的に柳亜子の馮子和賞賛に追随する者が多い。例えば兪剣華「与柳亜子書」(4頁)は長文の書簡であるが、馮子和主演の新編悲劇『血涙碑』について、「鉄石の如き心の持ち主でも必ずや感じ入る」と述べ、その悲痛なさまを屈原の「離騒」になぞらえている。一方で、この章には馮子和に対して積極的な評価を与えなかった、あるいは他の俳優を評価したという理由で柳亜子の不興を買った雷鉄厓や姚鵷雛による書簡も収録されている。特に後者は賈璧雲に与したと見なされたようだが、本人自身は中立でいずれにも与しないと弁解している(姚鵷雛「与柳亜子書 其二」19頁)。また当人以外の人々は、柳亜子宛の書簡で彼らを批判したり(兪剣華「与柳亜子書 其三」7頁)、逆に弁護したり(姜可生「与柳亜子書 其三」17頁)している。他方、柳亜子自身は批判や忠告めいた書簡を受け取っても、馮子和への賞賛の念はいささかも揺がなかったことが彼自身による多くの書簡から見て取れる。

この章ではイレギュラーな存在として、おそらく南社関係者ではない*6「亜東戯迷」を名乗る書き手による二通の書簡が挙げられる。片方は管義華に宛てられたもの(「与菅義華書」20頁)で、冒頭にて馮賈いずれにも与せずとして中立な立場を宣言しつつも、『図画日報』に掲載された「天酔」なる人物の賈璧雲賞賛と馮子和批判に対し、直截な表現で反対意見を述べている。もう一通は、伝統劇と新劇双方に通じ、劇評家として定評のあった鄭正秋*7に宛てたものであるが(「与鄭正秋書」22頁)、これは鄭が『図画日報』の編集に関わっていたがゆえにその見解を質したもので、内容的には「与管義華書」と大枠で重なるものである。ちなみに管義華は上記⑤で述べたように、馮子和を強く支持する人物の一人であった*8。さらにこの章には、管義華宛てに「梁軒」と署名された書簡(「与管義華書」24頁)が掲載されているが、この人物は「視野を幅広く持ち、南北の花旦を統べて観た」結果、悲劇を善くする馮子和が最も優れると述べている。

「詩苑」、「詞林」

「詩苑」(全74篇)*9「詞林」(全13篇)は前者が七言詩、後者が長短句からなるが、いずれも柳亜子と南社同人らの手になる韻文作品であり、柳亜子、ないしは同人同士の唱和や連句の形態を取るものもある。多くは馮子和の演技や劇の一場面をモチーフにしたり、演技や扮装にインスピレーションを得るなどして、舞台とは直接関係のない内容を描いたりした作品である。

言うまでもなく、これらの韻文を厳密な意味での記録と見なすことはできない。もっとも、従来から繰り返し述べてきたように、こうした文章に全くデータとしての価値がないわけではなく、中には具体的な演目名や上演場所、日時が記載されたものもある。例えば、「詩苑」冒頭の「呉門観劇贈春航」(柳亜子、1頁)のように、題名に場所や演目のみ記されていることもある。この場合史料性は低いが、馮子和が上海以外の場所で上演した事実を探る手がかりぐらいにはなろう。また、「詩苑」「詞林」ともに韻文作品本体ではなく、副題や解題、場合によっては本文中に付された割り注部分に俳優や作品の背景、あるいは書き手の状況に関する情報が記されているケースがある。

一例を挙げると、林一厂(百挙)「観春航演児女英児伝新劇賦贈」(「詩苑」8頁)では、解題にこの詩を書くに至った背 景*10が述べられた後、四首連作の七言詩が掲載されているが、各首の最後にそれぞれ「初出遇安龍媒遇難時」「入能仁寺撃殺衆僧時」「入寺地室救張金鳳烈女引其父女相見時」「在寺為安龍媒与張金鳳指婚時」といった形で、当該の劇におけるどの場面をモチーフにしたのかが簡単に注記されている。肝心の韻文本体については、例えば三首目は「紅氍毹忽変修羅、誰向幽宮出素娥……」といったもので、ある程度演技に沿った描写がなされているものの、基本的には抽象化された表現に終始しており、批評はおろか、場面の復元のみを目的としても情報量が十分だとはいえない。なお、この林一厂には他にも「観春航演陰陽界悲劇」(「詩苑」9頁)、「杜十娘曲」(同12頁)など、具体的な演目名を挙げた作品があり、後者は感動のあまり4回も観に行ったことが解題で述べられている。

