『都市芸研』第七輯/大正時代の京劇来日公演

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大正時代の京劇来日公演に関わる知識人ネットワーク
――異文化/自文化に通じた芸術文化の通訳者の果たす役割――

仲 万美子

はじめに

20世紀末、「芸術」をサポートする、いわゆる「メセナ」という形で多くの企業が名乗りでた。たとえば、日本ではクラシックの「冠コンサート」なるものが登場し、実際に東京だけでなく各地で多くのコンサートが開催され、新たなクラシックファンを生起させたことは、日本の西洋クラシック音楽受容史のなかでも特筆すべき現象として解されている*1

さらに21世紀に入ると、爆発的人気を博し、多くの人が注目する「のだめカンタービレ」現象が出没した。これは、現代若者に普段縁遠かった「クラシック音楽」への扉を開かせる大きな現象となった。この動きの大きな特徴は「メディアを連鎖させた戦略」といえるであろう。すなわち、「のだめカンタービレ」が漫画誌『Kiss』に連載され(2001年14号~)、翌年にはコミック版『のだめカンタービレ』が刊行され、さらにテレビドラマ化、そして、『のだめカンタービレ』に登場するクラシック音楽作品を、一般募集された演奏家とプロのオーケーストラによる演奏のCDの発売、ライブコンサート、さらにその収録DVDの発売、あるいはゲームにも進出するなど、連鎖的相乗効果を狙った戦略といえる*2。その結果、現在クラシック音楽を学ぶ専門大学の学生はもとより、一般大学の交響楽団や吹奏楽団に所属する若者に大きな夢をもたらし、さらに高等学校以下の生徒にも将来の演奏する場を夢にいだく流れが存在している*3

このような、20世紀末から21世紀にかけてのクラシックブームは、聴衆としてクラシック音楽を理解する人々と、演奏する側すなわちクラシック音楽を発信する側の両方の人々のパワーが大きなブームを引き起こし、その背景にクラシック音楽を発信する各種メディアが相乗的な力を発するネットワークとして機能したことが興味深い。

では、東アジアの民族芸術である中国の京劇が、異国である日本に向け初めて発信されたときの受容国側での反応の状況はどうであったのだろうか。現在のように企業がサポートし、メディアの複合的な効果が受容に寄与していたであろうか。本稿では、新聞報道、単行本刊行に焦点をあて、そこに描きだされた芸術文化の相違点を含め、その芸術文化の通訳者の果たす役割について考察を試みるものである。

1 梅蘭芳率いる京劇来日公演の新聞報道の役割の特質について

1930年に京劇はアメリカでの半年間の公演ツアーを行っている。その主役は後の四大名旦の1人である梅蘭芳であり、それを支えたキーパーソンは斉如山ら各界の知識人である*4。京劇を支えている中国の人材の存在と同時に、アメリカ人の果たした役割も見逃すことはできない。すなわちアメリカ育ちで20歳のときに中国に渡り、浙江省の杭州キリスト教大学に在職していたGeorge Kin LEUNG である*5。このような人物を中心に成功を納めたアメリカ公演であるが、それ以前に海外公演の試みがされていた。それが本稿で取り上げる、大正時代の梅蘭芳率いる京劇の来日公演である。本章では、新聞でどのような報道がされていたか、その概要を簡単に考察しておきたい。

1-1 大正8年の梅蘭芳率いる京劇第1回訪日公演の新聞報道

梅蘭芳率いる京劇来日公演は、大正時代に2度行われているが、第二次世界大戦後の昭和31年にも来日し、計3度の公演が行われた。そして、その記録が、昭和34年に朝日新聞社から梅自身の著述『東遊記』として岡崎俊夫により翻訳刊行されている。

梅蘭芳は、『東遊記』(梅 1959)のなかで、1919年、24年の日本公演の試みについて、下記のように回想している。

「最初に日本を訪れたとき、大倉喜八郎さんが主人となってして下さった招待もそつのないものでした。私たちが日本式の生活に慣れないことを心配なさって、帝国ホテルにとめて下さいました。また大勢の日本の俳優を動員して私たちと同じ舞台で共演するようにして下さり、日本の芝居と中国の芝居が交互に上演されました。(後略)」

「その頃の二度の訪問では、日本の文芸界の私への支援と激励はたいへんなものでした。著名な漢学者内藤湖南、狩野君山、青木正児などの諸先生がみな文章をかいて中国古典演劇芸術を紹介して下さいました。内藤博士は漢学に精通されているばかりか、すばらしい書をおかきになり、当時みんなも晋唐名家の気息があるといっておりました。青木教授の南北曲についてのいくつかの著作は、私どもの研究の対象でもありました。残念なことにこれら老先生がたは大半が故人となられ、いまだにご健在なのは青木先生だけです。一回目に私どもが日本で公演した時のことを思いだしますが、あの時の経費は全部私がととのえました。当時劇団はわりに小規模で、予算がつまっていたので、もし公演して入りがわるければ欠損になるところでした。そのためいくらか、まあためしにやってみようというところがあったのです。ようするに、第一回の訪日の目的は、経済的観点に主眼をおいたものではなく、中国の古典芸術をひろめようという私の企図の第一砲にすぎなかったのです。劇団の同志たちの共同の努力のおかげで、たちまち日本人民の歓迎をえ、このため私はようやくさらに一歩をすすめて欧米諸国へ公演旅行をする自信をもつことができたのでした(後略)」

(梅蘭芳1959『東遊記』pp.67-69)
(梅紹武、屠珍等編撰「東游記」『梅蘭芳全集肆』pp.28-29)
写真1 『東遊記』の表紙

この回想文には、人的ネットワーク、また、京劇の海外発信のファーストステップとしての意義が明確に語られている。

「京劇」は、中国文学の研究対象として捉えられており、当然その研究者が日本での「中国伝統演劇」の受容層の核を成していた。そしてその京劇のライブ公演を日本で鑑賞できたことは、著名な研究者だけでなく中国文学愛好家にとってもビッグイヴェントであったことがうかがいしれる。一方、同様に日本においても明治に入り江戸から歌舞伎を支えてきた庶民だけでなく、明治20年の天覧以降ステータスの上がった日本の伝統芸能「歌舞伎」ファンにとっても興味深いものとして注目を浴び、「帝国劇場」という当時最先端の設備をもった劇場で、「京劇」と「歌舞伎」が遭遇したことも異文化接触の現場として興味深いものがある。

