『都市芸研』第十二輯/皮影戯上演と即興性

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皮影戯上演と即興性――皖南大影からの展望

千田 大介

はじめに

現代中国の伝統演劇研究において、皮影戯は一種独特な位置にある。それが端的に表れているのが、現代中国の伝統演劇・芸能研究の記念碑的全集である『中国戯曲志』・『中国曲芸志』がいずれも皮影戯を扱っていない点である。伝統演劇研究から見れば、人形を使って演じる皮影戯は演劇とは異なる存在に映るのであろうし、曲芸、すなわち説唱芸能から見ても、視覚表現を伴い登場人物が演じ分けられる皮影戯は異質な存在であるようだ。その影響からか、中国の皮影戯研究は伝統演劇などの隣接領域に比べていささか立ち後れた状況にある。近年、無形文化遺産への登録を受けて、ようやく研究が活性化しつつあるが、しかしそれらの研究は、ともすると皮影戯という枠組みの中での比較や検討に終始しており、他の伝統演劇や芸能との影響関係や社会的機能の相違に踏み込んだものは少ない。

かかる観点にたち、筆者は皮影戯の研究を進めており、近年は科研費による共同研究を通じて安徽省宣城市の皮影戯について現地調査を実施するとともに、その成果を論考にまとめてきた(千田2013など)。それらを通じて、宣城市では皖南大影・広徳皮影の二種の皮影戯が現在行われていること、いずれも太平天国後の移民によってもたらされたもので、前者が湖北雲夢、後者が河南信陽に発祥すること、さらには皖南大影が、一定の歌詞のパターンを覚えて、劇中のシチュエーションに応じて即興的に歌う「紀字頭」というシステムを持つことをあきらかにしてきた。

本稿は、こうした従来の成果の上に立ち、皖南大影および皮影戯・伝統演劇の即興性や社会的機能などについて、紀字頭を端緒として概観的に考察したものである。

1.紀字頭と伝統劇台本の定型性

紀字頭

皖南大影の劇団は4~5人で構成され、そのうち1人の主唱がスクリーン裏で影人を操作しながら歌唱し、福唱がそれを補助する。2人が打楽器伴奏を担当する。基本的に主唱が声色を使い分けてあらゆる役まわりを演じ分けることになるが、これは冀東系皮影戯や北京西派皮影戯を除く全国の大半の皮影戯に共通した特徴である。

皖南大影の台本や歌詞・科白のシステムは、一種独特である。

  • ――あなた方は演ずるとき、台本を見ながら歌うのか、それとも何も見ずに暗記して歌うのか。
  • 答:大人物や正義の人物、たとえば都の朝廷の大官や皇帝・大臣・大将の歌詞はみな決まりがあり、固定の歌詞で、いずれも師匠から教わったものだ。小人物・兵士・道化などはその場で表現する。
  • ――何氏は多くの台本を持っているが、ああいった台本はいつ見るのか。リハーサルのときに見るのか、それとも上演の前に見るのか。
  • 答:台本は小説から書き写したもので、小説は字が小さすぎるので、たとえば『三国』であれば、『三国』のもとの小説を持ってきて、毛筆で大きな字で写して机の上に置いて読みやすくする。しかし、一字一字をもれなく写すのではなく、簡単に、ただあらすじだけを抜き書きする。
  • ――この台本、あるいは台本の歌詞は、弟子入りして皮影戯を習うときに暗記するのか。
  • 答:皇帝・大臣といった大人物にはみな固定の歌詞があり、師匠から固定のパターンを学ぶ。これを「紀字頭」という。大人物ごとに固定の紀字頭がある。
    (2011年8月8日午前、陳景華)*1

皖南大影の台本は、歌詞や科白を逐一記載したものではなく、小説などの物語の梗概を抄写した手控えに過ぎない。芸人はそれに基づき、暗記している固定のパターンである紀字頭を取捨選択し、半ば即興で歌詞を組み上げ歌唱する。

皖南大影は、太平天国後の移民によってもたらされた湖北省雲夢一帯の皮影戯に起源するが、この紀字頭のシステムも雲夢皮影戯と共通している。

伝統雲夢影戯には完全な台本がなく、あるのは各演目の梗概を書いたもので、芸人たちはこの種の台本を「水路子」と呼んでいる。これと対応する「肉本子」は各種歴史演義小説のことで、芸人がこの種の小説を読む目的は、読んだ後にそのなかの人物の物語や筋立てを皮影戯台本に改変することにある。*2

