嘉慶二十四年慶郡王府戯班花名単考†
はじめに†
中国では近年、清史編纂プロジェクトの進展に伴い、檔案資料の影印出版が相次いでいる。中国第一歴史檔案館・文化部恭王府管理中心の編により、北京図書館出版社より二〇〇八・九年に刊行された『清宮恭王府檔案總彙』シリーズもその一つで、『和珅秘檔』・『永璘秘檔』・『奕訢秘檔』からなり、現在の恭王府の主であった三名に関する檔案を影印出版したものである。
そのうち『永璘秘檔』は、乾隆帝の第十七子で、和珅失脚後にその旧宅、すなわち現在の恭王府を賜った、慶僖親王永璘の檔案である。『永璘秘檔』は付録として「呈唱戯人名単」を収録する。元内府の俳優である姚蘭生の犯罪が発覚し、嘉慶二十四(一八一九)年九月に、彼が一時在籍していた慶郡王府の戯班を取り調べた記録であり、劇団員の出自・役まわりなどが細かく調査されている。
以下は、その翻刻である。劇団員名には、便宜上、番号を付してある。
嘉慶二十四年九月十八日
常大人 奏為遵 旨查慶郡王府唱戲人內並無姚蘭生之名事†
奏遵
旨派委堂郎中福寧,前往慶郡王永璘府內,將逐出唱戲人五十名,逐加詳查,並無姚蘭生之名。據慶郡王永璘聲稱,去年原來有唱戲人姚蘭生一名,本年四月業經逐出,不知去向等語。其唱戲人五十名內,除劉山桂、楊二保、金罩住三名,前曾在南府當差,其餘四十七名詢據均非南府學生等弟男子姪。恐有不實,將該唱戲人籍貫﹑住趾查明,以便嚴密查訪等,因禀覆前來。奴才當即令堂郎中福寧飭令,嚴密查訪姚蘭生去向,並嚴密查訪雙林官等四十七名,究與南府學生等是否親屬外,謹將逐出唱戲人花名、籍貫、住趾,另繕清單,恭程
御覽,謹
奏
- 劉山桂,本京人,原籍蘇州。父母俱無。從前在景山頭學當差,於嘉慶四年賞給成親王,二十二年慶郡王要來。現唱老生角。在楊房衚衕住。
- 楊二保,蘇州人。父母俱無。從前在南府外二學當差,於嘉慶四年賞給成親王,二十三年慶郡王要來。現唱丑角。在蘇公家廟住,兄弟多壽現在南府外頭學當差。
- 金罩住,本京人,原籍蘇州。父母俱無。從前在南府外頭學當差,於嘉慶十八年革退,二十二年十二月到慶郡王府。現看角本。在新莊住。
- 倭雙林官,蘇州人。父沒母親在蘇州。本年二月到慶郡王府。現唱小生角。在四川營住。
- 夏得全,天津人。父親在天津作生意。本年二月到慶郡王府。現唱小生角。在海岱門外三里河大溝沿住。
- 王喜,天津人。父母俱無。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱小生角。在東四牌樓槓房衚衕李姓家住。
- 李連如,本京人。嘉慶二十三年十二月到慶郡王府。現唱小生角。在祖家街住,父親亦唱戲。
- 張迎喜,本京人。父母俱存,在京閑住。本年正月到慶郡王府。現唱小生角。在海岱門外三條衚衕住。
- 高七兒,本京人。本年二月到慶郡王府。現唱老旦角。在馬大人衚衕住,父親常德亦在慶郡王府唱戲。
- 鄧全,本京人。父親在京作小生意。嘉慶二十三年十二月到慶郡王府。現唱武生角。在西直門內扒兒衚衕住。
- 張瑞陞,本京人。父親從前唱戲,現在家閑居。於嘉慶二十三年六月到慶郡王府。現唱武生角。在東單牌樓三條衚衕住。
- 沈喜林,蘇州人。父母俱存,在京閑住。前在金玉班唱戲,嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱旦角。在小翔鳳衚衕住。
- 王慶喜,天津人。父親尚存,在京閑居。前在金玉班唱戲,嘉慶二十三年九月到慶郡王府。現唱旦角。在前門外後河住。
- 高全福,本京人。父親在京作小生意。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱旦角。在汪芝麻衚衕住。
- 朱雙福,滄州人。父母俱無。嘉慶二十三年三月到慶郡王府。現唱旦角。在剪子巷住。
- 張連,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱正旦角。在魏家衚衕住。
- 楊成,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。現唱正旦角。在東城八條衚衕住。兒子太秀亦在慶郡王府打傢伙。
- 盧壽福,本京人。父母俱無。本年四月到慶郡王府。現唱正旦角。在東城十二條衚衕住。
- 高福,本京人。父親在京作小生意。嘉慶二十三年二月到慶郡王府。現唱正旦角。在德勝門外二閘住。
