『都市芸研』第八輯/海寧皮影戯形成考 の変更点

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*海寧皮影戯形成考 [#p444b547]
RIGHT:千田 大介

#contents

*はじめに [#jeed7ca6]

中国演劇史研究において、皮影戯――スクリーンの背後から皮革で作り彩色した半透明の人形(影人)を投影して演ずる影絵人形劇――は、演劇としての性格を持ちながらも、実際に人が演じないという意味では説唱芸能的でもあるという性格が災いして、演劇研究からも俗文学研究からもともすれば閑却されがちであり、微妙な位置に置かれている。しかるに皮影戯は、かつて広く中国全土で行われていた伝統芸能であり、各地域の社会や文化を映し、またすでに人戯――人が演ずる劇――では廃れてしまった曲調や物語が保存される例が見いだされるなど、その演劇史・文化史的な価値は極めて高い。

かかる見地から、筆者は科学研究費特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」現地調査部門「浙江・江蘇地域の道教・民俗信仰に関する廟宇・祭神・儀礼調査」の研究題材として浙江省嘉興市で行われている海寧皮影戯を取り上げ、現地調査や文献資料の検討を通じて、その芸能としての特色と現状について明らかにしてきた(千田大介2008、2010)。

本稿は、これまでに行ってきた調査・研究の成果を踏まえて、声腔(音楽体系)・レパートリー・影人造形などの側面から、海寧皮影戯の形成時期を考究するものである。考究にあたっては、近年研究が進展している清代江南地方演劇史の成果を援用し、海寧皮影戯の演劇史における位置づけと価値とを明らかにしたい。

*1	海寧皮影戯開台戯考 [#lec95f08]

**1-1	〔長腔〕と乱弾 [#i67bbf75]

海寧皮影戯のレパートリーは、武戯(立ち回りもの)を中心とし上演の初めに演じられる開台戯と、恋愛もの・世話ものなどを演ずる上演の眼目――正本戯とに分かれる。開台戯と正本戯では使用する声腔が異なっており、前者は乱弾(弋陽腔とも称する)を用い、〔回竜〕・〔三五七〕・〔文二凡〕・〔文三凡〕・〔武二凡〕・〔武三凡〕などの曲調がある。後者は〔長腔〕(正音腔・專腔・塩曲・阿拉腔・高腔などとも称する)という曲調を中心に、多くの曲牌(小曲)を併せ用いる。このように二つの異なる声腔を包含することから、海寧皮影戯は多声腔劇種であると言える。

しかし、〔長腔〕と乱弾が完全に合流したのはそう古いことではない。

>“海塩腔”と“弋陽腔”は、かつて対峙するかのように海寧の東西に分かれていた。塩官以西は弋陽腔を主調とし、塩官の東北一帯は長腔を基調としていた。……近代になって“海塩腔”と“弋陽腔”はようやく合流し始めた。((&lang(zh-cn){“海盐腔”和“弋阳腔”,曾一度如楚河汉界,分驻东西两地,即盐官以西以弋阳腔为主调;而盐官以东北片,却以长腔为基调。……到近代,“海盐腔”和“弋阳腔”才开始合一。}))
RIGHT:(崔金華2007 p.50)


“近代”と見えるが、具体的年代は書かれていない。

その年代を考える上で一つの材料となるのが、上海七宝鎮の皮影戯である。七宝鎮の皮影戯は海寧皮影戯の流れをくむもので、その鼻祖である毛耕漁が、光緒初年に金山衛で海寧皮影戯を学び、光緒六(1880)年に七宝鎮で初演したものである((『上海県誌』p.1283。))。

七宝皮影戯の主要伴奏楽器は、笛・糸竹(二胡)である。海寧皮影戯の〔長腔〕では笛子が主伴奏楽器だが、乱弾では、主吹が曲調によって笛と板胡(京胡とほぼ同じ)いずれかを演奏する。七宝皮影戯の伴奏楽器は笛子と二胡であるから、〔長腔〕のみを歌っていることになる。それは、光緒初年に金山衛で上演していた海寧皮影戯の劇団から継承したものであり、この時期にはまだ〔長腔〕と乱弾が合流していなかったことがわかる。

ここから、〔長腔〕と乱弾は、光緒年間から民国初年にかけて、すなわち二十世紀はじめに合流したものと推測される。

**1-2	『古塩官曲』 [#d6356e6b]

海寧皮影戯の起源について、先行文献のほぼ全てが、『都城紀勝』・『夢梁録』に見える南宋臨安の皮影戯と結びつけ、宋の南渡によって皮影戯がもたらされたとしている。しかし、南宋皮影戯が現在の海寧皮影戯に直接結びつくことを示す資料は存在しない。人戯においては、「世の曲調は、三十年ごとに一変する」((&lang(zh-tw){世之腔調,每三十年一變。}))(王驥徳『曲律』)と言われるように、演劇で歌われる曲調は流行り廃りが激しい。例えば余姚を尋ねてももはや余姚腔を聞くことはできないのであって、海寧皮影戯についても、地理的に近いとはいえそれが臨安の皮影戯をそのままに継承するものであるとは見なしがたい。

海寧皮影戯に関する最も古い確固たる資料は、査岐昌『古塩官曲』に見える以下の詩(竹枝詞)である。

>新年の影絵人形劇が灯火を集め、&br;
鐘太鼓が村々で夜の窓辺を賑わせる。&br;
つややかに語る長安のよき役者ども、&br;
衣を燻して高らかに弋陽腔を歌う。&br;
(影絵人形劇は漢の武帝の時代、斉の人・少翁より始まることが『捜神記』に見える。わが郷里では春にこの芸能が最も盛んに演じられる。また、役者は長安鎮の出身であり、率いて弋陽腔を歌う。)((&lang(zh-tw){新年影戲聚星缸,金鼓村村鬧夜窗。艷說長安佳子弟,薰衣高唱戈陽腔。(影戲始自漢武時齊人少翁,見《搜神記》。吾鄉春時最多此伎。又俳優出長安鎮,率唱戈陽腔。俗呼優人為子弟。)}))



査岐昌、字は薬師、号は岩行、乾隆七(1742)年の諸生。海寧の望族・査氏の一族で、査慎行の孫にあたる。科挙の成績には恵まれなかったが、詩名があり、『岩門詩集』・『南燭軒詩話』などの著作がある((洪永鏗・賈文勝・頼燕波2006 p.58。))。

『古塩官曲』の記述から、皮影戯の芸人は多くが海寧の長安鎮出身であること、春節に最も多く演じられること、農村で演じられていることなどがわかるが、これらの特色は、千田大介2008・2010で述べた、中華民国時期の海寧皮影戯と合致している。さらに、声腔が弋陽腔であることもわかる。

『古塩官曲』には年記がないが、序に以下のように見える。

>私は若い頃『海郷竹枝詞』十章をものしたが、原稿は長い間にどこかに行ってしまった。近ごろ、わが町の地方誌を改めて編纂すると聞いたので、いささか風俗地理についてものし、逸事を収集し、雑詩百首を成した。((&lang(zh-tw){頃予少作《海鄉竹枝詞》十章稿久不存。近聞當事將重修邑志,聊作風土,旁搜逸事,成雜詩百首。}))

査岐昌は地方誌の執筆家としても知られており、『柘城誌』・『帰徳府誌』などの編纂に参与している。また乾隆年間に海寧知県を務めた金鱉が編纂した『海寧県誌』は、多くが査岐昌の筆に出るという((&lang(zh-cn){洪永鏗・賈文勝・頼燕波2006 p.125。}))。乾隆『海寧県誌』は乾隆三十(1765)年に刊行されているので、『古塩官曲』はそのしばらく前に成立したと考えられよう。つまり、海寧皮影戯の弋陽腔(=乱弾)は、18世紀半ばには既に形成されていたことになる。

**1-3	弋陽腔と乱弾 [#e14c8a78]

弋陽腔や乱弾という語は明清代の戯曲関係文献に頻出するが、しかし、その指し示すものはさまざまである。

弋陽腔は本来、明代南戯四大声腔の一つで、江西省弋陽県に発祥するが、明代後期以降、さまざまな声腔に分化したことが知られる。湯顕祖「宜黄県戯神清源師廟記」が、

>嘉靖に至って弋陽腔の調べが絶え、楽平腔や青陽腔へと変わった。((&lang(zh-tw){至嘉靖而弋陽之調絕,變為樂平,為徽青陽。}))


とし、また顧起元『客座贅語』が、

>弋陽腔は方言をまじえるので、各地の出身者が好んだ。……後にはまた四平腔が現れたが、弋陽腔がやや通俗的に変化したものである。((&lang(zh-tw){弋陽則錯用鄉語,四方土客喜閱之。……後則又有四平,乃稍變弋陽而令人可通者。}))
RIGHT:(巻九「戯劇」)


とするなど、明代後半には弋陽腔系諸腔と呼ばれるさまざまな声腔が生まれていた。それらもまた、弋陽腔と称されることがあった。

清代に入っても、弋陽腔系諸腔は、中国の南北、広い範囲に流行し、やがて高腔や京腔などに変化する。弋陽腔という語は、それらの別名としても用いられた。

このように弋陽腔という語は意味が広いため、乾隆年間の海寧皮影戯の「弋陽腔」が具体的にいかなる声腔であったのか、『古塩官曲』の記述のみでは確定できない。

一方、乱弾という語も、清代、様々な意味で使われている。李斗『揚州画舫録』には以下のように見える。

>雅部とはすなわち崑山腔である。花部とはすなわち京腔・秦腔・弋陽腔・梆子腔・羅羅腔・二黄調のことで、乱弾と総称する。((&lang(zh-tw){雅部即崑山腔。花部即京腔、秦腔、弋陽腔、梆子腔、羅羅腔、二黃調,統謂之亂彈。}))
RIGHT:(卷五)


乱弾が花部諸腔の総称として用いられている。嘉慶三(1789)年『欽奉諭旨給示碑』では、

>近ごろ役者どもが乱弾・梆子・弦索・秦腔といった劇を演じている。((&lang(zh-tw){近日倡有亂彈、梆子、弦索、秦腔等戲。}))


ここでの乱弾は、年代・地域からして、京劇の前身となった徽調の別名として使われている。一方、礼親王昭樁『嘯亭雑録』では、

>近ごろは、秦腔・宜黄腔・乱弾などの曲調がある。((&lang(zh-tw){近日有秦腔、宜黃腔、亂彈諸曲名。}))
(卷八)


乱弾は、秦腔・宜黄腔などと区別され、独立した声腔として用いられている。さらにややこしいことに、声腔としての乱弾が弋陽腔と称されることもあった。清の張際亮『金台残涙記』には次のように見える。

>今では梆子腔が衰え、崑曲も乱弾に変わってしまった。乱弾とは、すなわち弋陽腔で、南方では「下江腔」ともいう。((&lang(zh-tw){今則梆子腔衰,崑曲且變>爲亂彈矣。亂彈卽弋陽腔,南方又謂『下江調』。}))
RIGHT:(巻三)


現在の海寧皮影戯の乱弾は、徽調(皮黄)とは異なる、一個の声腔であり、弋陽腔とも称されるのだから、『金台残涙記』の用例と合致する。『古塩官曲』における弋陽腔も、声腔の謂いとして乱弾と同義で使われていると解釈すれば平仄があう。

**1-4	声腔としての乱弾 [#z416defb]

浙江省一帯には乱弾と呼ばれる声腔を用いる伝統劇が複数存在する。

|劇種名|別名|流行地域|h
|婺劇|金華戯|金華・衢州・麗水・建徳・江西省北西部|
|紹劇|紹興乱弾|紹興|
|諸暨乱弾|西路乱弾|紹興西部|
|瓯劇|温州乱弾|温州|
|台州乱弾|黄岩乱弾|台州・寧波南部・温州北部|


以上の劇種の多くは複数の声腔を包含する多声腔劇種であり、乱弾が主要な声腔となっている。それらの劇種に見える乱弾は、いずれも〔三五七〕と〔二凡〕の二つの曲調を中心とする点に特色がある。前述のように、海寧皮影戯の乱弾でも、この二つは中心的な曲調となっている。

