『都市芸研』第十六輯/台湾南部における影絵人形劇の上演について の変更点

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*台湾南部における影絵人形劇の上演について――中元節を中心に [#p231e723]
RIGHT:山下 一夫
#CONTENTS

*1.はじめに [#yd454796]

台湾の人形劇というと、普通は手袋人形劇(布袋戯)が有名である。台湾では北部から南部まで広範囲に分布しており、また中国語が強制された戦後の一時期に台湾語(閩南語)の使用が許された数少ないメディアだったため、台湾本土意識とも結びつき、現在では一般に台湾を代表する伝統文化と見なされている。

そうした中、高雄市のごく限られた地域でこれとは異なる影絵人形劇(皮影戯)が行われている。かつては40以上の劇団が活動していたとされるが、2018年現在、残っているのは東華皮影劇団(大社区)・永興楽皮影劇団(弥陀区)・復興閣皮影劇団(弥陀区)・高雄皮影劇団(美濃区)の4つだけである((山下一夫2016、pp.15-19を参照。))。また上演形態は、大きく分けて以下の3種類がある。

-(一)学校や劇場における上演。子ども向けの新作演目が多く、また「伝統文化を学ぶワークショップ」を兼ねることも少なくない。
-(二)堂会における上演。結婚式や家屋落成など、慶事での出し物として行われる。近年は大幅に減少している。
-(三)廟会における上演。節日や神誕日などで、寺廟で行われる参拝活動の一環として行われる。中でも農暦7月15日を中心とする中元節の上演は重要であるが、現在では東華皮影劇団と永興楽皮影劇団だけが行っている。

筆者は2017年9月に、高雄市の幾つかの場所で行われた興楽皮影劇団の中元節上演に随行し、調査をする機会に恵まれた。そこで本稿では、今回の調査内容を検討し、用いられた台詞や歌詞、また上演場所などについて分析を行うとともに、そこから台湾における影絵人形劇の形成と分布について初歩的な考察を行っていきたいと思う。

*2.中元節上演 [#p2014e07]

まず初めに、今回筆者が行った調査の概要について記しておく。影絵人形劇の上演は、いずれも永興楽皮影劇団である。

**(1)2017年9月5日(農暦7月15日)赤崁保安宮 [#gca76246]

赤崁保安宮は高雄市大寮区にある、保生大帝を祀った廟である。大寮区を南北に走り、林園区に抜ける鳳林一路沿いにある。現在は内陸だが、古い地図を見ると鳳林一路のすぐ東側を高屏渓の支流が流れており、かつては川に面していたことが解る((黄清琦2014所収鳳山庁全図(1907年)および高雄州管内図(約1920年)。))。

#ref(Yamashita1.jpg,,保安宮)

|11:00~11:40|舞台組立(劇団側)、祭壇設立(廟側)|
|13:40|戯彩を受け取り、舞台裏で焼香(劇団側)|
|14:00~15:50|舞台で扮仙戯上演(劇団側、戯彩一枚ごとに扮仙戯を上演し、戯彩をスクリーン下部に貼る)、祭壇で拝礼(廟側、祭壇での拝礼と舞台側の祭壇での拝礼を三回繰り返した後、紙銭の焼却を行う)|
|15:50~16:15|舞台で文戯『状元拝相』上演(劇団側)|
|16:15~16:25|廟側の紙銭焼却に合わせて堂鼓を叩き続ける(劇団側)|
|16:25|紙銭焼却が一段落し会場の片付けを始める(廟側)、堂鼓演奏をやめて上演終了(劇団側)|
|19:30~19:38|舞台で扮仙戯上演(劇団側)|
|19:38~21:30|武戯『李那吒鬧東海』上演(劇団側)|
|21:30~22:00頃|スクリーン下部の戯彩を剥がして焼却、舞台撤収(劇団側)|

戯彩とは奉納者の名前や所属を書いた札のことで、扮仙戯上演の際に1枚1枚読み上げられた後、スクリーン下部に貼られ、最終的に焼却された。また舞台裏での焼香は、台湾皮影戯の祖師爺である田都元帥を対象としており、地官清虚大帝など中元節に関わる神を祀るわけではない。

#ref(Yamashita2.jpg,,戯彩)

流れとしては、昼間に劇団側の扮仙戯上演(1回にかかる時間は7分ほどで、それを戯彩の数だけ宛名を変えて何度もくり返す)および文戯上演と、廟側の拝礼とが並行して行われた後、廟側が紙銭焼却を行い、祭壇を片付けていったん終了となり、夕食後に再び劇団側が一回だけ扮仙戯を行い、続いて武戯を上演して21:30に終了する、というものである。

以前は夜遅くまで武戯の上演が行われたらしいが、現在は政府の通達により、強制的に21:30に終了することになっている。実際、この日の『李那吒鬧東海』も、最後まで上演が終わらず、中途半端な所で突然打ち切りとなった。また昼の扮仙戯の際には多くの参列者がいたが、夜に武戯を見に来た者はまばらであった。娯楽性という点では明らかに武戯の方が勝るはずだが、当事者たちは扮仙戯の儀礼的上演の方を重視しているようである。

**(2)2017年9月6日(農暦7月16日)汕尾北極殿 [#x9e3f2ff]

汕尾北極殿は高雄市林園区にある、玄天上帝を祀った廟である。林園区汕尾地域の漁村の中にあり、南に少し行くと海で、また東側にしばらく歩くと高屏渓がある。1963年に扶乩の神託で、近くにある爐済殿という関帝廟内の玄天上帝を分祀するよう指示され、汕尾地域の居民の出資で1983年に完成したという((廟内の碑文「北極殿沿革誌」(北極殿管理委員会、1985年)による。))。

#ref(Yamashita3.jpg,,北極殿)

|11:00~11:40|舞台組立(劇団側)、祭壇設立(廟側)|
|12:55|戯彩受け取り(劇団側)|
|13:30|舞台で焼香(劇団側)|
|13:30~14:00|道士の儀礼(廟側)|
|14:00~16:06|舞台で扮仙戯上演(劇団側、戯彩一枚ごとに扮仙戯を上演し、戯彩をスクリーン下部に貼る)、祭壇で拝礼(廟側、祭壇での拝礼と舞台側の祭壇での拝礼を3回繰り返した後、紙銭の焼却を行い、祭壇を撤収)|
|16:06~16:25|舞台で文戯『状元拝相』上演(劇団側)|
|19:30~19:36|舞台で扮仙戯上演(劇団側)|
|19:36~21:30|舞台で武戯『李那吒鬧東海』上演(劇団側)|
|21:30~22:00頃|スクリーン下部の戯彩を剥がして焼却、舞台撤収(劇団側)|