初回公演は、明治44年開場した帝劇で5月1日から12日にかけておこなわれ、演目は《天女散花》(初日から5日間)、《御碑亭》(3日間)、《黛玉葬花》(2日間)、《虹霓関》(1日)、《貴妃酔酒》(1日)である。この1919年そして24年の公演については、吉田登志子の「梅蘭芳の一九一九年、二四年来日公演報告 ― 生誕九十周年によせて ―」に詳述されている*6。以下同論考を中心に参照しつつ、公演の成果と受容者の反応について簡単にみておきたい。

上記引用文の前段の「日本の芝居と中国の芝居が交互に上演」とあるように、帝劇演目の『本朝二十四孝』、現代劇『五月の朝』、アラビア古典劇『呪』、京劇『天女散花』、新曲『娘獅子』という順で上演された*7

『東京日日新聞』(1919年5月3日付)の劇評では、初日の観客について次のように記されている。

これからお待ち兼ねの支那劇の幕開きである。今度の支那劇には単に劇を見せるという以外、所謂日支親善の意味もあるので劇場の正面入口にも「日支親善」の四文字を現し、場内の扉口には民国の五色旗と日章旗が交叉されてある、観客はあらゆる階級の人々を網羅し、支那公使館や霞ヶ関あたりのお歴々も見え、文人画家もいる。歌右衛門(注、五世)、羽左衛門(注、十五世)、左団次(注、二世)、宗十郎(注、七世)、河合武雄等も顔を並べている。九時四五分賑やかな鳴物が緞帳の奥から響いて来ると、モウ歓呼喝采が雷の如くに起こる。静かに緞帳が上がって、天女に扮した梅が八人の侍女に護られて登場すると、また一しきり拍手が耳を聾する。(後略)

(吉田 1986:77)
写真2 帝国劇場公演写真松本幸四郎《呪》(出典:帝劇史編纂委員会編 1966:42)

賑々しい公演の開幕が今でも手にとるように伝わってくるのであるが、京劇界の新人というよりビッグスターへの階段を着実に登っている梅蘭芳のステージを、政治/経済界の人々、知識人、そして日本の歌舞伎界の著名な役者も観衆の中で観ていたこと、とくに二世市川左団次も観客としてそこにいたことは興味深い*8

さらに吉田は初日公演についての多くの評を引用記載している。上記の『東京日日新聞』に続いて、伊原青々園による「アノ甲高い囃子につれて甲高く唄う天女の声が異様に聞こえた」と支那劇3度目の観賞者としての素直な感想を記したあと、「女形」としての演技の美しさに感動、「支那劇に古典的の渋い味わいがある事であった。そういう立派な曲本を選んだ梅蘭芳のやり方は、日本の俳優が手本にすべき事だろうと思う」という劇評が「梅蘭芳の天女」と題して『都新聞』に寄せられた(吉田 1986:77-78)。また、『万朝報』には中内蝶二が「人物の対話や唄の文句を味わうことの出来ない異国の観客にあっては、勢いそのしぐさと表情とから面白い所を見出すほかはない」と記し(吉田 1986: 78)、凡鳥は『国民新聞』に「天品の芸風を見せた 梅蘭芳の初日」という見出しで(吉田 1986:78)評文を寄せている。また仲木貞一は、「梅蘭芳の歌舞劇」という見出しで、「その舞は、両手を常にシンメトリカルに動かして、肩、胴、腰の各線と共に、テンポーの緩い単純な音楽に合わして、大陸的ともいおうか、頗る大まかな、そして凡てが優雅な曲線で築き上げられた」と『讀賣新聞』に寄せ(吉田 1986: 78-79)、久保天随は『東京朝日新聞』に「彼は天の成せる好個の女形である…舞踊は如何というに、大体軽妙で、晶致に富んでいる」と評している。おおむね、このように各社初日劇評は好評であった。

また、第2回の訪日公演は、関東大震災後の大正13年10月に行われた。次節では、『東京朝日新聞』に掲載された、北京出発から、東京着までの、梅の動向を報道した記事について簡単に記しておく。これらの記事では、梅の中国での扱われ方、そして2度目の来日に際し日本人がどのように出迎えていたか、その様子が記録されている。

1-2 大正13年の梅蘭芳率いる京劇第2回訪日公演の新聞報道

大正時代は、「新聞」という活字メディアは、現代におけるテレビやインターネットから入手しているホットな芸能ニュースを開示する役割を果たしていたといえる。前節で言及したように初来日初日の帝劇での公演評も詳細に記録されている。本節では、公演評ではなく、第2回の来日公演にむけた梅の動向を報道した記事を取り上げ、彼の役者としての「人気ぶり」についてみておく。

第2回の東京での訪日公演は、近代日本を象徴する帝国劇場で、10月20日から23日までは近代日本の芸術サポーターの代表者、大倉喜三郎の米寿賀宴としての貸しきり公演、25日から11月4日までは帝劇改築記念興行としての一般公演として繰り広げられた。

大正13年10月11日(土曜日)朝刊の7面には、「梅蘭芳の大名行列」という見出しで中国側の壮行の様子が、次のように記されている。

梅蘭芳の大名行列

日本への旅立ちに総統の別宴 舞台で唾をはくなとまで御注意

支那を挙げての豪奢振り

大倉男の招きによつて九日に天津を発った支那の名優梅蘭芳はいよいよ四五日後に東京に現れることになったが、不景気の中にも前景気は流石に沸き立ってゐる、梅蘭芳の人気は支那では相も変らず盛んなもので上海で一二度舞台に立ったことはあるが殆ど北京を本拠に大総統以下大官実業家など一流名士の寵を蒙つて益豪勢な勢ひだ

   ◇

つい二月ほど前に彼の祖母が八十幾つかで物故したときなど前後二週間に亙る葬式を行ったが大総統初め朝野一流の名士が態態参列するやいろんな贈り物があるやら俳優一家の葬儀とも思へないほどに盛んなものだつたとある

   ◇

今度日本へ来る一行は梅蘭芳夫妻の他五十人ほどで、梅の出発に先立つて曹大総統は北京の官邸で一行の為め盛大な送別宴を張り『今度日本へ行ったら君の名誉のためにも支那全体の為めにも大に努力して貰ひ度い、又道具方なども平気で舞台に唾をするやうな不体裁は断じてやつてはならぬ』と細心を配つて激励した。

   ◇

東京では一般の希望もあるから帝劇でも今度は例の『天女散華』のやうなものゝ他純支那劇を演らせることになつて、書割から道具に至るまですっかり支那風のものを用ひ、別にその気分を出すために舞台の中に更に能舞台のやうなものを新設するなど準備に忙殺されてゐる