〔三五七〕は上下句式で偶数句で押韻するが、上句が三字句と五字句、下句が七字句で構成されるため、この名称がある。また、こうした特徴から、曲牌聯套体と版式変化体の過渡的性格を持つものとされる。海寧皮影戯の〔三五七〕の曲辞は、王珏2005に一例見えるのみである。

>為送醒酒湯,見一大蟒在牙哎床,嚇得我嗚呼把命喪,多虧娘子妙藥方,大蟒非是大蟒非是那一位,就是你妻子女紅妝。哎哎哎!
RIGHT:(p.223)


押韻を考慮して句切りし直すと、以下のようになろう。

>為送醒酒湯,見一大蟒在牙哎床。嚇得我、嗚呼把命喪,多虧娘子妙藥方。大蟒非是,大蟒非是那一位,就是你妻子女紅妝。


冒頭は三字句を欠くものの、「嚇得我、嗚呼把命喪,多虧娘子妙藥方。」は「三、五,七」の形を取っていることがわかる。

海寧皮影戯には〔二凡〕の他に〔文三凡〕・〔武三凡〕などの〔三凡〕という曲調が見られる。〔三凡〕は他の乱弾系劇種に見えないが、王珏2005の譜例では〔文二凡〕・〔武二凡〕を「中板」、〔文二凡〕・〔武二凡〕を「中快板」としているので、〔三凡〕は〔二凡〕のテンポを速くした、板式が異なるものと認められる。

また、海寧皮影戯では、伴奏者を「正吹・副吹・鼓板」などと称するが、この言い方も諸暨乱弾・婺劇・紹劇などの乱弾系伝統劇と同じである((『中国戯曲誌』浙江巻p.104・309・324、葉水春2007。))。

更に、徐二男氏らは以下のように証言している。

-問:あなた方の皮影戯の弋陽腔は、紹劇の音楽と似ていませんか?
-答:紹劇とは違う。これは金華戯と比較的近い。私は前に金華戯を演じたことがあるから。そっくりだよ、特に乱弾は。大同小異だね。((&lang(zh-cn){问:你们皮影戏的弋阳腔,是不是跟绍剧的音乐有点相似?&br;答:跟绍剧不一样的。这个跟金华戏比较近,我曾经演过金华戏的。很相似的,特别是这个乱弹。大同小异啊。}))
RIGHT:(2008年8月26日インタビュー)


江玉祥1999も以下のように述べる。

>“開鑼戯”は乱弾腔を用い、曲調は婺劇の乱弾に近い((&lang(zh-tw){“開鑼戲”用亂彈腔,曲調接近婺劇的亂彈。}))。(p.200)

海寧皮影戯の乱弾は、浙江の乱弾系地方劇のうち、杭州湾を挟んだ対岸の紹劇ではなく、金華戯、即ち婺劇の乱弾とそっくりであるという。

婺劇は浙江省金華市一帯で行われている伝統劇である。同地域で活動していた高腔・崑腔・乱弾・徽戯・灘簧・時調などの劇種の総称として、1949年にこの名称が与えられた。三合班・二合班などの呼称があり、清代中期以降、多くの劇団が崑曲・高腔・乱弾などを兼ねて上演していた。多声腔劇種であり、高腔・崑腔・乱弾が中核を占める一方、徽戯の古い形を残していることから、演劇の生きた化石とも称される((『中国戯曲誌』浙江巻p.99。))。

金華を地図で見ると、紹興の南に位置しており海寧から離れているかのように感じられるが、富春江・銭塘江を通じて杭州、更には海寧の港湾と結ばれていたので、決して遠く隔たった場所ではない。また、婺劇の芸人の間には、乱弾が安徽省南部の寧国から天目渓を経て金華の浦江県にもたらされたという伝承があるという((『中国戯曲誌』浙江巻p.100。))。安徽省南部の宣城・寧国一帯は、清代初期・中期において、安徽商人の出資により徽班の役者が養成され劇団が組織される拠点であったが、そこから南下するルートで金華に伝播したことになる。

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以上を総合すれば、海寧皮影戯の弋陽腔=乱弾は、浙江の多くの地方劇に見える乱弾と同系のものであり、婺劇との類似性から、安徽省南部より金華を経て、水路で海寧へと伝播したと推測される((流沙1981aは『拝経楼詩話』所引『古塩官曲』に基づき、当時の皮影戯が明代以来の弋陽腔を受け継いでいるとするが、妥当ではない。))。金華は江西と杭州を結ぶ交通の要衝であり、かつ北は安徽南部と連なっていたため、明末から清初にかけて青陽腔・義烏腔など弋陽腔系諸腔の浙江における中心地となっていた。かかる歴史的経緯から、金華から伝播した声腔、すなわち弋陽腔ということになったのであろう。

**1-5	乱弾の起源と流行 [#o15b73e0]

清代には中国各地にさまざまな声腔や地方戯曲が勃興するが、発祥した時期・場所や具体的な上演形態が明確に特定できるものはほとんど無く、京劇の主要な声腔である西皮・二黄であえも、その具体的な形成過程は必ずしも明確ではない。それは、民間の通俗的な風俗に関する資料の少なさというおきまりの問題のほか、梆子腔・乱弾腔・吹腔・秦腔などの声腔が同時期に混在して相互に影響を与えあい、多くの劇団で崑曲とともに上演されていたと思われ、単純な継承関係の図式を描くのが難しいこと、そして各声腔の名称が厳密に定義されているわけではなく資料によって揺れが大きいことなどが挙げられる。

乱弾についても、起源や発祥地、発展過程を端的に物語る資料は残っていない。乱弾という語は、康煕年間以降の文献に見られる。劉献廷『広陽雑記』によると、

>陝西の俳優の新しい曲調に、乱弾というものがある。その歌声は非常に叙情的でもの悲しい。((&lang(zh-tw){秦優新聲,有名亂彈者,其聲甚散而衰。}))
RIGHT:(巻三)


劉献廷は康煕三十四(1695)年に48歳で没しており、『広陽雑記』に記されるのは康煕年間中期、17世紀後半の状況である。乱弾が陝西からもたらされたと認識されていることがわかる。劉廷璣の『在園雑志』に以下のように見える。

>近ごろは弋陽腔が更に四平腔・京腔・衛腔へと変化し、まったくもって輪を掛けてよろしくない。梆子腔・乱弾腔・巫娘腔・嗩吶腔・囉囉腔ともなれば、ますます卑俗に向かい、新奇ばかり山と重なっているため、一貫して崑腔が正音となっている。((&lang(zh-tw){近今且變弋陽腔為四平腔、京腔、衛腔,甚且等而下之,為梆子腔、亂彈腔,巫娘腔、嗩吶腔、囉囉腔矣,愈趨愈卑,新奇疊山,終以崑腔為正音。}))
RIGHT:(巻三)


同書の孔尚任序の年記は康熙乙未(五十四年、1715年)であるので、それ以前の状況を示していることになる。以上の例から、乱弾は康煕年間頃には成立していたことがわかる。

乱弾の起源と目されるのが、〔西秦腔二犯〕である。〔西秦腔二犯〕は明末、万暦四十七(1619)年鈔本『鉢中蓮』伝奇に見える。江西から浙江にかけての地域で成立したと推測されている『鉢中蓮』伝奇には、〔弦索〕〔山東姑娘調〕〔四平腔〕〔誥猖腔〕〔京腔〕といった当時のさまざまな声腔を取り入れたとおぼしき曲牌が見られる。〔西秦腔二犯〕もその一つで、梆子腔や秦腔の祖先に当たる陝西系の声腔が、明末には江南地方でも行われるようになっていたことが知られる。乱弾の主要な曲調である〔二凡〕は、この〔西秦腔二犯〕の「二犯」が訛ったとする説が有力である((流沙1993、廖奔・劉彦君2003など。))。

一方、婺劇や紹劇の乱弾には、〔二凡〕の斉言句の歌詞の冒頭や末尾に南曲曲牌の首尾の数句をつなぎ合わせて歌う歌い方がある。また〔乱弾頭〕と呼ばれる曲調では、南曲の曲牌がそのまま歌われる例もあり、紹劇および婺劇の『昭君出塞』の〔乱弾頭〕の歌詞が、『綴白裘』に見える『青塚記』「送昭」「出塞」とほぼ共通していることも指摘されている((流沙1993 p.217、『中国戯曲誌』浙江巻 p.282。))。

-『綴白裘』
>&lang(zh-tw){〔山坡羊〕王昭君好一似海枯石爛,懷抱着金鑲玉嵌的琵琶一面。俺這裏便思劉想漢,眼睜睜盼不到南來的雁,眼睜睜盼不到南來雁!}
-婺劇
>&lang(zh-tw){王昭君一似海枯石爛,手挽著金鑲玉的琵琶兒一面。}

-『綴白裘』
>&lang(zh-tw){〔弋陽調〕手執着琵琶撥調,音不清明,使人心下焦。指尖兒重把絲絃操,料得個知音少。縱有那伯牙鍾子七絃琴,惟有仲尼堪嘆顏回夭。常言道:功名富貴,難比天高,難比天高。鴛侶賦情多,藕絲絃下焦。音韻撥,多顚倒,撥响難成調;彈不响,音不湊。怎不敎人,敎人惶惶心下焦?怎不敎人惶惶心下焦?(付)阿呀!絃斷了!(旦)若是那絃斷了,好一似寶鏡蒙塵人難照。若是那絃斷無聲了,好一似鸞孤鳳隻不堪道。想前生燒了斷頭香,今日裏離多歡會少!御弟,我有五恨在心。(付)請問娘娘,那五恨?(旦)御弟:我第一來難忘父母恩。(付)第二呢?(旦)從人退後。第二來難割捨同衾枕。第三來損害了黎民百姓。第四來那國家粮草多輸盡。第五來百萬鐵衣郞,敎他晝夜辛勤。我今日裏昭君捨了身,萬年羞辱漢君臣!}
-婺劇
>&lang(zh-tw){第一來難報父母恩,第二來難難難難割同衾枕,第三來損害黎民,第四來國家糧草多輸盡,第五來百萬鐵衣郎他晝夜辛勤,今日昭君捨了身,萬年羞辱漢君臣。}


婺劇の歌詞は前後が削除されて短くなっているものの、『綴白裘』の歌詞と基本的に一致しており、しかも長短句である。これもまた、乱弾が曲牌聯套体と版式変化体の中間的性格を持つと言われる所以である。

『綴白裘』は乾隆年間、蘇州で刊行された戯曲選集で、当時の舞台で実際に上演されていた実演台本を集めたものとされる。そのため、明末以来知識層の支持を集めてきた崑曲のみならず、高腔・乱弾腔・梆子腔など、いわゆる「花部」に属する通俗的な声腔劇種の台本も多く収録している。

乾隆三十五(1770)年序を持つ『綴白裘』六集では、目録の『青塚記』の下に「梆子腔」と注記している((「崑弋腔」と注記する版本もあるが、流沙1993は編者の杜撰に出るものであるとする(p.217)。))。この歌詞の近似は、『綴白裘』のいう梆子腔がすなわち梆子乱弾腔であり、現在の浙江伝統劇に見える乱弾が乾隆年間に蘇州で行われていた梆子乱弾腔の流れを汲むことを示唆しよう。婺劇の乱弾が「梆子」とも称されるのは((『中国戯曲誌』浙江巻 p.258。))、そうした来歴を物語るものであろう。

**1-6	吹腔と〔三五七〕 [#c6ec8b80]

浙江省各地の乱弾系地方劇を考える上で吹腔を避けて通ることはできないのだが、これもまた詳細については不明な点が多い。厳長明『秦雲擷英小譜』に以下のように見える。

>弦索は北部で流行しており、安徽の人が歌うものを樅陽腔(今は石牌腔、俗に吹腔と呼ぶ)、湖北の人が歌うものを襄陽腔(今は湖広調と呼ぶ)、陜西の人が歌うものを秦腔という。((&lang(zh-tw){弦索流于北部,安徽人歌之為樅陽腔(今名石牌腔,俗名吹腔),湖北人歌之為襄陽腔(今名湖廣調),陜西人歌之為秦腔。}))
RIGHT:(「小恵」)