おおまかな流れは前日の赤崁保安宮とほとんど同じだが、今回は廟側に「道士」がいた点が大きく異なっている。ただ、関係者はいずれも「道士」と呼んでいたが、13:30からの儀礼で浄鞭を用いて清めを行ったり、14:00からの拝礼で牛角を吹いたりしていたため、これらの要素を考えると、道教に属する道士ではなく、いわゆる「法師」の類だと思われる。この「道士」は、儀礼のほかに参列者の拝礼の音頭取りも行っていたが、これは赤崁保安宮では廟の管理委員会の方が担当していたものである。

**(3)2017年9月9日(農暦7月19日)林園区漁会 [#oa8edbfb]

林園区漁会は高雄市林園区の中芸漁港にあり、神仏を祀った廟ではなく、日本で言うところの漁業組合の事務所である。昼の拝礼の参列者も職員や役職者が中心で、また会場も普段は水揚げを行う市場として使われている場所であった。9月6日に上演を行った汕尾北極殿とは1km程度しか離れておらず、参列者の一部が重複していた。

#ref(Yamashita4.jpg,,漁会)

|11:00~11:40|舞台組立(劇団側)、祭壇設立(漁会側)|
|11:50|戯彩受け取り(劇団側)|
|12:30|舞台で焼香(劇団側)|
|12:40~13:00|道士の儀礼(漁会側)|
|13:00~13:55|舞台で扮仙戯上演(劇団側、戯彩一枚ごとに扮仙戯を上演し、戯彩をスクリーン下部に貼る)・文戯『状元拝相』上演(劇団側)、祭壇で拝礼(漁会側、祭壇での拝礼と舞台側の祭壇での拝礼を3回繰り返す)|
|13:55~14:00|3回目の拝礼の後、舞台側の祭壇でポエが行われる(漁会側)|
|14:00~14:30|爆竹や紙銭を焼く真似事をした後、実際には焼かず、そのままトラックに搬入し、近くの鳳芸宮の炉まで持って行って焼却(漁会側)、14:15より扮仙戯を1回のみ上演(劇団側)|
|19:30~19:38|舞台で扮仙戯上演(劇団側)|
|19:36~21:35|舞台で武戯『李那吒鬧東海』上演(劇団側)|
|21:40~22:00頃|スクリーン下部の戯彩を剥がして焼却、舞台撤収(劇団側)|

全体の流れはやはり9月5日・6日と変わらないが、爆竹や紙銭焼却をその場で行わなかったのは、市場だということもあり、政府の規制が関係しているのだろう。この日は、前日には解らなかった「道士」の儀礼を細かく観察することができ、1回目の拝礼で『清虚大帝宝鑑』を読み上げ、これを2回目の拝礼に入る前に焼却していることが解った。また3回の拝礼の後にはポエ(貝殻を模した2つの木片を投げて行う占卜の一種)が行われ、一度で聖&lang(zh-Hant){筊};(一方が表、一方が裏となり、神の同意を得たこと)が出た際には、参列者から歓声が上がった。後で漁会の幹事の方に感想を伺ったところ、「以前布袋戯を行った時にはなかなか聖&lang(zh-Hant){筊};が出なかったこともあったが、やはり皮影戯は違う」という話が返ってきた。

#ref(Yamashita5.jpg,,牛角を吹く道士)

#ref(Yamashita6.png,,清虚大帝宝鑑)

#ref(Yamashita7.jpg,,ポエ)

さて、永興楽皮影劇団の張新国氏によれば、劇団の中元節上演は、今回調査した場所・時間も含め、毎年以下の農暦の日付に固定されているという。

-7月14日 濃公媽祖廟(高雄市大寮区)
-7月15日 赤崁保安宮(高雄市大寮区)
-7月16日 汕尾北極殿(高雄市林園区)
-7月19日 林園区漁会(高雄市林園区)
-7月20日 汕尾三清宮(高雄市林園区)
-7月29日 大林蒲鳳林宮(高雄市小港区)

なおこの他に、以前は7月27日にも個人の祭壇での上演が行われていたが、最近になって影絵人形劇から映画の上演に変わったという。また、汕尾北極殿が完成したのは1985年だが、廟の母体となった汕尾地域の居民の上演はそれ以前から行われていたらしい。なお、現在では7月16日の上演となっているが、廟完成前は7月20日で、ある時期に扶乩による神託で日程が調整されたということであった。このように、近年に場所や日程の多少の変更はあったが、基本的には中元節における高雄市南部への出張上演はかなり以前から行われており、関係者はこれを「百年契約」と呼んでいる。

また上演場所は、7月14日から始めて、段々と南へ移っていっている。現在は21:30で上演が終了となっており、劇団のある弥陀区から毎日高速道路を使って車で往復しているが、旧時は夜を徹して上演が行われ、また移動も不便であったため、劇団は上演場所に泊まりながら少しずつ南へ移動していったのだろう。したがってこの日程は、当初は劇団の移動の便を考えて組まれたものと思われる。

また、濃公媽祖廟は、赤崁保安宮と同じく、かつては川に面しており、媽祖が航海の女神であることを考えると、おそらく廟の前に船着き場があったのだろう((現在では内陸にある媽祖廟も、かつては川や海に面していたが、漢人による開墾が進み、山地から土砂が流出した結果、港とは関係が無くなってしまったものが非常に多く、こうした媽祖廟は「陸地媽祖」と称される。山下一夫2013参照。))。さらに汕尾北極殿、汕尾三清宮、大林蒲鳳林宮はいずれも漁村にあり、林園区漁会に至っては漁民の組織そのものなので、台湾皮影戯の中元節上演は、高雄市南部の漁民と密接な関わりがあることが推測される。

ちなみに永興楽劇団のある弥陀区は高雄の北の郊外にあり、一方の林園区一帯は市街を挟んで南側に位置していて、両者の間は直線距離で20km以上離れている。にも関わらず、こうした出張上演が行われているのは、幾つかの理由が考えられる。

一つには、弥陀区と林園区に歴史的な結びつきが存在する可能性があることである。例えば林園区漁会での上演で紙銭焼却を行った鳳芸宮という媽祖廟では、安平の霊済殿まで船で詣でる海上巡礼を行っているが、途中弥陀区の港近くを通りかかった時に、住民が巡礼船を歓迎することが習わしになってい
る((謝貴文2015,p.116。))。巡礼が固定化されたのは近年になってからだが、両者は以前から海上ルートで繋がっていたものと思われる。