- 白吉秀,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年二月到慶郡王府。現唱老旦角。在煤廠衚衕住。
- 朱雙壽,寶坻縣人。父母俱無。嘉慶二十三年八月到慶郡王府。現唱老旦角。在魏家衚衕住。
- 張文瑞,本京人。父親尚存,在京閑居。本年四月到慶郡王府。現唱老旦角。在前門外大喇叭衚衕住。
- 夏成,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十二月到慶郡王府。現唱紅淨角。在海岱門外茶食衚衕住。
- 張德順,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十一月到慶郡王府。現唱花面角。在馬大人衚衕住。
- 唐套兒,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十二月到慶郡王府。現唱花面角。在揀果廠住。
- 張福壽,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年四月到慶郡王府。現唱黑面角。在南官坊口住。
- 周喜,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年九月到慶郡王府。現唱花面角。在王大人衚衕住。
- 朱寶,本京人。父親尚存,在京趕車。本年四月到慶郡王府。現唱花面角。在前門外鞭子巷住。
- 尹興祿,本京人。父親在和成班唱戲。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱末角。在三里河大街住。
- 楊雙慶官,蘇州人。父沒,母親在蘇州。嘉慶二十三年八月到慶郡王府。現唱老外角。在觀音寺名利店住。
- 李文祿,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年十二月到慶郡王府。現唱老外角。在祖家街住。兒子連如,亦在慶郡王府唱戲。
- 徐五官,蘇州人。父沒,母親在蘇州。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。現唱丑角。在海甸西上坡住。
- 周元福官,通州人。父母俱無。本年二月到慶郡王府。現唱花面角。在通州西門大燒酒衚衕劉姓家住。
- 呂太,本京人。父沒。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。現唱丑角。在板廠衚衕住。
- 高常德,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。現唱丑角。在馬大人衚衕住。
- 沈財,本京人。父親在京作小生意。嘉慶二十二年五月到慶郡王府。現唱丑角。在永定門內大街住。
- 張成慶,本京人。父沒。嘉慶二十三年七月到慶郡王府。現唱丑角。在永定門內大街住。
- 王順,本京人。父母俱存,在京閑居。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱丑角。在大醬房衚衕住。兄弟王和旺,亦在慶郡王府唱戲。
- 陳慶祥,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年九月到慶郡王府。現唱雜角。在順治門外將軍教廠住。
- 王和旺,本京人。父母俱存,在京閑居。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現唱丑角。在大醬房衚衕住。哥哥王順,亦在慶郡王府唱戲。
- 張平安,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。打觔斗。在齊化門內釣魚臺住。
- 胡志成,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年十月到慶郡王府。現打鼓。在南城外猪營住。
- 戴進壽,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年二月到慶郡王府。現打鼓。在新莊住。
- 湯福慶,本京人。父親在錢局生理。嘉慶二十三年五月到慶郡王府。現吹笛。在老君堂住。
- 孟壽祿,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年五月到慶郡王府。現吹笛。在能人寺住。