厳長明は江蘇江寧の人。官は内閣侍読に至り、乾隆五十二(1787)年に没しているので、『秦雲擷英小譜』の記事は、乾隆年間半ばの状況を記したものであると考えられる。この記述から、弦索・吹腔(樅陽腔・石牌腔)・襄陽腔(湖広腔)・秦腔などは、いずれも似通ったものであったと推測される。

吹腔は各地の地方劇と交流し、それが西皮・二黄の形成を促したとされるが、その乱弾における影響と目されるのが〔三五七〕である。『綴白裘』十一集二巻の雑劇『鬧店』に以下のような曲がある。

>&lang(zh-tw){〔吹調〕春景天,好鳥枝頭現,桃紅李白柳如烟。(丑)我把招牌掛這邊。(旦)招牌掛那邊。快活林中誰敢少錢?}&br;
&lang(zh-tw){〔前腔〕艶陽天,百卉多開遍,對景芳菲懶去眠。(外扮山東客上)山東到此間。我要頑個遍。且向那快活林中去學醉仙}&br;
&lang(zh-tw){〔前腔〕杏花天,樂事從人愿,盃酒陶情同去閑。(付)來到這酒舖間。(外)看招牌,蕩鞦韆,且吃個開懷學醉仙。}


いずれも冒頭が「三五七」の句式になっており、これが乱弾に取り入れられたのが〔三五七〕であると考えられている((廖奔・劉彦君2003 p.63。))。つまり乱弾とは、〔西秦腔二犯〕から発展した〔二凡〕と、吹腔に起源する〔三五七〕が組み合わさった声腔、ということになる。

**1-7	〔回竜〕と徽班 [#h074be3c]

海寧皮影戯乱弾には、もう一つ〔回竜〕と呼ばれる曲調がある。崔金華2007は本文中で、

>“馬門腔”では〔高撥子〕を歌う。((&lang(zh-tw){馬門腔用“高撥子”。}))
RIGHT:(p.51)



とする。この箇所では〔回竜〕に触れていない一方、直後の乱弾の曲調リストには〔回竜〕があって〔高撥子〕が無い。ここから、両者が同じものであることが分かる。“馬門腔”とは伝統劇で、劇の始まるとき、あるいは人物の登場するときに、舞台裏で大声を上げて観客を舞台に引きつけることを言う。

王珏2005では、譜例を一つ掲げるのみで、収録台本に〔回竜〕は出現しない。

>&lang(zh-tw){飲酒好比,飲酒好比龍取水,吃肉好比,吃肉好比虎撲狼。飯為根本,飯為根本米為王,一餐不飲,一餐不飲就叫慌。}
RIGHT:(p.229)

七言の斉言で、上下句式、各句の初め四字をくり返して歌うスタイルになっている。

〔高撥子〕という曲調は、婺劇・紹劇など浙江の地方戯の乱弾には見られない。これはむしろ、徽劇の主要な曲調の一つであり、また京劇など皮黄系伝統劇にも見られるものである。

徽劇は徽調とも称され、乾隆年間以降、全国的に徽班によって行われた劇の流れを受け継ぐものである。安徽省安慶を本拠地とした徽班は、同じく安慶を本拠地とする新安商人の援助のもと、清代には強い影響力を持っていた。徽班が歌う声腔は元々一つではなく、崑曲を主体として、樅陽腔(石碑腔。樅陽・石碑はいずれも安慶府の地名)・梆子腔なども兼ねて歌っていたようである。乾隆年間半ば以降になると、二黄腔が勃興して徽班の中心的な声腔となり、従来の石碑腔などに取って代わる。こうした経緯を反映して、徽班の演ずる劇には従前のさまざまな声腔の要素が残っている。〔高撥子〕もその一つである。

二黄腔を取り入れた徽班は爆発的に流行し、やがて乾隆五十五(1790)年のいわゆる四大徽班進京へと結びつく((廖奔・劉彦君2003など。))。長江下流域の江蘇・浙江においても、乾隆末から嘉慶年間にかけて徽班・二黄腔が勢力を伸張させ、旧来の声腔を圧する勢いを見せる。乾隆六十(1795)年刊の李斗『揚州画舫録』は、揚州劇壇の状況を、以下のように記している。

>揚州郡城の花部の劇団は、いずれも地元の人の劇団で、これを本地乱弾という。……後に句容から梆子腔をもたらすもの、安慶から二簧調をもたらすもの、弋陽から高腔をもたらすもの、湖広から羅羅腔をもたらすものがあった。……安慶のものの技芸が最も優れており、本地乱弾を圧倒した。そのため本地乱弾の劇団の中には、安慶の俳優を招聘するものもある。((&lang(zh-tw){郡城花部,皆系土人,謂之本地亂彈。……後句容有以梆子腔來者,安慶有以二簧調來者,弋陽有以高腔來者,湖廣有以羅羅腔來者。……而安慶色藝最優,蓋於本地亂彈,故本地亂彈間有聘之入班者。}))
RIGHT:(巻六)


揚州は、大運河と長江が交わる場所に位置する交通の要衝で新安商人の一大拠点であり、前の四大徽班も、揚州から北京に献上されたものである。乾隆末年の揚州では、土着の乱弾に加えて、梆子腔・二黄腔・高腔・羅羅腔などが進出しており、なかでも安慶の二黄腔が優勢であったという。

徽班の影響は、浙江の伝統劇にも及んでおり、婺劇など多くの劇種が徽班に起源する声腔を有している。これについて『中国戯曲誌』浙江巻は以下のように記している。

>浙江に流行する徽班乱弾(徽路乱弾とも称する)では、〔吹腔〕の名称が各地で異なっている。婺劇では“蘆花”と称し、紹劇では“揚路”と称し、“安春”(“安慶”の訛ったもの)と称するものもある。笛子を主要な伴奏楽器とし、〔三五七〕と明らかな血縁関係があり、男・女腔の区別がある。その〔撥子〕は“老撥子”とも称し、撥子高唱があるだけで“高撥子”という曲調名は無い。小嗩吶を主伴奏に用い、徽胡・月琴・竹梆のリズムを補助的に用いる。〔撥子〕と〔二凡〕もあきらかに近縁関係にあるが、〔撥子〕には“十八板”(回竜)があるものの、〔二凡〕には無い。〔撥子〕と〔吹腔〕も〔二凡〕と〔三五七〕のように、しばしば二つの調子を一つの劇であわせて用い、相補的に組み立てられている。((&lang(zh-tw){流傳於浙江的徽班亂彈(亦稱徽路亂彈),其〔吹腔〕各地名稱不一。婺劇稱“蘆花”,紹劇稱“揚路”,有的叫“安春”(“安慶”的訛音)。以笛子為主要伴奏樂器,它和〔三五七〕有著明顯的血緣關係,并已有男女腔之分。其〔撥子〕又稱“老撥子”,只有撥子高唱而無“高撥子”調名,用小嗩吶主奏,輔以徽胡、月琴,竹梆擊節。〔撥子〕與〔二凡〕亦明顯具有親緣關係,而〔撥子〕已有“十八板”(回龍),〔二凡〕則無。〔撥子〕與〔吹腔〕亦如〔二凡〕與〔三五七〕往往兩腔合用於一劇,相輔相成。}))
RIGHT:(p.16)

徽班によってもたらされた徽班乱弾の〔撥子〕と〔吹腔〕は、従来の浙江乱弾の〔二凡〕と〔三五七〕に対応するものであったという。現在の安徽の徽劇でも、〔撥子〕は〔二凡〕とも称され、〔吹腔〕は〔石碑調〕〔梆子調〕〔嚨咚調〕などとも称されるという((『中国戯曲誌』安徽巻 p.209。))。

吹腔が声腔としての意味と、曲調としての意味で使われているために、少々関係がわかりにくいが、乱弾と吹腔・徽劇の関係を模式的にまとめると、図のようになる。

#ref(chida.png,,)

海寧皮影戯の〔回竜〕は曲調名であるが、回竜は本来、徽劇のほか京劇の二黄腔などにも見られる板式の名称である。導板の後に続いて用いられ、原板を導くことが多く、劇や歌唱の冒頭部に使われる板式であるから、“馬門腔”に用いられるという海寧皮影戯の用法とも符合している。すなわち、徽班の〔高撥子〕の回竜が海寧皮影戯乱弾に取り入れられ、〔回竜〕になったものと考えられる。

**1-8	徽班と水路班子 [#u638b733]

では、皮影戯はどのようにして徽班の影響を受けたのであろうか。

乾隆末以降、二黄腔によって隆盛期を迎えた徽班は、江蘇のみならず浙江をも席巻していく。乾隆五十五(1790)年、北京進出を控えた三慶班が杭州一帯で上演したのが、徽班の浙江における最も古い活動記録である。徽班の浙江への進出には主に三つのルートがあった。一つは安徽南部から金華を経由して浙江東部・中部の各地へ至るもの、一つは長江沿いに揚州に至り大運河を通じて浙江に至るもの、もう一つが安徽省宣城付近から溧陽・宜興を経て太湖に出るルートであった。((于質彬1994 p.261。))。

このうち杭州・嘉興・湖州地域、いわゆる杭嘉湖に進出した徽班は、蘇州および揚州の劇団が大半であった。旧時、水路が縦横に巡らされた長江デルタ地域における主要な交通手段は船であり、そうした劇団も船に乗って江南の津々浦々を巡ったため、水路班子と呼ばれる。杭嘉湖地域で活動していた徽班は、いずれもこの水路班子である。

徽班の水路班子として記録に残る最も古いものは、嘉慶年間、揚州の卞三慶の卞家班である。卞家班では、船上に舞台を備えた大型船で杭嘉湖地域を巡演し、擂船班として人気を博した((薛家煜2007。))。卞家班は特殊な舞台船を使ったことで記録に残っているが、他の寺廟や水路沿いの戯台で上演して回る一般の水路班子は、もっと早い時期から活動していたと思われる。

徽班の水路班子は、清朝末期以降、徽班が京劇へと転換するなかで、独自の風格を持った南派京劇を形成したことがつとに知られ、民国時期の京劇水路班子を知る芸人による回想録も複数刊行されている。当時の京劇水路班子では、杭嘉湖が一つのまとまったエリアとなっており、同地域で活動する劇団がエリアを越えて、北の蘇州地域、南の紹興・寧波地域で上演することはまれであったという。その杭嘉湖エリアの水路班子の手配センターは旧時、嘉興に置かれており、エリア内で上演する水路班子は、まずそこに登録して、その上で上演場所の斡旋を受ける必要があったという((李紫貴1996 p.6。))。こうした制度がいつ頃成立したものであるかは不明であるが、嘉興が杭嘉湖水路班子の中心地であったことがわかる。

旧時の郷鎮における上演は、廟会などで地域や寺廟などが資金を出し合って劇団を呼び、無料で公開するのが一般的であった。王銭松氏によると、幼い頃、海寧市斜橋では京劇・越劇などの劇団による公演が、年に数回あったという((2009年8月18日インタビュー。))。そうした機会を通じて、皮影戯の芸人は徽班の上演と接触できたのであり、それが〔回竜〕の移植を促したのであろう。皮影戯芸人にとっても、乱弾の〔二凡〕と同系の曲調であるから、〔高撥子・回竜〕の移植はさほど困難なことではなかったと思われる。

ところで、海寧皮影戯の劇団には、京劇の声腔を歌う豊士呉阿東京劇皮影班のような劇団も存在した((崔金華2007 p.17。))。清末から1930年代までが杭嘉湖水路班子の最盛期であったとされ、そうした人戯における流行をいち早く皮影劇団に取り入れたものであろう。しかしそうした柔軟性を持ち得たのはこの劇団だけで、海寧皮影戯全体に影響を及ぼすまでには至らず、古い声腔と劇目が保たれることになった。