またもう一つの理由として、弥陀区が相対的に貧しく、住民は外部に出稼ぎに行く必要があるという点も挙げられる。石光生は以下のように記している((據彌陀國中林清隆老師表示:「彌陀一帶拳頭師父很多,據說有個原因是因為當年彌陀地區耕作不易,許多人都外出做生意,或到外地謀生計。」(石光生1998、p.23。)))。

>弥陀中学の林清隆先生は以下のように言っている。「弥陀一帯は拳法の師匠が非常に多いが、これは当時弥陀地区が耕作に適さないため、多くの人が外に出稼ぎに行くか、外地で生計を立てたからだと聞いている。」

永興楽劇団のメンバーの本業は農業で、影絵人形劇の上演はいわば副業となっているが、それも上と同じ理由に因るのだろう。昔からこの地域に影絵人形劇の劇団が集中しているのも、これが原因の一つだと考えられる。一方の林園区は、大規模な漁港があって比較的裕福なため、現地では上演の需要はあっても劇団が存在せず、結果的に弥陀区から劇団が出張上演にやってくることが定着したのだろう。

*3.扮仙戯 [#x7d45492]

今回の中元節上演で行われた扮仙戯は、戯彩によって、あるいは上演日時によって若干の相違はあったが、用いられた台湾語(閩南語)の台詞・曲詞はおおむね以下の通りであった。

>&lang(zh-Hant){主、副:黃之蓮花落,開誠上求耶。&br;主:眾仙下山來,山河滿地開。一聲擂鼓響,福祿壽仙來。眾仙可曾齊到?&br;副:眾仙齊到。&br;主:眾仙齊到,隨仙開出名姓?&br;副:福仙、祿仙、壽仙。&br;主:眾仙齊到,今日大中華民國一百零六年,歲次丁酉年,農曆七月××日大吉日。恭祝中元二品赦罪地官清虛大帝聖誕,萬壽無疆。××誠心誠意,備辦牲儀禮物,香花茶果,演戲恭祝,七月中元二品赦罪地官清虛大帝聖誕,萬壽無疆。中元普渡公男女好兄弟聖誕千秋歡喜,來保庇××,一同闔家平安,宅舍安居,人丁興旺,家門祐吉,賜福降祥,萬事如意,財力順手,五穀豐登,魚蝦茂盛,事業發展,四時無災,八節有慶,八拜中元千秋。今來到華堂慶賀,眾仙帶有何寶前來慶賀?&br;副:帶有麻姑、白猿、魁星。&br;主:何不獻上,魁星奏上來。魁星獻官誥,佳人才子到;先點狀元郎,一筆獻雙魁。魁星受了眾縣旨意,前來排下三仙。眾仙可曾齊到?&br;副:眾仙齊到。&br;主:眾仙齊到,獻寶已完,請了。祿仙帶有何物前來慶賀?&br;副:帶有麻姑來慶賀。&br;主:何不獻上,麻姑奏上來。麻姑獻金針,花開百里香;慶賀人間壽,富貴萬萬年。麻姑仙便是。奉眾仙旨意,前來排下三仙。眾仙可曾齊到?&br;副:眾仙齊到。&br;主:眾仙齊到,獻寶已完,請了。壽仙帶有何物前來慶賀?&br;副:白猿來慶賀。&br;主:何不獻上,白猿奏上。白猿獻財寶,三仙花果老,眾仙來慶賀,錢銀滿牆高。白猿仙便是。奉眾仙旨意,前來排下三仙。眾仙可曾齊到?&br;副:眾仙齊到。&br;主:眾仙齊到,今日大中華民國一百零六年,歲次丁酉年,農曆七月××日大吉日。恭祝中元二品赦罪地官清虛大帝聖誕,萬壽無疆。××誠心誠意,備辦牲儀禮物,香花茶果,演戲恭祝,七月中元二品赦罪地官清虛大帝聖誕,萬壽無疆。中元普渡公男女好兄弟聖誕千秋歡喜,來保庇××,一同闔家平安,門迎春夏秋冬福,戶納東西南北財,生理旺盛通四海,財源廣進達三江。今日請您來到華堂慶賀,弟子上蒼八拜已完。眾仙請各歸洞府,請了。&br;主、副:十年得到龍虎榜,十年身到鳳凰池。&br;主:昔年登科早,酆都得一輝。輿門三及第,洞房花燭夜。&br;主、副:拜囉拜囉拜呀拜呀,拜謝神恩。拜囉拜囉拜呀拜呀,拜謝神恩。啊,耶羅,拜謝神恩。啊,耶羅,拜謝神恩。呼嘿呼雙雙來團圓。&br;主:多蒙七月中元,二品赦罪地官清虛大帝聖誕,萬壽無疆。中元普渡公男女好兄弟聖誕千秋,來保庇××一同,闔家平安,年年大賺錢。&br;主、副:叩謝神祇。};

大まかな流れとしては、福・禄・寿の三仙が登場し、続いて魁星・麻姑・白猿が三宝を献上してめでたい言葉を述べた後、三仙が洞府に帰り、今度は才子佳人が登場してめでたい言葉を述べる、というものである。なお、台詞や段取りは、永興楽皮影劇団でも何度か修正を行ってきたということなので、古いテキストが改変されずにそのまま残っているというわけではないが、類似する文言は過去の他の劇団の調査記録からも見出すことができる。

#ref(Yamashita8.jpg,,扮仙戯)

まず、高雄から見て高屏渓の対岸にあたる屏東県の皮影戯芸人、黄合祥の抄本に収録されている、1921年の「祈禱文」は以下のようになっている((石光生2000、pp.39-40。なお引用元では抄本の誤字と石光生が改めた字とを並記しているが、本稿の引用では後者のみを示した。))。

>&lang(zh-Hant){眾仙下山來,金花滿地開。一聲鑼鼓響,賀喜眾仙來。眾仙請了。請恁眾仙齊到,各人報出名來。&br;吾乃福仙、祿仙、壽仙,眾仙請了。&br;請恁眾仙齊到,但有中華民國四九年天運庚子年,何省何縣何鄉何村某月日蟻民某名,備辦豬羊毛菜蔬,果品清茶,戰壓金菜碗,生魚禮物,哥哥齊備,宣經演戲一台,叩謝玉皇大帝、三官大帝、南北斗星君,亦有魁星、茅姑、白猿科。&br;[魁星]魁生獻光輝,家人丹桂疊;眾仙探花客,富貴福無開。&br;[姑]毛姑獻金針,花開萬里香;眾仙探花客,富貴數萬年。&br;[白猿]白猿獻金道,家人才子道;眾仙探花客,富貴福無交。};