雲夢皮影戯は大別山を隔てた北側、河南省信陽一帯で行われる豫南皮影戯と極めて近しい関係にある。この豫南皮影戯も皖南大影・雲夢皮影戯とほぼ同様の即興的な上演システムを採っているが、台本が「戯路子」と呼ばれ、唱に長短句的要素が入るといった相違も見られる*3

皖南皮影戯に関する我々の調査では、期間の制約もあり、紀字頭の詳細までを具体的に聞き取ることができなかったが、李恵2011・卜亜麗2011などによれば、雲夢皮影戯・豫南皮影戯では、まず人物が登場した際にその地位や身分に応じて一定の、楔子あるいは偈子などと呼ばれる、対句あるいは詩句を朗唱す

*4。歌唱については、句式や押韻、常用される対偶表現などを覚えて、即興で考えることになるが、特定の人物や場面に合わせた特定の歌詞も存在する*5。継承関係などから見て、皖南大影についてもほぼ同じ方式であると考えて問題なかろう。

かかる上演方式は、豫南・雲夢一帯に起源する皮影戯の特色といえる。全国の皮影戯のうち、唐山皮影戯などの冀東系皮影戯は「翻書影」と呼ばれ、スクリーンの裏で台本を見ながら歌唱する。一方、北京西派皮影戯や山西・陝西など北方各地の皮影戯では、台本を暗記して歌唱するのが一般的である。

板腔体と定型表現

かかる即興的な上演方式は、ただちに京劇などの板腔体伝統演劇の歌詞を想起させる。

京劇では、叙情的な歌唱と叙事的な歌唱とで、歌詞の構成が大きく異なっている。叙情的な歌詞では類型的比喩表現が多用される。例えば、『四郎探母』「坐宮」冒頭の西皮慢板には以下のような歌詞が見える。

我好比籠中鳥有翅難展,
我好比浅水竜被困沙灘。
我好比弾打雁失群飛散,
我好比離山虎落在平川。 (楊宝森上演本)

これに対して『文昭関』には以下のような歌詞がある。

俺好比哀哀長空雁,
俺好比竜遊在浅沙灘。
俺好比魚児吞了鉤線,
俺好比波浪中失舵的舟船。 (『京劇叢刊』本)

これらと類似する表現は、多くの劇中に見られる。

『独木関』

張志竜  竜如沙灘爪方下,
何宗憲  虎落平陽被犬拿。 (『戯考大全』本)

『戦太平』

朱文遜  竜臥沙灘難翻爪,
花雲   虎落平陽怎脱逃。 (『京劇叢刊』本)

このように、ある程度定型化された比喩表現が、多くの劇目の歌詞で共通して使われている。創作性を重んずる近代的な視点からは、類型的で独創性に乏しいと低く評価されるかも知れないが、しかし、上演者・観客ともに識字率が高くなかった前近代の中国においては、かかる類型的表現に頼らなければ、叙情的な表現そのものが困難であったと考えられる。

そして、そうした類型的表現が骨身に染みついた俳優であれば、即興的に句を増やすことすらも可能であった。例えば、道光年間に活躍し三鼎甲に数えられた名優・余三勝は、登場予定の俳優の到着が遅れたため、『四郎探母』冒頭の歌詞に即興で数十句を追加し、俳優が登場するまで場を持たせたという*6

京劇の叙事的な歌詞は、物語によって相違してくるが、しかし同じ物語シリーズの個々の折子戯で似たような歌詞が歌われる例は数多い。例えば楊家将故事の劇では、以下のような共通の表現が見られる。

『双龍会』

大郎替朕喪了命,
孤封他神位平帝君。
二郎他在剣下死,
封他花化太歳神。
三郎馬踹如泥漿,
封他竜華会上第一尊。
四郎八順無音信,
在生封官死後封神。 (『戯考大全』本)