また興味深いのは石篁の「春航詞」(「詩苑」28頁)で、解題には『春航集』の出版を知り、当該の詩を書いたのだが収録して貰えるだろうかという旨のことが書かれている。やはり詩句自体には別段採るべき情報はないが、長段の詩ながら詩句の末尾に一つ一つ長短の解説が付いており*11、内容も多岐に渡っている。例えば「睡破眉山不更描」という句には「春航の化粧は薄く淡く施されていて自然で美しいもので、他の者が厚塗りしているのに比べれば天と地ほどの差がある」という注記がなされている。この詩にはさらに、馮子和の舞台歴、大トリの俳優は最後に名前が挙げられるといった演劇界の決まり*12、さらには「女性に指輪を贈られたが断った」といったゴシップめいたエピソードまで注記されている。

その他、概して韻文本体は表現的に装飾が施されてはいるものの、中には馮子和の演技全般における美点、扮装の具体的様相、劇の見どころを把握する一助と見なしうる作品もある。

もっとも柳亜子や南社の同人たちは、馮子和の美貌のみを賞賛したわけではない。『二十世紀大舞台』「発刊詞」における発言スタンスの流れを汲み、『春航集』においても馮子和の演じる新作劇の内容や扮する人物の思想性、および同時代的意義について、目配りがなされた文章も散見される。

新作劇、しかも時装劇を得意とした馮子和の演技が、おそらく旧来からの花旦や青衣像の枠を超えていたことは各種記事からも明らかだが*13、柳亜子はこれをよしとしない一群の人々とおのずと対峙する立場をあえて選んだのだとも言えよう。

「劇史」

この章は馮子和の代表作である悲劇『血涙碑』の、柳亜子による詳細なストーリー紹介*14のみで構成されている。『血涙碑』の脚本は残っていないため、当該の劇について唯一詳細に描き残した文章と見なしてもよいだろう*15。同時代にもストーリーの概略を記した著作はいくつかあるが、書き手の主観に基づいてダイジェストが行われるため、肝要な部分が削除されている可能性も否めない。しかし柳亜子はこの文章において、一日2本という上演スタイルに基づいて相当詳細に場面を復元しており、加えて重要な科白も一部収録されている。この手の文章としては、最も詳細な記録がなされた例だと言ってよい。なお、他の章にも『血涙碑』の各場面に関する断片的な記事が記載されている。

「劇評」

『春航集』において最もボリュームがあり、且つ馮子和の舞台に関する具体的な内容が記されている章である。散文体で書かれているため表現上不要な装飾は少なく、直截な言葉遣いに終始している一方、名称こそ「劇評」となっているものの内容的には「批評」というよりはむしろ「記録」としての性質が強い*16。この章は大きく4つの部分(4名の執筆者)に分けられ、いずれも新聞等に連載した文章を採録したものと考えられる。惜しむらくは他の章同様、『春航集』掲載にあたって記事掲載の日付がほとんど書かれていないことであり、掲載紙原本が残存していれば確認のしようもあるが、散佚している場合は『春航集』が唯一のテキストとなる。

