『都市芸研』第十八輯/粉戯と陣前招親

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粉戯と陣前招親――西唐故事の形成と展開をめぐる仮説

千田 大介

はじめに

粉戯の時代

班中の崑弋 両つながら嗟嗟、新たに到れり秦腔 粉戯多し。*1 (『北平梨園竹枝詞薈編』,p.1172)

清代前半の北京梨園では、崑曲と弋陽腔が主に行われ、康熙年間頃には弋陽腔が崑曲を取り入れつつ発展した京腔(高腔)の天下となっていたが、乾隆年間後半に至ると、さまざまな新興の声腔が北京に進出するようになる。なかでもエポックメイキングであったのが、乾隆四十四(1779)年、秦腔(西秦腔)の女形・魏長生の二度目の北京進出である。彼の演ずる「滾楼」に北京は城を挙げて熱狂し、彼の後を追う秦腔の戯班・女形が後を絶たず、「京腔は次々と休業に追い込まれた*2」という。その後、乾隆五十年に当局が北京における秦腔の上演を禁止、魏長生も都落ちを余儀なくされたが、秦腔の流行は中国演劇史上、乾隆五十五(1790)年の三慶班の北京進出――いわゆる四大徽班晋京――をきっかけに花部、そして皮黄が本格的に勃興する、その先触れとなる事件として位置づけられている。

魏長生の秦腔には、京腔が徒歌――アカペラであるのに対して、胡琴の伴奏を伴うといった特徴もあったが、北京で熱烈な支持を受けた理由はむしろ、冒頭の嘉慶十四(1809)年刊『草珠一串』より引かれた竹枝詞に詠われるように、「粉戯」――エロチックな芝居――の完成度の高さにあった。

筆者はさきに千田大介2019で、唐の太宗朝から高宗朝にかけて活躍した実在の武将である薛仁貴と、その架空の子・薛丁山らの西方征討を扱った、いわゆる西唐故事について、『三皇宝剣』伝奇、内府本『西唐伝』伝奇、皮影影巻(台本)『前鎖陽』・『鎖陽関』などを比較検討し、清代中期に小説『説唐三伝』と異なる三休樊梨花故事が北京を中心に流布していたこと、そのサイドストーリーとして乾隆末年頃に『三皇宝剣』伝奇が作られたこと、それらの物語が北京・冀東皮影戯の影巻で演じ続けられていることなどを明らかにした。これらが成立し演じられた清代乾隆年間から嘉慶年間にかけての北京では、まさしく魏長生が活躍し花部が勃興していた。

通俗歴史物語が、まず演劇や芸能を通じて形成され、それらをもとに章回小説が作られる、というのは、通俗文学研究において広く了解されている。そうであるならば、時代時代の演劇や芸能とそれを取り巻く環境、および受容層の嗜好の変化などが、通俗歴史物語の形成や発展に大きく影響していることになるが、こうした点には従来さほど注意が払われてこなかった。

本稿はかかる認識に立ち、清代中期における西唐故事と、当時、粉戯として知られた劇目との関係、さらには清代の演劇環境が通俗歴史物語の形成・発展に及ぼした影響について、考察する。

家将ものと陣前招親

西唐故事は、清代中期以降盛行した家将ものと呼ばれる歴史ものである薛家将の一部である。北京・河北地域の民間文芸では、楊家将・呼家将とともに三大将に数えられ、乾隆年間に小説『説唐後伝』・『説唐三伝』が作られるなど、高い人気を博した。薛家将に限らず、呼家将も清代中期に小説が作られているし、清代中期に物語が形成され咸豊年間に小説『三下南唐』が作られた高瓊と劉金定の物語も、高思継・高行周・高懐徳そして高瓊と続く、高家将故事と見ることができる。

家将ものは、ある将軍の一族の複数世代にわたる武功を描くが、その世代を重ねる鍵となるのが、陣前招親による結婚である。陣前招親は、臨陣収妻などともいい、従軍中の軍属が結婚することをいう。小説・戯曲などの通俗文芸では、厳重な軍令違反とされるものの、年若い武将が戦場で出会った女将軍と結ばれるのは、楊家将の楊宗保と穆桂英以来、一つのお約束となっている。

そして、清代中期に盛行する家将故事が、いずれも演劇・芸能を通じてまず物語が形成されているという事実は、当時の演劇において、陣前招親のニーズがあったことを示唆する。清代中期の北京には、演劇を中核とする商業主義的サブカルチャーのエコシステムが形成されていたと思われるが、そうした環境下にあって陣前招親を伴う物語がなぜ多く産み出されたのかを試論することが、本稿のもう一つの目的である。

Ⅰ.清代中期北京の演劇状況

魏長生と粉戯

清代中期の魏長生と粉戯については、近年、戴和冰2009、呉新苗2017、范存存2017などの論考が相次いで発表され、社会的背景や、それと密接な関係にある私寓制に関する研究が大きく進展している。以下ではまず、それらの先行研究を参照しつつ、清代中期北京の粉戯とそれを取り巻く環境についてまとめておく。

前述のように、中国戯曲史上、北京に秦腔をもたらし花部隆盛の先声となったと評される魏長生であるが、同時代的な資料の大半は、その粉戯上演を特筆している。呉長元『燕蘭小譜』にいう。

かつて双慶部に在籍し、「滾楼」が大当たりして、富豪の子弟や士大夫も心酔した。その他の小芝居も笑いを取ったり、劣情を催させたりするようなものばかりで、京腔の昔ながらの台本はすっかりお蔵入りしてしまった。一時期、歌樓には、観客が壁のように立ち並んだ。六大班は顧みる人もまばらで、解散するものもあった。……壬寅の秋に、勅命で戯班への参加が禁じられ、その風はようやく収まった。*3 (巻三「魏三」p.32)

『燕蘭小譜』は乾隆五十(1785)年序が付されており、魏長生と同時代の資料である。ここでは、秦腔の音楽的特色には特に言及せず、専ら粉戯の方面からその人気の理由を説明している。また、昭の『嘯亭雑録』にいう。

魏長生、四川金堂の人。排行は三、秦腔の花旦である。甲午の夏に都に入り、年は既に三十を超えていた。このとき、都では弋陽腔が盛行していたが、士大夫たちはその囂雑に飽いており、とりわけ淫声と女色の愉しみが欠けていたので、魏長生は秦腔に変えた。曲辞は卑俗であるものの、旋律が稠密で節奏が速く、歌い上げるさまは感動的で、またさまざまな淫褻な様子を演じ、いずれも滅多にお目にかかれないようなものであったので、京師に名声が響いた。*4 (巻八「魏長生」pp.237-238)

『嘯亭雑録』は道光初年の刊で、必ずしも同時代的資料ではないが、魏長生が一世を風靡した理由については、士大夫が京腔の旋律に飽きていたことと並んで、やはり「淫声と女色」(原文「声色」)・「淫褻」という粉戯的な要素を強調している。

なお、引用中に見える甲午は乾隆三十九(1774)年、魏長生の第一次北京進出の年で、このときは評判を得ることができず、まもなく西安に戻っている。彼が大当たりしたのは乾隆四十四(1779)年の第二次北京進出であり、この記述は、彼の二度の北京進出を混同している。

焦循も以下のように記している。

蜀の伶人の魏三児は、婦人の装いを真似るのが上手く、京師に名を馳せた。*5 (『里堂詩集』卷六p.6343「哀魏三」序)

嘉慶七(1802)年に北京で急死した魏長生を悼んだものである。また、『花部農譚』の序にいう。

西蜀の魏三児が淫猥で俗悪な戯曲を先導し、市井では樊八・郝天秀といった連中が、次々にそれに倣い、村の隅々まで染まってしまった。近年、ようやく以前の様子に戻った。*6 (p.225)

序の年記は嘉慶二十四(1819)年、焦循の故里である揚州の状況を述べているが、やはり粉戯を魏長生の特色としている。

清代の揚州は新安商人の拠点として知られたが、北京の京腔班もたびたび上演に訪れており、また同地から三慶班を皮切りに数々の徽班が北京に進出するなど、北京の梨園と密接な交流があった。魏長生は乾隆五十(1785)年の禁令で北京での秦腔上演を禁じられたため、五十二年に北京を離れた。その後は、揚州・蘇州で活動しており、江南一帯にも彼の影響が広がっていた。ここから、魏派の粉戯は、北京のみならず、魏長生の故地である陝西や四川、さらに江南など、全国的に演じられていたことがわかる。

なお、魏長生はその後、ふたたび北京に戻って活動した後に生涯を終えることになるが、その時期の上演について、『日下看花記』は以下のようにいう。

乙未になって上京し、その『鉄蓮花』を見て始めて感服した。庚申の冬にふたたび上京し、何度も彼の『香聯串』を見た。取るに足らぬ技巧が、道へと進んでいた。その志が高ければ高いほど、その心は苦しみ、自ら律することが厳しければ厳しいほど、名声を惜しむ気持ちが篤くなる。ゆえに声や容は昔のままで、ますます艶やか、武戯を演ずるのにも気力十倍なのである。*7 (p.104)

乙未は乾隆四十年で、魏長生の経歴といささか合わない。庚申は嘉慶五(1800)年で、北京に戻った魏長生は、恐らく崑弋班に加わって演じていたのであろう。『香聯串』あるいは『香蓮串』は現在でも梆子腔諸劇で演じられるが、許嫁の二人が紆余曲折を経て結ばれる話で、粉戯ではない。ここから、魏長生が粉戯に限らず、女形として相当な実力を備えていたことがわかる。青木正児『支那近世戯曲史』の「彼は旦色界に一新紀元を画せし天才にして、写実の妙を得たるものの如し」*8という魏長生評は至当である。

京腔と粉戯

以上のように、魏長生の特色は粉戯にあるが、しかし粉戯が魏長生以前の北京になかったわけではない。『消寒新詠』にいう。

私が京腔の芝居の上演を見てみると、生・旦が笑いを取り抱き合って接吻し、世俗の人気を集めている。とりわけ腹立たしいのは、いつも小丑と小旦を取り合わせて、ひとしきり大騒ぎし、観客の喝采が止まらないことである。*9 (巻三「題王百寿官戯・『茶敘』(『玉簪記』)」p.50)

『消寒新詠』は乾隆六十(1795)年刊で、秦腔の上演が禁じられた後の時期になるが、京腔が粉戯を演じていたことがわかる。また、『燕蘭小譜』の以下の記述から、魏長生以前の京腔が粉戯を演じていたことが明らかになる。