**1-9	海寧皮影戯乱弾のレパートリー [#tc0aeb89]

海寧皮影戯のレパートリーは200~300種に及ぶというが、口伝であるために古い台本は現存しない。近年の口述筆記台本が相当数、海寧市档案館に収蔵されているというが、資料へのアクセスは困難である。このため、海寧皮影戯のレパートリーについては、同档案館の収蔵資料を反映している王珏2005・2008、崔金華2007などに頼るしかない。それらの資料から抽出した海寧皮影戯のレパートリーの一覧は以下の通りである。

>『雨打潞安州』・『雲中落繍鞋』・『黄河陣』・『黄金印』・『画麒麟』・『開天鏡』・『岳飛三收何元慶』・『割麦記』・『瓦崗寨』・『乾坤印』・『還金鐲』・『宮門掛帯』・『牛頭山』・『金山寺』・『金山盜宝』・『金台伝』・『銀鸞帯』・『九竜山』・『慶海絳』・『鶏爪山』・『鶏頭山』・『虎騎竜背』・『五星聚会』・『五台山』・『五里橋』・『後金花』・『後珍珠塔』・『洪水泛』・『紅梅閣』・『降伏薛応竜』・『鴻門宴』・『劫皇綱』・『告御状』・『鎖陽城』・『錯走棋盤山』・『三角金磚』・『三祭鉄坵墳』・『三請徐達』・『三請樊梨花』・『三盜呼雷豹』・『四扇旗』・『獅虎釵』・『七封書』・『七宝記』・『七宝刀』・『失金釵』・『周家落金扇』・『繍錦袍』・『繍香嚢』・『十英雄』・『十五貫』・『十将征南』・『十美図』・『春梅記』・『徐達得書』・『小金橋』・『小金銭』・『小登帝』・『小芙蓉』・『小糸絳』・『賞端陽』・『審潘洪』・『水戦揚幺』・『水泛湯陰県』・『絶竜亭』・『仙山借扇』・『洗馬教駕』・『曾頭市』・『双玉痕』・『双玉玦』・『双金花』・『双獅図』・『双珠花』・『双珠球』・『双落髪』・『双竜会』・『双連筆』・『双拝年』・『打虎招親』・『打皇封』・『大紅袍』・『大名府』・『大飄洋』・『托槍寄子』・『探病封子』・『珍珠塔』・『陳塘関』・『点秋香』・『倒銅旗』・『桃樹門閂』・『騰雲蹼』・『南河洲』・『二度梅』・『白家双状元』・『白虎関』・『八珠球』・『八美図』・『百鳥唐画』・『描金鳳』・『粉粧楼』・『文武香球』・『碧雲槍』・『別師下山』・『別母従戎』・『宝蓮灯』・『訪白袍』・『鳳凰飛』・『北河洲』・『北海回朝』・『毛子佩闖宮』・『野仙剣』・『揺銭樹』・『雷峰塔』・『蘭香閣』・『李陵碑』・『竜灯伝』・『緑竜袍』・『烈火旗』・『煉金印』・『棘陽城』・『樊江関』・『樊梨花下山』・『炮炸両狼関』・『狄青下山』・『独木関』・『瑪瑙杯』・『禹王寺』・『紂王焼香』・『聚宝盆』・『薛仁貴征西』・『蘆花関』・『蜈蚣嶺』・『誅仙陣』・『賈家楼』・『轅門斬子』・『闖王進京』・『闖竜宮』・『鬧花燈』・『鬧九江』・『鸚鵡伝』・『鸞鳳簫』・『哪吒鬧海』・『澠池県』・『馱馬関』

開台戯・正本戯の区別については明記されていないが、武戯を中心に演じられるという特徴から判断するに、以下の歴史ものが開台戯であると判断される。

-封神榜故事
--『紂王焼香』・『哪吒鬧海』・『陳塘関』・『北海回朝』・『黄河陣』・『絶竜亭』・『四扇旗』・『誅仙陣』・『澠池県』
-両漢故事
--『鴻門宴』・『禹王寺』・『棘陽城』
-隋唐故事
--『賈家楼』・『劫皇綱』・『瓦崗寨』・『三盜呼雷豹』・『托槍寄子』・『倒銅旗』・『金山盜宝』・『宮門掛帯』・『探病封子』・『洗馬教駕』
-西遊記故事
--『闖竜宮』
-薛家将故事
--『独木関』・『訪白袍』・『鎖陽城』・『薛仁貴征西』・『別師下山』・『別母従戎』・『錯走棋盤山』・『轅門斬子』・『打虎招親』・『樊梨花下山』・『樊江関』・『降伏薛応竜』・『馱馬関』・『仙山借扇』・『白虎関』・『三請樊梨花』・『蘆花関』・『鬧花灯』・『十英雄』
-粉粧楼故事
--『粉粧楼』・『鶏爪山』
-宋太祖故事
--『小金橋』・『小登帝』・『打皇封』
-楊家将故事
--『双竜会』・『五台山』・『李陵碑』・『告御状』・『審潘洪』
-呼家将故事
--『三祭鉄坵墳』
-水滸故事
--『蜈蚣嶺』・『曾頭市』・『大名府』
-岳飛故事
--『水泛湯陰県』・『雨打潞安州』・『炮炸両狼関』・『岳飛三收何元慶』・『九竜山』・『牛頭山』・『水戦揚幺』・『虎騎竜背』
-明英烈故事
--『鶏頭山』・『徐達得書』・『三請徐達』・『南河洲』・『北河洲』・『鬧九江』

開台戯のレパートリーは、隋唐・薛家将・楊家将・説岳・明英烈などの物語を中心とするが、これらは清初に勃興した花部諸腔のレパートリーと、ほぼ一致する。

**1-10	江南における三国戯と清朝戯 [#d96ad2fd]

海寧皮影戯のレパートリーには、三国故事戯や清代故事戯の欠落という特色があり、それは三国呉の故地であることや、反清の気風によって説明されている((崔金華2007 p.28、2008年8月26日インタビュー。))。これは、しかし些か牽強付会とも思える説明である。

そもそも、浙江北部でそうした演目が忌避されていたことが事実であるとは思えない。例えば、浙江省湖州市新市鎮に、宋中興四元帥の一人である劉錡を祀った劉王廟があり、その戯台の壁に清代同治年間から光緒年間にかけて上演した劇団名と演目が多数墨記されている。それらは同時期の徽班・京劇水路班子による上演の貴重な記録であるが、その中には少なからぬ三国故事戯が見受けられる。いくつか抜き出してみよう。

#ref(IMG_8228.jpg,,劉王廟戯台墨記)

-同治八年六月初二日
>睦本堂□□一敘大富春演
>『百寿図』・『東□川』・『金水橋』・『九竜裕』・『''逍遙津''』・『打櫻桃』・『金榜』

-同治八年九月初三日一敘
>景秀班演
>『八仙』・『長春』・『全辰洲』・『玉麒麟』・『過関』・『''長板坡''』・『嫖院』・『跌包』・『金榜』

-同治九年榴月十九在此一敘
>大慶喜班演
>『鳳凰山』・『虹霓関』・『晋陽宮』・『反長安』・『''逍遙津''』

-二十 連台演
>『八卦図』・『虎騎竜』・『紫金鏢』・『樊江関』・『''群英会''』・『双合印』・『蕩湖船』・『殺皮匠』
-廿一日連演
>『進蛮詩』・『京遇縁』・『賜黄袍』・『斬楊波』・『''天水関''』・『掃雪打碗』・『金榜』


清代故事戯についても、光緒十六(1890)年に以下の例がある。

-光緒十六年九月初二日
>省城鴻福堂演
>『大保国』・『''八蝋廟''』・『南天門』・『火焔山』・『生死□』・『掃雪打碗』・『掛名時』


『八蝋廟』、正確には『𧈢蝋廟』、施公案ものの演目である。

新市劉王廟の墨記からは、三国戯や清代戯が特別視されることなく受容されていることが見て取れる。嘉興と湖州とは隣接するクリーク地帯で、往来も盛んで民俗もさして違いは無い。まして海寧皮影戯は農民の芸能であり、農民たちが三国呉の遺民であることを意識していたとは考えがたい。そもそも海寧皮影戯においても、民国時期に京劇の曲調を歌った豊士呉阿東京劇皮影班では、『甘露寺』・『借東風』・『黄鶴楼』などの京劇系の三国戯をレパートリーとしていたことが知られ((崔金華2007 p.17。))、三国戯が忌避されていた事実は無いと思われる。

**1-11	花部諸腔と三国戯 [#ta24ab28]

海寧皮影戯のレパートリーに三国戯が無いことを人々が奇異に感じるのは、伝統劇の代表たる京劇で、「唐三千,宋八百,数不尽的三列国」といわれるよう、三国戯の文戯がレパートリーの中核を占めており、そのため伝統劇といえば三国戯であるとの先入観が生まれているからであろう。

その京劇にしても、徽班進京の当初には決して三国戯が充実していたわけではなく、時代を下るに従い徐々にレパートリーを増やしている。歴代の劇目一覧から三国戯を抜き出してみると以下のようになる。


-乾隆年間
>『斬貂』・『博望坡』・『漢陽院』・『竜風呈祥』・『截江救主』
-嘉慶年間
>『桃園結義』・『四水関』・『賜環』・『戦宛城』・『白門楼』・『白逼宮』・『斬顔良』・『関公挑袍』・『過五関』・『薦諸葛』・『三顧茅廬』・『長坂坡』・『三気周瑜』・『黄鶴楼』・『単刀会』・『祭江』・『斬馬謖』・『葫蘆峪』・『五丈原』・『鉄竜山』・『哭祖廟』
-道光年間
>『温明園』・『捉放曹』・『虎牢関』・『盤河戦』・『借趙雲』・『戦濮陽』・『轅門射戟』・『奪小沛』・『鳳凰台』・『許田射鹿』・『聞雷失箸』・『撃鼓罵曹』・『臥牛山』・『馬跳檀溪』・『金鎖陣』・『漢津口』・『祭風台』・『舌戦群儒』・『臨江会』・『祭英会』・『借箭打蓋』・『祭東風』・『赤壁記』・『華容道』・『取南郡』・『取桂陽』・『取長沙』・『戦合肥』・『討荊州』・『柴桑口』・『斬馬騰』・『反西涼』・『戦渭南』・『西川図』・『取雒城』・『冀州城』・『戦歴城』・『葭萌関』・『献成都』・『百壽図』・『瓦口関』・『定軍山』・『陽平関』・『收龐徳』・『玉泉山』・『戦山』・『受禅台』・『興漢図』・『造白袍』・『伐東呉』・『白帝城』・『英雄志』・『渡瀘江』・『風鳴関』・『天水関』・『罵王朗』・『失街亭』・『隴上麦』・『葫蘆峪』・『応天球』・『双保竜』((金登才2006 p.56~60による。))


乾隆年間、三国戯はわずかしかなかったが、一世紀を経ずに小説『三国志演義』全編をカバーするだけのレパートリーを整えていることがわかる。

また明代伝奇でも、よく知られるように大半が男女の恋愛を描いており、三国戯には『三国記』・『連環記』・『草廬記』などがあるものの、そのウエイトは微々たるものである。

このように乾隆年間以前の三国戯が少ない理由として考えられるのが、武戯の問題である。清代初期の花部諸腔の劇団は、後の四大徽班がそうであったように、花部声腔と崑曲をかねて歌っていたと推測されている。歌唱を聴かせる文戯の場合は、声腔に応じた台本を用意する必要があるが、立ち回りを見せる武戯の場合は、歌唱は添え物であるために重視されない。

現在の京劇においても、大半の武戯は皮黄ではなく崑曲、しかも〔点絳唇〕・〔粉蝶児〕・〔石榴花〕など、北曲の套曲を用いている。これはすなわち、崑曲の武戯が、本来、北雑劇をそのまま用いていた名残であると考えられている。北雑劇は、崑曲と異なり、三国戯をはじめとする歴史ものが充実しているので、明の万暦年間以降に北雑劇が衰亡した後も、それが崑曲、さらには花部諸腔の劇団に継承され、使い続けられたのであろう。

一方、徽班が京劇化していく過程で老生を中心とする体制が確立され、三国戯も文戯として歌われるようになっていく。それが先の劇目の増加に現れたのであろう。

つまり、清代初期の乱弾にそもそも三国戯が乏しかったか、あるいは北雑劇の三国戯を武戯として演じていたために、海寧皮影戯乱弾に三国戯が欠ける結果となったものと考えられよう。