   ◇

大倉男の祝宴が済んで後今月二十五日から来月四日まで帝劇で公開する出しものは三日目毎に芸題をとり替へて大いに観客を呼ぶ手筈だが『何しろ総費用六萬五千円余りに上るから一般に入場料を安くすることが出来ないのは残念だ』と山本専務の談

この記事からみても、当時の中国での梅の置かれていた位置、そして文化使節としてこの2回目の公演にかける京劇の海外発信に対する期待度、さらに受ける側の山本専務の弁も含め、大掛かりな演劇移動公演の様子が看取できる*9

そして、日本到着の様子については、『東京朝日新聞』大正13年10月15日水曜日2面に梅蘭芳夫妻の写真を掲載して、次のように報道されている。

花束の中に梅蘭芳の都入り

帝劇女優や左団次などの

なつかしい握手に

賑やかな東京駅

[震災火災の復興工事完了後の]こけら落しの帝劇の舞台を踏むべく十三日神戸に着いた支那の名優梅蘭芳は十四日午前十時その美しい姿を再び東京駅頭に現した、フオームに待ちかまへてゐた

群集がどやどやと揉み合ふ中を、出迎への女優[森]律子 [村田]嘉久子[村田]美禰子等が手に手に花束を持つて近よつた、真黒なオーヴアーを着て銀ネズの首巻を軽く巻きつけた梅蘭芳は、その大理石の彫像のやうな綺麗な顔に黒い眼鏡をかけ微笑を湛へつゝ、ものごし静かに先ず帝劇の山本専務と

挨拶をする、支那から帰つたばかりの左団次が懐かし気に握手する、梅幸や勘弥なども出迎へて東京駅は時ならぬ華やかな空気が漂ったが、馳て天津まで迎ひに行った大倉男の令孫銀三郎氏と自動車に乗つて帝国ホテルに入った、梅氏の妻梅王氏(三二)は混雑を恐れて幹部俳優朱桂香、姜妙香、陳喜星と同伴で一列車先に東京に着いた

写真3 『東京朝日新聞』掲載の梅蘭芳夫妻(出典:『東京朝日新聞』大正13年10月15日水曜日2面)

上記の記事では、帝劇の女優、そして歌舞伎俳優らが歓迎した様子がリアルに描かれている。テレビという動画メディアはまだ登場していない時代、記事を読んだ読者の心に東京駅に降り立った梅を想像豊かに描かせたことは間違いないだろう。送りだす中国側も、再会をまち望む日本側も、双方共に熱い空気が伝わってくる報道となっている。

では、次章では、新聞記事ではなく、単行本として9月に京都で刊行された第1回の大阪公演に対する日本の中国文学・文化の知識人の評文を事例に、どのように「京劇」や「梅蘭芳」が紹介、理解されていたか、そしてそこにどのような音楽文化学的に見た文化現象の重要な特徴がみられるかについて考察する。

2 『品梅記』にみる知識人の観た/考究した「支那劇(音楽)と俳優」

本章では、京都において立場の異なる2人の「知識人」がどのように、梅蘭芳率いる「京劇」初来日公演を受け止めたかを探ってみたい。しかし正確には、第1節で取り挙げる青木正兒は、北京で観賞し、日本での初来日公演は病気のため鑑賞していない。彼は中国文学の研究者として大きな業績をのこした人物であり、梅を含めた中国の演劇人からも評価の高い「知識人」である。また、第2節で取り挙げる濱田耕作(青陵)は、日本の考古学の第一人者であり、北京でも大阪でも「京劇」を観賞した人物である。これら京都知識人ネットワークが編んだ『品梅記』から両者の論考を取り上げたのは、演劇からの視点だけでなく、近代日本の音楽文化現象にも言及がなされており、また現代からみても意義あるものと考えられるからである。

写真4 『品梅記』表紙

2-1 青木正兒の「梅郎と崑曲」

『品梅記』では、青木正兒を筆頭に著名人が名を連ね、濱田耕作(青陵)、内藤湖南らが評文を寄せている。青木正兒は本格的な紹介説明を執筆し、音楽面においても西洋音楽と比較しながら執筆をしている。

聞く如くんば梅郎は崑曲に於ても驚く可き芸の冴えを示して居ると云ふことである。全体文芸史の立場から公平に現代の支那劇を論ずる時は正に其の衰頽期にあると云はねばならぬ。吾人は必ずしも現代を呪ふものでは無い、徒らに古を尚ぶものでは無い、併し少しく各時代の支那戯曲を通観した人は必ず余の言を許すであらう。此の意味に於て余は當世流行の「皮黄」を捨てゝ「崑曲」を取るものである。されば余は梅郎渡来の噂が立つや其の崑曲を聴く可く張り詰めた期待を有して居た。北京で梅の「思凡」に魅せられた湖南先生のお話は如何ばかりかの胸を轟かした事であつたらう。(中略)

[青木は病気のため大阪公演は鑑賞していない]梅の芸術に対する讃美の声は逸早くも燕京の客、村田烏江氏の「支那劇と梅蘭芳」なる著書となって可なり纏った智識を吾人に齎した。(中略)

現在戯曲に用ひられて居る音曲は「梨園佳話」に従へば崑腔・弋調・皮黄・秦腔・漢調・広調・嘎同腔・哈々腔・柳子調・灤州影・河南謳・章邱唉の十二種を数へてある。併し其の最も通行されて居るのは皮黄・崑腔・秦腔の三者であるさうな。所謂()若しくは調()とは此方にて何々()と云ふが如きもので、長唄・常磐津・義太夫等の別あるが如きものである。元来歌劇たる支那劇に於て其の音楽が最も重要なる部分を占むることは言ふ迄も無い事で、従て楽曲流派の消長は演劇史上直ちに重大なる関係を持って居るやうである。現存の戯曲中、最も古いものは弋陽腔で、崑腔之れに次ぎ、次は秦腔・皮黄は最も新い楽である。秦腔以上は皆明代の遺曲で、独り皮黄のみが清代新興の楽である、されば其の最も現代に行はるヽのも自然の数であろう。今、余は崑腔の戯曲史上の価値を明にする為に他の重なる腔をも併せて其の沿革を略述して見ねばならぬ。

(中略)[このあと南曲・北曲の説明]