白二(永慶部)、大興の人、もとは旗籍。天性の優れた旦である。かつて王府大部に属し、八達子・天保児らとともに一世を風靡した。……しばしば「潘金蓮葡萄架」を演じ、まことになまめかしかったが、魏長生の「滾楼」が世に出るや、この劇は演じられなくなった。*10   (巻三「花部」p.25)

白二は京腔六大班に数えられる「王府大部」*11に属していたとされるので、京腔の俳優だったことがわかる。彼が演じていた「潘金蓮葡萄架」は題名からして明らかに『金瓶梅』に取材した粉戯であるが、魏長生人気のあおりをくって、演じられなくなっている。

従って、魏長生の「色と芸」が京腔班を「圧倒し」たというのは、従来にはなかった粉戯をもたらしたという意味ではなく、従来の粉戯にはない女形としての完成度が評価されたことを意味する。

『消寒新詠』に、また以下のように見える。

王徳官は、宜慶部の小旦である。……徳官が「巧配」を演ずるのを見た……。ただ、閨房に衣服を整え、繍閣に深い愛情を懐き、帳の中に芙蓉が花開き、鴛鴦の枕辺で、双方の心情が表現されさえすれば、それだけで十分である。どうして服をはだけて、胸に瑞雪を露わにし、金蓮を帳の外に蹴り出して、ようやく真に迫るなどということがあろうか。慶和部の小旦――その名を言う必要はなかろう――と、「狐狸偷情」を演じたが、舞台上に予め紗の幕を設置し、その中に入って錦の布団で体を半ば覆い、偽の纏足を出し、双峰が矗然とそびえ立つと、舞台の下では「好」の声が続けさまに途絶えることがなかった。*12 (卷四p.80)

宜慶部は当時の崑曲の戯班であるが*13、乾隆末年にかなりどぎつい粉戯を演じていたことがわかる。

「偽の纏足を出し」(假出玉筍)は、纏足を模倣した蹺を言っている。足にくくりつけて纏足を再現する蹺は、頭にかぶる網子・片子とともに、魏長生が北京にもたらして定着したとされるが*14、それは女形として、よりリアルに、そして扇情的に女性を演じるためのものであった。

『揚州画舫録』には以下のようにも見える。

京腔ではもともと宜慶・萃慶・集慶など(の劇団)が名声を博していたが、四川の魏長生が秦腔を北京にもたらしてから、その色と芸は宜慶・萃慶・集慶を圧倒してしまい、そのため京腔がそれを模倣し、京腔と秦腔の区別がなくなった。*15 (卷五「新城北録下」p.131)

京腔が秦腔の特徴を取り込み、「京秦不分」という状況に至ったとしているが、こと粉戯に関しては、崑曲の戯班もその例に漏れなかったことになる。

清代北京の上演環境

乾隆期に粉戯が盛行したのは、清朝の演劇政策による演劇上演環境の変化がある。

明代の宮廷演劇では雑劇が使われており、その担い手は世襲の楽戸であった。雑劇では、旦は女性俳優が演じていたようである。明の都穆『都公談纂』にいう。

呉の俳優で南戯を京師で演ずるものがいた。錦衣衛の門達は、男が女に扮しており、風俗を乱していると奏上した。*16 (巻下第六十七葉)

英宗のときの記事であり、南戯がこのころ北京にもたらされたことがわかる。また、わざわざ奏上していることから、当時、北京で主流だった雑劇には女形がいなかったこと、女形が南曲において生まれた習慣だったことが読み取れる。

清朝は段階的に楽戸の人数を削減して雍正五(1727)年に最終的に廃止し*17、また乾隆帝が乾隆四十二(1777)年の「用白居易新楽府五十章並効其体」で「乾隆に一として女楽なし*18」と詠んでいるように、宮廷の楽舞・演劇から女性を排除したが、それは宮廷演劇が雑劇から南曲系の崑曲・弋陽腔に変わったことも影響しているのであろう。

『欽定台規』に康熙十(1671)年の以下の禁令が見える。

凡そ秧歌を唱う婦女および墮民の女は、五城司坊等の官に命じて、ことごとく原籍地に追い返し、密かに京城に居住させてはならない。*19 (巻二十五「五城七」第一葉)

「墮民」にはさまざまな意味があるが、ここでは戯曲・芸能について言っているので、楽戸を指すと見てよかろう。北京における女性の俳優や芸能者の居住・上演が禁じられている。清代のかなり早い段階で、少なくとも北京の劇壇から、女性俳優が排除されたことがわかる。

また、清代には雍正二(1724)年に官僚が家班(私有劇団)を蓄えることが禁止され、乾隆・嘉慶時期にも重ねて禁令が出ている。家班は、『紅楼夢』にも描かれるように、女性俳優だけで構成されることが多かったので、このことも、女優の退潮、女形の隆盛に影響を及ぼしたものと思われる。

一方、北京では明末以来の酒荘方式の劇場が受け継がれていた。『欽定台規』にいう。

京師の内城では、戯館を開設するのを認めない、永遠に禁止する。城外の戯館で、不埒ものが口実を付けてもめ事を起こしたならば、所管の司坊の官が調査・逮捕すること。*20 (巻二十五「五城七」第一・二葉)

康熙十(1671)年の記事であるが、内城での「戯館」すなわち劇場の開設を禁ずるとともに、城外・外城の劇場への管理強化を命じている。北京ではかなり早い時期から、常設の劇場が複数、存在していたことがわかる。当時の文化の中心であった蘇州で、常設の戯館が開設されたのは雍正年間であり*21、緯度が高く冬季に屋外上演できないという点を差し引いても、北京における演劇市場の隆盛が窺える。

蔣士銓「京師楽府詞・戯園」にいう。

三面 楼を建て下 廊を覆い、広庭十丈 台は中央。魚鱗 瓦をなして日光を蔽い、長筵 界を画して畛疆を分かつ。……台中 技を奏して優孟出で、座上 碟を撃ちて壷觴を催す。淫哇 一たび歌わば衆 耳を側て、狎昵 雑陳すれば群目 張る。*22 (『忠雅堂詩集』pp.290-291)

乾隆二十五(1760)年の作だが、瓦屋根で客席の三面に二階桟敷席が設けられ、一階のフロアはテーブルによって席が分かれるという様式が完成している一方、酒食が供されている。「淫哇」(みだらな歌)・「狎昵」(男女があい親しむ)と見えるので、粉戯の上演を詠んだのであろう。この詩からさほど遠くない時期に、ただ茶だけを供することから茶園・茶荘とも称される劇場が確立したと考えられている*23

乾隆年間の北京は、複数の常設劇場を擁する、中国最大の演劇市場を形成しており、それが新興の声腔や各地の俳優を北京に呼び寄せた主たる原因であった。

また、北京の戯園は道光初年まで、二階席(すなわち桟敷席)に限られたものの、女性の観劇が可能であったというが*24、階下の「池子」(テーブル席)は男性観客のみであり、また、演目によって観客が観劇するか否かを決定できるため、堂会と異なり粉戯の上演に支障がない。

魏長生が一世を風靡したときに、士人たちが千金をもって競って彼を宴席に招いたように*25、優れた女形と交流を持つことはステータスでもあった。前掲蔣士銓「京師楽府詞」の「戯旦」詩に「朝に俳優となり暮れは客と狎れる」*26、「笑いて官人に伴い花底に宿る」*27と見えることから、乾隆年間中期には女形が客と交流するのが既に一般的だったことがわかる。

乾隆末以降、『燕蘭小譜』を皮切りに、北京の梨園で活躍している女形の小伝と、彼らを詠んだ詩とを集めた、いわゆる「花譜」と呼ばれる役者評判記が続々と刊行されるようになるが、それは魏長生ブームが女形との交流のステータスを高め、かつ裾野を広げたことの反映であろう。

そうした流れを経て、嘉慶年間頃に私寓制が確立する。私寓は俳優の住居であり、養成・マネージメント業者でもあり、また四合院の通り沿いにはレストランが設けられていた。所属俳優を劇場の上演に送り込んで名を売り、それに惹かれた客が個人、あるいはグループで私寓を訪れて飲食すると、俳優が接待するとともに清唱などの芸を披露する。上階に宿泊が可能なものもあった*28。私寓制度は民国初年に禁止されるまで、北京の梨園を支える一つの柱でありつづけた*29

Ⅱ.樊梨花・姜須の物語をめぐって

魏派粉戯「樊梨花送枕」

かかる清代中期の演劇状況は、西唐故事の形成・変容にも確かに影響を及ぼしている。

魏長生派の演目に「樊梨花送枕」がある。『燕蘭小譜』にいう。

三寿官(双慶部)、姓は張氏、字は南如、陝西長安の人。美しく咲き誇り、麗しきこと十七・八の女郎のよう、人の心をときめかせる。惜しむらくは喉に欠け、ただ「樊梨花送枕」を演じ、その心情を描くのみ、余は戯れに「唖旦」と目している。

復陶 翠被 軍門を出で、
街鼓 春寒 夜帳は温かし。
枕を捧げ 言は無かれども情は脈脈、
一枝の紅艶 美人の魂。
息國の風流 只だ自ら傷み、
桃花人面 君王に媚ぶ。
児家 会得せし 無声の楽、
啞趣 神を伝え 擅長を許す。*30 (巻三p.28)

この演目については、『揚州画坊録』にも言及がある。

郡城では、江鶴亭が本地の乱弾を集めて、春台と名付けた。これが外江班であるが、それだけでは目鼻が付かなかったので、各地の名旦を招聘した。蘇州の楊八官、安慶の郝天秀らである。そして楊・郝はまた魏長生の秦腔、および京腔の優れたもの、「滾楼」・「抱孩子」・「売餑餑」・「送枕頭」の類を採ったので、春台班は京・秦二腔を兼ねることとなった。*31 (p.107)

郝天秀は、『揚州画坊録』が「魏長生の神を得た」(p.131)とする女形であり、魏長生が北京での秦腔上演禁じられて江南で活動していた時期に師事したものと思われる。以上から、「樊梨花送枕」(「送枕頭」)が魏派の代表的演目の一つであったことがわかる。

