『都市芸研』第四輯/陝西省南部安康市の人口変動に関するノート の変更点

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*陝西省南部安康市の人口変動に関するノート ――明・清・中華民国期を中心に―― [#j2da30d8]

RIGHT:戸部 健

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*はじめに [#d4f9a935]

2005年8月、筆者は科研費による調査に随行し、陝西省安康市を訪れた。

安康市は陝西省南部(以下、「陝南」と略す)((一般に陝南とは安康市・漢中市・商洛市を合わせた領域をいう。))、秦嶺山脈と大巴山脈に挟まれた山あいの地にある。漢水水系に属するため、伝統的に長江流域との関係が深く、黄河・渭水などをイメージしがちな陝西省にあってユニークな存在として知られている((安康市は陝西省・湖北省・四川省の三省が接する山岳地帯――いわゆる三省交界地帯――に所在する。三省交界地帯は嘉慶白蓮教反乱の発生地として有名で、それゆえ研究も多い。日本人の業績としては鈴木中正(1952)、安野省三(1971)、山田賢(1995)などが挙げられる。))。

今回の訪問の目的は安康市の伝統影絵劇――皮影戯――を調査することにあったが、皮影戯をはじめ安康の各種文化の研究を進めていく上で無視できないものに移民の存在がある。なぜなら、明代以降、特に清代中後期における移民の流入がこの地域の社会や文化の形成に大きな影響を与えているからである。

そこで本稿では、安康市における移民の動きを先行研究に依拠して整理する。それを通して、安康の通俗文化を研究する上での基礎を構築したい。

行論の必要上、まず第1章で安康市の自然・人文地理的状況について明らかにする。続いて第2章で明代から中華民国期まで、約550年間の人口変動について時代別に追う。

*1.安康市の地理 [#w88171bd]

**(1)地勢 [#id437c96]

陝西省安康市は陝西南東部に位置する地級市であり、漢浜区を中心に、紫陽・嵐皋・洵陽・鎮坪・平利・石泉・寧峡・白河・漢陰など9県を擁する。この領域は若干の異同はあるものの、ほぼ清代における興安府のそれと重なる。

漢水の上流域にある安康市はほぼ全域を山地で占められ、平地は漢水およびその支流の峡谷沿いに僅かにあるのみである。そのため、もとより人口はそれほど多くなかったが、後述するように明代以降、特に清朝中後期において未曾有の人口増加を見た。その際、稲作に適する平地に土地を獲得することができなかった人々の多くは山地に居をかまえ、森林を伐採してトウモロコシを植えたりした。そうした動きが山林に甚大なダメージを与えたことは言うまでもない。現在にあっても森林資源の枯渇や、それにともなう崖崩れの増加などにこの影響が現れている(写真1・2)。

#ref(picture1(tobe).JPG,,写真1 水田(漢浜区建民鎮))
#ref(picture2(tobe).JPG,,写真2 土砂が道路を塞ぐ(洵陽・漢浜間))
#ref(t1.JPG,,写真1 水田(漢浜区建民鎮))
#ref(t2.JPG,,写真2 土砂が道路を塞ぐ(洵陽・漢浜間))

**(2)交通 [#ba802bf1]

秦嶺山脈の存在が西安との交通を長い間不便にしてきた。それは民国期においても同様で、まずは漢中に向かい、そこから北上し宝鶏を経由して西安に至るというふうに相当な遠回りを強いられるのが普通だった。さすがに現在では秦嶺山脈を横断して西安に至るルートが鉄道・自動車道路ともに整備されているため双方の交通はかなり便利になったと言えるが、それとて人民共和国成立後のことである。

一方、東隣の湖北省とは漢水の水運を通じて密接な関係にあった。先述したように安康は漢水の上流域であり、漢水を船で下れば長江流域と直結していた(写真3)。このことは逆に湖広(湖北省と湖南省)など長江流域から人・モノが漢水を上って安康に流入してくることも意味した。実際このルートでやってきて、安康に住み着いた人々は清代中後期をピークに相当な数にのぼる。それとともに長江流域、とりわけ湖広の文化も流入し、地域に深く根ざしていった。今回調査した「漢調二黄」という演劇の節回しもおそらく移民とともに湖北から伝わったものと考えられる。
#ref(picture3(tobe).JPG.JPG,,写真3 洵陽付近の漢水)
#ref(t3.JPG,,写真3 洵陽付近の漢水)