まずこの章の半分を占めるのが柳亜子による「簫心剣態楼顧曲譚」という題の劇評だが、これに関しては本人による同名の劇評が『民声日報』に掲載されており、それを採録したものであろう。柳亜子本人の見解のみならず、友人知人の見解(書簡や詩詞を含む)を紹介している文章も見られる。書き出しは『血涙碑』の再演に関する記事で、馮子和がこの劇を上演した歴代の舞台名が順に挙げられている。『血涙碑』の詳細は「劇史」で語り尽くされているが、再演状況をトレースすることで、その間の改編整理の様相を知ることもできよう*17。一方で、各演目の場面が断片的に紹介されていることもあり、ここから舞台の様子をある程度伺い知ることができる。再び『血涙碑』を例にとると、「深夜作書」という場面での科白としぐさ、「琴歌」「寄宿」での歌(「葉楚傖之馮春航談」2頁*18)、‘Meet me by moonlight’という歌詞を含む西洋の歌を唱う場面があるこ と(「蘇曼殊之馮春航談」2頁)*19、「公堂桚指」「法過繯首」「旅舎鞭笞」「嘔血絶命」(以上2頁)といった各場面の名称*20、最終場面で主人公二人が死んだのち復活する場面における科白*21(4頁)など、細切れながら当該作品に対する情報が提供されている。この劇は何度か再演されており、その折にもまたあらためて劇評が書かれている(「馮春航重演血涙碑」14頁、「千呼万喚之血涙碑」25頁)。他方、柳亜子はこの「劇評」において、自身と馮子和の関わりを初めて舞台を観た時から時間軸に沿って紹介しているが(5~8頁)*22、ここに記された馮子和の所属劇場・上演演目・共演者の名前などは、『申報』をはじめとする新聞広告がもたらす情報の補助的役割を果たすものである。同時に、この文章には馮子和の舞台内外でのエピソードなど、俳優個人の伝として興味深い記述も見られる。さらに最も有用なデータとして上演演目ごとの記事が挙げられる。この章においては『血涙碑』をはじめ、『百宝箱』(8頁、21頁)、『梅龍鎮』(8頁、17頁)、『玫瑰花』(11頁)、『児女英雄伝』(12頁)、『貞女血』(16頁、『刑律改良』の別名)、『花田錯』(17頁)、『花魁女』(18頁)、『沈香牀』(18頁、馮子和主演ではない)、『誘妻還妻』(19頁)、『烏龍院』(20頁)、『江寧血』(20頁)、『恨海』(21頁)、『宦海潮』(22頁)、『機房教子』(22頁)、『陰陽河』(23頁)、『義妖伝』*23v(23頁)、『樊梨花』(24頁)、『黒籍冤魂』(24頁)まで、伝統演目・新作劇を問わず20もの演目への言及がなされている。多くは「いつ誰と観た」ということのみ記された文章だが、『玫瑰花』では原作と簡単なストーリー、『児女英雄伝』では頭本~第8本まで2本ずつに分けた上での各場面の紹介、『貞女血』では舞台での呉方言使用の事実、『誘妻還妻』『宦海潮』では比較的詳細なストーリー、『江寧血』では「新名詞」の多用と共演者の演技など、演劇史的に重要な記載も見られる。この中には馮子和の演劇界からの退場とともに演じられなくなり、こんにちでは忘れ去られた演目も含まれる。

さて、馮叔鸞に「演劇の素人」と揶揄された柳亜子だが、『血涙碑』で馮子和扮するヒロイン梁玉珍が実の姉に虐待される場面でその悪辣さに真剣に怒りを覚えたことなど(3頁)、完全に舞台世界に引き込まれたコメントを手を加えずにそのまま書き出すなどしており、確かにこういった態度から客観的な批評眼を見出すことは難しい。また、舞台に関する言及対象は視覚的要素に偏っており、伝統劇に一家言持つ劇評家であれば必ず言及するはずの音律や曲調に関する記載が一切なく、あったとしても非常に感覚的なレベルにとどまっている。

しかし視点を変えてみれば、演じる側にとって柳亜子のような人物こそ理想的な観客でありファンである。馮子和が活躍した上海京劇界は、その大胆な革新性と、時に無節操ともいえる作劇や演出により、もとより京劇愛好者を自認する人々からはおおむね非難されてきたが、一方でその人気を支えたのは、舞台を観て純粋に喜怒哀楽の念を表現するような大勢の「一般のファン」であった。後に彼らは柳亜子と同じように「私は演劇の専門家ではないが……」と断って、舞台に関する見解を自由に述べるようになる*24。柳亜子の演劇に対するまなざしや振る舞いは、まさにこれら「一般のファン」による文章の先駆けといえるものだが、これについては後述する。

以下、胡寄塵の「太平洋文芸批評」(『太平洋報』原載)、之子(南社同人の葉楚傖)「横七豎八之戯話」(『民立報』原載)、定仙*25「梨園羼抹」(部分。掲載紙不明)が収録されている。

『春航集』の校訂者である胡寄塵の「太平洋文芸批評」では、まず柳亜子の馮子和への傾倒ぶりに対して批判的な姚鵷雛の言(1頁、「鵷雛之馮春航観」)が冒頭に掲載されているが、これこそが「柳亜子の不興を買った」文章であろう。さほど強い調子での批判ではないが、柳亜子の盲目的ともいえる馮子和賞賛をたしなめると同時に、馮子和自身に対しても幾分ネガティブな評価を与えたものである。胡寄塵によると、柳亜子は「この稿を退けて採らなかった」が、胡自身は賞賛と批判とを併記することで自ずと「真相が現れる」(31頁)と考え、これを掲載した。以下、柳亜子と胡寄塵、姚鵷雛との間の書簡が掲載されるが、これを読む限り、柳亜子は外部のみならず、身内にまで自分の馮子和支持に疑念を呈する者がいたことに憤慨している。また高天梅(旭)、何競南、金蘭畦ら他の文人たちの「馮春航観」、およびお互いをめぐるやりとりが掲載されるが、時折挟みこまれる胡寄塵の文章が仲裁者の立場を採っているのが興味深い。実は胡寄塵が述べているように、彼自身の文章をはじめこうした異なるスタンスの文章を収録したことにより、『春航集』は馮子和賞賛一辺倒の翼賛的書籍となることを逃れたのだともいえる。もっとも「文芸批評」という題ではあるものの、賞賛意見はもちろんのこと、批判的意見もまた具体的見解に乏しく、「批評」ということばが「対象を取り上げて語る」という段階であったことが見て取れよう。