樊梨花は、西唐故事で活躍する架空の女将軍で、薛丁山の妻となる。彼女の活躍を描く小説『説唐三伝』には、しかし「樊梨花送枕」に該当する場面が見あたらない。薛丁山が樊梨花との婚約を三度破棄する、所謂「三休樊梨花」の過程では、いずれも初夜を迎える前に薛丁山が癇癪を起こして婚姻を取り消しているので「送枕」する暇はないし、二人が結婚した後にも夫婦の情愛を描くような場面は見あたらない。

子弟書「送枕頭」

「樊梨花送枕」の台本は管見の限りでは伝わっていない。そもそも、魏長生は北京での上演を規制されているし、まして「唖旦」が主役で歌唱を伴わない做工戯であったのだから、観客も台本を記録し閲読する動機を持ち得なかったことであろう。

「樊梨花送枕」のストーリーは、説唱や皮影戯のテキストから知ることができる。『清蒙古車王府蔵曲本』および『俗文学叢刊』は、子弟書「送枕頭」を収録する*32。両者ともに抄本で、字句はほぼ一致するが、前者が不分回であるのに対して、後者は全体を二回に分けている。

子弟書「送枕頭」(『俗文学叢刊』)

「送枕頭」では、姜須が薛丁山から片時も離れないため、夫婦で夜を共にすることができないという、樊梨花の閨怨が語られる*33

さても丁山が寒江に助けをもとめてより
醜き姜須が付き従って陣屋に住まう
樊梨花は薛小将軍に心めろめろ
幾度となく二つの眉が繋がらんばかりに顰める
花のような容を鏡で見るのも恥ずかしく
いつも花影に主人を憶う
風月に向かって涙をこぼし
刺繍の幕、珠の御簾に美しき魂はとざされる
公子との夜を想い胸ははちきれんばかり
美しき人は思いを巡らし月を待って行雲を求める*34

樊梨花は寂しさに耐えきれず、枕を届けることを口実に、夜、薛丁山の寝室を訪ねる。すると、姜須が布団をかぶって熟睡し、薛丁山は布団の外で眠っている。樊梨花は薛丁山をかき抱いて、頭の下に枕を入れる。

抑えきれず愛しい人に瓜実顔を寄せ
公子の頰に手を添えて桜桃の唇を近づける
玉郎の頭の下に鴛鴦の枕を入れようとすれば
とろとろとおかしなものが肌着を濡らす*35

そして薛丁山のからだをまさぐり、事に及ぼうとするところ、姜須が目覚めたために慌てて隠れる。しばらくして姜須が寝入ったと見て、樊梨花は再び薛丁山によりそい、目覚めた薛丁山と雲雨の交わりをなす。

まさしく粉戯というべき内容である。暗闇の中、姜須を起こさないよう音を立てずに薛丁山に寄り添っており、まさしく「唖旦」が演ずるのにふさわしい。舞台では「摸黒」として演じられていたに相違なかろう。

ここに登場する姜須は、征東故事にみえる薛仁貴の義兄弟・姜興本の子とされ、小説『説唐三伝』には登場しない一方、内府本『西唐伝』や、北京・河北とその周辺地域の皮影戯などの芸能の西唐故事では大活躍している。小説以前の古い西唐故事・三休樊梨花故事の指標的な人物であり*36、彼が登場する「樊梨花送枕」も、やはり小説以前の物語に取材していることがわかる。

影巻「樊梨花送枕」

「樊梨花送枕」は、北京皮影戯の影巻でも扱われている。西唐故事の影巻としては、『俗文学叢刊』第200冊に収録される『前鎖陽』五巻があり、樊金定・薛景山母子の鎖陽関救援と、薛丁山による一休樊梨花までを扱っている。『三皇宝剣』伝奇との類似性から、嘉慶年間頃の成立であると推測される*37

西唐故事は現在も冀東系皮影戯で演じられており、中国都市芸能研究会では数種類の影巻を収集している。そのうち、最も状態が良いのが遼寧省凌源の皮影戯芸人であった郭永山氏旧蔵の『鎖陽関』16 冊で、1980年から82 年にかけて抄写されている。物語は、李道宗による薛仁貴陥害、薛仁貴の征西から、薛丁山・樊梨花による征西の完了までを網羅しているが、前半部分には三休樊梨花故事の影巻と『三皇宝剣』に取材した影巻を合併させたとおぼしき痕跡が見られる。『前鎖陽』と共通する歌詞や科白も多いことから、嘉慶年間頃に成立した影巻が、北京・冀東地域で演じ継がれる過程で改変されたものだと思われる*38。以上二種の影巻を、以下では主に参照する。

「樊梨花送枕」にあたるエピソードは、影巻『鎖陽関』第七冊に見える。また、『俗文学叢刊』第346冊所収の「樊梨花送枕」石印本は、封面などが失われて劇種がわからなくなっているが、科白・歌詞が影巻『鎖陽関』と基本的に一致しているので皮影影巻であり、皮影戯でも「樊梨花送枕」が折子戯として演じられていたことがわかる。

影巻『鎖陽関』第七冊

影巻『鎖陽関』で樊梨花は、元帥となった後、軍議の場で薛丁山に跪拝させるが、その夜、枕を届ける名目で彼を訪ね謝罪しようとする。

お前たち、婿殿に東の書斎にお越しいただき、大蠟燭三本と状元紅酒三斤をさし上げなさい。姜須を西の書斎に連れて行き、小蠟燭二本と、白酒半斤を与えなさい。(ははっ。)一更を過ぎるのを待って、枕を届けるのを名目としましょう。*39

しかし、姜須は薛丁山の書斎で酒を飲んでいる。

姜須は徳利を置いて大慌て
この咳払いは兄嫁に相違ない
見つかったなら顔色を変えるに違いない
進退きわまったどうしたものか
(ああ、そうだ)寝台の下に隠れよう
身を翻して竹の寝台の下に隠れ潜む*40

姜須が寝台の下に隠れているとはつゆ知らず、樊梨花は薛丁山の書斎に入り、謝罪して語り合う。

薛丁山は寝台の下の姜須を忘れ
慌てて樊梨花についてゆく
〔旦いう〕(はやくおいでなさいませ、若さま)
夫妻は比目の魚となり
二人は寝台に上がって鸞と鳳の夫婦となる
あたかも牽牛と織女の逢瀬
鸞と鳳はしばしもつれあう*41

かくて一部始終は、寝台の下の姜須の知るところとなる。

樊梨花が枕を携えて薛丁山の寝室を訪う、という概略は子弟書と共通しているが、予め蠟燭を届けているので暗闇ではないし、歌唱や科白も多い。子弟書の方が「唖旦」にふさわしい。

また、子弟書の性的表現が直截的であるのに対して、皮影戯は樊梨花の薛丁山への謝罪という動機が前面に出ているために粉戯的色合いが薄まり、かつ姜須の出歯亀という喜劇的要素が強くなっている。

これは、皮影戯の上演環境に起因するものだと考えられる。旧時の北京における皮影戯上演については、羅信耀『北京風俗大全』に詳細に描かれている。呉家では、新生児の満月の堂会に、以下のような経緯を経て、皮影戯を呼ぶことにする。

新生児のために宴席を設けるという呉家の意向が明らかにされると、呉少爺の二、三の同僚はお金を出しあって歌伎を宴席に呼んであげようと一決し、呉少爺の考えを打診してきた。こういう若い歌姫は中国では唱大鼓的(大鼓の歌手)と呼ばれ、余興として大いに流行ったものだが、今は昔ほどではない。お稽古を積んだ若い娘が、史伝や民謡から採ってきた歌物語風のものを唱い、……直径二十五センチほどの大鼓をたたいて拍子を取るのである。……両親はこの申し出をにべもなくはねつけて、友人に対しては丁重に断りを入れた。……

呉太太のお気に入りは中国語で影戯と呼ばれる影絵芝居であった。これが出されるや、傍らにいた若夫人も含めて全員が影絵芝居なら素敵だろうと賛成したのである。……

この種の影戯の出しものの幾つかは、しばしば女性向けの家庭倫理にふれ、家庭生活上の教訓を与えるなど、道徳性が非常に色濃いために、家庭における余興としては特殊な位置を占めている。……

以上述べた理由で、昔からの北京人にとって、影戯は誕生会や今回の満月の祝いのばあいなどと、密接なつながりがある。それは出費もかさまないし、もちろん贅沢でもない。余興を重んじる中国の家庭生活に、深く根を張っている。 (pp.38-40。)

皮影戯を呼ぶことに、女性が積極的に関与している。そして、若い娘が演じる大鼓が却下されたのに対して、皮影戯は家庭倫理に優れていること、コストが低廉であることから選ばれている。

清代の北京皮影戯は、女性観客が存在する家庭内での上演を主たる収入源としており、当時の劇場がほぼ男性だけの娯楽空間であったのと様相を異にしている。皮影戯では、歌詞や科白がいかに過激であっても、裸体の影絵人形が存在せず*42、視覚的表現が過激になり得ないため、粉戯としての色彩は薄れる。それにも関わらず、皮影戯の性表現が子弟書に比べて婉曲なのは、堂会上演における倫理性への配慮によるものと考えられる。

影巻「抱盔頭」・「爬柳樹」と姜須

北京皮影戯の西唐故事では、複数の単齣影巻集に「抱盔頭」(別名「青紗帳」)と「爬柳樹」が収録され、人気の演目であったことが知れる*43

「抱盔頭」では、元帥となった樊梨花がかつての恨みを晴らそうと、薛丁山に鎖陽関の羅章夫妻に援軍を求める使者に向かい、一日で復命するように命ずるが、異議を唱えたため棒打に処する。姜須は、樊梨花の心情を読んで、様子を窺いに行く(以下の引用は、『燕影劇』所収本に基づく)。

兄嫁の両目を見れば、兵士がひとたび打つとひとたびピクン、ふたたび打つとふたたびピクン。あの様子は、心を痛めているのに相違ない。私が鎖陽まで羅章夫妻を敵陣攻略の援軍に呼びに行くのにも、日限を定めなかった。これは兄嫁の天幕まで行って、どう後悔するのか聞いてみなくてはなるまい。さあ、聞きに行くぞ。*44

