『都市芸研』第四輯/武当山諸宮観調査報告 の変更点

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*2005年夏期武当山諸宮観調査報告 [#z1bc3fcf]

RIGHT:二階堂 善弘

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*1.武当山調査について [#y8cdc884]

湖北にある武当山は、古来より真武大帝、すなわち玄天上帝の聖地としてつとに有名である。ユネスコの世界遺産にも登録され、いまや世界的な観光名所としても知られる。

このたび2005年8月8日から13日までの日程で、武当山を訪れて調査を行った。もっとも以前、2003年3月にも短い期間であるが調査している。このときは大雪のために道路が封鎖され、太和殿など一部の宮観しか見ることができなかった。このため二度の調査となったが、広大な面積を有する武当山のこととて、それでも時間が不足しがちであった。本報告では2005年夏期の調査を中心とするが、一部改修中であった殿宇などについては、2003年の調査内容を援用するものとする。

*2.玄天上帝信仰と武当山 [#ke5e6f0a]

武当山は湖北省北部の丹江口市にあり、西に十堰市、東に襄樊市に通じる所に位置する。そもそも、北方の守護神であった玄天上帝を祀る聖地が、なぜ河北や山西といった北方異民族に接する地区でなく、湖北の地にあるのかは大きな疑問であった((ただ山西省には「北武当山」と呼ばれる山があり、そこではやはり武当山を模した形で宮観が作られ、玄天上帝を祀っている。))。しかし視点を変えてみれば、北宋から元初に至るまで、漢民族と北方異民族の係争の地であった襄陽の近辺は、むしろこの時代の北方守護の神にふさわしい土地と言えるかもしれない。

玄天上帝は古代の四霊の一つ、玄武神が発展して人格神となったものである。唐代以前には人格神として扱われたとおぼしき記録がない。真武は五代から宋にかけて、北帝配下の北極四聖(天蓬・天猷・真武・黒&lang(zh-tw){煞};)の一つとして信仰を発展させた。その後、南宋から元にかけては真武だけが特別視されて、かえって北帝の機能を有して玄天上帝となり、明朝に至って国家鎮護の神となった((玄天上帝の変化については、拙稿「玄天上帝の変容――数種の経典間の相互関係をめぐって――」(『東方宗教』第91号・1998年)60~77頁を参照。))。武当山の宮観の発展も、ほぼこの玄天上帝の信仰と表裏一体の関係をなしている。

玄天上帝については、浄楽国の太子が王位を捨てて武当山に来たり、四十二年に及ぶ修行の末に白日昇天して、玉皇上帝より玉虚師相・玄天上帝に封じられたという伝承が広く知られている。そのため武当山には、玄天上帝の故事に関連する遺構も多く存在している。

新しく編纂された『武当山志』によれば、武当山の歴史は古く、唐代には五龍祠があり、宋の真宗の時にこれが道観に格上げされ、さらに徽宗の宣和年間に紫霄宮が造られたとある。もっとも、これらの廟宇は宋金の兵乱に遭い、すべて失われた((武当山志編纂委員会編『武当山志』(新華出版社・1994年)123頁。))。元になって、汪真常・魯大宥・張守清などの道士たちが五龍・紫霄・南岩などの諸宮観を復活させた。もっとも、これらの殿宇の多くは、元末の兵乱によってまたも滅んだ。現在の武当山の大規模な宮観群は、明の永楽帝の命によって建てられたものである。明王朝では玄天上帝を異様とも言えるほど特別視し、そのために膨大な国費を投じて武当山の殿宇を修築した。永楽十年(1412年)に始まった工事は、ほぼ十年近く続いた。遇真宮・紫霄宮・五龍宮・南岩宮はその時に再び建て直された。その後も拡建がなされ、嘉靖年間においては、太和・南岩・紫霄・五龍・玉虚・遇真・迎恩・浄楽の八大宮があったとされる((前掲『武当山志』124頁、またその記載の元となった『武当福地総真集』及び『大岳太和山紀略』(『中国道観志叢刊』・江蘇古籍出版社・第5~6冊所収)を参照。))。

清代においては、国家鎮護の役割を失い、武当山の宮観は縮小を余儀なくされた。また清朝においては、武神としては関帝を積極的に信奉したため、玄天上帝の地位は相対的にやや低下した。しかし各地の盛んな信仰はさほど減退もせず、いまでも玄天上帝を祀る廟は中国全土に残されている。武当山以外では、広東仏山の祖師廟が特に有名であろう。また台湾には各地に無数の玄天上帝廟が存在し、熱心に信仰されている。