*2.安康市における人口変動 [#n1b05e06]

以下では明代から中華民国期における安康市の人口変動について述べる。その際、時代を①明代、②明末清初、③清代中後期、④清末民国期の4つに区分する。これは人口変動から見たそれぞれの時代の特徴によって分類したものであり、あえて各時代の特徴を形容するとすれば①は人口漸増期、②は激減期、③は激増期、④は漸減・安定期と表現できよう。

**(1)明代 [#faf8bd30]

自然増加という要因を除けば、明代において安康地域の人口を増加させたのは他地域からの移民であった。

移民は中期から後期にかけて多く見られた。初期に移民が少なかったのは、安康の所在する河南・湖北・四川・陝西の交界地帯への自由な移住を洪武帝が禁止したことによる。山深く、ゆえに官憲の目をとどかせにくいこの地域への自由な移住を認めることは、民衆反乱など不穏な動きを増長させることだと彼は考えたのである。

しかし禁令は徐々に遵守されなくなり、交界地帯への移民は漸次増えていった。特に正統年間以降の増加は激しかった。これは黄河の河道の激しい変化に大打撃を受けた河南省などの多くの農民が新天地を求めて交界地帯へ移住したことによる。その結果、成化元(1465)年には民衆反乱が勃発している。これはほどなく鎮圧され、これを機に不法移住者の強制退去も敢行されたが、実質的にはほとんど効果が上がらなかった。そのため結局は移住民を移住地の戸籍に編入することで解決が図られた。以上に見るように、政府による移住禁止令はなし崩し的に撤廃されたかたちとなったと言える。

**(2)明末清初 [#t7df3fb0]

移民により増加した安康の人口は明末清初に激減した。それは言うまでもなく度重なる戦乱によるものである。張献忠の挙兵に始まり三藩の乱に終わる約50年間、安康はたびたび戦場となり、そのために多くの命が失われ、地域社会も破壊された。場所によっては疫病や飢饉なども発生した。これらの戦乱や災害により、安康の人口は従来の3割ほどにまで落ち込んだとされている。

**(3)清代中後期 [#w6a994f2]

明末清初の混乱で激減した安康の人口は清代中期以降空前の増加を見た(表1)。これは湖広からの移民によるところが大きい。

|>|>|>|【表1】興安府下各県の人口変動(1787年~1953年)&br;単位=人|
|県・庁名|乾隆52年(1787年)|嘉慶25年(1820年)|1953年|
|安康県(現:漢浜区)|153,884|389,300|437,861|
|洵陽県|83,972|243,500|272,442|
|白河県|51,111|90,400|130,175|
|平利県|148,099|178,600|162,414|
|紫陽県|59,819|126,700|227,328|
|漢陰県|83,841|123,300|163,523|
|石泉県|29,947|87,900|103,125|
|鎮坪県|||32,558|
|磚坪庁(現:嵐皋県)|||119,382|
|合計|610,673|1,239,700|1,648,808|
|>|>|>|※(出典)曹樹基(2001)、404頁、「表9-17」をもとに作成。鎮坪県は1920年に平利県より分立、磚坪庁は1822年に安康県より分立。寧峡庁(現:寧峡県)のデータは不明。|

この頃湖広では人口が飽和状態になっており、一方で西隣の四川では長年の混乱で人口が激減していた。そのため、長江を遡って湖広から四川に移住する人が後を絶たず、清末の思想家・魏源はこの現象を「湖広が四川を&ruby(み){填};たす」((『古微堂内外集』そもそも湖広を満たしたのはやはり魏源が「江西が湖広を填たす」と言ったように長江下流域からの移民であった。明清期における人口移動を概観したものには以下がある。斯波義信(1992)、西澤治彦(1992)、山田賢(1995)、曹樹基(1997a・b)。))と形容した。こうした事態はまったく陝南においても同様であり、明末清初の戦乱による人口減少を湖広からの移民が埋めることになったのである。