案の定、樊梨花は薛丁山を打ち据えたことを後悔する。

昔の恨みを思い出し
怒りに愛情を断ってしまった
私は樊梨花。さきほど彼を四十叩きにしたが、止めておけばよかった。*45

そして子の薛猛を抱いて、薛丁山の幕舎に向かう。

梨花は堂々歩んで天幕に入り
将軍、お詫びに参りましたと声を掛ける
あなたを打ち据えたのは無分別でした
あれは山を叩いて虎を脅したまでのこと
兵を斬らねば将はそろわず
傷の具合をお見舞いに参りました
ああ、恨めしいのは兵卒どもが本気で叩いたこと
あの時 あなたが打たれるのに忍びなかった
軍令を下したとあっては後悔先に立たず
私のことを怒っているのでしょう、訊ねても言葉は返ってこない
将軍 あなたはどうなさったの
本気で叩いたので私を怒っているのでしょうか
猛ちゃんをご覧くださいませ
あなたに抱っこして欲しがっています
お父さん慌てなさるな
ほら猛ちゃんが笑っていますよ
この子ったら お父さんはお母さんに怒り心頭なのに(泣く)*46

ひとりしきのやりとりの後、薛丁山は樊梨花の謝罪を受け入れる。一部始終を目撃した姜須は、二人のやりとりを真似て見せ、それと知った樊梨花に促されて、鎖陽関に向かう。

姜須が樊梨花・薛丁山のやりとりを模倣する場面は、おそらくしぐさを誇張して笑いを取る、あたかも京劇『拾玉鐲』の劉婆のように演じられたのであろう。

『俗文学叢刊』346が収録する「青紗帳」刊本は、封面に「柳子腔」・「東泰山梓行」などと書かれており、山東柳子戯の唱本であることがわかる。本文がわずか二葉分しかなく、姜須が救援を求める使者に派遣される先が長安であるといった影巻との相違が見られるものの、やはり覗き見していた姜須と樊梨花とのやりとりに主眼が置かれている。

影巻「爬柳樹」は「抱盔頭」に続くエピーソードである。使者に出た姜須は、二竜山の麓で女大王の楊翠平(屏)に襲撃される。楊翠平は姜須を打ち負かし、単騎追撃する。柳の樹上に追い詰められた姜須は、一計を案じる(以下、『燕影劇』pp.371-372に基づくが、話者の交替する箇所に」を加えている)。

小娘の纏足の足めがけて飛び下りれば、あの小さな金蓮では、おれさまの大足で踏まれたら我慢できまい。あいつに飛びかかれば、痛くてたまるまい。その機に乗じて捕まえてしまえば、俺さまも死なずにすむというもの だ。*47

計略は図にあたり、姜須は楊翠平を組み伏せる。

食らえ。」
殴られてとても耐えられぬ 丸い眼に涙があふれる
どうか将軍おやめください お話しがございます」
さっさと話すがよい。」
あなたは堂々たる男伊達 小娘などに構いなさるな
お手を休めてお許し下さい 死ぬまで一生ご恩に着ます
神仏のご加護がありますように 七男八女に恵まれますように」
おれさまにはまだ嫁がいないのさ。
姜須は言葉を引き継ぎ口を挟む おまえに一つ話がある」
どうがお慈悲でお許し下さい 何でも言うことを聞きましょう」
姜須は今年で二十七 おれたち夫妻になろうじゃないか」
あなたの顔をご覧なさい その見目には息が詰まる」
嫌なら殴り殺すまで 目をくり抜いて皮を剥ぐ
食らえ。」
おやめください将軍さま」
二哥哥と呼びなさい」
なんということでしょう。
口を開いて将軍にいう
しばし考えさせてくださいませ」
否か応かさっさと言え
俺様は生まれついてのせっかちだ」
ああ、天よ。
これも運命なのでしょう なんと運のわるいこと
言うとおりにいたします」
姜須は聞いてウシシと笑う*48

かくて、姜須は楊翠平を陣前招親する。

追い詰められた楊翠平は脅されて結婚を約束しているが、そもそも武芸は彼女の方が上なのだから、解放された後で武芸にまかせて約束を反故にしても良いはずである。そうはせずに姜須に従順に従っているのは、もととなった伝奇に既成事実を作る粉戯的な場面が存在していたのを、影巻がカットしたために生じた、小さな矛盾なのではなかろうか。

西唐故事影巻の京腔・花部的特色

西唐故事は、歴史もの・戦争ものに分類されるが、皮影戯の折子戯として人気を博したのは、むしろ、少々エロチックな場面や丑と小旦の掛け合いであった。

さきに引いた『消寒新詠』は京腔について、「いつも小丑と小旦を取り合わせて、ひとしきり大騒ぎし、観客の喝采が止まらない」としており、また『揚州画舫録』も「およそ花部の役まわりでは、旦・丑・跳虫が重視される」*49としている(「跳虫」は武丑のこと)。こうしてみると、以上で検討してきた「樊梨花送枕」・「抱盔頭」・「爬柳樹」の三つの折子戯は、いずれも丑の姜須が登場して小旦とやりとりする、清代中期北京の京腔および花部上演の特徴と付合する演目であることがわかる。さらに「樊梨花送枕」は魏派の粉戯であったし、「爬柳樹」も、影巻の物語の展開にやや不自然な点が見られることから、舞台で粉戯として演じられていた可能性がある。筆者は前述のように影巻『鎖陽関』の原型の成立が嘉慶年間に遡ると推測しているが、以上の事例はその傍証ともなろう。

また、乾隆後期の花部とその俳優の出身地の広がりから類推するに、『説唐三伝』以前の旧西唐故事(旧三休樊梨花故事)は、北京のみならず、陝西・四川から江南まで、全国に渡って流通していたことになる。ここから、物語の差異は、西唐故事伝奇の行われた北京と、小説の編まれた江南という地域差に起因するのではく、全国的に流通していた旧西唐故事を改変して小説『説唐三伝』が成立した、という形成時期の相違に起因することが明らかになる。そして『説唐三伝』が世に出て影響力を強めていった後も、北京・河北を中心とする地域の戯曲・芸能には、古い物語が保存されたことになる。

Ⅰで触れたように、清代中期の北京は全国最大規模の演劇市場であったことが、乾隆年間中期以降さまざまな新興の劇種・声腔が続々と北京に進出した背景にある。彼らが北京の市場にキャッチアップするために、演劇のレパートリーや、それが拠って立つ物語についても北京と歩調を合わせるのは、当然のことである。

Ⅲ.羅章の物語

羅章は、西唐故事に登場する架空の将軍である。小説『説唐三伝』では、実在の人物である羅成(羅士信)の孫、架空人物である羅通の子とされ、第二十回で羅通が陣没したのと交替して、服喪することもなく唐軍の先鋒となっているが、特に印象的な活躍をしているわけではない。

戯曲では、内府本『定陽関』、およびそれを改変した『西唐伝』に唐軍の武将の一人として登場している。経歴は紹介されていないが、鎖陽関に籠城する太宗に従って薛仁貴らとともに登場しており、小説とは設定が異なることがわかる。『三皇宝剣』伝奇や影巻『前鎖陽』も同様である。

羅章の陣前招親

羅章の結婚譚を扱った最も古い作品は、『三皇宝剣』伝奇であると思われる。『三皇宝剣』は京腔の伝奇で、乾隆末頃に北京で作られたと考えられ、「樊金定罵城」齣は折子戯として河北高腔や京劇などでも演じられた*50

『三皇宝剣』伝奇では三本第三齣「神風解戰」で、清虚真人が蘇海と戦い敗れた羅章を李蘭英・洪月娥と娶せるため、風で吹き飛ばす。しかし、その結婚譚が扱われていたはずの四本以下が失われている。

内府本『西唐伝』伝奇は、旧三休樊梨花故事の伝奇と『三皇宝剣』伝奇とを、嘉慶年間前半頃に合併・改変したものであると思われ*51、全九段のうち三・八段が失われているが、現存する四・五段で羅章の結婚譚を扱っている。概略は以下のようになる。

羅章は徐茂公に命じられるままに、単騎、馬に任せて東に向かう。途中、敵の兵糧を狙うが矢傷を負う。李賢綸の妻・洪氏の還暦を、娘の李蘭英、姪の洪月娥が言祝ぐ。李賢綸は荘園にたどり付いた羅章を救い、李蘭英・洪月娥は彼が魔耶聖母の柬帖にある運命の人だと知り結婚する。

羅章は二人の妻を得ているが、陣前招親にありがちな波乱がほとんどなく、いささか取って付けた感がある。

ここでも、影巻が『三皇宝剣』伝奇の失われた部分を推測する上での参考となる。影巻『前鎖陽』では、第四冊で羅章の結婚譚を扱っている。あらすじは以下のようになる。

影巻『前鎖陽』第四冊

鎖陽関の唐軍に対して、西涼の蘇海・李道符が神兵陣で挑戦し、多くの唐将が陣中に陥る。太宗は、李勣の計に従い、羅章に二人の女将を探しに行くよう命令、羅章が断ると棒打に処して城外に追い出す。羅章は敵陣に斬り込むが蘇海に敗れて落ち延び、落草しようと二竜山の山大王・洪商を討ち取る。洪商の娘で驪山老母の弟子である洪月娥は、羅章を神鏢で破り追いかけるが、月下老人が羅章を吹き飛ばして救う。洪月娥の姉弟子の李月英は、狩りの途中、羅章を見付けて仙薬で救い、二人が結ばれることを記した驪山老母の柬帖を見せて結婚する。洪月娥は、羅章を追って李家荘に至るが、旧知の李月英に盛り潰される。李月英は、洪月娥の武器を隠し鎧・服を脱がして開臉し、羅章の部屋で寝かせる。翌朝、目覚めた洪月娥は羅章・李月英と争うが、驪山老母の柬帖を目にし、また開臉されたことを知り、羅章との結婚を受け入れる。

開臉は、女性が嫁入りに際して額やうなじのうぶ毛を剃ることをいう。盛り潰して既成事実を作るという犯罪的行為を通じて、羅章は洪月娥を娶っている。

伝統劇では、京劇・蒲州梆子の『紅霞関』で羅章の結婚譚が扱われる。蒲州梆子のあらすじは以下のようになる。

唐の時代、羅通の子の羅章は、秦英に従って征西した。軍は紅霞関に至り、守将の洪江・洪海兄弟は出陣するが、いずれも羅章に討ち取られる。洪月娥は二人の兄の仇を討とうと、飛刀で秦英と羅章を傷つける。程松というものが、羅章を背負って逃げ、月娥は後を追いかける。程松と羅章は、李というものに出会って匿われ、羅章はその娘の月英と娶される。月娥が追いかけて李家に至るが、月英は旧知であったので、家に留めて酒でもてなし、月娥が醉うと、羅章は機に乗じて手篭めにし、また月娥の鞋を盗む。目覚めた月娥は認めようとしないが、月英に取りなされる。そして羅章は月娥・月英と結婚する。   (『蒲州梆子劇目辞典』p.75)