また、大社区の東華皮影劇団のものは以下の通りとなっている((張義国1996、pp.45-46、および石光生2000、pp.40-41。))。

>&lang(zh-Hant){(三仙)(下山)山花滿地開,佛聽雷鼓響。三仙齊降下,福祿壽仙來。&br;(引)福仙、祿仙、壽仙□□□眾仙請了□□。天運歲次□年□月□日。財神、麻姑、白猿(白)&br;(財神臨宵)財神獻光輝,一枝丹桂蕊。先點狀元郎、一榜獻雙魁。&br;(麻姑奠獻)麻姑獻金鐘,花開萬里香。慶賀人間壽,富貴福無疆。&br;(白猿奏獻)白猿獻財寶,今日財子到。三仙齊慶賀,富貴與天高。};

いずれも福・禄・寿の三仙が登場し、続いて魁星・麻姑・白猿が三宝を献上してめでたい言葉を述べるという構造は同じで、字句も一部が共通している。

しかしこうしたテキストは何も台湾皮影戯に限ったことではない。台湾で行われている北管戯や、北管戯と同じメロディを用いる北管布袋戯でも、ほぼ同内容の『三仙会』という扮仙戯が存在し、中元節のほか誕生日の宴席の堂会などでも歌われる。以下は北管戯の宴席用のテキストだが、台湾皮影戯の内容と非常に似通っている((陳秀芳1980、pp.63-65。))。

>&lang(zh-Hant){二仙、三仙:不知大仙帶有何寶前來慶賀?&br;大仙:我帶有魁星前來。&br;二仙、三仙:何不獻上?&br;大仙:魁星走動。(三不和)好魁星也。(唱梆仔腔)魁星祝壽獻秋圍,獻出月中丹桂蕊;御筆親點狀元郞,果然一門占雙魁。&br;大仙、三仙:不知祿仙帶有何寶前來慶賀?&br;二仙:我帶有毛姑前來。&br;大仙、二仙:何不獻上?&br;二仙:毛姑走動。(慢過場)好毛姑也。(唱梆仔腔)毛姑祝壽獻瓊醤,獻出瑞氣滿廳堂;慶祝南山萬年壽,龜鶴遐齢二八長。&br;大仙、二仙:不知壽仙帶有何寶前來慶賀?&br;三仙:我帶有白猿前來。&br;大仙、二仙:何不獻上?&br;三仙:白猿走動。(急過場)好白猿也。(唱梆仔腔)白猿祝壽獻蟠桃,獻出長生永不老。福祿壽仙齊下降,好個麒麟萬丈高。(吹場)&br;二仙、三仙:慶賀已畢。&br;大仙:一同拜壽。};

なお現在、台湾で最も一般的な伝統演劇は歌仔戯であるが、扮仙戯については北管戯を継承したため、やはりこの『三仙会』が用いられる。また、中元節で昼に扮仙戯と文戯を行い、夜に扮仙戯を一回行った後、一般的な演目を上演するという構成は、台湾の北管戯・北管布袋戯・歌仔戯なども同様である。

そうした中で、台湾皮影戯の独自性があるとすれば、一つには複数の歌い手による唱和、すなわち「幇唱」が行われるという点であろう。先に引用した台湾皮影戯の扮仙戯では、「開誠上求耶」、「十年身到鳳凰池」、「拜囉拜囉拜呀拜呀」、「叩謝神祇」といった部分は、上演者全員で唱和を行うが、これは後述する弋陽腔諸腔の幇唱の伝統を受け継ぐものと思われる。

またもう一つとして、上演地での影絵人形劇上演に対する強いこだわりが挙げられる。扮仙戯は布袋戯や歌仔戯とも置き換え可能なはずで、実際今回の調査地でも、別の節日では他劇種を呼んでいるが、最も重要な節日である中元節には必ず影絵人形劇を上演することになっている。また、先に紹介した林園区漁会における聖&lang(zh-Hant){筊};の話などからも、影絵人形劇が明らかに特別扱いされていることが解る。

*4.文戯と武戯 [#rfed756c]

次に、扮仙戯に続いて行われた文戯と、夜間に行われた武戯について検討してみたい。

文戯とはもちろん、立ち回りを行わずに台詞と歌を中心に進む演目のことであるが、今回の中元節上演では、扮仙戯に続いて上演されるめでたい内容の演目をこう呼んでおり、広い意味での扮仙戯の一部と捉えることもできるだろう。

#ref(Yamashita9.jpg,,文戯の上演)

今回、永興楽皮影劇団が行った文戯は、三日間とも『状元拝相』という演目だった。これは、唐の天宝間に鍾景期が状元に及第して葛明霞と夫婦になるというもので、宋元南戯の欠名撰『孟月梅錦香亭』(佚)に始まり、元・王仲文撰『孟月梅写恨錦香亭』雑劇(佚)、清・古呉素庵主人撰『錦香亭』小説、清・徐昆撰『碧天霞』伝奇、清・石琰撰『錦香亭』伝奇、清・張応楸『鴛鴦帕』伝奇など、様々なメディアで行われてきた物語である((銭南揚2009を参照。))。この鍾景期故事を縁起が良い話ということで扮仙戯とともに上演するのは、台湾皮影戯だけでなく、台湾の北管戯・布袋戯・傀儡戯などでも行われている(『金榜』『尪婆対』など)((陳秀芳1980、pp.117-122。))。したがって、演目だけからは台湾の他の演劇や人形劇との差別化はできない。

しかし他劇種がいずれも、特定の曲の調子を変えて歌う「板腔体」であるのに対し、台湾皮影戯は複数の曲牌に乗せて曲詞を歌う「曲牌体」であるという点に大きな特徴がある。例えば今回、劇中では以下のような曲が歌われている(最初に【雲飛】とあるのが曲牌である)。なお、歌い始めの時は主演が1人で歌ったが、その後は他の上演者も唱和する「幇唱」が行われている。

>&lang(zh-Hant){【雲飛】上馬威風,直到大街心歡喜。人海滿街是,狀元萬人欣,人山人海同歡樂。京都景色真正秀麗,世上難得無塊比,速速幾步莫延遲。};