三つ目の「横七竪八之戯話」は署名之子(葉楚傖)、『民立報』に掲載された劇評である。『民立報』には宋教仁らそうそうたるメンバーが編集や執筆に名を連ねており、同時代のものの中では現在でも比較的よく見ることのできる新聞である。また全体を通読すると、「横七竪八之戯話」の文章は時間軸に沿って並べられているようである。次にこの書き手のスタンスであるが、書き出し(43頁)を見る限り、「騎牆」、つまり当初はどっちつかずの態度で、南社内での馮子和をめぐる論争の傍観を決め込んでいたものの、「馮春航を弁護」する者から支持者の列に加わるよう要求する書簡を受け取り(43頁)、これに同意することとなる。この之子の態度については、『民立報』のこの欄が衆目に触れるものだったこともあり、柳亜子や他の同人に度々本意を確認されていたようである(44頁、46頁)。さて、この「横七竪八之戯話」は、他と異なり馮子和以外の俳優、ことライバルの賈璧雲に関する記事が多い。例を挙げると、大舞台における賈璧雲の演技と声質の劣化(48頁)、得意演目と演技の変質(48頁)、『蝴蝶夢』を演じた時のハプニング(51頁)、チャリティー上演における様子(52頁)などの記述が見られる。賈璧雲に対する視線は総じてネガティブだが、馮子和の熱狂的支持者のように些細なことをあげつらい、激しく攻撃するといった態度ではない。また馮子和自身については早期の『百宝箱』観劇(46頁)、南下してからの消息(50頁)などが挙げられるが、これも浮き足だった言辞に飾られたものではない。他には、紅楼夢劇に関するコメント(50頁)や、馮子和や賈璧雲をはじめ南北の名優を古今の名人になぞらえて評した文章も見られる(49頁)。また絶対数は少ないが、目睹した舞台について、俳優の演技、場面、科白など比較的具体的に記述した文章も見られ、「劇評」としての初歩的な要素を備えているものと見ることもできる。ただ、これらの記述内容をあらためて総覧すると、やはり之子は「騎牆」のままであり続けたようである。

最後の「梨園羼抹」は部分採録である旨小題に断り書きが付されている*26。全体の調子からして、書き手の定仙はおそらく南社とは無関係、ないしは柳亜子とさほど親しい人物ではないものと思われる。一つのパラグラフは比較的長く、本人も「私は篤く芝居を嗜むものである」(56頁)と述べているように、南社の同人たちよりは演劇に関する造詣が深く、演劇を語る「ことば」を備えた人物であることが容易に推測できる。馮子和のみを特別視する人々には批判的であり(53頁)、基本的には馮・賈のいずれにも与しない(55頁)と述べているが、毛韻珂や賈璧雲など他の旦と並べて各々の特徴を比較し、演目をタイプ別に挙げて各自の得手不得手を示した上で(54頁、59頁、63頁)、総合的に馮子和に高い評価を与えている(むしろ賈璧雲に対しては若干ネガティブな視線を見出しうる)。中には、馮子和は「(その)精神は新旧を炉で一つにするところにあり」、賈璧雲が旧人の型を守り変えない点とは異なると述べているものもある(54頁)。一方、定仙は俳優百人を五等にランク分けし(56頁)、馮子和を譚鑫培、夏月珊らとともに「芸、徳ともに備わった」一等7名の中に組み入れている*27。ちなみに賈璧雲、毛韻珂、そして梅蘭芳など同時代の他の名旦は二等とされた。また、この「梨園羼抹」には馮子和の『血涙碑』のみならず、他の俳優による当該の劇のバリエーションに関する言及もあり、共演者の名前や演技の水準が具体的に記されている(58頁)。他に馮子和主演の『鄧憶南』について、上演場所、共演者、ストーリーと人物の背景などが比較的詳細に紹介されている。当該の劇に言及した言説はあまり見られず、且つ4頁ほどを割いた長文であることを併せて考えると、貴重な記事であるといえる。