『京劇劇目辞典』(p.422)によると、京劇『紅霞関』の羅章の結婚譚も、ストーリーは蒲州梆子とほぼ同じである。

羅章の物語は、当初『三皇宝剣』伝奇の一部であったが、道光年間には第二本以降が演じられなくなり、遅れて成立した小西唐(秦英征西)故事に取り込まれたと思われる*52。それにともなう状況設定の相違はあるものの、李月英が洪月娥を盛り潰して羅章との既成事実を作る点は、影巻『前鎖陽』と共通している。

また、影巻『前鎖陽』で開臉していたのは「樊梨花送枕」同様、皮影戯ゆえの婉曲化で、伝統劇の『紅霞関』のように手篭めにするのが本来のストーリーであったと思われる。『蒲州梆子劇目辞典』は『紅霞関』について、以下のように記す。

本劇は「羅章跪楼」一折を含み、喜劇性が強い。しかし、旧時の上演にはエロチックな演出があった。*53 (p.75)

以上から、羅章の結婚譚は『三皇宝剣』伝奇で始めて扱われたときから、エロチックな場面を有する粉戯であり、そうした性格は、物語の位置づけが少西唐(薛丁山征西)故事から小西唐故事に移った後も、継承されていたことがわかる。

ところで、『中国梆子戯劇目大辞典』が載せる『秦英征西』も羅章の結婚譚を扱っている。

羅章は対松関の守将・洪江をとらえるが、その妹の洪月娥に逆に生け捕りされる。羅章は洪月娥との結婚を承諾するが、唐営に帰った後、程咬金から内応を命じられ、洪の家族を皆殺しにする。怒った洪月娥は城下に攻め寄せるが、羅章の妻・李月英に説得されてやむなく帰順する。 (pp.213-214)

この劇の別名は『対松関』・『洪月娥背大刀』・『紅霞関』、山西中路梆子・上党梆子・蒲州梆子・山東梆子・萊蕪梆子・豫劇・懐調・平調で演じられるという。西河大鼓に基づくいわゆる伝統整理評書の『秦英征西』でも、羅章の陣前招親の場は対松関であるので、近代以降に曲芸などを通じてこの形に改変されたのであろう。蒲州梆子の『紅霞関』とストーリーが異なっているのに言及していないのは、粉戯であることを隠蔽する編集意図が働いたものと思われる。

一方、内府本『西唐伝』で、洪月娥を盛り潰すことなく、二人が羅章とすんなり結ばれているのも、宮廷演劇が粉戯を避けたゆえの改変であると理解できる。もとより礼教にもとるエピソードであり、かつ后妃・公主などの女性も鑑賞するのであるから、当然の処置である。これは、内府本『西唐伝』が三休樊梨花を描かないこととも相通じている*54

清代南府・昇平署旧蔵の大量の台本は、各時期の宮廷演劇やその時代に市井で行われていた演劇の状況を留める、重要なタイムカプセル的資料であるが、こと粉戯的色彩を持つものについては、このように「脱色」が施されている可能性に注意しなくてはならない。

影巻『前鎖陽』は、「樊梨花送枕」の場合と同様、視覚的表現を伴わないとはいえ、堂会上演の女性観客を意識して、婉曲化して開臉に改めたのであろう。

なお、小説『説唐三伝』では、秦漢が陣前招親で敵の女将軍・刁月娥と結ばれている。『三皇宝剣』伝奇には薛仁貴の次妻である樊金定、その子の薛丁山の妻となる竇金蓮が登場するが、これらは『説唐』系列小説に見える薛仁貴の次妻・樊繍花と三下南唐故事の劉金定、薛丁山の次妻・竇仙童と妹の薛金蓮などの名前をずらしたものと思われる*55。洪月娥という名称も、同様に、『説唐三伝』の刁月娥の姓を替えたものであろう。

「三英伝」と「滾楼」

粉戯として演じられた羅章の結婚譚であるが、同様のストーリーを演ずる劇が存在する。

『燕蘭小譜』巻二「劉鳳官」条に以下のように見える。

劉鳳官(萃慶部)、名は徳輝、字は桐花、湖南郴州の人。姿形は麗しく優れ、情緒は纏綿、喉はあたかも若き鳳、幼時より両広に名を馳せた。乾隆四十八(1783)年冬、広西より都に上り、ひとたび舞台に登るや、たちまちに名をなし、まさしく「九天に飛び上がりて一声歌わば、(邠)二十五郎が管を吹きて逐う」というもの、あたかも(唐代の妓女)念奴が梨園で並ぶ者がなかった時のようであった。都で魏長生に次ぐものとして一致して推されており、決して虚名ではない。この日『三英記』を演じた。放埒な風はなかったが、惜しむらくは筋立てがいささか散漫であった。……(かつて『三英記』を演ずるのを見たが、唐の将軍、王士英が敗れて竇荘に至り、竇老将の娘、桂英と結婚する。後から女大王の高蘭英が追いかけてやってくると、桂英は計略で酔い潰し、二人を取り持つ。今、鳳官が桂英に扮し、結婚する前にまず二人を契らせているが、生娘が仲人をしていることになる。)*56 (p.19)

人名は異なるが、女大王による追跡、匿ってくれた員外の娘との結婚、女大王を盛り潰して既成事実を作る、という流れは、完全に羅章の結婚譚と一致する。

さらにこの「三英記」については、魏長生の十八番として知られる「滾楼」との共通が夙に指摘されている。「滾楼」はその知名度の高さと裏腹に、乾隆・嘉慶時期の花譜の類に粗筋が紹介されていないが、谷剣東1989が周貽白旧蔵の江西二黄調「滾楼」抄本を元に、詳細に紹介・考察している。それによると、江西二黄調本のあらすじは以下のようになる。

伍星は兵を率いて飛天山を征伐し、黄竜・黄虎兄弟を討ち取るが、その妹の黄葵花に敗れる。敗走した伍星は、金栄の荘園に匿われ、伍員の子孫であったことからその娘とめあわされる。遅れて至った黄葵花が、旧知の金栄にもてなされて酔い潰れ、南楼で寝入ると、金の娘は伍星に部屋をともにさせ、また靴を片方隠す。黄葵花は目覚めた後、金の娘に問いただして、我が身が伍星のものとなったことを知り、三人は改めて婚儀を行うが、新婚の夜、二人の嫁は互いに嫉妬し合い、伍星が振り回される。

谷剣東1989によると、荘園の名称および金氏の娘の名前は明記されておらず、また黄葵花は自ら酒を飲んで潰れているという。

「滾楼」には、このほか、陝西漢中地方の伝統劇である漢調桄桄の老芸人・李德遠の口述記録本が『陝西伝統劇目匯編』秦腔第三十三集に収録される。また同書には西府秦腔の『滾豌豆』も収録され、物語は「滾楼」とほぼ同じである。『中国梆子戯劇目大辞典』が載せる山東梆子・豫劇・宛梆・懐調の「三英闘」(p.246)も、似かよっている。

伝統劇以外では子弟書に「滾楼」があり、『中国文学語学資料集成』第五編第一巻に盛京会文山房蔵版の影印が、波多野太郎氏の解題とともに収録されている。以下、解題からあらすじを引用する。

子弟書「滾楼」

第一回は名門の将(春秋時代の伍員の子)伍辛が戦ひに敗れ蘭家荘に遁れる。蘭太公は伍辛の人柄を見て娘秀英を与へる。伍辛は黄賽花の父兄を殺したこと、黄賽花が彼を追うて殺さうとした過程を秀英に語る。秀英はそれを聞き、義理の姉に当る黄賽花に、伍辛をこれ以上殺させないのみならず、両人で伍辛を相愛しようとする。そこて秀英は病ひを装ひ、黄賽花に見舞に来させる。第二回は秀英は黄賽花を招き寄せ、その喪服を着けて居るわけをわざと聞き、黄賽花が伍辛を美男子とし憎む感情のないのを知り、しびれ薬を入れた酒で酔はせ、伍辛と同室させる。第三回は秀英の閨房の温柔郷、伍辛の目を通して見た黄賽花の酔うたえも言はれぬ美しさの描写、第四回は伍辛と黄賽花との好事の後、伍辛は黄賽花に百歳夫妻を頼む。三人が和睦してめてたしめてたしで幕。 (p.18)

また『霓裳続譜』巻八に収める〔剪靛花〕にいう。

忠告します、飲み過ぎてはいけません、武辛を追いかけた黄賽花、酔った挙げ句に滾過楼。*57 (p.394)

楼閣の名称を数え挙げている、その最後の部分である。楼閣名とは言いがたいが「滾過楼」としていることから、「滾楼」を詠っているとわかる。武辛は伍辛と同音で、また黄賽花と見え、人名は子弟書と同じである。

以上の「滾楼」系演目を比較したのが次ページの表である。

 江西二黄調「滾楼」漢調桄桄「滾楼」西府秦腔「滾豌豆」花部「三英記」山東梆子等「三英闘」子弟書「滾楼」
時代春秋唐徳宗
英雄伍星王士英王士英王士英王士英伍辛
員外金栄張殼浪杜公道竇老将竇九公蘭太公
金氏張金定杜秀英竇桂英竇秀英蘭秀英
女大王黄葵花高金定高金定高蘭英高鸞英黄賽花

主人公を伍辛(星)、女大王を黄氏とするもの、主人公を王士英、女大王を高氏とするものに大別できる。魏長生の活躍時期と近い乾隆六十(1795)年の『霓裳続譜』に見えることから、前者が「滾楼」の系統で、後者は『燕蘭小譜』に見える「三英記」の系統ということになろう。漢調桄桄・西府秦腔などは、本来、後者の系統でありながら、ストーリーがほぼ同じであることから、より知名度の高い「滾楼」の名を冠したのであろう。

西府秦腔『滾豌豆』が、杜秀英が寝室に豌豆をまき散らしておき、目覚めてケンカを始めた王士英と高金定が転げ回るとするなど、それぞれに相違点はあるものの、いずれも、女大王と員外の娘が旧知であり、酒の上で既成事実を作って結婚するという基本的なストーリーは共通している。