『李陵碑』

我的大郎児吓,替宋王,把忠尽了,
二郎児,短剣下,命赴陰曹。
楊三郎,被馬踏,尸首難找,
四八郎,在番邦,無有下梢。
五郎児,在五台,修真学道,
七郎児,被潘洪,箭射芭蕉。
只剩下,六郎児,東征西剿, (『戯考大全』本)

『四郎探母』

我大哥替宋王長槍命染,
我二哥短劍下命染黃泉。
我三哥被馬踏尸骨泥爛,
我五弟棄紅塵悟道深山。 (同前)

このように、同じ事件の描写には比較的似た表現が繰り返し用いられ、同じ劇や一連の物語の中で表現は定型化することになる。

歌詞が定型的表現を多用するのは京劇にとどまらず、梆子腔系諸劇にもしばしば見られるので、板腔体伝統演劇の特色であるということも出来よう。さらに詩讚体の説唱にまで広げてもよい。皖南大影や雲夢皮影戯・豫南皮影戯の即興的な上演方式は、かかる伝統劇・伝統芸能における歌詞の定型性という特徴をうまくシステム化したものであるといえよう。

2.即興性と伝統演劇の音楽

皖南大影の伴奏

余三勝が即興で歌唱を引き延ばしたエピソードが美談として伝えられているのは、しかし逆に京劇において歌詞の即興的な追加に一定の困難があったことを示している。その理由として考えられるのが伴奏の問題である。京劇では、京胡はじめ月琴・京二胡などの旋律楽器と打楽器の伴奏が付くので、即興的な引き延ばしは楽隊の足並みを乱れさせ、上演をぶちこわしにする危険性を伴っている。

しかるに皖南大影や雲夢皮影戯・豫南皮影戯では、伴奏は打楽器のみで旋律楽器は用いないので、即興で歌われたとしても、歌詞の声調や音韻によって生ずる旋律の変化に影響されることがない。旋律楽器の伴奏が付かない、すなわち徒歌であることが、それら皮影戯において紀字頭による歌詞の即興を可能にしている、重要な要件であるといえよう。

筆者がこれまでに調査してきた、北京西派・冀東系・山陝・海寧などの皮影戯はいずれも各地方の伝統演劇の声腔を取り入れており、歌唱に旋律楽器の伴奏がつく。楽隊の人数は地域によって差異があるが、3~5人程度で構成されるので、事前に音楽が決定していなければアンサンブルを整えるのは難しいだろう。

前稿で考察したように、皖南大影の声腔は、湖北系の花鼓戯の声腔である打羅腔を取り入れている。湖北の花鼓戯、および太平天国後の移民によって湖北から伝わった皖南花鼓戯は、旧時、打楽器の伴奏のみで、「一唱衆和」の幇腔を用いていたが、中華人民共和国成立後の改革を経て歌唱に管弦楽器の伴奏が付され、幇腔が廃止されている。皖南大影では1960年代初頭に花鼓戯の演目が取り入れられ、それらの演目には胡弓の伴奏が付くが、これは改革後の花鼓戯を導入した結果である。

このようにしてみると、紀字頭による即興的な上演システムは、声腔とともに花鼓戯から移植されたかのように見える。しかし、豫南皮影戯では打羅腔が歌われておらず、しかもその声腔には前述のように長短句的要素が見られる。中国の皮影戯には、現地で行われる伝統劇から声腔を移植する例が多く見られることを考えれば、紀字頭はもとより豫南皮影戯・雲夢皮影戯に共通する特色であり、後者が後に打羅腔を導入して声腔を変えたと見るのが妥当であろう。

徒歌と弋陽腔

人が演じる伝統劇では、崑曲・京劇などの代表的劇種で歌唱に伴奏がつくため、そうしたスタイルが一般的であるかのように思えるが、演劇史および全国の地方劇を概観すれば、そちらの方がむしろ新しいことが知れる。