**1-12	俠義公案の欠落 [#nfb2ba08]

三国戯とならんで欠落が指摘されるのが清代故事戯である。これについても、三国戯と似たような事情があるものと考えられる。

京劇などで演じられる、清代を舞台とする伝統劇劇目としては、『紅楼夢』に取材するもの、および『施公案』・『彭公案』などの俠義公案ものがある。しかるに、それぞれの小説の成立年代は、『紅楼夢』が乾隆年間、『施公案』が道光年間、『彭公案』は光緒年間である。従って、これらの物語が乾隆初期の乱弾の劇目に含まれることはあり得ない。

これも、現代になって京劇レパートリーなどとの比較を通じて、清代故事戯の欠落として意識されるようになり、説明がこじつけられたものであろう。

あらためて海寧皮影戯のレパートリーを見てみると、例えば『施公案』・『彭公案』などとともに清代後期に大流行する、新しい層の包公案故事、例えば『七俠五義』とその続編に取材する劇目、海派京劇の代表作である『狸猫換太子』なども含まれていないことがわかる。

清代後期に流行する俠義公案がレパートリーに取り込まれていないことは、海寧皮影戯のレパートリー、特に立ち回りものを扱う開台戯・乱弾のそれが、清代の初・中期に形成され、その後、さして発展していないことを示唆しよう。嘉慶二(1797)年刊本が残る小説『粉粧楼』に取材する劇目が見られることから、19世紀前半、太平天国の乱以前の時期に、海寧皮影戯乱弾は現在の形を完成させたものと見てよかろう。

**1-13	小結 [#t6220635]

以上をまとめると、海寧皮影戯の乱弾(弋陽腔)は、清初、江南地域に流行した乱弾(梆子乱弾腔)にほかならず、乱弾が出現した康煕年間半ばから『古塩官曲』が記された乾隆三十年頃までの時期、18世紀前半に形成された。その後18世紀後半以降に、水路班子の徽班の影響を受けて〔回竜〕を導入、19世紀前半に現在の姿を完成させたと思われる。

一方、19世紀後半以降、京劇の隆盛と時を同じくしてブームとなった俠義公案ものの演目を取り込んでいないことは、清代後期の海寧皮影戯に対する京劇の影響が弱かったことを示しており、前に触れた京劇の声腔の影響が限定的であった事実と符合する。

これは、固定化された農村の市場に立脚した海寧皮影戯のあり方を映すものであると言える。また、海寧皮影戯を支える浙北農村や、その重要な収入源であった養蚕業が清代後期以降の社会の不安定化によって打撃を受け、それによって海寧皮影戯の活力が失われていたことも推測されよう。

*2	海寧皮影戯正本戯考 [#rf16bbfe]

**2-1	〔長腔〕海塩腔遺響説 [#r0613991]

次に、正本戯および〔長腔〕について検討しよう。

海寧皮影戯の正本戯で用いられる〔長腔〕には、明代南戯四大声腔の一つである海塩腔の遺響であるとの説がある。『中国戯曲曲芸詞典』「海塩腔」項に以下のように見える。

>現在の海寧皮影戯で歌われる専腔を、ある人は海塩腔の成分を今なお保存しているとしている。((&lang(zh-tw){現海寧皮影戲所唱的“專腔”,有人認為還保存了海鹽腔的成分。}))
RIGHT:(p.171)


「専腔」とは「長腔」のことである。しかしこの「ある人は」という書き方は辞書の項目としてはいささか不自然であり、いかにも特定の個人だけが主張しており、広く賛同が得られている説ではないが無視もできない、と思わせるような書きぶりである。

海寧皮影戯の先行論著は、多くがこの記述から出発し、海寧皮影戯〔長腔〕が海塩腔であるとしている。例えば陳宰2005は、それを更に敷衍し、以下のように述べる。

>正本戯は、南宋“塩官古曲”の遺音である“阿拉腔”(塩曲とも称する)を保存している。多くの演劇・音楽関係者は、“塩曲”の話になると、みな頭を振ってため息をつき、南宋の滅亡後に途絶えてしまったとするものだ。しかし「今日の海寧皮影戯で歌われる曲調が『海塩腔』を保存している」(1981年版『中国戯曲・曲芸詞典』に見える)とする人もいる。同書は権威有る辞書と言うべきものであるが、“海塩腔”の源流と伝存状況については完全な結論を下していない。筆者は、その起源は海寧羊皮戯の“阿拉腔”――塩曲を経由したものであり、澉浦に伝播した後に,ようやくいわゆる“海塩腔”が出現したと考えている。((&lang(zh-tw){正本戲,保存了南宋“鹽官古曲”的遺音>――“阿拉腔”(也稱鹽曲)。很多戲曲、音樂工作者一談起“鹽曲”,都會搖頭嘆息,認為在南宋朝滅亡后就已失傳了。更有人認為“今天海寧皮影戲唱的曲調是保存了‘海鹽腔’。”(見1981年版《中國戲曲、曲藝詞典》)。應該說這是一部有權威性的工具書,但對“海鹽腔”的源與流和存世情況尚無完整的結論。筆者認為它的起源是通過海寧羊皮戲的“阿拉腔”>――鹽曲,傳到澉浦後,才出現了所謂“海鹽腔”。}))


海塩腔遺響説を一歩進めて、後に海塩腔に発展する海塩の民間歌謡・塩曲の伝統を汲むものとしている。

これは、海塩腔の起源に関する周貽白1960などに見える説を、〔長腔〕海塩腔遺響説と結びつけようとしたものである。すなわち、明万暦間の人である李日華の『紫桃軒雑綴』の記事、

>張鎡、字は功甫、循王(張俊)の孫であり、羽振りがよかったが清廉高尚であった。かつてわが郡の海塩に庭園を造り悠々自適し、歌児に曲を歌わせ、新たな曲調作りに励んだ。いわゆる海塩腔である。((&lang(zh-tw){張鎡字功甫,循王(張俊)之孫,豪侈而有清尚。嘗來吾郡海鹽作園亭自恣,令歌兒衍曲,務為新聲,所謂海鹽腔也。}))
RIGHT:(巻三)


および、元の姚桐寿の『楽郊私語』の記事、

>(海塩)州の若者たちは、音曲をよくするものが多い。その伝授は多くが澉川の楊梓から出ている。楊梓は存命のころ、俠客はだで風流、音律に通じ、杭州の阿里海涯の子、貫雲石と親交厚かった。雲石は洒脱な公子で、その作品は雑劇、散套を問わず、秀逸であること文壇に並び立つものがいなかった。((&lang(zh-tw){州少年,多善歌樂府,其傳皆出於澉川楊氏。當康惠公存時,節俠風流,善音律,與武林阿里海涯之子雲石交善。雲石翩翩公子,無論所制樂府、散套,駿逸為當行之冠。}))



に基づき、海塩には南宋中期の張鉄、元の楊梓によって育まれた独自の曲調があり、それが海塩腔の濫觴となったとするものである。

しかしこの説は、流沙1960によって否定されている。即ち、張鎡が作曲したのはあくまでも詞であり、楊梓が歌わせたのも北曲であって、それは後の南曲の声腔である海塩腔と関わりないというものである。廖奔・劉彦君2003が諸説を比較した上で妥当であると認めるなど、演劇史研究においては流沙の見解が定説となっている。陳宰説は、そもそも成り立たないのである。

**2-2	海塩腔の盛衰 [#w0b18c74]

海塩腔は、崑山腔・弋陽腔・余姚腔とならぶ、明代南戯四大声腔の一つである。徐渭『南詞叙録』にいう。

>今の俳優が「弋陽腔」と称するものは、江西から発祥し、両京・湖南・閩・広で用いられている。「余姚腔」と称するものは、会稽に発祥し、常・潤・池・太・揚で用いられている。「海塩腔」と称するものは、嘉・湖・温・台で用いられている。ただ「崑山腔」だけは呉でしか行われておらず、流麗・悠遠で他の三腔よりもぬきんでている。((&lang(zh-tw){今唱家稱『弋陽腔』,則出於江西,兩京、湖南、閩、廣用之;稱『餘姚腔』者,出於會稽,常、潤、池、太、揚、徐用之;稱『海鹽腔』者,嘉、湖、溫、台用之。惟『崑山腔』止行於吳中,流麗悠遠,出乎三腔之上。}))


『南詞叙録』には嘉靖三十八(1559)年の序が附されており、明代中期の状況を反映している。四大声腔が発祥地と流行地域によって分かれ、海塩腔は嘉・湖・温・台、すなわち浙江北東部の嘉興・湖州と、南東部の温州・台州で行われていたことがわかる。

下って、万暦年間の人である顧起元の『客座贅語』に次のように見える。

>南京では万暦より前、官僚や郷紳、富豪たちに、およそ宴会や小さな集まりがあれば、多くは民間の劇団を用い、あるものは三・四人、あるものは大人数で、北曲の組曲を歌わせた。楽器は、箏・蓁・琵琶・三絃子・拍板を用いた。もし大きな宴席となれば、教坊の劇団を使って、院本、すなわち北曲の四つの組曲を演じさせた。その間には撮墊圈・観音舞・百丈旗・跳墜子などの曲芸軽業をはさんだ。後にはみな南曲を用いるようになった。歌い手は、小さな拍板だけを用いる。扇子でその代用をすることもあり、鼓板を用いるものもいる。今では呉の人がそれに洞簫や月琴を加え、曲調がしばしば変化し、ますます物悲しいものになっており、聞くものは涙をこぼさんばかりになる。大きな宴会では南戯を用いる。南戯ははじめただ二つの声腔、海塩腔・弋陽腔があるだけだった。弋陽腔は方言を交えるので、各地の出身者が好んだ。海塩腔は多くが官話であるので、北京・南京の人が用いた。後にはまた四平腔があらわれたが、弋陽腔がやや通俗的に変化したものである。近頃はまた崑山腔があらわれたが、海塩腔に比べてよりいっそうたおやかで纏綿としており、一文字を歌唱する長さが、数息分にも及ぶ。士大夫どもは魂を奪われ、風に靡くように愛好している。海塩などの声腔を見るに、あたかも沈み行く太陽のようであり、院本北曲に至っては、(物乞いが)篪を吹いたり、(葬式で)缶を叩いたりするようなもの、唾棄されるまでになっている。((&lang(zh-tw){南都萬曆以前,公侯與縉紳及富家,凡有燕會、小集,多用散樂,或三四人,或多人,唱大套北曲,樂器用箏、蓁、琵琶、三絃子、拍板。若大席,則用教坊打院本,乃北曲四大套者,中間錯以撮墊圈、觀音舞,或百丈旗,或跳墜子。後乃變而盡用南唱,歌者祗用一小拍板,或以扇子代之,間有用鼓板者。今則吳人益以洞簫及月琴,聲調屢變,益為悽慘,聽者殆欲墮>涙矣。大會則用南戲,其始止二腔,一為弋陽,一為海鹽。弋陽則錯用鄉語,四方士客喜閱之。海鹽多官語,兩京人用之。後則又有四平。乃稍變弋陽而令人可通者。今又有崑山,校海鹽又為清柔而婉折,一字之長,延至數息,士大夫稟心房之精,靡然從好,見海鹽等腔已白日欲睡,至院本北曲,不啻吹萀擊缶,甚且厭而唾之矣。}))
RIGHT:(巻九「戯劇」)


明朝では北曲の雑劇を正統的な演劇として、宮廷や宴会で用いていた。南京では万暦年間頃に変化が発生し、南曲が北曲に取って代わり、士大夫層の間では海塩腔が尊重されるようになった。しかしやがて崑曲が士大夫層の間に大流行するようになり、海塩腔は見向きもされなくなったという。

『南詞叙録』の段階では、四大声腔の受容は地域による差異として理解されているが、『客座贅語』の段階になると江南の大都市において受容層による声腔の分化が生まれている。地理的条件による水平的な棲み分けに加えて、社会階層に基づく垂直的な棲み分けも生じたのである。そのような変化の結果、弋陽腔系諸腔が庶民向けであるのに対して、海塩腔は士大夫に受容されるハイブラウな芸能となった。