粉戯としての羅章故事

前述のように羅章の結婚譚を扱った作品としては、『三皇宝剣』伝奇が最も古いが、その成立は乾隆末から嘉慶初と思われ、魏長生ブームよりも後である。従って、『三皇宝剣』伝奇の羅章の結婚譚は、「滾楼」を取り込んで作られたことになる。

『三皇宝剣』伝奇そのものは京腔の台本である。京腔は、魏長生の秦腔の影響を受けて大いに勢力を弱めたとされるが、実際には秦腔などの要素を取り入れてスタイルを変化させつつ、清末の同治・光緒年間に京劇が最高潮に達するまで、雅部として北京の劇界の一方を担い続けた。『三皇宝剣』伝奇に見える羅章の結婚譚は、魏長生の秦腔が大流行した後、京腔班がその要素を取り込んで「京秦不分」となったことの、劇目における具体例として見ることができよう。

また、こうした操作が可能であったからには、当時、羅章にまつわる物語がほとんど発達していなかったのであろう。前述のように、旧三休樊梨花故事の伝奇・影巻では、羅章は薛仁貴らとともに鎖陽関に籠城しており、薛仁貴と同世代、すなわち秦瓊・尉遅恭ら開国の名将の子供世代として扱われていることになる。その結婚譚が挿入されたのは、『説唐三伝』の影響で彼が開国の名将の孫世代との認識が生まれたためではなかろうか。この点については、羅通掃北故事の形成過程と合わせて、今後、更に検討する必要があろう。

なお、羅章の後日譚として「羅章跪楼」があり、京劇のほか、河北・山東・山西・河南の梆子腔系諸劇のほか、大鼓・二人転などでも演じられている*58。出征から帰った羅章が西楼の李月英のもとに向かったことから、洪月娥は昔の恨みを思い出し、東楼に怒鳴り込む。最終的に羅章が跪いて謝罪し、李月英が取りなしたことで夫婦和解する、といった筋である。

これも、李月英と洪月娥、どちらが羅章と夜を共にするかという争いであり、大鼓では羅章と李月英が同衾するところに洪月娥が乱入し、寝台の下に隠れる羅章を引きずり出すなどしており、粉戯にほかならない。北方の演劇・芸能における羅章の物語には、終始、粉戯の色彩がつきまとっている。

おわりに

粉戯のシチュエーションとしての陣前招親

前にも言及したように、小説『説唐三伝』において、羅章はさして印象に残るような活躍をしていない。『三皇宝剣』伝奇はむしろそれを利用して、魏派の粉戯「滾楼」を彼の結婚譚として取り込んだといえよう。

このことが一面において、羅章の物語を肉付けして西唐故事を発展させたことは事実であるが、しかし、雅部と花部との競争が繰り広げられていた清代中期の北京劇壇の状況に鑑みるに、『三皇宝剣』伝奇の意図はむしろ、観客のニーズがあり集客力が期待できる魏派的な粉戯に対応した演目を増やすことにあったと見るべきである。つまり、羅章の物語においては、家将ものとして世代を繋ぐために陣前招親が導入されたのではなく、逆に粉戯を演ずるために陣前招親の場面が導入されたことになる。旧西唐故事においても、Ⅱで見たように、陣前招親にまつわる場面は「樊梨花送枕」・「爬柳樹」など粉戯的な性格を持っていた。これらについても、舞台における粉戯ニーズに応えるためにそうした場面が導入された可能性を指摘できよう。

ここから、清代中期以降の家将もの隆盛の背景に、舞台における粉戯ニーズがあり、そのシチュエーションとして陣前招親が導入されたことが、名将の子孫の物語が発展する結果をもたらした、との仮説が導き出される。

一般に通俗作品は作者と受容者との共同創作的な性格を有しており、演劇の演目についても、観客のニーズに基づいて製作され、改変される。清代中期の北京には複数の劇場が存在しており、日々、観劇することも可能な状況が生まれていたため、目・耳の肥えた観客層が形成され、俳優の「芸」への要求も高まっていたが、魏派の「色」もそうした「芸」の一種にほかならない。

また、明末清初より演劇上演の主流は、伝奇の通し上演から折子戯上演へと変化し、北京ではやがて「三軸子」制が確立する*59。折子戯は本来、長大な伝奇の一部を抜き出したものを指すが、「滾楼」・「三英記」などは折子戯でありながら本戯を持たない。これは折子戯上演の一般化に伴い、清代中期には、役者の芸を発揮しやすい折子戯サイズの劇が作られるようになっていたことを意味する。『三皇宝剣』伝奇が三休樊梨花故事のサイドストーリーとして構想されたとき、本戯が存在しないからこそ「滾楼」を容易に羅章の物語に換骨奪胎できたのだろう。これもまた、折子戯上演と連台戯上演が併存していた、乾隆・嘉慶時期の演劇状況の反映と見ることができる。

ところで、小説『説唐三伝』の陣前招親にも、やはりエロチックさがつきまとう。以下は、第四十五回の三休樊梨花を経た、薛丁山と樊梨花の新婚初夜の場面である。

その夜、婚儀を終えて幕舎にもどると、衣を脱いで寝台に上がり、梨花の股を大きく開き、王英の鎗をもたげて直ちに轅門に突きかかった。梨花は言った。「あなた、あなたは戦に慣れた好漢、わたくしは初陣の英雄、どうかやさしくしてくださいませ。」丁山は返事をせずに、鎗を突き立てた。梨花が大声で「痛い!」と叫んだので、丁山が鎗を抜き、ねりぎぬで拭ってながめると、真っ赤に染まっていた。そこでようやく彼女を誤解していたと悟り、丁山は言った。「痛いのならば、やめましょう。」梨花は言った。「あなたが私を試していることが、分からないとでも?私はお下がりなどではありませんので、はやく寝ましょう。」丁山はまた寝台に上がると、大いに戦い始めた。梨花は歯を食いしばり、いかに痛くても決して声に出さなかった。この夜、丁山が梨花に優しくかしずき、以前の恨みを解き、一晩中楽しんだことはこれまでとする。*60

薛丁山が樊梨花が処女であることを、かなり露骨に確認している*61。また、第三十九回で矮將・秦漢は、敵の女将・刁月娥との宿縁を遂げるべく、仙人より授けられた迷魂砂を携え、閨房に忍び込む。

(秦漢が)懐から取り出して、そっと月娥の体に払い落とすと、月娥は迷魂砂にあてられ、心を乱され、なかば夢見心地で言った。「おかしいこと。父上のおかげで私の青春はひどいもの、これまではなんとかやってきたけど、今夜は我慢できない、むらむらして収まらない。」すると一人の若者が入ってきたが、真っ白な顔に朱を塗ったような唇、年の頃は十六・七歳ほど、近付くと微笑んで言った。「お嬢さん、私は王禅老祖の弟子の秦漢です。あなたと前世からの緣があり、今夜、会いにきました。どうか、よいことをいたすのをお断りなさいませんよう。」月娥は迷魂砂に心を乱され、まったく考えることができず、半ばいやがりつつも、秦漢に布団の中に抱き入れられ、服を脱がされて存分に楽しんだ。*62

法宝で意識を混迷させて既成事実を作っている。『説唐全伝』でも、第五十三回で尉遅敬徳が黒・白二夫人を白二夫人を陣前で生け捕り、手篭めにしている。

こうした場面が歴史ものの小説に盛り込まれたのは、『水滸伝』の王英と扈三娘の発展形ともいうべき、『封神演義』の土行孫と鄧嬋玉の結婚譚の影響という側面があろう。『封神演義』は明の許仲琳の作だが、康熙年間、褚人獲によって四雪草堂本が刊行されて以降、爆発的に流行したと思われる。『説唐三伝』では、竇一虎・秦漢という道術に長けた矮将が明らかに土行孫の模倣であるし、征西の終盤で闡教と截教の争いが勃発するなど、全般に『封神演義』の影響が顕著であるので、上述のような場面もその影響下に書かれたものであろう。

もっとも、旧西唐故事は『説唐三伝』以前から、戯曲・芸能で三休樊梨花など陣前招親を軸に展開し、姜須ら矮将が活躍する物語であったと思われるので、その形成はむしろ演劇・芸能を取り巻く環境に規定されたことになる。一方で、西唐故事に登場する女将の大半が仙人の弟子で、道術を身につけることで男勝りの力を発揮しているのは、当然、『封神演義』の影響があろう。おそらく、劇場上演が一般化し、『封神演義』故事戯や粉戯なども行われる環境の影響下に旧三休樊梨花故事が形成され、それを再構成して小説『説唐三伝』が作られる過程で、再び『封神演義』が参照されたのであろう。

恋愛のシチュエーションとしての陣前招親

清代の通俗歴史物語における陣前招親は、楊家将故事の楊宗保と穆桂英が一つの典型になっていると思われるが、軍に身を置きながら勝手に妻を娶ることから重大な軍規違反とされ、楊家将故事でも楊延昭が我が子を斬ろうとする、いわゆる「轅門斬子」の場面が直後に続く。

ところが、伝奇・影巻の西唐故事の陣前招親は、ほとんど軍規違反に問われることがない。そればかりか影巻『前鎖陽』では、徐茂公が羅章に二人の女将を連れてくるように命じて送り出しているので、もはや陣前招親が軍事作戦の一環に組み込まれてさえいる。楊家将故事で「轅門斬子」という赦免の手続きを要していた陣前招親は、乾隆末年にはありふれたお約束となり擦り切れてしまっていた。それだけ清代には、陣前招親を含む物語が量産されていたことになる。

ところで、筆者は2010年夏期に遼寧省凌源で皮影戯の調査を行った際、現地の芸人から家将故事は歴史ものであるのと同時に、恋愛ものでもあると聞いたことがある。確かに陣前招親は、戦場で年若い男女が出会い結ばれる話であるから、恋愛ものの一種と呼びうる。そうであるならば陣前招親は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」との『礼記』の教えが徹底された清代以前において、男女をどのように出会わせるかという恋愛物語が常に抱えていた難題に対して、才子佳人とは異なる、戦う男女の恋という解を提供したともいえよう。粉戯も、男女の情事に至るまでを演じているが、多くは恋愛ものである。

ここから、陣前招親というシチュエーションが擦り切れるまで繰り返し用いられた背景として、戦う男女の恋愛物語へのニーズが存在したことが想定できる。一方で、女性将軍は歴史上いくつかの例があるとはいえ、現実にはほぼ存在し得ないファンタジー的な存在であるし、まして、閨房の少女があこがれ自己投影する対象とは考えにくい。恋愛物語としての陣前招親は主に男性によって受容されたと考えるのが妥当である。