明代に盛行した南戯には余姚・海塩・崑山・弋陽の四大声腔が存在したが、これらは本来いずれも旋律楽器の伴奏を用いず、人々が唱和する幇腔を用いていた。四大南戯は明末になると、魏良輔の改良を経て知識層の間に大流行した崑曲と、より通俗的な弋陽腔およびその流れを汲む諸声腔とに集約されていく。崑曲が笛子などの旋律楽器の伴奏を導入したのに対して、弋陽腔系諸腔は徒歌・幇腔というスタイルを維持しつつさらに滾調を用いるようになり、清代にかけて四大声腔の1つである高腔へと発展していく*7。その流れを汲む川劇の高腔などは、現在でも徒歌・幇腔・滾調というスタイルを保持している。徒歌・幇腔・滾調という特色は、豫南皮影戯・雲夢皮影戯などとも共通するものであり、それら皮影戯が弋陽腔系伝統演劇の影響を受けた可能性を窺わせる。

その傍証となるのが祖師爺である。皖南大影の祖師爺は「杭州鉄板橋鼓板仙師」であるとされるが、この鼓板仙師とは、田公元帥の脇侍である敲板郎君のことであると考えられる*8。田公元帥は田都元帥・楽王とも呼ばれる。唐玄宗の梨園の楽工であった雷海青のことであるとされ、現在でも弋陽腔・青陽腔系の多くの劇種が杭州鉄板橋の田公元帥を祖師爺とするとともに、開音童子と敲板郎君を配祀している*9。豫南でも桐柏などでは楽王が奉じられており*10、これは皖南に伝播する以前の豫南・雲夢一帯の皮影戯に共通する特色であったと考えられ、それらが弋陽腔系演劇の影響を受けた痕跡を留めるものと理解できよう。

宣城での現地調査を通じて入手した「雲夢皮影戯国家級非物質文化遺産登録申請書類」には以下のように見える。

皮影の唱腔。雲夢皮影は西郷高腔に属し、音調は高らかで、音を伸ばすところでは多く裏声に繋げる。清代中葉に江西移民がもたらした(ママ)陽腔の影響により成立した。高腔は1人が歌って一同が和するもので、管弦を用いず、銅鑼・太鼓などの打楽器の伴奏だけを使うので“打鑼腔”とも称する。初期の雲夢皮影戯は4~5人の劇団で、スクリーンよりで歌い人形操作をするのは1人だけで、奥では鑼・鼓・梆を3~4人が叩く。*11

打羅腔が花鼓戯に起源することに言及しないといった問題があり、信憑性には若干の疑問が残る。しかし一般に皮影芸人は自らの起源をより古く言う傾向があることを考えれば、清代中葉に江西移民がもたらしたとの記載はかなり控えめであり、ある程度は信用することが出来よう。

前述のように雲夢皮影戯と同系の豫南皮影戯に長短句的要素が見られ聯曲体的であること、祖師爺が弋陽腔系演劇と同じであることなどと総合すれば、それらの皮影戯が、高腔の影響を強く受けているのは確実であろう。ともなれば紀字頭という方式は、弋陽腔系演劇で用いられる、長短句の曲牌の途中に斉言の歌詞を挟み込む歌唱方式である、滾調に淵源する可能性がある。もっとも、弋陽腔系演劇は南戯系の台本をベースとしている点で、全ての科白・歌詞を即興的に作りあげる紀字頭との隔絶も大きく、現時点で両者を直接に結びつけることは難しい。

板腔体演劇と伴奏

前に紀字頭は、板腔体演劇歌詞の定型性をうまく利用したシステムであると指摘した。ここから逆に、むしろ板腔体演劇そのものが、当初、そうした即興的な性質を伴っていた可能性が浮上する。

梆子腔と皮黄腔は板腔体を代表する声腔だが、皮黄のうち二黄調は明末の『鉢中蓮』伝奇に見える「西秦腔二犯」の「二犯」が継承される課程で訛ったものであるとの説が有力であり、秦腔≒梆子腔であるので、両者は同根であるといえる。

しかし、初期の梆子腔と皮黄腔については資料が乏しく、伴奏などに言及するものは乾隆50(1785)年刊の『燕蘭小譜』にまで下る。

四川の俳優があらたに琴腔をはじめたが、それは甘粛の調べで、西秦腔という。楽器に笙・笛を用いず、胡弓が主で、月琴を添える。旋律はアーウーと話すかのようで、旦の喉の劣るものは、しばしばそれに借りて下手であるのを隠している。*12 (巻五)