徐文長の見解では宋元間の南曲は調子外れな鄙歌で北曲などゝは比較にならぬ低級な音楽であったとしてある。如何にもさうであったらしい、其楽は宮調に叶はずと云ひ、板皷(○○)即ち拍子木や太鼓の如き拍節的(リズミカル)な楽器が主楽を成して、簫管が僅かに之を補ふと云ふやうな記載から見て、如何にも其の幼稚であった事が推定される。何故と云って、音楽発達の経路から見て、(リズム)から旋律(メロディ)、旋律から諧音(ハーモニー)と向上して行くのが原則とすれば、()を尊ぶ南曲の価値は、絃を主とする北曲に比して(リズム)旋律(メロディ)との対比を成すものである。然らば徐氏が断じて「至リナハ南曲又出ルコト北曲一等」と貶したものも首肯し得られる。且つ愚以為らく南曲が宮調(仙呂宮、大石調の如きを云ふ。我が二上り、三下り、ト調ハ調の類である[原本ニ段組])に叶わぬと云ふのは、其の旋律が進歩せる合理的音律に叶はぬ田舎節であるからであらう。更に之を詳言すれば西域より伝へられた隋唐以来の楽律たる「七聲」に叶はぬ旋律であつたに違ひ無い。所謂七聲とは今試みに之を西洋楽の長音階と対照図解するに、

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の如きもので、全音と半音との位置は先づ右図の通りであるのが、隋唐以来の正統なる音楽は此の如き音階より成立つて居たのである。然るに南曲は全音と半音との位置の関係が右の如くならず、又半音であるべき所が四分の一音であると云ふやうな場合が有つたものかと想像される。此の如き現象は決して珍しく無い、我邦などでも鄙唄、例へば追分、馬子唄、子守唄少し意気な方では都々逸などは正楽の音律には叶つて居ない、之は既に上原氏・井(ママ)澤氏等の専門家により早くから研究されて居る所であるが、南曲の宮調に叶はぬと云ふも畢竟之に類する現象と見て恐らく大なる誤りは無からうと思ふ。(後略)

(大島 1919:1-9)
写真5 梅蘭芳《天女散花》(出典:大島1919:写真3頁)
写真6 梅蘭芳《黛玉葬花》(出典:大島1919:写真7頁)

かなりの長文引用になったが、この後も専門書の原典にもとづき、全26頁にわたって詳細な記述を行っている。引用文中に登場してくる伊澤修二[井澤は伊澤の誤り]は、西洋音楽受容の中心的機関である音楽取調掛(明治12年開設)そして東京音楽学校(明治20年改編)の長であり、東西の音楽の研究を推進し、また上原六四郎は、同機関で音響学を教え、音楽専門家の必読書となっていた『俗楽旋律考』(1895年)を著した人物である。青木自身も上記引用文の後半に関して、「話が少し深いりし過ぎたが」と述べて居る所ではあるが、西洋音楽が移入されて半世紀足らずという異文化受容の文脈からみると興味深 い。文中の西洋音楽に言及したメロディーからハーモニーへと進展しているという考えは、当時「西洋音楽の方が進歩していて邦楽はハーモナイズしていないため遅れている」といった進歩史観にもとづいた文化ないし芸術を理解・評価するコードであるが、いわゆる「漢文学研究者」にまでも浸透している点に改めて驚かされた*10

さらにこの論の特徴としては、「京劇」理解と情報の開示の観点からみると、青木が、中国文学、文化に精通している知識人の古典籍から得た音楽研究の情報、そして当時の日本の音楽界に浸透してきた西洋音楽との比較の視点から見た研究情報の取得、さらに、青木が言及している村田烏江の『支那劇と梅蘭芳』にみる現地での「今」の情報を取得して論じている点である。

2-2 濱田耕作(青陵)の「我輩の所謂『感想』」にみる異文化の解釈

本節では、演劇や音楽の専門家ではない知識人の評文について取り上げておきたい。それは、日本の著名な考古学者でヨーロッパへの留学経験や渡中の経験もある濱田耕作(青陵)の評文である。この論述では、アジアの芸能のあり方、サウンドスケープ論、音楽の捉え方、異文化接触による文化変容などの面からも興味深い発言となっている。北京での観劇も含めて次のように彼は記している。

◎我輩の支那劇観覧の経験は今度で僅に二度目である。如舟博士も已に書かれたとのことであるが、君山湖南両博士及如舟先生と、故桃華居士と五人で前清の末年に北京へ行った時のことである。塩谷君の案内で文明茶園とか云ふ劇場へ出かけたが、幕間も無く、外題の切目も無く、言語全く不通の芝居を半日見物して、あのドンチャン、キーキーの騒ぎにすつかりあてこまれて仕舞つたのは事実だ。(後略)

◎処が北京から如舟博士に従つて河南へ行く途中、何とか言ふ小駅の「プラツトホーム」に汽車の停車時間を待ちながら降り立ってゐると、一二丁向ふの村はづれに、野外の小屋で芝居をやってゐる。あの北京の劇場で悩されたドンチャンの声が、此度は秋の野を通して遠くに聞えると、如何にも支那の景物に相応して、胡弓の響も、銅鑼の音も、何となく懐しい気がするので、思はず足を進めて聞き惚れてゐると…(後略)

◎梅蘭芳の劇が大阪でもやると云ふので、我輩もぜひ一度見度いと思つて、彙文主人の手から漸く座席を取つてもらつて、梅の「御碑亭」を見に行つた時、丁度君山博士も如舟先生も一処であったが、(桃華居士が居られないのは何よりも淋しいことであった)北京で我輩の弱つた一條を皆に吹聴せられ、「これで能くも今日に来る気になった子」と散々油を取られたのも事実だ。尤も梅の評判が余り高いので、物見高い我輩の性質が此の梅劇観覧の動機を手伝つてゐるのは、固より否定することは出来ない。併し愈々開演となつて、あの変なキーキー声の台辞に、吹き出した人が多かつたのにも係らず、我輩は其の仲間にも入らず、ドンチャンにも當てられずに「次の日にも行つて見たいナ」と云ふ感を起して帰つて来た斗りで無く、今に梅のナヨナヨとした舞台姿と、其の嬌声が耳目にチラついてゐるのは事実である。

◎以上の事実から大胆に帰納すると、支那劇なるものゝ、素人には一寸不可解の騒々しいもので、衛生に害のあるものであると同時に、之を野外野天で興行すると、其の騒しさも薄らいで、丁度よい加減のものとなり、其の音楽と支那の景物と調和して中々捨て難いものがあり、其の極人をして汚物を踏むを忘れしむるに至るのみならず、名優が演ずる時は、明日も明後日も行って見度いと思ふ位に、感動を与へるものであると云ふことが決論せられる。実際あの銅鑼胡弓の騒しい音楽は屋根被ひも無い劇場の観客席から聴く可きものであるに違いない。希臘羅馬の劇場(オデウムの出来る以前の)や我が能舞台の如き野天の劇場が演ず可きものを、其の儘家屋内でやるから、耳を劈く騒々しさを感ずるのであらう。そう云ふ劇場時代に生成した楽劇を、其の儘屋内劇場で演ずるのが、抑もの誤りで、必ずしも劇其者の欠点では無いのであらう。幕間の無いことや、引幕の無いのも同様に、未だ其んなものゝ出来ない時代の劇であるので全体の仕組があれでゐて、而かも引幕や何かゞあつては却って変なものであらう。