とはいえ、当初清朝は陝南への移民を禁止していた。康熙年間に川陝総督の鄂海が移民奨励政策を行い、一時的に移民が増えたことがあったが、それもまもなく禁止となっている。

しかし雍正年間に地丁銀制が施行、つまり人頭税が形式上廃止されたことにより、もはや人丁の流出を抑制する必要がなくなった。そのため清朝の政策は転換し、陝南への移住が奨励されるようになった。以後約90年間、陝南の人口はかつてない速度で増加することになる。

移民は湖北・湖南・安徽など長江中下流域からのものが最も多く、また陝西よりも早く移住の禁止が解かれこの頃すでに人口飽和に達していた四川からのものも大勢いた。そのほか河南・江西・陝西・広東からの移民も少なからずあった。移民の数が増えるにつれ、同郷会館もいたるところで建てられ、同郷者同士の相互扶助を促進する機能を果たした。中国では特定品目の売買を特定の同郷者集団が独占することがしばしば見られ、そうした通商上の要因も大きかったと思われる。

漢水を利用した商業活動に従事する人が増える一方で、農業・林業などにたずさわる人も増えていった。早い段階で移住してきた人々は主に米の生産や生産物の搬出に有利な、河川に近い平地を獲得した(写真3)。彼ら先来者によって平地が占有されると、遅れて移住してきた人々の多くは山地に土地を求め、トウモロコシなどの栽培をしたり、林業を営んだりした。彼らの後に移住してきた人々は未開拓の山地をめざして更に山奥に分け入っていった。

山に入ったのは農民だけではない。当時山地には木材・鉄・きくらげなどを採集、出荷するための作業場がいくつもあり、それらは相当な数の雇工を集めていた。

こうして本来ほとんど居住者がいなかった山地は乾隆・嘉慶期にはかなりの数の人間で埋められるところとなり、そうした状況に対し政府は新たに行政区を創設する必要に迫られた。例えば現在の寧峡県の前身である寧峡庁はこの時期の移住民の増加によってできたものである。

ただし、移民の流入にともなう山地開発の激化は当然生態環境を破壊すること甚だしかった。禿山同然になった山も多く、それゆえがけ崩れも多発するようになり、また、がけ崩れで流れた土砂が川を埋めたことから、雨が降るとしばしば洪水を引き起こすようになった。このことはさらに、人・モノの輸送に大きな役割を持つ漢水、およびその支流の水深が浅くし、水運に不便をもたらす結果となった((なお佳宏偉(2005)は陝南の生態環境悪化の原因を人間による開発だけでなく、気候の変化や土地の性質にも求めている。))。

また、トウモロコシの生産を基礎にした山地での経済活動は常に不安定な状態に置かれていたため、不作の際には移住民間で紛争がおき、それは時に大規模な蜂起にまで発展した。嘉慶元(1796)年に始まる嘉慶白蓮教反乱はその最大のものである。

**(4)清末民国期 [#bdb0941e]

乾隆期以来続いてきた人口増加は道光年間に入って止まり、その後は減少に転じた。人口減少の原因としては、森林の過剰伐採によって基幹産業のひとつである林業が存続不可能となったこと、森林を伐採し耕地を広げたことが土壌の流出を招き耕作不能な土地を増やしたこと、山地の作業場などが閉鎖に追い込まれたこと、などが挙げられる。人口減少の度合いは各地で異なるが、例えば興安府(現:安康市)の西隣の漢中府(現:漢中市)では孫達人氏の研究によると道光3(1823)年から光緒年間(1875~1908)までに約37パーセントも減少したという((孫達人(1983)、144頁。ただし、この数字には同治元年から始まる回民反乱や光緒初期に発生した飢饉による死者も含まれていると思われる。曹樹基によると、それら災害が興安府に与えた影響は陝西省の他地域に比べると少ないものの、それでも約35万人に上る死者を出したという(曹樹基〔2001〕、582頁)。))。