「雑纂」*28

全33篇。他の新聞雑誌に掲載された馮子和やその上演演目に関する文章を収録したもので、「劇評」とともに『春航集』において最も資料としての価値が高い章である。書き手には南社の同人・非同人の双方が含まれ、「劇評」が特定の出版物に一定期間連載されたものであるのとは異なり、長短の単発記事を中心とする。掲載紙は多岐に渡り、中には各種目録類にその名がみえないもの、現存しないと思われるものも含まれる*29。一方、これまでの章(主に「劇評」)に挙げられた文章と相互に言及しあう関係の文章や対峙する立場の文章もここに収録されている。ただし他の章と同じで、観劇記事であってもやはり具体的な年月日を記載したものは少ない。

最も多いのは、馮子和のライバルと目されていた賈璧雲との優劣比較に関する記事である。俳優としての本質的相違から優劣は判断しにくいとするもの(阿厳「花部宵譚」3頁他)、両者を南(馮)北(賈)演劇の優劣に擬するもの(義華「馮春航与賈璧雲」7頁)*30、「芸」(馮)と「色」(賈)という要素に分けて論じるもの(履生「論馮賈」14頁)、両者の品格を支持者の品格に求めるもの(裴郎「馮賈優劣譚 其二」23 頁)*31、賈璧雲の演技を激しく非難するもの(死灰「忠告賈璧雲」38頁)など書き手のスタンスは多様である。この中では『図画劇報』に掲載された一連の「論馮賈」(6篇)が、書き手はそれぞれ異なるものの比較的中立な立場で両者の差異を論じている。いずれにも共通するのが、「新作・悲劇を得意とし、静謐な演技をする」馮子和、「伝統演目に長じ、艶麗な演技をする」賈璧雲という比較の構図である。『図画劇報』における書き手たちは演技における根幹的な差異をもって両者に優劣を付けることを「あまり意味のないことである」と述べ、どちらかに与し徒党を組む人々とは距離をおいている。付け加えると、『春航集』にはさすがに収録されていないが、『図画劇報』には天酔なる人物による馮子和を誹謗した投書が掲載され、支持者の間で物議をかもしたようである(杏痴*32「有心人語」27頁他)。このあたりの事情を考慮すると、6篇の「論馮賈」の執筆・掲載には、議論の激化を抑えようとする意向も働いていたのではないだろうか。加えて、賈璧雲を含めた同時代の他の旦と比較する形式の記事も何編か見られる。例えば戯癡は『図画劇報』掲載の「余之滬上花旦観」(48頁)という記事において、馮子和、毛韻珂、賈璧雲、林顰卿ら8名に対し、それぞれ「姿態」「做工」「道白」「声調」の各項目について上・中・下の三段階評価を施している。当然全ての項目において「上」が付けられているのは馮子和のみであり、毛、賈の両名については「上」「中」がそれぞれ二項目ずつになっている。また管義華も「評上海之花旦」(51頁)という文章において、それらの俳優に対してそれぞれ短い評を付けている。

他方、馮子和のみに言及したものとして、『血涙碑』をはじめとする観劇記事も多い(雍千「劇談」1頁)。『血涙碑』については、杏痴「観血涙碑雑記」(32頁)が4頁に渡る長い記事を書いている。これには、杏痴が全8本を2本ずつ4日間連続で演じられる『血涙碑』の二日目・四日目を観たことが述べられている。全体的に書き手自身の感想を記すことに重きが置かれているものの、各場面について順を追って記されており、且つ主演の馮子和のみならず脇役のキャストや演技にまで言及されている。また、涙雨の「観劇雑誌」(25頁)は『孟姜女万里尋夫』*33初演に関するものであり、幾つかの場面における馮子和や相手役の演技が記録されている。

さらにこの章には馮子和の小伝に相当するものとして、穉蘭「馮春航之別史」(42頁)、漫葊「春航集紀事二」(56頁)、明輔「馮旭初小伝」(57頁)、同「馮旭初軼事」(58頁)などが掲載されている。いずれも馮子和の芸歴や生活歴、こまごましたエピソードを記したものだが、中でも「馮春航之別史」を著した穉蘭は馮子和の幼なじみを自称しており、「別史」の名の通り馮子和の人となりがエピソードとともに綴られている。

以上、この章もまた馮子和を中心とする文章が大勢を占めているものの、同時に当時の上海における他の旦の勢力や支持層、流行した演目や演技的特徴に関しても、多くの情報が提供されている。