武当山の宮観群は、かなりの範囲に広がっており、山麓には玉虚宮・遇真宮・元和観などがあり、山の中腹には磨針井・太子坡・八仙観、さらに紫霄宮・五龍宮・南岩宮があり、山頂には朝天宮・太和宮・金殿がある。なお武当山はまた七十二峰・三十六岩などの自然の奇観を有することでも知られている。以下では、武当山の幾つかの宮観について述べる。

*3.南岩宮・紫霄宮 [#t6647d66]

南岩宮は元の至大年間に造営され、その後兵火によって失われた後、明の永楽年間に再建された。もっとも現在の建築の多くは、清の同治年間から民国期にかけての重修を経ている((前掲『武当山志』129頁、及び劉洪耀「武当山明代以前建築考」(『中国道教1994増刊・武当山中国道教文化研討会論文集』中国道教協会・1994年)190~195頁を参照。))。

南岩宮は南天門・碑亭・龍虎殿・大殿、それに絶壁に建つ南岩懸崖の天一真慶宮石殿などからなる。碑亭は明の永楽年間に建てられたものであり、永楽年間の大きな石碑を有するが、現在は建物の頭部が毀れたままになっており、危険を避けるためその中には入れない。また大殿は、訪れた時は修理中であった。

#ref(n1.jpg,,南天門)

南岩懸崖は、武当山の中でも特に有名な所である。ここには元の至元年間に天一真慶宮が建てられ、歴代、改修を経てきた。現在は皇経堂・両儀殿・万聖閣・石殿・龍頭香などの諸建築からなる((前掲『武当山志』131頁。))。

龍頭香は、断崖に突き出た石の先に香炉が置かれており、ここで行香を行うと功徳が高いということから、古来より多くの香客がある一方、誤って転落する者もあった。そのためか現在は柵をもって囲んでいる。天一真慶宮の殿内には明代の玄天上帝像と聖父・聖母の像が祀られている。

#ref(n2.jpg,,龍頭香)

南岩宮の付近には、玄天上帝が四十二年に及ぶ修行の末に昇天したという飛翔崖がある。また雷神の鄧天君を祀った雷神洞、それに中規模の道観である泰常観も近くにある。

紫霄宮は、明代の遺構をよく残した大規模な宮観である。龍虎殿・碑亭・十方堂・紫霄大殿・父母殿・東宮・西宮などからなる。龍虎殿には、元代に造られた青龍神・白虎神の像を存している。
#ref(n3.jpg,,龍虎殿)

龍虎殿の次には十方堂と紫霄大殿がある。ともに永楽十年(1412年)に建てられたものであり、特に本殿である大殿は重厚な建物である。大殿のさらに奥には父母殿があるが、これは民国期に再建されたものである((前掲『武当山志』133頁。))。
#ref(n4.jpg,,紫霄大殿)

これらの殿宇の中には、明代の神像が数多く存している。玄天上帝には立像や座像があり、また温元帥・関元帥・馬元帥・趙元帥の四大元帥の像、また王霊官の像などがある。なお、現在武当山の宗教活動の多くはこの紫霄宮において行われている。

*4.朝天宮・金殿・太和宮 [#p1e2f59c]

武当山の麓から太和宮・金殿などのある天柱峰まで登るルートは二つ存在する。一つは南岩宮から一天門・二天門・三天門から朝天宮を経て徒歩で登るルート、もう一つは、自動車などで中観まで行き、そこからロープウェイに乗って山頂まで出るルートである。今回の調査においては、一・二・三天門を徒歩で通るルートを辿った。しかしこのルートにおいては、かなりの急勾配の石段を延々と登り続けなければならず、かなり難儀した。

南岩宮から石段をかなり下ったところに、榔梅仙祠がある。榔梅は武当山の特産として古くより知られる果実であり、玄天上帝が成道したときに花咲き実を結んだとされる。『本草綱目』にもその旨記載がある。その榔梅の精を祀るのがこの祠であり、明代の建になる((前掲『武当山志』148頁。))。
#ref(n5.jpg,,榔梅仙祠)

一天門から三天門に至る途中、黄龍洞の上に朝天宮がある。朝天宮はやはり永楽年間に建てられたものであるが、清代から民国に至るまでは廃れていた。現在の殿宇は1990年代に入ってから整備されたものである((前掲『武当山志』134頁。))。中規模の宮観といってよい。
#ref(n6.jpg,,朝天宮)

三天門を経てさらに登ると、武当山の頂点に天柱峰があり、そこには金殿・太和宮・皇経堂・古銅殿・霊官殿などがある。
#ref(n7.jpg,,天柱峰)