李婉淳は、この台湾皮影戯の【雲飛】を南曲の【駐雲飛】に由来する曲牌だとし、以下のように清代の曲譜との比較を行っている(◎は押韻を表す)((&lang(zh-Hant){據《九宮大成》記載《繡襦記》之【駐雲飛】共有十句,其句法為「四◎七◎五◎五◎一。五◎四◎四◎,五◎七◎」。據《集成曲譜》記載《南柯記》之【駐雲飛】共有十一句,其句法為「四◎七◎六。六◎一。五◎五◎六。六◎七◎七」。皮影戲的【雲飛】共有十句,句法為「四◎七◎五◎五◎四◎八◎七◎七。」,兩者句數相同,有五句字數相同。};(李婉淳2013、p.269。)))。

>『九宮大成南北詞簡譜』所収の『繍襦記』の【駐雲飛】は全部で十句で、句法は「四◎七◎五◎五◎一○五◎四◎四◎,五◎七◎」である。また『集成曲譜』所収の『南柯記』の【駐雲飛】は全部で十一句、句法は「四◎七◎六○六◎一○五◎五◎六○六◎七◎七」である。皮影戯の【雲飛】は全部で十句、句法は「四◎七◎五◎五◎四◎八◎七◎七○」である。両者は句数が似通っており、うち五句は字数も同じである。

「同歡樂」を襯字と取れば、『状元拝相』の【雲飛】も李婉淳の帰納した句法に沿っていることになる。なお、『九宮大成南北詞簡譜』は乾隆十一(1746)年に成立した南北曲の曲譜集で、また『集成曲譜』は民国十四(1925)年に成立した崑曲の工尺譜集である。台湾皮影戯の【雲飛】が南曲の【駐雲飛】に由来するのは確かだろうが、これら乾隆年間の古い曲譜や崑曲の工尺譜などと比較しても、上記のように「それなりに合っている」といった程度の結論しか導き出せない。

筆者は前稿で、『白鸚歌』のテキストの分析から、台湾皮影戯が広東省潮州に伝播した弋陽腔諸腔と類似点が多いことを指摘した((山下一夫2017、p.28。))。したがって、この【雲飛】も弋陽腔諸腔の曲牌との類似が想定されることになる。そこでまず例として、明末の弋陽腔系テキストである『新刻出像音註韓湘子九度文公昇仙記』第十二齣の【駐雲飛】を挙げると、以下のようになっている((山下一夫2011、p.157およびp.160。))。

>&lang(zh-Hant){【駐雲飛】壽日開筵,壽菓盤中色色鮮。壽香金爐篆,壽酒霞杯泛。嗏,五福壽為先,永綿綿。壽比崗陵,壽算期長遠。〔合〕惟願取壽比蓬蒿不老仙。};
>&lang(zh-Hant){【駐雲飛】我默運仙胎解,使花枝頃刻開。艷冶堪人愛,折奉尊前戴。嗏,即此是蓬萊,不須猜。人比花枝,日久終須敗。叔父,只是人老終須不再來。};

句法は『九宮大成南北詞簡譜』の「四◎七◎五◎五◎一○五◎四◎四◎,五◎七◎」となっており、台湾皮影戯との関係はやはり「句数が似通って」いるといった程度である。次に、弋陽腔から派生した青陽腔のテキストである『刻李九我先生批評破窰記』第十二齣では以下のようになっている((『古本戯曲叢刊初集』所収影印長楽鄭氏蔵明刊本、いま馬華祥2015の引用に依る。))。

>&lang(zh-Hant){【駐雲飛】(生)禱告神天,一盞清泉,一盞清泉一炷煙。愧我無供獻,聊表殷勤願。嗏,祝贊上青天,祝贊上青天。聽著吾言,望你升天。玉皇台前,將我虔誠奏上三重殿,唯有蒙正夫妻最可憐,蒙正夫妻最可憐。};

これについて、馬華祥は以下のように述べている((&lang(zh-Hans){富本该曲末句作“蒙正文章不值钱”。虽然两本都是【驻云飞】,但富本标牌名为【滚调驻云飞】。富本全本标明“滚调”曲仅此处,这就意味着富本不是滚调声腔传奇。李评本并不标“滚调”,有两种可能:一是很可能全本传奇都是滚调传奇,就没有必要每曲必标“滚调”。二是不做“滚调”唱,但也和全剧主腔保持一致。不管是不是做滚调唱都意味着李评本与富本声腔属性不同。因为如果声腔属性同富本,李评本就会跟着标明【滚调驻云飞】。这支滚调【驻云飞】句格字数是4475555444997(13句),经整理压缩为:“祷告神天,一盏清泉一炷烟。愧我无供献,聊表殷勤愿。嗏,祝赞上青天,听着吾言,望你升天。奏上三重殿,蒙正夫妻最可怜。”这就是青阳腔【驻云飞】最基本的句格字数:475554457(9句)。9 句当中有4 个滚句5个帮句。其中一三四七句为滚句,登台角色唱; 二五六八九句为帮句,后台演职员帮唱。也就是说,该曲帮句是固定的,仅唱5句,其余皆为滚句。那么回头看13句的【滚调驻云飞】和整理压缩过的【驻云飞】虽然句数不一,但都只有5句帮唱。};(馬華祥2015、p.178。)))。

>富春堂本(『新刻出像音注呂蒙正破窰記』)では、この曲の末句を「蒙正文章不値銭」としている。李評本(『刻李九我先生批評破窰記』)と富春堂本はどちらも【駐雲飛】としているが、富春堂本は曲牌名を【滾調駐雲飛】と標記している。富春堂本全体で「滾調」と標記する曲はここだけなので、富春本は「滾調」の声腔の伝奇ではないということになる。李評本が「滾調」と標記していないのは、二つの可能性があるだろう。一つは全体が滾調の伝奇であるため、それぞれの曲に「滾調」と標記する必要は無い、ということである。もう一つは「滾調」では歌わないが、劇全体の主要な声腔とも一致を保っている、ということである。滾調を歌うかどうかは別として、これらはどちらも、李評本と富春堂本は声腔の属性が異なることを意味している。なぜなら、富春堂本と声腔の属性が同じなら、李評本も同様に【滾調駐雲飛】と標記するはずだからだ。この滾調の【駐雲飛】の各句の字数は四・四・七・五・五・五・五・四・四・四・九・九・七(十三句)だが、整理・圧縮すると「&lang(zh-Hant){禱告神天,一盞清泉一炷煙。愧我無供獻,聊表殷勤願。嗏,祝贊上青天,聽著吾言,望你升天。奏上三重殿,蒙正夫妻最可憐};」となり、これが青陽腔の【駐雲飛】の基本的な字数、四・七・五・五・五・四・四・五・七(九句)である。九句の中には四つの滾句と五つの幇句がある。第一句・第三句・第四句・第七句が滾句で、舞台に上がっている役者が歌い、第二句・第五句・第六句・第八句・第九句が幇句で、舞台の裏にいる役者が幇唱を行う。言い換えれば、この曲の幇句は初めから五句だけを歌うというように固定されており、残りはすべて滾句ということになる。そうした観点から十三句の【滾調駐雲飛】と整理・圧縮後の【駐雲飛】を見ると、句数は違っていても、どちらも五句の幇唱があるだけとなる。