そうした男性向けの恋愛物語が作られた場は、やはり劇場だったと思われる。劇場は多くの観客を呼び寄せる必要があったし、戯班も熾烈な競争を勝ち抜くために、観客の受けがよい台本を必要とした。俳優にしても人気レパートリーを得て芸を発揮することがステータスとなり、それが舞台がはねた後の収入にも直結した。かかる商業性の強さは、清初までの文人伝奇や、あるいは廟会上演などと根本的に異なっている。

売れるテーマやシチュエーションが、登場人物や設定をずらしながら徹底して再利用されるのは、現代の商業主義的なサブカルチャーコンテンツでもしばしば目にする光景である。エロスとの親和性の高さも同様である。粉戯や恋愛もののシチュエーションとしての陣前招親は、清代中期の商業主義的サブカルチャーたる演劇文化隆盛の産物としての側面を持ち、家将ものその蓄積の上に盛行したものだといえよう。

今後の課題

戯曲・芸能などで先行して形成された物語を再編・拡充して小説が作られると、今度は戯曲・芸能が小説に取材するようになる。筆者はかつて、社会生活上重要であった観劇のストーリーブックとして章回小説が読まれ得た可能性を論じたことがあるが*63、それも含めて、戯曲・芸能と小説、観客・読者と製作者などは相補的関係にあり、一つのエコシステムを形成していたと考えられる。

小論では西唐故事の樊梨花と姜須、羅章らを扱った戯曲等への検討を通じて、清代中期の演劇状況が物語の形成に与えた影響を考察した結果、舞台における粉戯や陣前招親へのニーズが家将ものの発展・盛行を促したとの仮説を得た。むろん、これは清代中期の演劇文化の一側面を切り取った結果に過ぎない。京劇など伝統劇の芸は、一般に唱(歌)、做(しぐさ)、念(セリフ)、打(立ち回り)の四種に分けられ、役まわりにも生・旦・浄・丑があり、それぞれに聞きどころ・見どころがある。『三皇宝剣』伝奇を見ても、羅章の粉戯のほか、老旦・樊金定の唱を聴かせる「罵城」齣があり、打を見せる殺四門の場面がある。従って、物語の形成に演劇文化が与えた影響は、旦を主役とする粉戯のみならず、さまざまな役まわりの芸に即して検討する必要がある。『説唐』系列小説の影響についても、清代後期以降の台本資料に基づいて、検討する必要があろう。

そのような研究を通じて、清代における通俗文芸――サブカルチャーのエコシステムのあり方をより明確に描き出すことを、今後の課題として掲げておきたい。

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「中国古典戯曲の「本色」と「通俗」~明清代における上演向け伝奇の総合的研究」(平成29~令和2年度、基盤研究(B)、課題番号:17H02327、研究代表者:千田大介)による成果の一部である。

参考文献

戯曲・説唱・小説テキスト

  • 『三皇宝剣』[清]無名氏、中国芸術研究院図書館所蔵清抄本
  • 『西唐伝』[清]無名氏
  •  頭段・二段・五~七段・九段:中国国家図書館編『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』(中華書局、2011年)所収本
  •  四段:故宮博物院編『故宮博物院蔵清宮南府昇平署戯本』(紫禁城出版社、2015年)所収本
  • 『前鎖陽』[清]無名氏、『俗文学叢刊』所収本
  • 『鎖陽関』[清]無名氏、中国都市芸能研究会所蔵、郭永山旧蔵抄本
  • 『説唐全伝』[清]鴦湖漁叟、上海古籍出版社『古本小説集成』所収上海古籍出版社所蔵乾隆四十八年観文書屋刊本(題『重刻繍像説唐演義全伝』)
  • 『説唐三伝』[清]如蓮居士、上海古籍出版社『古本小説集成』所収華東師範大学図書館所蔵経文堂刊本(題『異説後唐傳三集薛丁山征西樊梨花全傳』)
  • 『燕影劇』ウィルヘルム・グルーベ、エーミール・クレープス編、兗州府天主教印書局、1915年
  • 『清蒙古車王府藏曲本』北京古籍出版社、1991年
  • 『俗文学叢刊』中央研究院歴史語言研究所俗文学叢刊編輯小組、中央研究院歴史語言研究所・新文豊出版有限公司、2001-2016年
  • 『秦英征西』郝艶霞・王潤生、黒竜江朝鮮民族出版社、1988年

伝統文献

  • 『都公譚纂』[明]都穆、北京大学図書館所蔵抄本
  • 『世宗憲皇帝上諭内閣』[清]允祿、『文淵閣四庫全書』本
  • 『御製詩四集』[清]高宗、『文淵閣四庫全書』本
  • 『消夏閑記摘抄』[清]顧公燮、『涵芬楼秘笈』第二集(商務印書館、1924年)所収本
  • 『忠雅堂詩集』[清]蔣士銓、『続修四庫全書』所収影印稿本
  • 『燕蘭小譜』[清]安楽山樵、張次渓編纂『清代燕都梨園史料』(中国戯劇出版社、1988年影印本)所収本
  • 『消寒新詠』[清]鉄橋山人、周育徳校刊、中国老年文物研究学会・中国戯曲芸術中心編纂1986年排印本
  • 『霓裳続譜』[清]王廷紹編、『明清民歌時調集』(上海古籍出版社、1986年)所収本
  • 『花部農譚』[清]焦循、『中国古典戯曲論著集成』(中国戯劇出版社、1960年)所収本
  • 『里堂詩集』[清]焦循、劉建臻整理『焦循全集』(広陵書社、2016年)所収本
  • 『揚州画舫録』[清]李斗、汪北平・涂雨公点校、中華書局、1980年
  • 『嘯亭雑録』[清]昭、何英芳點校、中華書局、1980年
  • 『辛壬癸甲録』[清]蕊珠旧史、張次渓編纂『清代燕都梨園史料』(中国戯劇出版社、1988年影印本)所収本
  • 『夢華瑣簿』[清]蕊珠旧史、張次渓編纂『清代燕都梨園史料』(中国戯劇出版社、1988年影印本)所収本
  • 『北平梨園竹枝詞薈編』張次渓、『清代燕都梨園史料』(中国戯劇出版社、1988年影印本)所収本
  • 『欽定台規』[清]延煦、ハーバード燕京研究所所蔵光緖刊本
  • 『清稗類鈔』[清]徐珂、中華書局、2010年
  • 『中国文学語学資料集成』第5篇、波多野太郎編、不二出版1990年復刻版

工具書

  • 『蒲州梆子劇目辞典』杜波・行楽賢・李恩沢、宝文堂書店1989年
  • 『京劇劇目辞典』曾白融主編、中国戯劇出版社1989年
  • 『中国梆子戯劇目大辞典』山西省戯劇研究所・陝西省芸術研究所・河北省芸術研究所・河南省戲劇研究所・山東省芸術研究所合編、山西人民出版社1991年
  • 『中国戯曲志・遼寧巻』中国戯曲志編纂委員会・『中国戯曲志・遼寧巻』編纂委員会、中国ISBN出版中心、1994年

日本語文献

  • 青木正児 『支那近世戯曲史』弘文堂書房、1967年新装版
  • 羅信耀著、藤井省三・佐藤豊・宮尾正樹・坂井洋史訳『北京風俗大全――城壁と胡同の市民生活誌』平凡社、1988年
  • 千田大介
    • 1998「乾隆期の観劇と小説~歴史物語の受容に関する試論~」、『中國文學研究』第二十四期
    • 2019「北京皮影戯西唐故事考――「大罵城」と『三皇宝剣』伝奇を軸に――」、『中国都市芸能研究』第17輯

中国語論著

  • 崔栄華 2004 〈明清社会“男风”盛行的历史透视〉、《河北学刊》第24卷第3期
  • 戴和冰 2009 〈清代乾隆时期京腔消歇及秦腔色情戏兴盛原因述论〉,《文化艺术研究》第2卷第2期
  • 谷剣東 1989 〈江西二黄调《滚楼》及其它〉、《戏曲艺术》1989年02期
  • 金登才 2014 《清代花部戏研究》,中華書局
  • 陸萼庭 2006 《昆剧演出史稿》,上海教育出版社
  • 呉存存 2017 《戲外之戲: 清中晚期京城的戲園文化與梨園私寓制》,香港大学出版社
  • 呉新苗 2017 《梨园私寓考伦》,学苑出版社