ここでいう「琴腔」とは、乾隆年間に四川から魏長生がもたらし、北京で一世を風靡した秦腔を指すと思われる。

ここで「笙・笛を用いず、胡弓が主で、月琴を添える」としているのは、崑曲の旋律楽器である笙・笛を胡弓に置き換えていることを示すし、「旦の喉の劣るものは、しばしばそれに借りて下手であるのを隠」すからには、歌唱に演奏が重なっていたことになる。ここから、清代中期に北京で行われた秦腔は、現在の梆子腔系諸劇と同様、歌唱に胡弓系楽器の伴奏を伴っていたことがわかる。

しかし、梆子腔は明末に流行が始まったとされており、やや時代の下る『燕蘭小譜』の記載をもって、それが当初から伴奏を伴っていた証拠とすることはできない。梆子腔は康熙年間の北京で既に行われていたことを考えれば、むしろ魏長生の秦腔が伴奏を伴う点で旧来の梆子腔と相違していた、それが新奇であったので『燕蘭小譜』の記載が生まれた、とも考えられ る*13

陝西省南部の漢中盆地の洋県で行われている皮影戯では、皮影腔と呼ばれる声腔が歌われており、2005年春に現地を踏査した際、皮影芸人はそれが陝西の他のいずれの皮影戯とも異なる由来不明のものであるとしていた。しかしその声腔は、実際には漢中地方の地方劇、漢調桄桄にほかならない。*14

漢中地方では中華民国時期に易俗社の改良秦腔がもたらされてより、漢調桄桄は衰退の一途をたどっている。現在、漢中ではもっぱら秦腔が受容されており、漢調桄桄はほとんど途絶えている状況であり、そのために昨今の皮影芸人は人の演ずる漢調桄桄を耳にしたことがなく、しかも以前のこうした知見を受け継いでいないため、自らの皮影戯の声腔が分からなくなっているのであろう。

洋県の漢調桄桄皮影戯の上演を見学したところでは、過門(前奏・間奏・後奏)には板胡などの弦楽の演奏が用いられるが、歌唱している時には打楽器の伴奏しか付かない、すなわち徒歌であった。漢調桄桄は関中より伝播した秦腔の古い形であるとされる。その年代については明の万暦年間との伝承があるというが、李自成の乱の影響などを考慮すれば、清初であった蓋然性が高いと思われる*15

漢調桄桄皮影戯の事例から、現在、必ず胡琴の伴奏を伴って歌唱される梆子腔も、明末清初の段階では徒歌であった蓋然性が高いといえよう。そして、過門のみに旋律楽器を用いる形態が存在するのであれば、過門にすらも旋律楽器を用いない完全な徒歌であった段階が初期梆子腔に存在していたとしても不思議はなく、むしろ明代後期における弋陽腔・高腔の広がりから考えれば、その方が自然であるともいえよう。

ともなれば、初期の板腔体演劇は上演に際して音楽的な縛りがさほど強くなかったのであるから、ある程度の即興性が許容されていた可能性は高く、歌詞の類型性はその痕跡を留めるものであると見ることもできよう。

おわりに

即興的上演方式はなぜ選択されたか

以上のように、皖南大影などに見える「紀字頭」による即興的な上演システムは、弋陽腔・高腔の徒歌・幇腔・滾調に遡りうる。歌詞の定型性・即興性という面については、初期板腔体演劇が同様の特徴を有していた可能性もある。

こうした即興性は、一見説唱芸能に近いので、説唱が演劇へと発展する途中のプリミティブな形態を保存するもの、という位置づけをしたくなる。むろん、そうした側面があることは否定しないが、しかし、少なくとも清末以降の時期には、さまざまな伝統劇・芸能や通俗文芸作品が広範に伝播し、多様な演劇・台本形態の選択肢があったと思われるが、そうした状況下にあっても皖南大影などが、例えば京劇などの皮黄腔を全面的に導入する途を選ばず、かかるスタイルを選択的に形成ないし保存してきた、むしろその理由にこそ、それらの演劇・芸能の社会的な存在意義が反映されていると考えるべきである。

「紀字頭」による即興的な上演システムのメリットとしてまず想起されるのは、レパートリーを増やすことの容易さである。では、なぜ皖南や雲夢・豫南の皮影戯はレパートリーを増やす必要があったのだろうか。