表面的には「四◎四◎七◎五◎五◎一○五◎五◎四◎四◎四◎九◎九◎七◎」だが、最終的に導き出される句法は「四◎七◎五◎五◎一○五◎四◎四◎五◎七◎」となる。もちろんこれも『九宮大成南北詞簡譜』と同じであるが、ここで重要なのはむしろ、帮唱によって生じた畳句を整理することで、基本的な句法を帰納するという、馬華祥が提示した方法である。

同じような帮唱による畳句は台湾皮影戯でも行われている((&lang(zh-Hant){藝人演唱的唱詞,增減字數的情況相當頻繁。此外,抄本中所記載的唱詞,第七、十句為第六、九句的疊唱,12位藝人中,有8人運用了兩次疊唱,8人當中更有6人的疊唱與抄本所記載相同。【雲飛】的句數、字數與疊唱架構了唱詞句法,在句法框架下仍舊保留了彈性。};(李婉淳2013、p.192。)))。

>芸人が歌詞を歌う時、字数の増減が比較的頻繁に起こる。また抄本に記されている歌詞も、第七句と第十句は第六句と第九句の畳唱(繰り返し)で、12人の芸人の中で8人が2回畳唱を行っており、また8人うち6人の畳唱は抄本の記載と同じである。【雲飛】の句数・字数・畳唱が全体で歌詞の句法を形作っており、句法の枠組の中で弾力性が維持されている。

これを踏まえた上で、潮劇『薬茶記』「収浪子屍」の【有頭雲飛】を見ると以下のようになっている((中国戯曲音楽集成・広東巻編輯委員会1996、pp.837-838。))。

>&lang(zh-Hant){【有頭雲飛】身屍橫地,可憐一旦,可憐一旦喪少年。只是前生相湊合,正致罪及奴你自己。提起來淚如絲。兩眼汪汪身屍橫地,兩眼汪汪身屍橫地。想著起來腸肝裂。但願靈魂隨母去。後世你為母來我為兒,你為母來我為兒。};

単純に字数と押韻を定式化すると「四◎四○七○七○八◎六◎八◎八◎七○七◎九◎七◎」だが、馬華祥に倣って句法を整理すると「四◎七○七○八◎六◎八◎七◎七◎」となる。そうするとこの潮劇の【有頭雲飛】は、最後の3句が8字・7字・7字となることや句数などの点において、『九宮大成南北詞簡譜』や『集成曲譜』よりも、台湾皮影戯【雲飛】の「四◎七◎五◎五◎四◎八◎七◎七○」と近いことが解る。

なお、この潮劇の【有頭雲飛】は「【雲飛】の最初から」という意味で、「【雲飛】の最後だけ」を意味する【雲飛尾】もあり、ここから潮州でも「駐」の字を用いず、単に【雲飛】と呼んでいることが解る。こうした点を考えると、前稿で指摘した台湾皮影戯と潮劇との類似性は、曲牌の面でも成立していると言えるだろう。

次に、武戯について検討してみたい。今回、武戯はいずれも夜間に行われているが、中元節では昼の扮仙戯の後に文戯を行うのが決まりであるため、夜は必然的に武戯となることになる。しかし劇団によれば、他の節日の廟会上演ではそうした決まりはなく、そのため文戯が夜に来ることもあるという。

#ref(Yamashita10.png,,武戯の上演)

今回上演されたのは、いずれの日程でも『封神演義』に由来する演目である『李那吒鬧東海』であった。何を上演するかは、以前は廟側のリクエスト(「点戯」)に依っていたが、現在では劇団側が決めており、『李那吒鬧東海』『黄飛虎』『柳樹村』『狄青平西』『六国志』『薛仁貴』『五虎平西』『五虎平南』『火炎山』といった演目を毎年順番に回しているという。おそらくその背景には、近年における廟側=観衆側の観賞能力の低下といった問題もあるのだろう。今年はその中で『李那吒鬧東海』の番ということだったが、9月10日の三清廟だけは、9月6日の北極殿のすぐ隣にあって、観客が重複するため、『火炎山』に変更したという。

こうした演目でも文戯と類似した唱腔が用いられており、潮劇の台本と比較することによって類似点などを見つけることができるかもしれないが、一方でこれらの武戯は台湾皮影戯の中で新層に属する上((山下一夫2017、p.30。))、学校や劇場での上演でも用いられ、さらに改変が行われている可能性があるため、単純な比較検討は難しい。

ただ、特徴的な点として挙げられるのが、禿頭で滑稽な姿の中年男性の人形が、毎回上演前に登場してあらすじを述べ、また最後に劇団の言葉を代弁する挨拶を行っていたことである。上演前に梗概を述べるということは、台湾の他の劇種では一般に行われていないが、南戯系統の演劇ではよく見られる形式である。例えば前出の弋陽腔系テキスト『新刻出像音註韓湘子九度文公昇仙記』第一折では以下のようにある((山下一夫2011、p.148。))。

>&lang(zh-Hant){〔末上〕…借問,後房子弟,今朝扮演誰家故事、那本奇傳,粧扮停當未曾。〔內應科〕粧扮已完,等候多時。〔內道〕既然粧扮多時,是本《韓真人三度文公雪擁藍關記》。〔末〕原來此本戲文,梨園少見,人世奇觀,山聲野調,真乃物外之清談,泉石煙霞,別是一般之雅趣,無風塵花柳之音,絕世俗功名之念,第八洞神仙韓湘子,來三度叔父老文公,成仙悟道證果朝元。};

こうした冒頭の梗概は一般に「副末開場」と称される。馬華祥はこれを、南戯の中でも特に弋陽腔に特徴的な要素だとして以下のように述べる((&lang(zh-Hans){戏班班主一般都有戏曲底子,有祖传下来的,如《嘲南戏》中的班主“教坊一色为南戏,几辈儿流传到你”。他们有家藏剧本,通常也粉墨登场,充当副末的角色,负责开场戏,相当于报幕,介绍戏班实力和演出剧目内容。…(略)…第一出,通常称为《副末开场》相当于报幕,介绍剧目内容。};(馬華祥2008、p.59。)))。