しかし、魏良甫による水磨腔の創出を受けて、万暦年間になって崑曲が大流行を始めると、海塩腔は士大夫の芸能としての地位を奪われてしまう。嘉興の士大夫もその例外ではない。例えば、海寧の望族の出身である査継佐は、入清以降、明の遺民として演劇に耽溺し、その家班は十些班と称され声望を誇ったが、十些班が演じたのは、『浣紗記』・『牡丹亭』などの当時の典型的な崑曲伝奇であった((徐宏図2004。))。海塩腔の発祥地たる海寧の士大夫であっても、当時の士大夫の間で主流であった崑曲に耽溺しており、海塩腔を一顧だにしていない。こうして明末清初頃、海塩腔はほぼ絶滅したと思われる((流沙1981bは、江西の孟戯に海塩腔の遺響が保存されているとする。))。

翻って海寧皮影戯を考えるに、前掲『古塩官曲』に

>新年の影戯が灯火を集め、
>鐘太鼓が村むらで夜の窓を賑わせる。((&lang(zh-tw){新年影戲聚星缸,金鼓村村鬧夜窗。}))


と見えるように、乾隆年間には市鎮ではなく「村々」、すなわち農村で行われていた。これは現在にも受け継がれる特色であり、海寧皮影戯が一貫して農民の芸能であったことがわかる。明代後期の海塩腔は、士大夫を受容層としていたのであるから、農民の芸能にその音楽が保存されるとは考えにくい。

**2-3	正本戯の音楽的特色 [#t91b17d6]

次に、正本戯の声腔はいかなるスタイルを持つものか、検討しよう。

正本戯の中心的な曲調である〔長腔〕は、七言の斉言句のスタイルをとる。

>&lang(zh-tw){心焦慮去到書房門,提起羊毫寫家信。}&br;
&lang(zh-tw){上書為父張九成,急告女兒小金錠:}&br;
&lang(zh-tw){賢婿進京中頭名,適逢番邦動刀兵。}&br;
&lang(zh-tw){萬成奸臣生惡心,舉薦賢婿帶雄兵,}&br;
&lang(zh-tw){出手被賊來生擒,囚在番營受苦辛!}&br;
&lang(zh-tw){殘軍逃得二騎命,為父衙門討救兵。}&br;
&lang(zh-tw){要兒速速進京城,領兵征番救夫君!}&br;
RIGNT:(『瑪瑙杯』)(王珏2005 p.34)


七字句の斉言、上下句式で、人辰韻・中東韻の通押である。王珏2005に見える〔長腔〕は、いずれも同じ句式を取っている。

また、正本戯では多くの曲牌が使用される。王珏2005・2008、崔金華2007などによると、以下のような曲牌がある。

>〔酒満金杯〕・〔八仙慶寿〕・〔当頭君官〕・〔忙下跟感謝〕・〔皇榜招賢〕・〔十載清灯〕・〔酒色財気〕・〔学余攻書〕・〔歩出蘭王〕・〔見紅秋生〕・〔死去還魂〕・〔祥雲万道〕・〔混江竜〕・〔進花園〕・〔桂枝香〕・〔鎖南子〕・〔上朝例〕・〔下江関〕・〔歩歩高〕・〔浣紗調〕・〔叫王竜〕・〔想夫君〕・〔蔣世竜〕・〔山坡羊〕・〔嘆無常〕・〔男引子〕・〔女引子〕・〔数十殿〕・〔双落尾〕・〔常腔〕・〔尾声〕・〔招供〕・〔哭腔〕・〔吊腔〕・〔魚曲〕・〔上告〕・〔出猟〕・〔長腔双落尾〕・〔十八板〕・〔南腔十八板〕・〔哭書担〕・〔急板似雲飛〕・〔訓子〕・〔小団円〕・〔夜蟠桃〕・〔跌雪〕・〔日出扶桑〕


このうち南北曲の曲牌と名称が共通するのは、〔混江竜〕〔桂枝香〕〔山坡羊〕〔尾声〕くらいである。〔鎖南子〕はあるいは〔鎖南枝〕が訛ったものであろうか。この〔鎖南子〕については、王珏2005に譜例と歌詞が見える。

>&lang(zh-tw){大娘哎陪我嘮家常,知心的話兒似泉水流,大伯請我嘗魚蝦,要我喝杯要我喝杯新米酒。}
RIGHT:(p.257)


「嘮」は原書の曲牌の副題では「拉」に作る。襯字を考慮して整理すると、

>&lang(zh-tw){七,七。七,四,七。}


という句式になろう。七言の斉言、上下句式が基本であるが、最終句のみ、はじめの四文字を重ねている。一方、南曲の〔鎖南枝〕曲牌は、例えば以下のようになる。

>&lang(zh-tw){〔鎖南枝〕兒夫去,竟不還。公婆兩人都老年。自從昨日到如今,不能彀一餐飯。奴請粮。他在家懸望眼。念我年老公婆做方便。}
RIGHT:(六十種曲本『琵琶記』第十七齣「義倉賑濟」)


呉梅『南北詞簡譜』によれば定格は以下の通りである。

>&lang(zh-tw){三,三。七。五,五。三,五。三,三。}
RIGHT:(p.520)



両者は全く似ていない。

〔混江竜〕についても見てみよう。

>&lang(zh-tw){魔家正比莽張飛,魔家正比莽張飛,奸賊猶比小周郎,三氣周瑜蘆(呀)花蕩,到今朝,(哎)我叫你去見閻王。}
RIGHT:(p.250)


これも整理すると、

>&lang(zh-tw){七,七,七。七。三,七。}


となろう。やはり七言の斉言句を基調とし、一句目が二度繰り返され、最終句の前に三字句が入る。北曲の〔混江竜〕は以下の通り。

>&lang(zh-tw){庾樓高聳。佳華初上海涯東。秋光宇宙。夜色帘櫳。誰使銀蟾吞暮靄,放教玉,兔步晴空。人多共廖叫。管弦聲里,詩酒鄉中。}
RIGHT:(『南北詞簡譜』p.66)


これも共通点は全く見いだせない。

また曲牌聯套体では、同じ宮調の曲牌を一定のルールに従って排列して套曲を作るが、海寧皮影戯の曲牌の運用方法は全く異なっている。

>兄弟の挨拶では〔桂枝香〕を、奏上の時には〔臣奏明君〕を、狩りの時には〔出猟〕を、酒を飲むときには〔酒満金杯〕を歌う……。((&lang(zh-tw){拜弟兄唱“桂枝香”;保本時唱“臣奏明君”;打獵時唱“出獵”;喝酒時唱“酒滿金杯”……。}))
RIGHT:(崔金華2007 p.51)
-

我々のインタビューでも以下のようであった。

-徐二男:この曲牌は、例えば酒を飲むときにこの曲牌を使う。これは〔八仙請路〕という。また〔当頭金磚〕というのがあり、これらはみな曲牌で、これらの曲牌の略称が海塩腔だ。この曲牌はとても多く、いくつかは私にも歌えない。というのも昔歌うことが少なく、またいくつかは先人が教えてくれなかった。
-問:例えば崑曲ではみな順序が決まっていて、まずこの曲牌を歌い、それからこれを歌うことになっているが、これは皮影戯にもありますか?
-徐:これは登場させる人物によって決まってくる。どんな人物を登場させるかによって、どんな曲牌を歌うかが決まる。((&lang(zh-tw){徐:這個是一個曲牌,比如喝酒的時候就唱這個曲牌。這個名字叫〔八仙請路〕。還有一個〔當頭金磚〕,這些都是曲牌,這些曲牌簡稱海鹽腔。這個曲牌很多的,有幾出我也唱不出。因為那些過去唱得少,還有一些是老先生沒有交給我們。&br;問:比如說崑曲的話都有順序,比如先唱這個曲牌,再唱這個曲牌,皮影戲有嗎?&br;徐:這個根據你出來的人來定的,你出來什麼樣的人我唱什麼樣的曲牌。}))
RIGHT:(2008年8月26日)

インタビューでは、曲牌聯套という概念を伝えるのに、何度も尋ね直して、ようやく得たのが以上の答である。つまり、彼ら海寧皮影戯の芸人には、そもそも曲牌聯套という概念が無かったのである。

そしてこれらの曲牌は、歌詞も固定されている。王珏2005では、『瑪瑙杯』と『慶海絳』に〔深深下拜〕が見える。

>&lang(zh-tw){深深下拜,拜為哥弟,肝膽相照,唇齒相依,有官同做,有馬同騎,長者為兄,幼者為弟。}
RIGHT:(『瑪瑙杯』p.17)

>&lang(zh-tw){深深下拜,拜為哥弟;肝膽相照,唇齒相依;有官同做,有馬同騎;有福同享,有難同當;長者為兄,幼者為弟!}
RIGHT:(『慶海絳』p.100)


両方とも歌詞はほぼ同じである。『慶海絳』は「有福同享,有難同當」が多いが、韻を踏んでおらず、後から挿入されたものである可能性が高い。

このように海寧皮影戯正本戯の曲牌は、劇中の特定の場面を描写するものとして運用されており、ストーリーや内面描写を展開する歌唱としては用いられいない。機能としては京劇などの器楽曲牌と大差ないと言えよう。正本戯の〔長腔〕および曲牌の形態は、板式変化体と言うべきものであり、海塩腔の遺響というにはあまりにも曲牌聯套体から離れすぎている。

演劇史的見地からも、伝統劇音楽の特色からも、〔長腔〕が海塩腔の遺響である可能性はほとんど無いといえる。

**2-4	〔長腔〕と滬劇・灘簧 [#l7b5bbbd]

では〔長腔〕はいかなる声腔に属するのであろうか。江玉祥1999は以下のように述べる。

>“正本戯”は専腔を用い、楽器は笛を主とし、幫腔があり、曲調は優美で、落句は婺劇の高腔の落句とかなり似通っている。((&lang(zh-tw){“正本戲”用專腔,樂器以笛為主,有幫腔,曲調優美,落句多與婺劇高腔落句相似。}))
RIGHT:(p.200)


〔専腔〕すなわち〔長腔〕は、落句、すなわち歌唱の最後の句が婺劇の高腔に近いという。一方筆者は、徐二男氏らへのインタビューで、次のような証言を得ている。

-老芸人:金華戯は乱弾を主としている。
-陸暁萍:中の歌唱はそっくりだ。我々と一緒だ。紹劇は似ていない。滬劇は比較的似ている。((&lang(zh-tw){老藝人:金華戲是以亂彈為主的。陸曉萍:里面的唱腔很像的。跟我們一樣的,紹劇不像的。滬劇比較像。}))
RIGHT:(2008年8月26日)

海寧皮影戯の音楽は、婺劇の乱弾のほか、上海の滬劇とも似ているという。婺劇の乱弾が海寧皮影戯の乱弾と同系であるのは、前に論じた通りである。しかし滬劇は灘簧系の劇種であり、乱弾とは声腔が異なっている。ともなれば、この「滬劇は比較的似ている」という発言は、〔長腔〕について言ったものであると思われる。

滬劇は上海で行われている伝統劇である。清代中期以降、江蘇・浙江一帯に流行していた灘簧系の小戯である花鼓が、同治年間頃に上海の租界に進出して本灘(本地灘簧)と呼ばれるようになり、それが光緒年間に茶楼に進出する。中華民国九(1920)年、本灘は申曲と改称して舞台に登るようになり、文明戯などとの交渉を通じて演劇としての体裁を整え、現代劇を中心とする上演スタイルを確立、民国三十(1941)年に滬劇と改称する((&lang(zh-tw){『中国>戯曲誌』上海>巻 p.124。}))。

灘簧とは、一人・二人、乃至は五~六人が、簡単な伴奏に合わせて身振り付きで説唱する小戯である。乾隆末年になって文献資料に見られるようになり、乾隆六十(1795)年序の俗曲集『霓裳続譜』巻八に〔弾黄調〕および〔南詞弾黄調〕が見られ、また『揚州画舫録』にも、