全国の皮影戯は大多数が歴史物語をレパートリーの中核に据えている。歴史ものとは戦争ものであり、男性庶民層の人気が高く、農村での上演に適しているのであろう。皖南大影などもその例に漏れない。しかし問題は、歴史物語の台本をどこからもってくるかである。以下、皖南大影の基となった雲夢皮影戯について考えてみたい。

雲夢周辺で行われていた花鼓戯は、世話物・恋愛物が中心で歴史を演じない。清戯は弋陽腔の流れを汲み、聯曲体であるが、南戯伝奇はそもそも歴史ものが少ない。このため、それらの小戯・演劇から台本を持ってくることはできない。

一方、雲夢であれば漢劇などの皮黄系演劇が上演される機会もあったはずである。それでも皮黄腔の歴史ものを移植せずに、即興的に小説から上演する方法が選択されたのは、漢劇の歴史ものでは満たせないニーズ、すなわち長大な歴史物語の全体像を知りたいというニーズに応えるためだったのではなかろうか。

人が演ずる劇はコストが高いため、地方の県クラスの都市や農村の廟会で連台本戯の上演が可能であったとは考えにくいし、そもそも皮黄腔(京劇など)の連台本戯は北京で編まれた宮廷大戯に起源するものや、『狸猫換太子』に代表される上海で演じられたものが大半である。つまり、皮黄腔演劇の上演では、物語の全体像を知りたいというニーズに応えることはできなかったと推測される。

「紀字頭」による即興的な上演システムは、小説から直接的に皮影戯を上演することで、かかる歴史物語への需要を満たすことが出来る。おそらくこれが、雲夢皮影戯や皖南大影で即興的な上演方式が選択された理由であろう。

皮影戯と識字・小説

夙に知られるように近代以前の中国の識字率は極めて低く、18世紀末の段階で男性が30%前後、女性は一桁であったとされるが*16、こと農村部では、この数字はもっと低かったものと思われる。そうしたなかにあって、皖南大影などの即興的な上演方法では、小説を読み、豫南で戯路子、雲夢で水路子と呼ばれる手控えを作らなくてはならなかった。すなわち、それらの皮影戯では芸人が識字層に属していた。

皖南大影についても、我々が調査でインタビューした老芸人の大多数が識字層に属しており、さらには呉金陵氏が、25・26歳で団支部組織委員を、27・28歳で文教衛生宣伝委員を担当し、後に民兵専職教導員を1年勤めているように*17、農民の指導的立場に立つ人物も含まれている。

全国の皮影戯では、冀東系の皮影戯が台本を見ながら上演する、所謂「翻書影」として知られている。このため冀東系の皮影戯の芸人は大多数が識字層に属し、例えば唐山の著名な皮影芸人である斉永衡氏が全国人民代表を務めていたり、また地域レベルの文化行政期間のポストを与えられている芸人も多く居見られるなど、やはり指導的立場に立つものが出ている。

一方、陝西や山西などでは、皮影戯の著名な芸人であっても、党や政府機関の役職に就いていることはまれである。例えば、陝西碗碗腔皮影戯の高名な芸人であった潘京楽などは、政府系の役職に就いていない。

こうした芸人の地位の差が生まれたのは、やはり識字という要素が大きいと考えるべきであろう。皮影戯は農民の兼業で演じられることが多いが、冀東や皖南大影などは台本を見る必要があるため、芸人、特に歌唱を担当する劇団の中核となる芸人は、必然的に日々文字媒体と接触することになる。他者の台本を抄写したり、あるいは小説から台本を書き起こす必要も生じる。このため、農村においては比較的文字を使いこなせる層に属することになろう。

一方、台本を暗記して上演するタイプの皮影戯は、文盲であっても口伝によって科白・歌詞を暗記し上演することが可能である。文盲でない芸人も多いが、日々、台本を読み書きしなくてはならない皮影戯劇種の芸人と比較すれば、文字媒体と接触する機会は限られるので相対的に教養レベルは低くなる。