◎言語の解らないのは此方の罪である。併し台辞が分らなくなつても面白味はある可きで、西洋でも各国で随分言葉の解らない劇を見たから、是にはもう驚かない。あの女形がキーキー声で変な台辞をやるのも、日本の旧劇で、小供が妙な声でやるのと同様、色々の伝説や約束があるのであらうと思はれるから是を我慢す可きである。はじめて西洋の声楽を聞いて、我輩も曽て吹き出したことがあるが、是は笑ふ方が無学であるのに違ひない。併しあの支那楽がたゞ簡単な「メロヂー」のみで「ハーモニー」も無く、楽器も亦た至つて原始的なことは否むことが出来ないと思ふ。歌劇として現在の支那劇が価値があるとしても、又た之を「クラシック」なものにして保存して行く必要は別にあるとしても、支那劇が西洋劇に影響せられて、生ジツか間の子的なものが出来ては、我々外国人の好奇心を満足せしめなくなるにしても、支那人自身の社会的生活の進歩から見て、段々在来劇を発達改良して行かうと云ふ希望があるに違いないと思ふ。

◎丁度我が日本画と同様、西洋人などは在来の日本画が面白い、それを出来るだけ保存せよと云ふが、日本人自身では其れで満足することが出来るものでは無い。支那劇も近き将来色々と西洋劇や日本劇を参酌して、アクトの上にも亦た舞台の上にも様々の変化を見るに至るのであらう。之を我等外国人が単に好奇心や、歴史の標本的に見ようと云ふ点から、在来の儘にあらしめようとするのは無理な注文であると思ふ。我輩は善くは知らぬが、梅蘭芳の如きは在来の劇から既に一歩を脱して、表情や何かに余程新しい分子を加へて居るらしい。併かも全体にしては尚ほ在来劇の範囲を出で無いので、彼は純支那劇の最後の第一人者であると同時に、将来産出せらる可き新支那劇の最初の気運を作らうとしてゐる先駆者であると云ふ可きであらうか。又将来は支那劇に於ても、西洋劇と同じく女形は女優の専門になることであらうから、彼は此点に於いても在来の支那劇の女形男優として、最後の名人であるかも知れない。

◎イヤ大分言ひ過ぎた。支那の劇史や戯曲を全く知らない我輩、一般の文学や戯曲にも無学な素人の「感想」としては、生意気過ぎるのみならず、盲人の象を評すると同一般のトンチンカンもよい加減で止めて置かう。たゞ一言最後に梅蘭芳の女以上に女らしい、アドけない、優艶な姿は人を魅するに足るのみならず、あれが実は男であるかと思ふと、薄気味が悪くなる程真を奪ふ女の偽者バケ物であると云ふ感想を記して、外の讃辞は所謂梅毒患者の手に譲つて置かう。

(大島 1919:48-54)

濱田は「無学な素人の「感想」としては、生意気過ぎるのみならず」と謙遜しているが、著されて一世紀を過ぎてみると、音楽に関わる研究領域としてサウンドスケープ論が登場し、また西洋近代化の波に晒されたアジアの芸能が野外から現代劇場へと上演の場を移すようになったことへの問題意識がすでに、彼の論点の中に含まれていることに驚かされる。そこには彼のヨーロッパ留学体験が大きく影響していたであろうが、外から内なる文化現象の変化を見極める洞察力に満ちていたことは評価すべきことであろう。そしてこのような知識人が「京劇」を見て、またこのような発言が記録化されていたことも、音楽文化学の視座からも興味深い(小西、仲、志村 2007)。執筆者たちが「いま、ここにある音楽(芸能)を理解する」ことを実践していたことに他ならないからである*11

では、次章では、青木正兒自身この書から知識を獲得したと述べている村田烏江の著書『支那劇と梅蘭芳』について見ておきたい。

3 梅蘭芳初来日に合わせて日本で刊行されたガイドブック:村田烏江著『支那劇と梅蘭芳』

村田の著書は、梅蘭芳来日の大正8年5月1日に東京玄文社から刊行されたもので「梅蘭芳小史」「支那劇梗概」「支那劇の見方」「劇中の梅蘭芳」「梅郎評」「重なる脚本書」「梅郎雑話」「名曲原本」「詠梅集」から構成されており、「京劇」や「梅蘭芳」を知る上で最新情報がコンパクトにまとめられたものとなっている。

3-1 梅蘭芳の中国での活動の紹介と観劇初心者のためのアドバイス

本書冒頭に、梅の生い立ちと「京劇」人としての活動が簡潔明快に記述されている。そしてその中で、彼が単なる「俳優」でないことに注目し、彼の新しい試みがどのようなブレインに支えられているかについて以下のように言及している。

(前略)

民国議会が開けて正式大総統の選挙が行はるゝや梅蘭芳に一票が入れられた。固より議員の戯れであつたがこれを見るも如何に評判であつたかが判明る。然し其頃に於ける蘭芳は芸術の上から真面目に論じて尚ほ研究の余地が充分あつた。そこで彼れを賞揚すを馮幼薇[中国銀行総裁の馮耿光(村田 1919:104)]、李釈戡[大総統府侍従武官陸軍少将の李宣倜(村田 1919:104)]、斉如山、許伯明、舒石父、呉震脩、胡伯平の諸名流は蘭芳後援会を組織し之れを綴玉軒と名づけ、専らその研究指導に従事することゝとなつた。時に蘭芳の声名を伝へ聞いた上海の丹桂園は礼を厚うして彼を迎え、彼は其年の夏同僚の王鳳卿と共に初めて上海に赴き丹桂園に出演した。(後略)

(村田 1919:5-6)
写真7 『支那劇と梅蘭芳』収載の大倉喜八郎題字(出典:村田 1919:題字3)

彼のその後の華々しい演劇活動の最も重要なブレインとして、上記に挙げた綴玉軒は機能することとなる。この文章に続けて、「新曲の研究に生れた支那芸壇の明星」と題して、来日公演の演目としても取り上げられている新作品について説明している。