「附録」

この章は一篇を除き、すべて柳亜子の手になる文章で構成されている。また、言及の対象となっているのは馮子和ではなく、有力な文明戯団体の一つであった民鳴社の女形として、この時期頭角を顕しつつあった陸子美であった。後日、この『春航集』に続き、陸子美をフィーチャーする同趣旨の書物『子美集』*34を出版した柳亜子であるが、この「附録」掲載の文章にはすでに子美に傾倒している様子が見て取れる。なお、陸子美は民鳴社で『血涙碑』を比較的オリジナルに近い演出で上演したとされるが*35、その証左となるのが冒頭に挙げられた長文「血涙碑中之陸郎」であろう。この文章は実に8頁に渡り、「劇史」で述べられた『血涙碑』の内容と比較することにより、京劇と文明戯との間で移植された演目がいかなる形にアレンジされたかを知る手がかりとすることもできよう。また短い記事ではあるが、これに続いて『恨海』の観劇記も掲載されている(9頁)。以下はほとんどが韻文作品となるため詳細は省略するが、最後の「将赴海上訊子美疾」*36という五言詩に付された後書きには、柳亜子が陸子美を識り、賞賛するようになるまでの経緯が記されている。

「補遺」

この章に掲載されている文章は、文字通りこれまでの章から漏れた書簡や韻文であるが、一方で越流による馮子和宛の書簡はこの章にのみ見られるもので*37、自身が観た馮子和自身の舞台に対する感想、ストーリーに対する意見などが直截に述べられている。また、「不平」と署名された書き手による『図画劇報』宛ての書簡(3頁)、当該の書簡で「馮春航之別史」を批判された穉蘭による返信(8頁)、不平を諫める越流の警告文(12頁)が相当の頁数を割いて掲載されている。

以上『春航集』各章について、それぞれの記述スタイル、内容、執筆者のスタンス等を中心に述べてきた。馮子和に対するあからさまな批判こそないものの(基本的にはほとんどが肯定的内容である)、柳亜子に単純に賛同し、ともに熱狂的な支持を表明する文章ばかりではなく、この書籍の構造は意外に複雑であることが明らかになった。先に述べたように、「雑纂」において『春航集』発行の内幕を紹介した校訂者・胡寄塵が、賞賛一色の文章ばかりになるのを避けるべく、編集段階で色々考慮しながら取捨選択した可能性が高い。一方でこの書籍の内容は非常に雑駁であるとも言える。賈璧雲への対抗意識により『春航集』の出版が前倒しになったと思しきことは胡寄塵の文章から推測できるが、柳亜子が来滬し馮子和から写真を譲り受けたりした時期と『春航集』出版の時期とが非常に近接していることから、編集作業は非常にタイトだったのではないだろうか。その結果、柳亜子とは異なるスタンスの書き手による文章が入り込んだとも考えられる。いずれにせよ、書き手の見解に幅があることは即ち書籍の内容が豊富になるということでもある。当時の多様な見解を呈示したという点でも、『春航集』の出版には演劇史的に大きな意義がある。

3.高級な「ファンブック」

さて、『春航集』のように個人をフィーチャーする出版物は現在でも多く出版されている。対象となるのは芸能人やスポーツ選手であろうが、当時の社会における京劇の娯楽としての位置づけを考えると、馮子和が取り上げられること自体は何ら不思議ではない。実際に京劇をはじめとする伝統演劇関連の定期刊行物において、「特刊」と称される一人の俳優のみを特集した特別号が1930年代以降盛んに刊行されるようになる。これらは現代における芸能雑誌の別巻や特集号にも通じるスタイルを持ち、グラビア写真、伝記、舞台記事などによって構成されている。『春航集』も「一人の俳優を扱う」、「賞賛記事を中心とする」、「写真などビジュアル面への配慮がある」という点のみ取り上げれば、こうした「特刊」の先駆け的なものと見なすことができる。他方、『春航集』の「詩苑」「詞林」のように韻文スタイルで俳優を描写する手法は、むしろ『清代燕都梨園資料』(張次渓編)所収の清朝に書かれた『燕蘭小譜』『片羽集』などを彷彿とさせる。『清代燕都梨園資料』には散文体の観劇記や回顧録も掲載されており、いうなれば『春航集』をその流れを汲むものと見ることもできる*38。こうした点から、『春航集』を古さと新しさを併せ持った出版物だと見ることもできるが、同時にこの書籍の何よりも大きな特徴は、著名な文学結社である南社を足場にする人々が中心となって編集されたことである。しかし、これまで書いてきたように彼らの多くは元来からの演劇愛好者ではなく、演劇に関してはプロフェッショナルな眼を持ち得ない「一般のファン」であった。言うなれば、『春航集』は柳亜子という「一般のファン」且つ高名な文人が著した「高級なファンブック」として位置づけられるものであった。