*1 班中崑弋兩嗟嗟,新到秦腔粉戲多。
*2 京腔以次銷歇。(『辛壬癸甲録』p.280)
*3 昔在雙慶部,以《滾樓》一齣奔走,豪兒士大夫亦為心醉。其他雜劇子胄無非科諢、誨淫之狀,使京腔舊本置之高閣。一時歌樓,觀者如堵。而六大班幾無人過問,或至散去。……壬寅秋,奉禁入班,其風始息。
*4 魏長生,四川金堂人。行三,秦腔之花旦也。甲午夏入都,年已逾三旬外。時京中盛行弋腔,諸士大夫厭其囂雜,殊乏聲色之娛,長生因之變為秦腔。辭雖鄙猥,然其繁音促節,嗚嗚動人,兼之演諸淫褻之狀,皆人所罕見者,故名動京師。
*5 蜀中伶人魏三兒者,善效婦人粧,名滿於京師。
*6 自西蜀魏三兒倡為淫哇鄙謔之詞,市井中如樊八、郝天秀之輩,轉相效法,染及鄉隅。近年漸反於舊。
*7 迨乙未至都,見其《鐵蓮花》始心折焉。庚申冬復至,頻見其《香聯串》,小技也,而進乎道矣。其志愈高,其心愈苦;其自律愈嚴,其愛名之念愈篤。故聲容如舊,風韻彌佳。演武技氣力十倍。
*8 p.708。
*9 余乍見京腔演戲,生旦諢謔摟抱親嘴,以博時好。更可恨者,每以小丑配小旦,混鬧一場,而觀者好聲接連不斷。
*10 白二(永慶部),大興人,原係旗籍,旦中之天然秀也。昔在王府大部,與八達子、天保兒擅一時盛譽。……常演《潘金蓮葡萄架》,甚是嬌媚,自魏三《滾樓》一出,此劇不演。
*11 蘇子裕2015、p.351参照。
*12 王德官,宜慶部小旦。……見德官演《巧配》一出……。第當歛衽香閨,含情繡閣,笑蓉帳裡,鴛鴦枕邊,兩情相透亦已足矣。何必袒裼裸裎,露瑞雪於胸中,蹴金蓮於帳外,始為逼真?與慶和部小旦,余亦不必道其名,演《狐貍偷情》一出,場上預設紗幕,至其中以錦衾覆半體,假出玉筍,雙峰矗然特立。而臺下「好」聲,接連不迭。
*13 金登才2014、p.47参照。
*14 『夢華瑣簿』p.356。
*15 京腔本以宜慶、萃慶、集慶爲上。自四川魏長生以秦腔入京師。色藝葢于宜慶、萃慶、集慶之上。于是京腔效之。京秦不分。
*16 吳優有為南戲於京師者,門達錦衣奏其以男裝女,惑亂風俗。
*17 『世宗憲皇帝上諭内閣』巻五十六第四十七葉参照。
*18 「乾隆無一女樂」(『御製詩四集』巻四十四第七葉)。
*19 凡唱秧歌婦女及墮民婆,令五城司坊等官,盡行驅逐回籍,毋令潛往京城。
*20 京師內城,不許開設戲館,永行禁止。城外戲館,如有惡棍借端生事,該司坊官查拿。
*21 顧公燮『消夏閑記摘抄』巻下第二十葉「郭園始創戯館」。
*22 三面起樓下覆廊,廣庭十丈臺中央。魚鱗作瓦蔽日光,長筵界畫分畛疆。……臺中奏技出優孟,座上擊碟催壺觴。淫哇一歌眾耳側,狎昵雜陳群目張。
*23 呉新苗2017、p.29参照。
*24 『清稗類鈔』p.5065。
*25 『嘯亭雑録』巻八「魏長生」p.238参照。
*26 朝為俳優暮狎客。
*27 笑伴官人花底宿。
*28 范存存2017第二章「清代徽班的私寓、戲班、戲院及其運作方法」参照。
*29 その背景として、明代中期に始まる士大夫の恋童の風が指摘されている。崔栄華2004参照。
*30 三壽官(雙慶部),姓張氏,字南如,陝西長安人。奇葩逸麗,娟娟如十七、八女郎,令人心艷。惜無歌喉,只演《樊梨花送枕》,摹寫情態而已,余戲以『啞旦』目之。
復陶翠被出軍門,街鼓春寒夜帳溫。捧枕無言情脈脈,一枝紅艷美人魂。息國風流只自傷,桃花人面媚君王。兒家會得無聲樂,啞趣傳神許擅長。

*31 郡城自江鶴亭徵本地亂彈,名春臺,為外江班,不能自立門戶,乃徵聘四方名旦。如蘇州楊八官、安慶郝天秀之類。而楊、郝復採長生之秦腔,並京腔中之尤者,如《滾樓》、《抱孩子》、《賣餑餑》、《送枕頭》之類,于是春臺班合京秦二腔矣。
*32 『清蒙古車王府蔵曲本』第294函、『俗文学創刊』第346冊。
*33 以下、引用は『俗文学叢刊』所収本による。
*34 且自說丁山求救把寒江下
醜姜須相隨為伴住軍門
樊梨花因薛小將軍心似醉
兩葉眉幾度顰成一脈春
羞從玉鏡窺花面
每向花陰憶主人
臨風對月彈情淚
繡幕珠簾鎖俏魂
思公子情事不堪芳心已透
玉人兒尋思待月去覓行雲

*35 難自持低向情人偎偎杏臉
捧定了公子的雙腮送櫻唇
纔要向玉郎項下推鴛枕
煖溶溶這作怪的東西濕了繡裙

*36 千田大介2019、p.142参照。
*37 千田大介2019 p.147参照。
*38 千田大介2019 pp.109-110参照。
*39 聽吾吩咐,把你薛姑爺,請到東書房,大燭三支,狀元紅酒三斤,將姜須領到西書房,小燭兩支,白乾酒半斤。(喳)單等一更以後,一送枕頭為名便了。
*40 有姜須放下壺心內着忙
忽聽的咳嗽聲必是嫂嫂
他進來見了吾必是臉黃
出不去站不住只可怎好
(哦哦有了)
吾何不且在這床下貓藏
身一側忙貓在竹床以下

*41 薛丁山忘了床下有姜須
急忙跟着梨花去
〔旦白〕(快來罷,小爺爺呀!)
夫妻成就比目魚
二人上床蘭交鳳
好比那牛郎織女會佳期
顛蘭倒鳳一會過

*42 元北京皮影劇団の劉季霖氏によると、以前、オッフェンバッファのドイツ皮革博物館から、所蔵される裸体の西門慶・李瓶児の影人について問い合わせを受け、故宮博物院の朱家溍氏に照会したところ、清代、皇帝と后妃が閨房で宦官に扇情的な皮影戯を演じさたという伝承があるのでそれではないか、との回答を得たそうである。これは特殊な例であり、北京・冀東皮影戯には、一般に裸体の影人は存在しない。
*43 千田大介2019 p.95参照。
*44 我見我嫂子那兩支眼,軍卒一打一樸咚。二打二樸咚。我看那樣子,必是心疼。又叫我去到鎖陽,請羅章夫妻前來破路陣。來回日期不定。我不免到我嫂子帳房以外,聽聽他必打後悔賬呢,走,聽聽去。
*45 因為思舊恨 一怒斷恩情
奴范梨花,方纔把人打了四十槓子,奴好悔也。

*46 梨花邁步進帳來
叫聲將軍奴賠罪
恕奴打你太無知
那是敲山與振虎
軍不斬來將不齊
我看看打的輕與重
咳 可恨軍卒們打的實
那時打你我不忍
軍令一下悔不及
你惱我不哇,問著直是個不言語
將軍你是怎兒的
實打實的惱了我
也不看看猛兒小子
拽著望你懷裡勾
孩子他爹爹莫著急
看看猛兒望你笑
小子 你爹爹把咱娘們惱了個急(哭)

*47 我對著這丫頭的小腳兒,望下一跳。他那小金蓮、那架的住我老姜這大腳一踏呢。若是跳上了他,必是疼個難受。趁此機會,將他獲住,我老姜可就得了活命了。
*48 著打」
打的渾身難以受
杏眼之中淚淋漓
叫聲唐將慢動手
奴有一言說個知」
有話快說」
你本是頂天立地男子漢
為什麼與我女孩一般見識
高抬貴手饒了我
一生一世感你恩濟
天地神佛加護你
你修個七個兒子八個閨女」
你們老爺還沒有媳婦呢
姜須接言插上嘴
我有話兒向你提」
只要你大發慈悲饒了我
你說怎的就怎的」
我姜須今年二十七歲
要不咱二人配對夫妻」
看看你那嘴巴骨
這個模樣令人噎」
若不應允活打死
挖了眼睛剝你的皮
著打」
別打了將軍呀」
叫二哥哥」
可罷了我了
開言又把將軍叫
等著奴家細尋思
從與不從你快說罷
老姜生來性子是恨急
咳天哪 這也是命中造定該如此
認著一個造化低
從下罷」
姜須聽著笑嘻嘻

*49 凡花部腳色,以旦、丑、跳蟲為重。(p.132)
*50 『三皇宝剣』伝奇については千田大介2019参照。
*51 千田大介2019 pp.131-134参照。
*52 千田大介2019 p.145参照。
*53 本剧含〈罗章跪楼〉一折,以喜剧取胜。但旧时演出有色情表演。
*54 千田大介2019 p.144参照。
*55 千田大介2019 pp.140・147参照。
*56 劉鳳官(萃慶部),名德輝,字桐花,湖南郴州人。豐姿秀朗,意態纏綿,歌喉宛如雛鳳,自幼馳聲兩粤。癸卯冬,自粤西入京,一出歌臺,即時名重,所謂:『飛上九天歌一聲,二十五郎吹管逐』,如見念奴梨園獨步時也。都下翕然以魏婉卿下一人相推,洵非虛譽。是日演《三英記》,無淫濫氣象,惜關目稍疏……(嘗見演《三英記》,乃唐將王士英敗至竇莊,竇老將女桂英與成親。後女寇高蘭英追至,桂英計醉以酒,為之撮合。今鳳官扮桂英,未成親而先使二人諧好,是黃花女作媒矣。)
*57 奉勧人。莫貪杯。追趕武辛的黄賽花。她可酔後滾過楼。
*58 『京劇劇目辞典』p.422、『中国梆子戯劇目大辞典』p.214参照。大鼓については、早稲田大学図書館風陵文庫に北京学古堂排印本が、東大東洋文化研究所雙紅堂文庫に北平中華印刷局排印本が収蔵され、それぞれの字句は一致する。二人転については『中国戯曲志・遼寧巻』p.88参照。
*59 陸萼庭2006「第四章 折子戯的光芒」、呉新苗2017 p.98参照。
*60 其夜成了親,歸到營房,收衣寬帶上床,將梨花兩腿扳開,舉起王英槍直闖轅門。梨花說:「冤家,你久戰沙場好漢,奴未經身英雄,要緩緩而戰。」丁山不應,一槍直進。梨花大叫:「好痛殺我也!」丁山拔出槍,將白綾拭好,拿來一看,多是元紅,方信我不是錯怪了他,丁山說:「小姐怕痛,免了罷。」梨花說:「冤家今來試我,我豈不知。但我不是敗柳殘花,快些睡了罷!」丁山依舊上床,摟住大戰起來。梨花咬住牙根,痛死也不作聲了。此夜丁山極其溫存奉承梨花,消改前恨,一夜歡娛這也不表。
*61 管見の限りでは,中国や台湾で刊行されている排印本は、いずれもこのシーンをカットしている。
*62 身邊取出,輕輕彈在月娥身上,只見月娥著了迷魂砂,亂了性,似夢非夢,說道:「好笑,我家爹爹誤我青春,我一向也過了,今夜好不耐煩,欲火摠摠不下。」只見來了一位郎君,面如粉團,唇若涂硃,只好十六七歲,走近前來,迷迷含笑說:「小姐,我是王禪老祖徒弟秦漢,與你有宿世姻緣。今夜前來會你,望小姐不要推卻,成就好事。」小姐被迷魂砂亂了性,并無主意,半推半就,被秦漢抱入床中,解帶寬衣,樂了許多好處。
*63 千田大介1998参照。