>歌舟は舞台よりもよろしい。乗った舟の前から、歌舟が逆行し、乗った舟が真っすぐ進むと、船上の人が歌い手に近づくことができる。歌唱は清唱が一番で、十番鼓がこれに次ぐ。鑼鼓・馬上撞・小曲・&ruby(ママ){攤};簧・対白・評話といった類も、楽しむに足るものである。((&lang(zh-tw){謌船宜于高棚。在座船前,謌船逆行,座船順行,使船中人得與謌者相款洽。謌以清唱為上,十番鼓次之,若鑼鼓、馬上撞、小曲、攤簧、對白、評話之類,又皆濟勝之具也。}))
RIGHT:(巻十一)


とある。山歌などの江蘇の民間歌謡や弾詞の影響を受けつつ、乾隆年間頃に確立したとされる((朱恒夫2008 p.12。))。

灘簧は乾隆・嘉慶時期以降、江蘇・浙江の各地、さらには北京にまで伝播しているが((廖奔・劉彦君2003 p.102。))、隆盛を迎えるのは太平天国の乱以降のことである。この時期、江蘇・浙江の各地、常州・無錫・蘇州・上海・湖州・杭州・余姚・寧波などに灘簧系の小戯が出現し、同治年間にはエロチックな内容を含むことが問題視され、たびたび官憲の禁令を受けている。それらの灘簧系小戯の多くは、民国時期から中華人民共和国初期にかけて、大戯化して舞台に登っている。また、婺劇・越劇・紹劇など各地の伝統劇種も、曲調や演目といった面で、灘簧の影響を受けている。

江南の灘簧系芸能・演劇(朱恒夫2008・『中国戯曲誌』浙江巻に基づき作成)
|地域|小戯名称|大戯名称|主調|
|常州・無錫|常錫灘簧|錫劇|〔簧調〕|
|蘇州|蘇灘|蘇劇|〔太平調〕|
|上海|申灘・本灘|滬劇|〔長腔長板〕|
|杭州|杭灘|―|―|
|湖州|百花小戯・花鼓戯・湖州文戯・湖灘戯|湖劇|〔小戯調〕〔本灘調〕〔緊板調〕〔焼香調〕|
|余姚|余姚灘簧|姚劇|〔平四〕〔緊板〕|
|寧波|串客・寧波灘簧|甬劇|〔基本調〕|

各地の灘簧系の芸能・演劇は、いずれも「四売一垃圾」(『蕩湖船』・『売橄欖』・『売青炭』・『売礬』・『売草囤』・『捉垃圾』)および「四庭柱一正梁」(『抜蘭花』・『借黄糠』・『約四期』・『朱小天』・『庵堂相会』)といった演目を共有しており、また歌唱の基本的な句式も同じであることから同じ系統のものであるとわかるが((朱恒夫2008 p.29。))、しかし曲調や風格には大きな差異が存在する。

海寧皮影戯正本戯をそうした灘簧系芸能と比較すると、確かに滬劇(およびその前身である申灘)との共通点が見いだせる。灘簧の唱は基本的に、海寧皮影戯〔長腔〕と同じく、七言の斉言句、上下句式を採っているが、主要な曲調の名称が各地域で異なっている。滬劇は、本灘時期、〔長腔長板〕を主調としており((『中国戯曲誌』上海巻 p.126。))、申曲・滬劇段階に至っても主調が〔長腔長板〕と〔三角板〕・〔快板〕・〔散快板〕に限られたという((朱恒夫2008 p.133。))。この〔長腔長板〕という名称は、曲調:長腔、板式:長板に分解可能で、現に〔長腔中板〕も存在する。これはすなわち海寧皮影戯の〔長腔〕と同じ名称であり、かつ表のように、他の灘簧系芸能に同様の名称を用いているものは無い。

また、海寧皮影戯の支流である上海皮影戯の音楽は、「民間の説唱音楽および上海の東郷調・西郷調が発展した板式変化体音楽」((上海市閔行区非物質文化遺産保護中心2008 p.13。))であるとされるが、東郷調・西郷調はすなわち本灘のもとになったとされる曲調であるから((朱恒夫2008 p.109。))、やはり灘簧系ということになる。

海寧皮影戯には、〔長腔〕とその補助的曲牌および乱弾の他に、民歌を吸収したと思われる小曲がいくつか見られる。崔金華2007は〔花神歌〕(〔十二月花神〕)・〔四季美人〕・〔五更調〕を載せる。灘簧のもとになったとされる東郷調は、〔採茶歌〕・〔十二月花名〕・〔五更嘆〕といった曲調の謂いであったとされ、それらの曲調は灘簧系の芸能でも使われており((朱恒夫2008 p.109。))、〔十二月花名〕・〔五更嘆〕は海寧皮影戯の〔花神歌〕・〔五更調〕と基本的に同じである。

いずれも民歌に起源するので、灘簧に限らず、さまざまな地域・芸能で使われているとはいえ、同じ曲調を共有する灘簧系芸能と海寧皮影戯が近しい関係にあることは確実である。

以上から、海寧皮影戯正本戯は、滬劇およびその源流となった灘簧と同系である蓋然性が高い。

**2-5	正本戯のレパートリー [#h87a6985]

前に挙げた海寧皮影戯の劇目から、開台戯で用いられたとおぼしい武戯(歴史劇)を除くと、以下のようなる。

>『鸞鳳簫』・『慶海絳』・『春梅記』・『瑪瑙杯』・『十美図』・『二度梅』・『五里橋』・『大紅袍』・『文武香球』・『双落髮』・『紅梅閣』・『煉金印』・『繍香嚢』・『十将征南』・『周家落金扇』・『宝蓮灯』・『描金鳳』・『白家双状元』・『雲中落繍鞋』・『八珠球』・『七宝記』・『還金鐲』・『聚宝盆』・『双珠花』・『銀鸞帯』・『八美図』・『双珠球』・『百鳥唐画』・『鳳凰飛』・『野仙剣』・『小金銭』・『騰雲蹼』・『画麒麟』・『失金釵』・『黄金印』・『双拜年』・『割麦記』・『竜灯伝』・『繍錦袍』・『双玉玦』・『揺銭樹』・『緑竜袍』・『七封書』・『大飄洋』・『洪水泛』・『蘭香閣』・『桃樹門閂』・『乾坤印』・『賞端陽』・『小芙蓉』・『珍珠塔』・『後珍珠塔』・『双玉痕』・『十五貫』・『双連筆』・『双金花』・『後金花』・『獅虎釵』・『金台伝』・『鸚鵡伝』・『碧雲槍』・『小糸絳』・『毛子佩闖宮』・『三角金磚』・『開天鏡』・『点秋香』・『双獅図』


これらが海寧皮影戯正本戯の演目であったと見てよかろう。

これらの劇目を、弾詞や灘簧、周辺地域の伝統劇と比較すると、半分強の劇目が他の劇種と共通していた。そのうち、最も多いのが弾詞との共通である((胡士瑩1984参照。))。

>『双連筆』*・『雲中落繍鞋』*・『珍珠塔』*・『黄金印』*・『十美図』*・『点秋香』*・『宝蓮灯』*・『周家落金扇』*・『双玉玦』*・『二度梅』*・『文武香球』*・『描金鳳』*・『八美図』*・『双珠球』*・『蘭香閣』・『還金鐲』・『十五貫』・『十将征南』・『小金銭』・『金台伝』


灘簧の演目は、崑曲から改変した前灘と、それ以外の演目である後灘に分類されるが、海寧皮影戯の弾詞と共通する演目は、また多くが前灘とも共通している(*を付したもの)((江蘇省文化庁劇目工作室1989参照。))。また、弾詞・前灘の演目には見えないものの、『五里橋』も清初の朱雲従の『児孫福』伝奇が原作であるので、同様の出自を持つものと思われる。

後灘は多くが滑稽なものや男女の恋愛を描いたもので、一部にはエロチックな色彩を帯びたものもあるが、海寧皮影戯の演目で後灘と共通するものはほとんど見られない。確認できたところでは、『双落髮』が姚劇の後灘の演目に見えた。

このほか、越劇のみと共通する演目に以下のものがある。

>『双獅図』・『失金釵』・『竜灯伝』・『双金花』・『毛子佩闖宮』


越劇は小戯から大戯へと発展する過程で、乱弾・高腔・灘簧など、様々な劇種・曲種の影響を受けている。その過程で、両者の間に、何らかの直接もしくは間接の交流があったのであろう。

このように全体として、弾詞・前灘系の演目の多さが際だっている。海寧皮影戯の正本戯が「正本」たる所以は、おそらくこうした崑曲と共通する演目を歌う点にあるのだろう。

朱恒夫2008は前灘が生まれた理由として、


-嘉慶年間以降、花部との競争に敗れた雅部の崑曲が、灘簧にすり寄って生き残りを図った。
-道光帝の没後三年間、演劇の上演が禁止されたため、崑曲の芸人が灘簧化することで生計をたてようとした。
-同治年間頃になると灘簧が風紀を紊乱する「淫戯」として弾圧を受けるようになったため、当時正統な戯曲と認められていた崑曲から演目を移植して取り締まりを逃れた。
-

などを挙げている((p.23~28。))。また、同治二(1863)年刊の『杭俗遺風』に載せる灘簧の演目がいずれも崑曲系の演目であるとされるので((p.87。))、前灘の形成は嘉慶から咸豊年間にかけて、およそ19世紀の前半ということになる。

海寧皮影戯の正本戯の成立も、それとほぼ同時期であると考えてよかろう。前に述べたように、〔長腔〕を主調としていたのは海寧東部の劇団であるが、地域的に蘇州・上海、および嘉興の城市に近い。おそらく、乱弾を歌っていた劇団が遅れて流行した灘簧の音楽を吸収し、〔長腔〕を主調とする正本戯が成立したものであろう。婺劇の灘簧は、蘇州灘簧が船娘と呼ばれる芸妓によって伝えられたもので、当初は前灘の演目を中心としていたというが((『中国戯曲誌』浙江巻 p.101。))、海寧皮影戯の正本戯も同様にして伝えられたものと考えられる。

一方、海寧皮影戯には灘簧の比較的新しい演目が見られない。たとえば、『刺馬』・『楊乃武与小白菜』といった19世紀末の事件は、常錫灘簧などで演じられているが、海寧皮影戯には入っていない。これは、乱弾に俠義公案ものが存在しないのとパラレルの現象であり、清末以降、海寧皮影戯の発展が停止していたことを示唆する。

*3	海寧皮影戯影人考 [#l103f64a]

中国各地の皮影戯は、それぞれ各地方に流行する人戯の声腔を歌うことが多く、かつ人戯の流行に従って声腔を改める例も見られる一方、影人は声腔の相違にかかわらず継承されたり、流通したりする例が多々見られる。たとえば北京西派皮影戯は、民国年間に高腔から皮黄に声腔を改めているが、影人の造形は変わっていないし、一方、陝西・甘粛・青海の皮影戯は、地域によって碗碗腔・道情・弦板腔・漢調二黄・漢調桄桄など様々な声腔を用いるが、影人のデザインは基本的に一致している。このため皮影戯研究においては、声腔と影人とを区別して考える必要がある。

以下では、海寧皮影戯の影人について、他地域の皮影戯との比較を通じて検討し、その特色を明らかにしたい。

**3-1	実臉 [#iace4056]

海寧皮影戯のデザイン上の特色としては、頭の制作方法が、目鼻の線を残して切り抜く「空臉」ではなく、切り取った皮革に目鼻を描く「実臉」である点が、第一に挙げられる。空臉ではスクリーンに輪郭のみが投影されるので、半透明の皮革を残した場合に比べて線が強調される。実臉は皮革に筆で目鼻立ちや髯・頭髪あるいは臉譜などを描くため、彫刻に比べて細かな表現を実現できるものの、スクリーン投影時の視認性にやや劣る。

全国の皮影戯では、花臉や神怪に実臉を使う例は多々見られるものの、生・旦に実臉を採用するのは、他に、河南省南部の桐柏・羅山一帯の皮影戯くらいしかない。湖南影戯も実臉であるが、これは夾紙という特殊な技法で作られた紙影戯であり、またその成立も民国時期と比較的新しい((千田大介2006。))。