もっとも、『春航集』発行の目的はこれまでも触れてきたように、ライバルの賈璧雲に対抗するため馮子和支持の言説を大々的に喧伝することであったが、言うまでもなくそれは出版メディアの発達を大いに利用したものであった。新聞・雑誌上に短いサイクルで文章を発表し、多くの人がそれを読むようになった結果、演劇界において演劇に関連する文章を書くことの意味は大きく変わった。それまでは書き手やその周辺のみで完結していた言論が外に向かって広がり始めた結果、演劇に関する言論世界にも「論争」発生の可能性が持ち込まれたのである。且つ、自身が出版メディアと深くリンクしていた南社の同人たちはそれがもたらす効果をよく知っていた。『春航集』はその記述スタイルから一部の先鋭的な批評家にとっては格好の攻撃対象となったが、論争が大きくなって注目されることは、柳亜子をはじめとする馮子和支持者にとっては、むしろ願ったり叶ったりだったのではないだろうか。

最後に、民国期上海演劇界における批評の展開とその中における柳亜子の位置づけを考えてみたい。

批評性を明確に備えた言説は、この後鄭正秋、孫玉声をはじめ多くの批評家の登場をもって本質的な意味での「劇評」として一つのジャンルを形作っていくが、一方で柳亜子のように支持する俳優に対して「一般のファン」のまなざしを備えたまま手放しの賛辞を贈る文章もまた書き継がれていく。この両者は時に境界線を曖昧にしながら共存し、やがて迎える上海京劇の最盛期にあって、京劇として「規格外」であった海派京劇の俳優たちに対しておのおの賛否のことばをたたかわせていくことになる。「一般のファン」の言説においては、時に「私は演劇の門外漢であるが……」「平素私は劇場へ足を運ばないが……」といった断り書きが見られる。彼らの発言は一見謙虚であるが、実際は演劇専門家や批評家を自認する人々を怖れるものではなく、むしろ彼らが重視する舞台上の規範に縛られない自由な視点を謳歌しているようにも見える。

言い換えれば、こうした専門性が高いとは言えない言説が生き残ったのは、京劇が娯楽の一つとして上海で変質し、どちらかというとカジュアルな存在になることで受容者の裾野が広がったがゆえである。且つ出版メディアの大々的な発展により発言の場が多数提供されるようになったことで、その傾向は一層加速していった。同時期に馮叔鸞を筆頭とする厳密な批評意識が醸成されていた一方、『春航集』は演劇の素人による、彼らなりの言語を用いた「演劇論」であり、多くの人々に演劇を論じる場への参加を促した。『子美集』刊行以降、演劇に関する発言をほぼ止めてしまった柳亜子は、のちの回顧録でも往事のことをほとんど語らず、世間も彼が馮子和や陸子美に熱烈な賛辞を贈ったことなど早々に忘れてしまった。しかし、「演劇の素人である発言者」のパイオニアとして大部の『春航集』を世に問い、「一般のファン」であっても主要メディアにて演劇に関する発言が自由にできるよう環境を整えた柳亜子の功績は、思いのほか大きい。