また、皖南大影などに見える、小説から直接に物語の知識を得て上演するシステムは、台本作家を介さずに、直接に小説と観客層である農民とを媒介するものであり、小説の流通や受容のあり方を具体的に明らかにする珍しい事例である。すなわち、小説の表現は多くが類型的な歌詞に置き換えられ、パターン化された人物像やプロットとして理解されたことになる。そもそも通俗小説・文芸は、紋切り型の類型による人物描写を特色の一つとするので、伝統演劇との親和性が高いのだが、一方でパターンに当てはまらない人物や物語の描写には限界があっただろうことも想像に難くない。

結語

以上、皖南大影の紀字頭を手がかりに、そうした上演スタイルの由来や意味について、いささか考察してきたが、話が少々広がりすぎたかも知れない。

ただ冒頭にも述べたように、中国本土における皮影戯・演劇研究は、ジャンルの殻に閉じこもる傾向が強いが、小説・演劇・芸能といった通俗メディアは単独で存在しうるものではなく、それぞれのメディアとしての特質を武器として、相互に依存・競争といった関係性をもちながら共存し、一種の生態系を形作っていた。そして、通俗文芸全般の変化・発展は、従来、個別ジャンルの歴史として叙述されてきたが、今後は、それらの相互関係に目を向け、生態系システム総体の構造と変遷の解明にも注意が向けられて然るべきであろう。本稿はそうした試みの一歩であるとご理解頂きたい。

参考文献

  • 『戯考大全』 上海书店,1990,據《戲考》1915年本影印
  • 京劇叢刊』 中國戲曲研究院編輯,新文藝出版社,1955
  • 中国戯曲劇種大辞典編輯委員会 1995,《中国戏曲剧种大辞典》上海辞书出版社
  • 北京市芸術研究所・上海芸術研究所 1999,《中国京剧史》中国戏曲出版社
  • 李静慈 1956,〈关于「碗碗腔」皮影戏〉,『陕西省第一届皮影木偶戯観摩演出大会会刊』
  • 余従 1990,《戏曲声腔剧种研究》人民音乐出版社
  • 李喬 2000,《行业神崇拜―中国民间造神运动研究》,中国文联出版社};
  • 陳燕 2009,〈豫南皮影戏的愿戏探源〉,『河南教育学院学报(哲学社会科学版)』28巻2009年第3期
  • 卜亜麗 2011,〈论信阳影戏剧本创作的“内部知识”〉,《中国皮影戏的渊源与地域文化研究》大象出版社
  • 李恵 2011,〈湖北云梦茶馆影戏研究〉,《中国皮影戏的渊源与地域文化研究》大象出版社
  • Kearl Deustch 1961,“Social Mobilization an Political Development”,The American Political ScienceReview Vol. 57, N3 (September 1961)
  • 千田大介 2013,「皖南皮影戯考―伝播・変容・特色」,『近現代中国の芸能と社会――皮影戯・京劇・説唱』中国都市芸能研究会叢書3,好文出版

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会」(平成22~25年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 皖南皮影戯のインタビュー原文については、近刊『中国皮影戯調査記録集――皖南・遼西篇』(中国都市芸能研究会叢書4、好文出版)を参照されたい。以下同じ。
*2 李恵2011 p.217。
*3 卜亜麗2011 p.59-65。
*4 李恵2011 p.221、卜亜麗2011 p.63。
*5 李恵2011 p.222、卜亜麗2011 p.66。
*6 北京市芸術研究所・上海芸術研究所1999 p.155。
*7 余従1990 p.124。
*8 千田2013 p.85。
*9 李喬2000 pp.502~503。
*10 陳燕2011 p.260。
*11 皮影唱腔。云梦皮影属西乡高腔,音调高昂,甩腔多用假嗓衔接。清中叶受江西移民带来的戈阳腔的影响而行成,高腔,一唱众和,不用管弦,只用锣鼓击乐伴奏,故又称“打锣腔”。早期的云梦是四至五人班,前台演唱操纵只1人,后台锣鼓梆由三到四人敲打。
*12 蜀伶新出琴腔,即甘肅調,名西秦腔。其器不用笙笛,以胡琴為主,月琴副之。工尺咿唔如話,旦色之無歌喉者,每借以藏拙焉。
*13 廖奔2012 pp.116~117参照。
*14 李静慈1956。
*15 中国戯曲劇種大辞典編集委員会1995 p.1552。
*16 Kerl Deustch1961。
*17 2011年8月7日、呉金陵。