>戯班の班主は一般的にみな戯曲の台本を所有していて、しかもそれは代々伝わってきたものである。例えば『嘲南戯』の中で、班主が「教坊はいずれも南戯で、何代にもわたって伝わってきたものだ」と言っている。かれらは自分たちの家に台本を所蔵していて、副末の役で舞台に上がり、開場戯を担当する。これは司会に相当し、戯班の実力と上演する演目の内容を紹介する。…(略)…第一齣はふつう「副末開場」と称され、司会や演目内容の紹介に相当する。

台湾皮影戯の役柄は生・旦・浄・丑・末に分かれるが、劇団によれば禿頭の人形は「どれでもない」らしい。これは他に、永興楽劇団の演目である『沙包三部曲』(サンドバッグにまつわる三つの物語)で滑稽なボクサーの役で用いられていることから、道化的な性質を持つことが推測される一方で、北京西派皮影戯・冀東皮影戯における大師兄・大下巴とも通じる、陸豊皮影戯の「大頭坎」と類似した人形である可能性もある((大頭坎については千田大介2016、p.55参照。))。武戯『李那吒鬧東海』の上演では、恐らくこの人形に上記の内容で言う班主の役割を担わせ、弋陽腔諸腔の「副末開場」と同等の場面を行っているものと思われる。

*5.おわりに―なぜ高雄の漁村なのか [#g2d3f007]

以上、今回の中元節上演調査で観察し得た、扮仙戯・文戯・武戯について、初歩的な検討を行った。ここから考えられる台湾皮影戯の性質は、これが弋陽腔諸腔、中でも広東省潮州の潮劇と共通性を持ち、これと同系統にある劇種であるということと、台湾に伝播して後は、系統を異にする北管戯や布袋戯などと同じような環境の下で上演を行っているということである。そうすると台湾皮影戯が特殊なのはむしろ、広東省潮州と関わりの深い弋陽腔諸腔の一種であるこの劇種が、林園区の漁村のような限られた地域で、当事者たちの強い愛着を持って上演されているという点にある。

ここで思い起こされるのが、かつて邱一峰が立てた、台湾皮影戯の担い手は「失われた潮州移民」だったのではないかとする説である((&lang(zh-Hant){可以想見,原本屬於潮州文化的影戲是很難立足於泉州移民的地域範圍的,因此,皮影戲只能盛行於以潮州居民為主的南部一帶,並在此得到生存、發展的空間。當然,這樣的推測仍有待相關課題的進一步研究才能充分證明。};(邱一峰2003、p.83。)))。

>もともと潮州文化に属していた影絵人形劇は、泉州移民の居住地域の中では立ちゆかず、そのため影絵人形劇は潮州移民を中心とする高雄南部一帯だけで行われ、そこで生き延び、発展して行ったのではないか、と考えられる。もちろん、この推測がきちんと証明されるには、テーマの関連する研究がよりいっそう進展することが必要である。

邱一峰自身は、「証拠」となる潮州移民の存在について、以下のようなエピソードを紹介している((&lang(zh-Hant){「合興」與「東華」為同宗,(張天寶為張德成的叔子輩),而「東華」是由漳州遷徙來台,然筆者在一次田野訪談中,聽聞「合興」現今的主演張春天先生說其家族的故鄉在潮州,他還曾經回鄉考察過影戲,找尋其祖先故址所在,並在開元寺附近尋索到一些影戲的蹤跡。};(邱一峰2003、p.87。)))。

>「合興」と「東華」は同じ先祖から分かれており(張天宝は張德成の叔父の代にあたる)、「東華」は福建省漳州からの移民にルーツを持つ。しかし筆者はかつて現地調査の際に、「合興」の現在の中心人物である張春天氏が、自分たちの家族の故郷は潮州にあると言うのを聞いたことがある。氏はさらに、故郷に戻って影絵人形劇について見て回り、先祖のいた場所を探した結果、開元寺の近くで影絵人形劇の痕跡を幾つか見つけた、と言っていた。

実際、台湾皮影戯が潮州から伝来したものであれば、普通に考えて潮州からの移民が持ち込んだと考えるのが妥当である。また香港や東南アジアには、現在でも潮州移民がまとまったエスニックグループを構成しているのに対し、台湾に存在しないのは明らかに不自然である。そこで例えば、過去には台湾にも潮州から移民がやって来たが、人数の上で劣勢であったため、最終的に他の地域からの移民グループに吸収されて消滅した、と仮定することは難しくない。

しかし一方で、例えば張春天にしても、公式には福建の漳州移民の子孫であることが確定しているし((金清海2000、pp.7-8。))、永興楽皮影劇団の張家も「福建日東人」(同安県安仁里紅茂口十四都馬鑾保日東社を指すか)とするなど、現在芸人たちの中で潮州人を公言する者はいない。そもそも台湾に潮州移民がいたとすること自体、あまり確証は無かった。

ところが近年、特に台湾南部客家の検討が進んだことによって、邱一峰の説を裏付ける研究が次々と出現した((以下個別に引く論考のほか、林正慧2005、陳麗華2013、横田浩一2018なども参照した。))。まず挙げられるのは、台湾の潮州移民の存在が文献的に裏付けられたことである。清初の台湾の地方志で「潮州」移民への言及があることは知られていたが、雍正十一(1733)年までは閩南語を話す潮州地域と客家語を話す梅県地域が同じ「潮州府」という行政区画だったため、これらはおおむね「客家移民」と読み替えられてきた。しかし嘉慶二十四(1819)年、現在の屏東県万巒郷にあたる「万巒庄」と、その隣の屏東県潮州鎮の「四塊厝」の間で起きた械闘について、福建台湾鎮総兵武隆阿による奏摺文には以下のようにある((&lang(zh-Hant){查鳳屬迤南一帶,廣東嘉應州人較多,與廣東潮州人素不和睦,今萬巒庄係嘉應州,四塊厝庄係潮州人,其毗連之佳左庄又係閩粵雜處,若不速為鎮壓止息,秉公嚴辦,恐致釀成分類巨案。};(林正慧2008、p.269。)))。

>鳳山県に属する地域より南側の一帯には、広東嘉応州人が比較的多く、広東潮州人と日頃から仲が悪い。今、万巒庄は嘉応州人、四塊厝庄は潮州人で、その隣の佳左庄は福建系と広東系が入り交じって暮らしている。もしすぐに鎮圧し、きちんと処理しなければ、いずれ大きな械闘事件へと発展する可能性があるだろう。