#ref(03.jpg,,陝西皮影戯影人頭(空臉))

海寧皮影戯は、頭のみならず身子にも彫刻を施さずに模様を描いているが、頭が実臉の河南皮影戯でも身子には彫刻を施すので、これは他に類例を見いだしがたい独自の特色であると言えよう。

清の呉騫の『拝経楼詩話』は、査岐昌の『古塩官曲』を引き、以下のように言う。

>査岐昌の『古塩官曲』に次のような詩が見える。「つややかに語る長安のよき役者ども、衣を燻して高らかに弋陽腔を歌う。」おそらく(人形が)みな皮革に描いて作られているため、いぶすことによって虫をよけるのであろう。((&lang(zh-tw){查巖門歧昌《古鹽官曲》:「艷說長安佳子弟,熏衣高唱弋陽腔。」蓋緣繪革為之,熏以辟蠹也。}))
RIGHT:(巻三)

呉騫は海寧の人で、査岐昌とほぼ同時代の人である。この記述から、皮革を彫刻せずに描く、現在のスタイルが乾隆年間末年頃にまでさかのぼることがわかる。

先行文献では、年代をさらにさかのぼり、海寧皮影戯の実臉を南宋絵革社の伝統を留めるものであるとするものが多い。例えば王珏2008は以下のように述べる。

>海寧皮影戯は古い劇種であり、その皮影影人にはそれにふさわしく南宋の遺風が残っている。南宋の臨安の絵革社は、絵を描いた皮影影人を専門に制作する組織であったが、その名称から当時の皮影影人が、皮革の影人に描いていたことが見て取れる。これは北方の皮影の彫刻を重視する伝統と異なる。((&lang(zh-tw){海寧皮影戲是一個古老的劇種,其皮影影偶也相應地保留著南宋遺風。南宋臨安繪革社,是專門制作彩繪皮影影偶的組織,從其名稱即可看出,那時候的皮影影偶,是在皮革影偶上進行彩繪,這與北方皮影重視雕鏤的傳統是不同的。}))
RIGHT:(p.68)


絵革社は、南宋の周密の『武林旧時』巻三「社会」項に見える。影人の制作ではなく、皮影戯を上演する劇団のことである。南宋の皮影戯劇団が絵革社と呼ばれていたとはいえ、それが実臉の影人を指すとは必ずしも言い切れない。呉自牧『夢梁録』に以下のように見える。

>もともと開封では初め白い紙を彫刻したが、後の人は技巧をこらし、羊の皮を彫刻し、色を施し、壊れないようにした。((&lang(zh-tw){元汴京初以素紙雕鏃,自後人巧工精,以羊皮雕形,用以綵色粧飾,不致損壞。}))
RIGHT:(巻二十「百戯伎芸」)

「彫刻」の原語は「雕鏃」であり、「鏃」の本義は、鋭い矢じりである。「刻」などではなくわざわざ「鏃」の字を用いたのは、突き刺さった矢じりを周囲の肉ごと引き抜くかのように、影人を小さくくりぬいて模様を作っていたことを表していると解釈できよう。従って、南宋の皮影戯は輪郭を切り取るだけでなく、模樣の彫刻を施していたものと思われる。山西省孝義の金代墳墓の壁畫に見える影人人物が空臉である((朱景義・朱文2006 p.33。))ことも、南宋・金の時代に空臉の影人が存在した証左となる。絵革社と呼ばれ皮革に彩色していることと、模様を切り抜くことは必ずしも矛盾するものではない。

**3-2	身子の造形と接合方法 [#dcb191b3]

海寧皮影戯影人では、頭の身子への固定方法も独特である。中国の多くの地方の皮影戯は、頭と身子が取り外し可能になっており、場面と状況に応じて、適宜、頭と身子を組み合わせて用いる。こうすることで、影人の数量を少なくできるし、また収納にも便利である。

冀東・陝西・四川・湖北など、大多数の地域の皮影戯では、身子の首の部分に細い長方形の革を縫い付けて二重にし、その間に頭の長めに作った首を挟み込んで固定する。海寧皮影戯でも頭のすげ替えは可能であるが、その着脱方法は他に例を見ない。幅4mm、長さ20cmほどの竹の棒を、頭のこめかみから下に向かって縫い付け、身子には数カ所に糸をかがって、その糸と身子の皮革の間に竹棒を通して頭を固定する。この方式では、棒の影がスクリーンに映ってしまうので、上演効果の上では好ましい方法とは言い難い。

#ref(IMG_1217.jpg,,海寧皮影戯影人頭)

身子の造形では、腕が一本だけしかつけられず、足も両足を一体化したデザインが多い特色がある。下女・下僕や武将・俠客の類は、動作の都合上、両足が分かれているものの、腕はやはり一本である。腕が一本の影人は、湖北仙桃皮影戯などでも用いられる。また、台湾の復興閣皮影戯でも一部影人の足は一本であるが、造形上は大きな差異がある。このほか、広い袖の服の場合は手首を作らない。王銭松氏は、水袖に手が隠れるから彫刻しないのだと解釈する((2009年8月18日インタビュー。))。

皮影戯影人の身子は、胴体・腰・足・上腕・下腕・手首などのパーツから成り立ち、それぞれを糸でつなぐ。海寧皮影戯ではそのつなぎ目部分、特に胴体・腰・足の処理に特色がある。他の地域の影人では、胴体や足の接合部で革が重なってスクリーンに映る色が濃くなるのを防ぐため、一方の接合部を、あたかも島津十文字のように、スポーク状に切り抜くのだが、海寧皮影戯ではそのような処理を行わない。

また、身子の腰と胴体・足の接続は、一般に、それぞれのパーツの中央一カ所に穴を開けて糸で球を作って止め、それを軸に回転できるようにする。しかし海寧皮影戯では、胴体・腰・一体化した足などのそれぞれの接合箇所で、穴をパーツの左右両端に二カ所ずつあける。一方の穴は、そのままもう一つのパーツと重ねて糸で球を作って止めるが、もう一方は糸を長めにとる。それによって、一方の穴を軸として回転するが、糸の遊びの分以上に動くことがなくなる。

#ref(IMG_1217.jpg,,海寧皮影戯影人(王銭松氏作))
#ref(IMG_1223.jpg,,海寧皮影戯影人(王銭松氏作))

こうした影人の接合方法も、他地域の皮影戯には見受けられない。影人の操作を考えれば、海寧皮影戯の方式は、必要以上に腰や膝が曲がることが無いので合理的であるともいえる。

**3-3	“紙人頭”と紙影戯 [#m058322b]

全体として、海寧皮影戯の影人は、他地域の皮影戯には見られない特徴を多く備えている。このような特徴は、いかにして形成されたのであろうか。

ここで注目されるのは、海寧皮影戯影人の呼称である。

>今でも、海寧の人は影人を“紙人頭”と呼び、皮影戯のことを羊皮戯と呼ぶ。((&lang(zh-tw){至今,海寧人還把影人說成“紙人頭”,而把皮影戲說成羊皮戲。}))
RIGHT:(崔金華2007 p.4)


前に触れたように「百紙頭阿三」・「紙人」という呼称もある。引用箇所では、紙人頭・羊皮戯という名称を、『夢梁録』が「もともと開封では初め白い紙を彫刻したが、後の人は技巧をこらし、羊の皮を彫刻し」たとする、南宋皮影戯の伝統を受け継いだ証拠であると解釈する。しかし、南宋時代の歴史的変化が名称に受け継がれているというのは、少々無理があるのではなかろうか。

筆者はこうした特色を、海寧皮影戯が本来、紙影戯であったものが、清代初頭に羊革に変化した名残であると考える。頭の接合に竹の棒を用いるのは、本来、影人に使われていた素材が非常にもろく、補強しなくては抜き差しに耐えられなかったことを意味する。また、接合部の影が薄くなるように配慮しないのは、紙が素材であったとするならば、やはり強度の観点から説明がつく。手首を彫刻しないのも、紙製では尖った手首が折れ曲がり損壊しやすかったからではなかろうか。

影人の素材は、それぞれの地域で入手しやすいものを用いるので、各地で紙から皮革、皮革から紙への変化が発生している。例えば湖南影戯は元々水牛皮を使っていたが、厚くて上演にあまり適さないことから、紙に変更されている((千田大介2006。))。福建省南部から広東省潮州市にかけて、および台湾には同系統の影戯が行われているが、その影人素材と呼称は様々である。福建の竜渓紙影戯や広東の掲陽紙影戯は皮影戯化しているし、潮州紙影戯は影戯が木偶戯化しているが今なお紙影戯と呼ばれている((江玉祥1999 p.210~219、江冰2007、魏力群2007 p.227~230。))。

これらはいずれも、清末から民国時期にかけて、当地において影人の素材の変化が発生し、旧来の素材の名称が残った例である。海寧皮影戯についても、もしも南宋皮影戯の流れを受け継ぐのであれば、臨安から伝播した時点ですでに皮影戯であったはずであり、当地に“紙人頭”という名称が残ることは考えにくい。

このように、海寧皮影戯影人の様々な特色、および「紙人頭」という名称は、海寧に於いて紙影戯から羊皮影への材質の変化が発生したと考えることで説明がつく。『拝経楼詩話』の記述によって、乾隆年間には皮革が用いられていたことが確認できるので、この変化が起こったのはそれよりも前ということになる。名称に紙影の痕跡が今なお残っており、その年代はさほど古くないと思われるので、おそらくは乱弾の伝播と同時期の清代の初め頃なのではなかろうか。いずれにせよ、南宋の臨安の皮影戯を直接的に継承している可能性は、極めて低い。

*4	終わりに [#k7de323a]

以上に検討してきたように、海寧皮影戯で用いられる弋陽腔(乱弾)と〔長腔〕は、それぞれ梆子乱弾腔と灘簧に他ならず、起源は清代の初期および中期までしか遡り得ない。影人についても清代に入ってから紙影が海寧において皮影化した蓋然性が高い。それ以前に海寧に皮影戯が存在した可能性は否定できないが、よしんばそれが存在したとしても、現在我々が目にすることのできる海寧皮影戯とは全く別のものであったと思われる。いずれにせよ、海寧皮影戯の起源を南宋皮影戯に結びつけ、声腔を明代南戯の海塩腔と弋陽腔の遺響だとする従来の説は、大幅に修正される必要がある。

とはいえ、清初という成立時期は、現在行われている伝統劇種の中ではかなり古い部類に属するものである。とりわけ、太平天国によって伝統文化が大規模に破壊され清初以前の様相を留める伝統芸能が非常に少ない長江デルタ地域にあって、海寧皮影戯は際だって古く、演劇史的価値は極めて高いといえよう。

また、海寧皮影戯は、乱弾や灘簧など、清代初中期当時流行していた声腔や芸能の影響を受けて形成が促されたものと思われる。当時の海寧一帯は、揚州や蘇州などの江南における芸能文化の中心地とリンクしていたと言えるだろう。しかし、19世紀末以降、海寧皮影戯の発展は停滞する。同時期に流行した俠義公案ものがレパートリーに取り入れられることはなく、また水路班子によってもたらされていた南派京劇の影響も限定的であった。その一方で、海寧皮影戯の〔長腔〕は上海の滬劇と同系の灘簧であると考えられ、人戯とはまた異なる芸能流通の存在が明らかになる。

これは、江南における大都市部と市鎮・農村の間の通俗文芸・芸能の交流や物語伝播の重層的ネットワーク構造の存在を示すものであり、またそれを具体的に解明する端緒ともなろう。

以上のような点について、海寧皮影戯の台本資料等を収集・分析し、それを周辺地域や都市部の伝統芸能等との詳細な比較検討を通じて具体的に解明することを、今後の課題としたい。

&size(10){* 本稿は、平成17~21年度文部科学省科学研究費・特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」民俗信仰班(「浙江・江蘇地域の道教・民俗信仰に関する廟宇・祭神・儀礼調査」研究代表者・二階堂善弘:課題番号17083038)による成果の一部である。};

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