上海から帰つて来た蘭芳は尚ほ自らの技芸に慊らず更らに新曲の研究に志した。所謂新曲とは新劇の意味ではなく近代文学家にして蘭芳の誘導者たる李釈勘及び斉如山、呉震脩諸人の作曲になるもので嫦娥奔月、黛玉葬花、天女散花等の曲がこれである。此等の曲は詩句の上品なると共に之れを演ずるのも容易でない。彼れは之を研究し之を演じ更らに此新曲を携へて前後三回上海に出演し非常なる喝采を博した。彼れは実にこれ等の劇を以て旧慣卜守と称せられたる支那劇に始めて現代的色彩を添へ支那劇を芸術として汎く世に紹介した、爾来彼の名は外国人にまで識らるゝやうになつた。(後略)

(村田 1919:6-7)

つまり、この紹介文からもわかるように、すでに彼は中国国内だけの「名優」の立場を越え、中国にいる外国人を介して国外へも名を馳せつつあったことが分る。

また初心者向け「ガイドブック」としての役割で興味深いのが「支那劇の見方」が記されている点であろう。その冒頭では、

支那劇は唱を第一とし科白所作を第二に置いてあるから、其見方も之れを日本劇などに比して自ら違ふ、唱を主としてある所から云へば支那劇は能楽に近い、或は浪速節芝居に似て居るかも知らぬ、そこで大体から云へば観る方よりも寧ろ聴かねばならぬ、これよりして支那劇を観るには先づ脚本の筋を心得て置くことが肝要である、演劇の内容を知らず言葉も分らぬのでは之を観之を聴て何等の趣味も感興もあるまい、日本人が初めて支那劇を観て銅鑼の音が喧しく甲高い声が耳障りとなつて半時も座に居堪らぬことがあるのは全く脚本の筋を弁へず騒々しい処ばかり見るからである、只幸ひにして梅蘭芳の演ずる青衣劇は他の武劇などゝ違つて至極優雅であるから斯やうな憂慮は要らぬとしても少なくとも脚本の意味を知らぬのでは僅かに華やかさと云ふに過ぎずして面白味は認めらるまい。(後略)

(村田 1919:26-27)
写真8 『支那劇と梅蘭芳』収載の梅蘭芳と桃玉芙の《天女散花》(出典:村田 1919)

次に、日本人が見て驚くことについて次のように記している。

(二)

次に支那劇に幕がない、これも日本人が初めて見て異様に感ずるところで何処が芝居の切れ目なのか何処までゝ一段か分らぬものである、それで此の切れ目を見るには其芝居の立役が舞台を下つた時が一幕の終りで更らに上つて来た時が二幕の始めと解すれば間違はあるまい勿論支那劇は一幕と云うても切りが短かいので十幾幕と云うても二時間もあれば済む、日本の芝居でなら普通二幕位のところであらう。

(三)

歌劇である支那劇は一般に日本の劇にみるやうな種々の道具立てを使はない然らば如何にして場面の有様を見するかと云へば簡単なる椅子や高机を用ふる外みんな手真似足真似で現はされる此点は初めて支那劇を観る者が最も注意しておかねばならぬことだらうと思ふ、(後略)

(村田 1919:28-29)

京劇初心者向けの注意点を喚起し、具体的に所作が表す内容について言及している。

次に「唱」については、次のような説明がなされている。

(四)

次に科白と曲調である、科白は旧劇に於て我が歌舞伎と同じやうなる調子を使ひ新劇或は花旦劇(●●●)にて純粋の北京語を使ふもこれを聴き取らんとせば支那語を解せねばならぬこれは問題外として置く、要するに武者ならば武者女ならば女らしい調子を聴き取れば沢山である。

曲調に至つてはこれが支那劇の精髄で支那人の芝居を見るのは皆その唱を聴きに行くので日本でならば浪花節でも聴く心持ちである、それであるから役者の好悪はその唱によつて定められる、あの役者は声が好い或は声は低いが節廻しが好い、と云ふのが役者を批判する標準となるので曲調を聴くのは殆んど専門に亙るものである(後略)

(村田 1919:31-32)

以上のように今でも京劇初心者にとって分り易い説明がなされていた。ここでは、日本人が中国で学び、体験し、且つ日本の芸能を知った上で、双方の相違点を見極めた「芸術文化の通訳者」であったことが重要となってくる。これと同じことが京劇のアメリカ公演でも、中国に滞在する米国人研究者のアメリカ人に対しての「芸術文化の通訳者」と呼ぶにふさわしい役割を果たしている(仲 2007、2008)。

次節では、梅の演技評に関して記した部分を見ておくことにする。

3-2 梅蘭芳の中国での劇評

日本人および日本に滞在して帰京している中国人の評文が記載されている。

冒頭は、日本で学び西洋演劇に精通した先駆的人物、春柳旧主の梅蘭芳について記した文章を訳述している。梅の「眼」の表現力を評価し、「眼神あり意達するに在り無言の時に於て其眼神恒に自己の地位に注意す、怒眼獅子吼記の如き慧眼葬花の如き」(村田 1919:55)といった具合にその目の表現力のあることを強調している。そのほか、首、肩、手、腰など諸所の動きについても高く評価している。

当時北京の著名な劇評家張豂子の評では「梅蘭芳は技芸の絶倫声色の優秀なる外一種の性格を有してゐる、それは蘭芳が一度舞台の上の人となれば自ら劇中の人となり与ふ限りの力を尽して惜しまない、平凡の事のやうであるがこれが彼れの一般俳優に傑出した所以である」(村田 1919:59)と、役になり切って集中し演じきっていることを高く評価している。

次に日本人評として、谷崎潤一郎が北京を訪れたときの様子を以下のように記している。

小説家として文名隠れなき谷崎潤一郎氏は支那漫遊の途次北京を過ぎ数日の滞在を屡ゝ劇場に出入して支那劇を観察した、著者は一日氏を伴うて広徳楼に梅蘭芳の劇を観た芸題は御碑亭(、、、)で蘭芳の配役は名優王鳳卿(、、、)であつた、氏は劇の始終に就て仔細の注意を怠らなかつたが芝居が終つてから北京で各処の支那劇を覗いて見たが今日始めて劇らしい劇を見たと語り梅蘭芳の眉目と表情更にその声調等に就き遺憾はないと賞賛して止まなかった。

(村田 1919:58)

北京で谷崎をつれ劇場へ同伴した際の、谷崎の絶賛ぶりを伝えている。

また、北京に滞在している龍居枯山は、梅の「容貌」「姿」「声」すべてが良いとし、「天才」とまで記し、また眼の表現力も高く評価している。(村田 1919:60-63)