鳳山県は現在の高雄市鳳山区にあった県城で、その「南側の一帯」は、すなわち現在の高雄市南部から屏東県北西部を指すものと思われ、これらの地域に「広東潮州人」が存在していたことが明確に述べられている。また『六堆忠義文献』には以下のように述べられている((&lang(zh-Hant){臺屬居民有土著、客民之別。但取其語音相符,聯屬一誼。福屬則永定、武平、上杭,廣屬則程鄉、鎮平、平遠,江右則會昌、瑞金。此數縣之民,來臺則為客民。若興化、漳、泉之民來臺則為土著。即廣之饒平、海豐、海陽、揭陽、潮陽之民,語音相符,來臺亦算土著。};(李文良2011、p.169。)))。

>台湾の住民は「土着」と「客民」の区別があるが、言葉が同じかどうかによって合流する者もある。福建の永定・武平・上杭、広東の程郷・鎮平・平遠、江西所属は会昌・瑞金であり、このいくつかの県の民は、台湾に来てからは「客民」となった。興化、漳州、泉州の民は台湾に来てからも「土着」だが、広東の饒平・海豊・海陽・揭陽・潮陽の民は、これと言葉が同じであるため、台湾に来てからは「土着」に入っている。

ここで言う「土着」は、光緒十一(1885)年の台湾省設立まで台湾が福建省の一部だったことを反映し、「福建」を指している。同じ広東出身でも、奏摺文で潮州人が嘉応州人と「仲が悪い」と言っているのは、「言葉が同じ」福建人と合流しているためだろう。

一方で、潮州人の中には嘉応州人と合流した者もいた。道光七(1827)年の閩浙総督孫爾準の奏文に以下のように言う((&lang(zh-Hant){臺灣無土莊之民,皆閩粵兩籍寓居,粵則惠、潮二府、嘉應一州;閩則漳、泉、汀三府,汀人附粵而不附閩,粵人性狡而知畏法,為盜者頗少。惠、潮兩處之人,聯為一氣,嘉應則好訟多事,與惠、潮時合時分。};(林正慧2008、p.272。)))。

>台湾にはもとから住んでいる民はおらず、福建と広東の二つの省に籍を持つ者たちが寓居している。広東は恵州府・潮州府・嘉応州で、福建は漳州府・泉州府・汀州府である。汀州府の者は広東人に付いて福建人には付かない。広東人は狡猾だが法を恐れることを知っているため、騒動を起こす者は非常に少ない。恵州府・潮州府の者は一緒になっている。嘉応州の者は訴訟を好み、恵州府や潮州府の者とは、合流するときもあれば、分かれることもある。

上の資料からすると、汀州人は客家語を使うため、出身は福建でも言語的に同じ嘉応州人と合流したが、潮州は福建人と合流する者と、同じ広東省出身者ということで嘉応州人と合流した者がいたということになる。両者で対応が分かれたのは、「広東人は狡猾だが法を恐れることを知っているため、騒動を起こす者は非常に少ない」という文言が関係している。言葉の上で考えれば確かに潮州人は福建人と合流するのが自然だが、一方で当時台湾では福建人の「騒動」、すなわち王朝に対する反乱が頻発しており、清朝は鎮圧のため「客民」に対する優遇政策を行っていたため、潮州人としてはそちらと合流する方が有利、という側面もあったのである。

なお、『六堆忠義文献』の段階での「客民」は「別の省からやって来た移民」、すなわち非「福建」という意味だったが、後にこのグループの中では客家語によって他の言語が塗りつぶされる事態が進行し、中国大陸側で勃興した客家運動の影響も受けて、今日の台湾客家というエスニックグループが形成されていった((李文良2011、p.268。陳麗華2015、pp.327-330。))。現在、高屏渓を境に、西側の高雄市が福建人地域、東側の屏東市が客家人地域となっており、嘉慶二十四(1819)年に械闘を起こした潮州人の四塊厝は後者に属していることを考えると、「広東側」に付いた潮州人たちはその後客家に同化されたものと考えられる。

しかし潮州人とその文化はそれによって消滅したわけではない。台湾で客家特有の文化と信じられてきた三山国王信仰は、実は潮州人の信仰に由来することが判明しているし((陳麗華2013、p.168。))、また屏東県西部にある昌黎祠も、従来は「客家が教育・学問を尊ぶため」とされてきたが、これももともとは潮州人が同郷の韓愈を祀ったものだったことが解っている((李文良2011、p.289。))。「吸収」された先で、潮州人は文化的に大きな存在感を示したのである。

状況は「福建側」の潮州人も同じだったはずで、同化の過程で福建人の中に根付いた潮州文化が影絵人形劇だったのだろう。そして福建人の中からも潮州人に影絵人形劇を習う者が現れ、高雄市北部の農村や高雄市南部の漁村で伝承されていったのが、今日我々が見ることができる台湾皮影戯なのだと思われる。なお、「客家」の屏東でもかつて影絵人形劇が行われたが、閩南語での上演という言語の問題があったため、現在では消滅している((張能傑2017、pp.34-45。また、復興閣皮影劇団から派生した高雄皮影劇団は、客家地域である美濃区が所在地だが、「言語の問題」のため同区内では上演の機会が無く、ふだんは燕巣区を拠点に活動しているという。))。

問題は、なぜ高雄市で「百年契約」が漁村部に集中しているのか、という点である。ここからは推測の域を出ないが、広東省の山地からやって来た客家が台湾でも山地を好んだのと同様、沿海部の潮州で漁業に従事していた人々の一部が、高屏渓河口という、氾濫が頻発するため開墾の進んでいなかった地域に福建人とともに入植して漁村を形成し、高雄市北部の相対的に貧しい潮州人や、かれらから影絵人形劇を習った福建人が出稼ぎ上演に来ることが早い段階で固定化したというのが、この「百年契約」の実態だったのではないだろうか。

もちろんこれは現段階ではあくまでも仮説に過ぎず、これを検証するためには、例えば林園区の移民の状況を詳しく調べる必要があるし、また台湾南部で人戯として行われた潮劇と潮州移民の関係についても分析する必要がある((林鶴宜2007、pp.21-25。))。また高雄市の台湾皮影戯には、本稿で検討した弥陀区の劇団以外に、東華皮影劇団や解散した合興皮影劇団など、沿海部とは異なる伝統を持つ内陸部の劇団も存在する。こうした問題については、また稿を改めて検討したい。

**参考文献 [#y4f2286b]
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&size(10){*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。};
*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。