- 劉通,本京人。父母俱無。嘉慶二十三年正月到慶郡王府。現打傢伙。在方磚廠住。
- 李德文,本京人。父親在京作小生意。嘉慶二十三年十二月到慶郡王府。現打傢伙。在新寺衚衕住。
- 楊太秀,本京人。嘉慶二十二年十月到慶郡王府。打傢伙。在東城八條衚衕住。父親楊成亦在慶郡王府唱戲。
- 武萬良,本京人。父沒。嘉慶二十三年二月到慶郡王府。管箱。在粉坊琉璃街住。
- 勾保安,本京人。父母俱無。嘉慶二十二年十二月到慶郡王府。管箱。在山老兒衚衕住。
考察†
劇団構成†
五〇名の劇団員のうち、楽師が七名、後台人員が三名の計十名であり、舞台に登る俳優は、残りの四十名になる(表参照)。かなり大規模な戯班であると言えよう。
生 | 小生 | 5 | 8 |
老生 | 1 | ||
武生 | 2 | ||
旦 | 正旦 | 4 | 12 |
旦 | 4 | ||
老旦 | 4 | ||
外 | 老外 | 2 | 2 |
末 | 末 | 1 | 1 |
浄 | 花面 | 5 | 7 |
紅淨 | 1 | ||
黑面 | 1 | ||
丑 | 丑 | 8 | 8 |
その他 | 打觔斗 | 1 | 2 |
雜角 | 1 | ||
楽師 | 打鼓 | 2 | 7 |
吹笛 | 2 | ||
打傢伙 | 3 | ||
後台 | 管箱 | 2 | 3 |
看角本 | 1 |
行当(役まわり)で最も人数の多いのは旦で、生がそれに次ぐ。生については、小生が特に人数が多く、正旦・小生が中心となる崑曲の演目を中心としていたことが窺える。一方、後の京劇で中心となる老生は、一名に留まっている。
浄については、紅浄と黒面を独立させている。紅浄は、関羽・趙匡胤などを専門に演ずる行当であり、黒臉は包拯などが該当する。これらは才子佳人物や世話物ではなく、歴史物・公案物で活躍する役まわりであり、そうした内容のレパートリーも多かったことがわかる。武生が二名、そして専門の打觔斗がいることから、歴史物などの武戯もしばしば上演していたのであろう。
音楽については、主伴奏楽器が笛子であるので、やはり崑曲を主体としていたと思われるが、乾唱で文場を伴わない弋陽腔(京腔)も上演できたであろう。また、この時期に流行していた吹腔も、笛子の伴奏であるので演じていた可能性がある。一方、胡琴の伴奏を伴う声腔は、演じられていなかったものと思われる。
在籍期間と経歴†
嘉慶二十二年五月 | 1 | 14 |
嘉慶二十二年九月 | 1 | |
嘉慶二十二年十月 | 6 | |
嘉慶二十二年十一月 | 1 | |
嘉慶二十二年十二月 | 4 | |
嘉慶二十二年 | 1 | |
嘉慶二十三年一月 | 1 | 28 |
嘉慶二十三年二月 | 4 | |
嘉慶二十三年三月 | 1 | |
嘉慶二十三年四月 | 1 | |
嘉慶二十三年五月 | 2 | |
嘉慶二十三年六月 | 1 | |
嘉慶二十三年七月 | 1 | |
嘉慶二十三年八月 | 2 | |
嘉慶二十三年九月 | 2 | |
嘉慶二十三年十月 | 8 | |
嘉慶二十三年十二月 | 4 | |
嘉慶二十三年 | 1 | |
嘉慶二十四年一月 | 1 | 8 |
嘉慶二十四年二月 | 4 | |
嘉慶二十四年四月 | 3 |
上表は、劇団員が慶郡王府戯班に参加した時期をまとめたものだが、在籍期間はいずれも極めて短い。最も早いもので嘉慶二十二(一八一七)年五月であるので、慶郡王府戯班に来て二年四ヶ月しか経っていないし、その間に、姚蘭生のように、劇団を離れた者もいる。中国における人材流動性の高さを示すものとも思えるが、誰一人として古株がいないというのも不自然である。あるいは、嘉慶二十二年に、劉山桂を成王から譲られたことで、慶郡王府戯班が組織されたのかもしれない。
また、『清史稿』巻二百二十一の伝によれば、永璘は嘉慶二十一(一八一六)年正月に宦官を通じて奏聞したことで処分を受け、同二十五(一八二〇)年三月に逝去している。ともなれば、晩年の愉しみとして戯班を組織、あるいは大規模改組した可能性もある。
慶郡王府戯班の俳優では、やはり内府戯班の出身である劉山桂・楊二保・金罩住の三名の経歴が際だつ。