そして、アメリカ公使とアメリカ人の批評について、次のように紹介している。

徐大総統が各国公使を総統府に招宴した時蘭芳は之れに招かれて天女散花の一曲を舞うた、席上米のラインシュ公使は蘭芳の色芸を激賞して止まず傍の陳籙に対し必ず一度米国に招聘せんと熱心なる口調で述べたと伝へられてゐる。又た支那劇曲の熱心なる研究家たる米国の某博士は曾つて蘭芳の琴桃(●●)[挑]及奇双会(●●●)を見て蘭芳の声色と優雅なる崑曲に対し頻りに支那の芸術と文学を賞讃した同博士は爾来熱心に支那戯曲の研究を続けてゐる。

(村田 1919:60)

以上のように、立場の異なる人物による評文が記載されている。

最後に、本書の題字について付記しておく。冒頭には綴玉軒の代表的な梅のブレインである中国銀行総裁の馮耿光が寄せているが、日本人として、帝国劇場での日本公演に招聘をした大倉喜三郎も北京で梅蘭芳に送った歌を寄せている(本稿写真7)。

以上、この生田の編んだガイドブックは多様な視点から編集されており、本稿で引用言及した以外にも、京劇を理解して観賞するために必要な日本語による脚本の筋書き21篇が収載され、また《黛玉葬花》《嫦娥奔月》《天女散花》の中国語原本も記載されている。また、代表戯曲の梅蘭芳が演じる役柄と彼の演技に関しても執筆されており、まさに「梅蘭芳パーフェクトガイドブック」と成っている。

中国に滞在した日本人が、日本で初めて京劇の公演を見る観客に向けて詳細に亙って心配りをしている。さらに前出の中国文学研究者のエキスパートである青木正兒も「可なり纏つた智識を吾人に齎した」と言及しているように、知識人向けのレベルも保ったガイドブックであったといえよう。

おわりに

本稿では、梅蘭芳率いる京劇の日本移動公演の発信者と受信者をコネクトさせる活字メディアの意義について、分析整理した。日本と中国という漢字文化圏でくくりえる近しい関係にあっても、実際のところそれぞれが育み継承してきた芸術文化は細部において異なっており、それを初めて観劇するものにとっては驚嘆し受け入れ難い点も存在する。本稿で取り扱った資料においても、その「誤解」を出来るだけ回避するためには、やはり「知識」を充分に身につけることの重要性が諸所で言及されていた。

また、「京劇」という異文化を受容する日本人に対して、多くの人々が関わり、その理解を助ける人的力の重要性も読み取ることができた。本稿冒頭で言及した日本人にとってやはり異文化である西洋クラシック音楽受容においても様々な努力が惜しみなく注がれてきたことは云うまでもない。京劇の初来日の頃には、日本ではある意味無謀といっても過言ではない「グランドオペラ」や「オーケストラ」作品の創作にまで果敢に取り組んでいる人間も存在していた。山田耕筰や近衛秀麿も欧州に留学し、帰国後NHK交響楽団創設に尽力している。山田は1910年から3年間、三菱財閥の岩崎小弥太に援助を受けた。そして梅劇団招聘に大きな力を果たした帝国劇場の大倉喜八郎もクラシック音楽振興に寄与した財界人である。現在と同様、オペラやあるいは京劇、歌舞伎など莫大な費用を必要とする大正期の芸能興行には企業人のサポートが必須であったことは、今以上に当然のことであろう。

そしてそのサポートは経済的な面でだけでなく、知識の集積が欠くべからざるものであり、実際に、本稿で見てきたように、映像メディアが今のように普及していない時代は、活字メディアの力が大きな意味を持っていた。その活字メディアの情報発信が、芸術・芸能の理解を促進させ、異文化受容に貢献していたことが、本稿で取り挙げた事例からも明確になった。さらにいえば、異文化の国で学び、自文化にも精通した「文化理解の通訳者」という人間の存在が重要であり、まさにその活字メディアを操る「知識人のネットワーク」がそこに存在していたことも確認できたといえるのではないだろうか。

主要参考文献表

  • 青木正兒 1970 『青木正兒全集』(全10巻)東京:春秋社。
  • 電通総研編 1991 『キーワード辞典 文化のパトロネージ 芸術する社会』東京:洋泉社。
  • 波多野乾一 1925 『支那劇と其名優』東京:新作社。
  • 平林宣和 1995 「梅蘭芳と綴玉軒 ― 近代知識人と京劇の古典化」『しにかSINICA』12:86-96.
  • 小西潤子、仲万美子、志村哲編 2007 『音楽文化学のすすめ いま、ここにある音楽を理解するために』京都:ナカニシヤ出版。
  • 梅 蘭芳 1959 『東遊記』東京:朝日新聞社。
  • 梅紹武、屠珍等編撰『梅蘭芳全集肆』華北教育出版社。
  • 村田烏江 1919 『支那劇と梅蘭芳』東京:玄文社。
  • 仲 万美子
    • 1990 「『日本音楽』に対する内外の目 ― 20世紀初頭の場合」『民族藝術』6:174-179。
    • 1997 「日本・中国・西洋音楽文化の重層的対話」(博士(文学)学位取得論文、大阪大学)。
    • 2001 「京劇への異文化からの視線とその意義」『民族藝術』17:132-137.
    • 2003 「暗黙的な知の世界に眠る『日本音楽』 ― 19世紀来日西欧人の分析をめぐって」『阪大音楽学報』1:3-19.
    • 2004 「東アジアの総合芸術に対する異文化理解の意味 ― 20世紀初頭の京劇、歌舞伎の海外公演を事例として」日本音楽学会創立50周年記念国際大会プロシーディングス『音楽学とグローバリゼーション』130-133.
    • 2006「「西洋人は『京劇』をどのように観察したか 音楽文化学の視点からの考察(1)」『中国都市芸能研究』第5輯 37-52.
    • 2008 「輻輳的なフィルターが掛けられた『京劇』の世界 西洋人は『京劇』をどのように観察し、どのように見せたか」『近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究』(平成17年度~平成19年度 科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書 課題番号:17320059 研究代表者 慶應義塾大学総合政策学部教授 氷上正)144-170.
  • 西村典子2009「若者へのクラシック音楽普及からみた『のだめカンタービレ』ブームの意義 ― 20世紀末の三大クラシックブームの特徴の継承と発展を手がかりに ―」(同志社女子大学学芸学部音楽学科音楽文化専攻音楽文化学コース2008年度卒業研究(論文))。
  • 大型画伝《梅蘭芳》編輯委員会編 1997 『梅蘭芳』北京:北京出版社。
  • 大島友尚編輯 1919 『品梅記』京都:彙文堂。
  • 杉浦善三 1920 『帝劇十年史』東京:玄文社。
  • 帝劇史編纂委員会編 1966 『帝劇の五十年』東京:東宝株式会社。
  • 渡辺裕/増田聡他 2005 『クラシック音楽の政治学』東京・青弓社。
  • 吉田登志子 1986「梅蘭芳の一九一九年、二四年来日公演報告 ― 生誕九十周年によせて ―」『日本絵劇学会紀要』第24号、73-105.
  • 中国梅蘭芳研究学会 梅蘭芳記念館 編 1990 『梅蘭芳芸術評論集』北京:中国戯劇出版社。