*1 この座談会は1942年7月に開かれ、『戯劇春秋』第2巻第4期(1942年10月)に収録されている。なお、この日ほとんど発言をしなかった柳亜子は「雑談歴史劇」という短い文章を同誌の同じ号に寄せ、ほぼ同じことを述べている。阿英と史料の検討をした劇は『海国英雄』で、柳亜子は『懐旧集』(1946年耕耘出版社)所収の「懐念阿英先生」でもこの劇のことに触れている。
*2 後述するが、こうした一人の人物をクローズアップした出版物は、後年演劇雑誌の発展に伴い登場した、「特刊」「専刊」など俳優の特集号の先駆け的存在と見なすこともできよう。
*3 発行期間は1912年7月20日~1913年末。
*4 なお、胡寄塵自身は「亜子による『春航集』刊行の始末は、他の人がうかがい知ることもなかろうと思うが、私は一、二知っているので、その都度それを記し、演劇界の史料とするのみならず、『春航集』を読む人の助けになるならば、と思っている」旨述べている。ここから、『春航集』が演劇関係者のみならず一般向けに読まれることを胡が想定していたことが伺える。また、文章半ばで自身も普段から演劇には馴染みがない人間であることを告白している。
*5 実際の発刊については確認されていない。
*6 平易な文体で書かれているが、非関係者を装った南社同人である可能性もある。待考。
*7 鄭正秋は1910年に『民立報』で「麗麗所戯言」を連載、その後も「麗麗所」の名で多くの連載を持った。
*8 拙論「民国初期上海における伝統劇評」(『野草』65号、2000年2月)でも紹介したが、同時代の劇評家何海鳴は『民権素』第一集(1914年4月)掲載の「求幸福斎劇談」冒頭において、各新聞劇評の書き手の中でも「『中華民報』の義華が確かな見解を持っている」と真っ先にその名を挙げている。
*9 連作も含め、一つの題が付されたものを1篇と数えている。
*10 「普段は劇場へは行かないが、社友に勧められ馮子和の舞台を見に行った」というものだが、このように柳亜子の周囲には元来演劇を嗜まない者も多かった。
*11 本人が付けたものか校訂者によるものか不詳、待考。
*12 こうした自明のことにまで注釈が付いている点からも、『春航集』の読み手として非演劇愛好者を想定していた可能性を見いだせる。
*13 拙論「海上名旦――馮子和論序説」(神戸大学中文学会『未名』24号、2006年3月)参照。
*14 拙論「馮子和と『血涙碑』」(関西学院大学言語文化研究センター『言語と文化』第12号、2009年2月掲載予定)参照。
*15 同上
*16 拙論「民国初期上海における伝統劇評」(中国文芸研究会『野草』65号、2000年2月)参照。
*17 「馮子和と『血涙碑』」参照。
*18 このように他の人物の名前が冠されている場合、伝聞であるケースと文字に書かれているケースと両方が想定されるが、明確な線引きは困難である。
*19 蘇曼殊は『血涙碑』を観て、以前より進歩している旨述べたという。
*20 例えば伝統演目『四郎探母』の「坐宮」のように場面に名称があり、折子戯上演される際には演目の代替となるような性質のものだったか否かは不詳。
*21 「馮子和と『血涙碑』」参照。
*22 「余之馮春航観」と題された部分には、1906年に丹桂茶園で『百宝箱』『刑律改良』の上演を観たのが最初であると記されている。
*23 内容を鑑みるに、『白蛇伝』の別称、またはリメイク作と思われる。
*24 拙論「周信芳と‘劇評家’」(中国文芸研究会『野草』82号、2008年8月)参照。
*25 本名待考。
*26 言うまでもないが、馮子和に関連する部分を集めたものであろう。
*27 以下、二等30人、三等26人、四等28人、五等9人。
*28 本論では特に言及しないが、本章29頁の中郎「第三党発生」は梅蘭芳を推す文章であり、後日の梅蘭芳ブームにやや先んじるものと言えよう。
*29 冒頭より、『天鐸報』、『時報』、『民信報』、『中華民報』、『図画劇報』、『民立報』、『大同週報』、『中華民報』、『香国魂報』(以上新聞、または雑誌)、『名伶曲本』となっている。
*30 この文章は『中華民報』に掲載されたものだが、同紙に続いて掲載された「論春航与璧雲」「再論春航与璧雲」とともに、あらゆる側面で馮子和を賞賛し、賈璧雲を貶める描写が見られる。なお、筆者の管義華はもとより馮党を公言している人物である。さらに同紙からの採録として、義華に賛同する記事(夢鴎「春航璧雲比較観」、老劉「我亦党馮」)が続けて掲載されている。
*31 書き手の裴郎は、賈璧雲の支持者は堕落した「官僚派」であり、馮子和の支持者および演劇界での関係者が革命に参与したことをもって、馮の方を高く評価している。
*32 姜可生の号。
*33 この劇については、恋民「馮春航之孟姜女」(31頁)でもストーリーや主演二人の演技に関して記されている。
*34 民国3年(1914年)6月に光文印刷所から発行。
*35 「馮子和と『血涙碑』」参照。
*36 文末に「民国2年6月」との記載があり、『春航集』発行の直近に書かれたものであることがわかる。
*37 「与春航書」(2頁)、「与春航論血涙碑書」(9頁)。
*38 もっとも、『清代燕都梨園資料』所収の諸文章の中で刊行され広く流布したものは少なく、多くの新聞雑誌に広告が掲載された『春航集』と比べれば、その影響力に大きな差があることは明白である。