金殿は建物自体が銅で出来ているという特異な殿宇である。このような建築は、五台山などにも見られるが、膨大な費用が必要なためか、それほど多く存在するわけではない。金殿は天柱峰の頂上に設置され、明永楽十四年(1416年)の建である。中には披髪跣足の玄天上帝像が祀られている((前掲『武当山志』126頁。))。ただ2005年夏調査時は修理が行われており、また多くの参拝客に囲まれていた。幸いに2003年の調査においては他の客も少なく、十分に観察することができた。

古銅殿は、明の金殿を建立した時に、もとあった古い銅殿を移動させて太和宮の近くに設置したものである。これは元代に造られた銅殿であり、中国の銅殿では最古に属するものである((前掲劉洪耀「武当山明代以前建築考」192頁、及び前掲『武当山志』126頁。))。銅殿は保護のため周りを覆う形でさらに建物が建てられている。磚を主体とした周囲の壁と、内部の銅の壁の間に一人が通れるような狭い空間があるが、ここを通り抜けると福運が訪れるという言い伝えがあるようで、多くの者が挑んでいた。ここも2003年の調査時に見ることができた。

太和宮は天柱峰全体の中心ともいえる建物であり、多くの参拝客が熱心に拝礼を行っていた。ここには明代の玄天上帝像などを存している。明の永楽年間に建てられており、朝聖拝殿と称していたが、清代以後はここを太和宮と称するようになった。皇経堂はこれも明永楽年間の造であるが、現在の建物は民国期に造られたものである。三清・玉皇大帝・玄天上帝などの像を祭祀する。霊官殿は錫で造られた殿宇であり、王霊官を祀っていた。ただ1970年代に元の霊官像は失われている((前掲『武当山志』128頁。))。
#ref(n8.jpg,,太和宮)

太和宮では、盧迎生道士と話す機会を得た。盧道士は北京白雲観に学び、ここに派遣されたとのことである。かつて道士は洞天福地や諸道観などを移動することがあったが、現代においては国家によって勤務地を指定されることがあるようだ。盧道士のご好意により、太和宮内部の神像については撮影を行うことができた。

太和宮においては、玄天上帝の座像を中心に、金童・玉女像、さらに鄧天君・辛天君・温天君・馬天君・関天君・趙天君の像がある。すなわち鄧・辛二天君と、四大元帥の組み合わせである。玄天上帝と金童・玉女像は明代のものであるが、諸天君の像は清代のものである。ただ関天君の像については、伝統的な関羽像とはかなり形象が異なっている。或いはこれは岳天君の誤りではないかとも思われる。
#ref(n9.jpg,,太和宮玄天上帝座像)
#ref(n10.jpg,,鄧天君)
#ref(n11.jpg,,馬元帥)
#ref(n12.jpg,,関元帥)

*5.太子坡・磨針井及びその他の殿宇 [#hd3cb906]

武当山の中腹にも多くの宮観があり、多くの参拝客が訪れている。

太子坡は、浄楽国太子であった玄天上帝がここで修行したと伝えられる場所である。しかし実際にはここは複真観という道観であり、太子修行の伝承は後から附会されたものであると考えられる。
#ref(n13.jpg,,太子坡)

太子坡の近くには磨針井がある。清代に建てられたものである((前掲『武当山志』137頁。))。ここは途中で修養を放棄しようとした玄天上帝が、一老媼が鉄棒を磨いて針にしようとしているのを見て、反省して戻ったという故事にちなむ所である。現在も老媼が磨いていたという鉄棒などが置かれているが、もとより後世作為されたものであろう。実際の名は純陽宮ということからするに、恐らくは呂純陽を祀っていたものと考えられる。

この他、麓には玉虚宮・遇真宮などがある。玉虚宮は永楽年間に建てられた規模広大な宮観であるが、その建物の多くは残っていない。

武当山は、いまも明代の遺構を多く残すとはいえ、かつての太和・南岩・紫霄・五龍・玉虚・遇真・迎恩・浄楽の八大宮のうち、迎恩・浄楽宮の建物のほとんどは失われ、五龍・玉虚宮もかなりの部分が毀れたままである。南岩宮は比較的まだ保存されているとはいえ、その碑亭などはいまも上部を欠いている。清代にも多くの宮観は何度も重修されているとはいえ、明王朝のような過度な保護がなかったことがやはり影響しているといえるだろう。現在これだけの規模の宮観を維持するのは大変なことと思われる。ただ見たところ玄天上帝信仰の盛んな台湾各地の廟からの寄進が多いようであった。

>*本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。