その後、清末から1930年代初頭にかけて人口は漸増を続けるが、これは大方自然増によるもので、移民によるものではないと考えられる。清代中後期に活況を呈した経済も清末以降は大きく冷え込み、比較的景気がよかったのはアヘン栽培くらいであった。そのため近代になっても交通インフラの整備は沿海地域に比べて大幅に遅れ、電気など都市インフラも依然として未発達な状態が続いた。

こうした状況に若干の変化が訪れるのは1937年以降、すなわち日中戦争が勃発してからである。日本軍により沿海部を追われた国民政府は大きく西方に退き重慶を中心に徹底抗戦の構えを見せるが、その際陝西省は前線基地としてにわかに注目された。安康の交通インフラはこの時大いに整備され、漢中経由ではあるが、西安・安康間を結ぶ鉄道、自動車道が作られ、飛行場も建設された。

しかし、これらの交通インフラはみな軍事用であり、一般民衆の利用は厳しく制限された。そのため安康の産業に与えた影響はそれほど大きくなかった。また、軍隊は駐屯したものの、人口増加はそれほどなかった。

*おわりに [#hfe4625e]

以上、安康市の人口変動を明代から中華民国期に亘って見てきた。その動きを大まかにまとめれば以下のようになる。明代中期以降、移民の流入とともに徐々に増加した安康の人口は、明末清初の混乱で激減し、その後しばらく増えなかったが、清朝中期以降移民の大量流入により激増した。しかし、道光期以降再度減少に転じ、それ以降民国期にいたっても大きな増加はなかった。

このように見ると、明代から民国期の安康にとって、最も変化に富んだ時期はまさしく移民の大波に洗われた清代中後期であったと言えよう。この清代中後期こそ明末清初に崩壊した社会が再構築され、新たな安康社会が打ち立てられたという極めて重大な時期にあたる。そしてそれによって形成された文化などのかなりの部分はその後民国期を経て共和国期にも受け継がれたのである。

従って安康の地域文化を解明するためには清代中後期の動向に注目する必要がある。本稿がその一助となれば幸いである。



**参考文献(五十音順) [#l4a086d7]
-安康市地方志編纂委員会編(2004)『安康地区志』(上)(下)西安、陝西人民出版社.
-安野省三(1971)「清代の農民反乱」『岩波講座 世界歴史』12、東アジア世界の展開Ⅱ、岩波書店.
-佳宏偉(2005)「清代陝南生態環境変遷的成因探析」『清史研究』2005年1期.
-侯楊方(2001)『中国人口史』第6巻、1910-1953年、上海、復旦大学出版社.
-蔡雲輝(2003)「会館与陝南城鎮社会」『宝鶏文理学院学報(社会科学版)』23巻5期.
-蔡雲輝(2004)「近代陝南城鎮発展変遷的社会条件及動力因素分析」『漢中師範学院学報(社会科学)』2004年2期.
-斯波義信(1992)「移住と流通」『東洋史研究』51巻1号.
-鈴木中正(1952)『清代中期史研究』愛知大学国際問題研究所.
-曹樹基(1997a)『中国移民史』第5巻、明時期、福州、福建人民出版社.
-曹樹基(1997b)『中国移民史』第6巻、清民国時期、福州、福建人民出版社.
-曹樹基(2001)『中国人口史』第5巻、清時期、上海、復旦大学出版社.
-孫達人(1983)「川楚豫晥流民与陝南経済的盛衰」『中国農民戦争史研究集刊』3輯.
-西澤治彦(1992)「村を出る人・残る人、村に戻る人・戻らぬ人――漢族の移動に関する諸問題――」可児弘明編『シンポジウム 華南 華僑・華人の故郷』慶應通信.
-山田賢(1995)『移住民の秩序』名古屋大学出版会.
-李国強(2004)『安康経済地理』北京、世界知識出版社.