*1 このような当時の音楽界については、電通総研編集『キーワード辞典 文化のパトロネージ 芸術する社会』(電通総研編 1991)、渡辺裕/増田聡他『クラシック音楽の政治学』(渡辺他 2005)を参照されたい。
*2 コミック版は計21冊刊行。テレビドラマは2006年10月から12月フジテレビ系列で放映。CDは2003~2007年にかけて、22枚リリース。DVDはコンサートだけでなくテレビドラマもDVD化される。またゲームはニンテンドーDS『のだめカンタービレ』(2007年4月)、プレイステーション2『のだめカンタービレ』(同7月)、Wii『のだめカンタービレ ドリーム☆オーケストラ』(同12月)が発売された(西村 2009 参照)。
*3 西村典子は「若者へのクラシック音楽普及からみた『のだめカンタービレ』ブームの意義 ― 20世紀末の三大クラシックブームの特徴の継承と発展を手がかりに ―」(同志社女子大学学芸学部音楽学科音楽文化専攻音楽文化学コース2008年度卒業研究(論文))に、「のだめカンタービレ」ブームと20世紀末のクラシック音楽ブームとの関係性および「のだめカンタービレ」ブームの特質について論じている。
*4 梅のブレインとしての斉如山について、平林宣和が「梅蘭芳と綴玉軒 ― 近代知識人と京劇の古典化」(平林 1995)で簡潔に述べている。以下簡単に概要を記しておく。斉は、民国初期の梅のブレインとしての集団「綴玉軒」のメンバーの1人で、梅に対する経済的な援助や人脈の開拓だけでなく、劇作、作詞、作曲、振り付け、衣装デザインにいたる創作に関わる多様な面でサポートを行っていた。この「綴玉軒」のメンバーは各界の知識人たちによって構成されている。その知識人たちは、演劇の諸所の構成要素の、音楽ないし文学的側面すなわち古典的教養と通じる部分で演劇と接し、顧曲家(演劇、特に歌曲の愛好者)は、曲詞、韻律についての知識、さらに歌唱や楽器演奏などを通して演劇と親しんでいた。斉と梅の出会いは、中華民国元年に梅の《汾河湾》を観賞し、梅の演技面での改良点について文書を取り交わすようになり、2年の歳月を経たのちに、「綴玉軒」のメンバーとなった。斉を含め他のメンバーは伝統的な知識教養人のキャリアを有するのではなく、清末民初にかけて海外留学の経験をもつものが多い。
*5 かれは1926年代後半から1930年代半ばにかけてThe China JournalPacific Affairs Asia などに20篇の文章を寄稿している。執筆一覧は、拙稿「西洋人は『京劇』をどのように観察したか 音楽文化学の視点からの考察(1)」(仲 2006:50-51)参照。また、具体的な観察内容を記した論考内容について、拙稿「輻輳的なフィルターが掛けられた『京劇』の世界 西洋人は『京劇』をどのように観察し、どのように見せたか」(仲 2008:143-166)を参照されたい。
*6 吉田の論考の抜き刷り表紙は、『梅蘭芳』(大型画伝《梅蘭芳》編輯委員会編 1997:90)にも掲載引用され、また、1989年刊行の『梅蘭芳芸術評論集』(北京:中国戯劇出版社、639-690)にも中訳収載されている。中訳初出掲載は『戯曲芸術』1989年1~4期。翻訳者は細井尚子氏。このほかにも、伊藤綽彦氏による「日本での梅蘭芳」(中国芸能研究会、1994年12月16日、ワープロ印字、31頁+資料2枚、松竹大谷図書館蔵)にも詳述されている。
*7 6日、11日、12日の3日間は、『五月の朝』の前に京劇が上演されている。日本人出演者は、七世松本幸四郎、十三世守田勘弥、帝劇所属の女優人である(吉田 1986:76)。この帝国劇場は、大倉財閥の大倉喜八郎らが設立し、歌舞伎役者六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎が専属俳優となり歌舞伎や現代劇の上演を行った。一方、西洋芸術音楽受容史上でも重要な役割を果たしており、イタリアよりローシーを招聘しオペラ上演を行い、管弦楽部、歌劇部を創設し日本人演奏家の育成にも貢献した(杉浦 1920)。
*8 本稿では紙幅の関係で言及しないが、京劇の1930年のアメリカ公演の2年前に、二世市川左団次を筆頭に歌舞伎の初のロシア公演を行っている。その際の両海外公演での聴衆への舞台芸術理解のための情報の開示のあり方には共通する点が見られる。また、実現にはいたらなかったものの、梅蘭芳との北京での共演も企画はされていた。(仲 2001、2004)
*9 さらにこの記事の下欄には、二世左団次が、中国から帰国した時の記事が掲載され、彼の支那劇の感想が、以下のように記されている。「帰国した左団次 支那劇に就ていろいろ感想 【下関特電】市川左団次は満州の興行を打切り北京天津上海を経て十日長崎丸で帰港、午後五時二十分発十一日午前九時四十分大阪駅通過で帰京したが支那劇に就て語る 『梅蘭芳等の ◇合同劇は 先方の都合で中止し次の機会に譲ることにしました。北京の一流俳優は多く大官僚のお抱へである為め戦争に遠慮して出演しなかったので見ることができなかったが、二流所は五六回見た、私は支那の古典的な旧劇に非常に懐かしみを感じました、私は或る程度まで支那劇の浄化したものを日本劇に加味したいと思ってゐます、私は今度の支那劇を観て ◇日本の劇は支那から来たものであることをまざまざみせつけられたやうに感じました支那では今旧劇と新劇とが鎬を削つて居るが、科学を応用した新劇より旧劇の方が観客を呼んで居るやうです、北京等では日本劇が非常に歓迎されました』」(『東京朝日新聞』大正13年10月15日水曜日2面)
*10 日本音楽に対する評価の論争は、大正時代初めに来日した西洋人と日本人研究者の間で展開されている(仲 1990、1997、2003)。
*11 拙共編著では、従来の「音楽学」の研究方法を拡張させ、「いま、ここにある音楽を理解する」ための研究のあり方を提示した(小西/仲/志村 2007)。

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