このうち、劉山桂・楊二保は、嘉慶四(一七九九)年に成親王(永瑆)に下賜されたのを、永璘が「要来」、頼み込んで譲ってもらったことがわかる。乾隆年間の京腔六大班に「王府大班」があり、崇彝『道咸以来朝野雑記』が「慶事があると、屋敷の中で劇を演じさせ、他の屋敷で慶事があるときに、借りることもできた」としていることから、清代の王府戯班は官有民営的な経営形態であったと推測される。楊二保・金罩住の事例は、内府戯班の俳優が王府戯班に移り北京の民間でも上演していたことを意味し、宮廷戯班と北京民間劇界の交流ルートが、細いながらも存在していたことが明らかになる。
残る金罩住は、嘉慶十八(一八一三)年に南府外頭学を「革退」、すなわちリストラされたのを雇用している。嘉慶十八年は天理教徒の乱が発生した年で、王芷章は『清昇平署志略』(商務印書館、一九三七)で、乱を機にこの年に南府・景山の再編が行われたと推定しているが、それと奇しくも付合している。慶郡王府戯班での担当が「看角本」、すなわち舞台監督的なものであるので、おそらくは年を取って俳優として舞台に立つのが困難になっていたのであろう。
また、沈喜林と王慶喜は金玉班の出身である。金玉班、すなわち金玉部は、『消寒新詠』・『日下看花記』・『片羽集』・『聴春新詠』*1など乾隆・嘉慶年間の俳優評にたびたび見えており、崑曲専門の戯班であったとされる*2。なお、それらの俳優評には、沈喜林・王慶喜のみならず、他の慶郡王府戯班の俳優の名前を見出しがたい。
前頁表の嘉慶二十二・二十三年を見ると、両年とも十月に雇用された者が最も多い。あるいは、春節前後の公演を控えたこの時期に、戯班の契約更改がなされていたのかもしれない。
劇団員の出身地†
蘇州 | 5 |
北京原籍蘇州 | 2 |
北京 | 37 |
通州 | 1 |
寶坻 | 1 |
滄州 | 1 |
天津 | 3 |
劇団員の大多数は北京の出身で、五十名中三十七名にも及ぶ(上表参照)。計六名の通州・宝坻・滄州・天津出身者、二名の蘇州籍北京生まれと合わせると、四十五名が北京周辺地域の出身者ということになる。
内府出身の三名は、いずれも蘇州籍であるが、劉山桂と金罩住は北京の生まれである。乾隆・嘉慶期の内府の俳優は、蘇州織造が選抜して北京に送り込んだものが大半を占めるので、彼らはそうした俳優の二世・三世が内府に採用されたものであろう。乾隆・嘉慶期の内府に、「梨園世家」が生まれていたことを示唆している。
嘉慶年間北京の劇界では、堂子の形成と普及が進んだことが知られるが、地元出身者が多数を占める状況から、そうした俳優の育成システムが既に機能していたことが読み取れよう。その一方で蘇州出身者も一割程度を占めており、蘇州で育成された崑曲俳優が尊重される状況も続いていたことが窺える。
劇団員の居所†
次ページの地図は、劇団員の居住地を整理番号で示したものである(金罩住・戴進寿の住む新荘は、場所が確定できなかったため掲載していない)。
最も集中しているのは東四周辺で、あとは王府の周辺が目立つ。外城には十四名が居住するが、一箇所に集中しているわけではない。
居住地が遠いのは、周元福官の通州で、また楊二保・徐五官がいずれも現在の海淀区である。近代的交通機関のない時代に城内まで通えたとは思えないので、他に拠点となる場所を持っていたのだろう。
内城に住まう者が多いのは、南府・景山外学と同様に旗籍の俳優がいたことを窺わせる一方、内城への漢族の居住が増えつつあった実態を反映しているのだろう。
おわりに†
清の嘉慶年間は、乾隆年間の繁栄の後を受け、白蓮教徒の乱などで国勢が一気に陰りを見せる、いうなればバブル崩壊の時代であるが、北京の梨園においては、いわゆる雅部と花部の争いが繰り広げられ、道光年間以降、聯曲体の声腔から板腔体の新たな声腔への交替が進む、その準備段階とも言える時期であった。
慶郡王府戯班花名単は、恐らく現存で最も古い清代北京の戯班の完全な名簿であり、演劇史の転換点にあたる時期の戯班の実態を伝える、他に例のない貴重な資料であると言えよう。
なお、姚蘭生がいかなる罪に問われたのかについては、天理教徒の乱以後の南府・景山の管理強化との関連が想定されるが、具体的な解明は今後の調査に期したい。
*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「中国古典戯曲の「本色」と「通俗」~明清代における上演向け伝奇の総合的研究」(平成29~33年度、基盤研究(B)、課題番号:17H02327、研究代表者:千田大介)による成果の一部である。