北京皮影戯西唐故事考――「大罵城」と『三皇宝剣』伝奇を軸に――†
はじめに†
問題の所在†
清末民初、北京の皮影戯(影絵人形劇)には西派と東派、2つの流派が存在した。より歴史が古いのは西派皮影戯で、涿州皮影戯ともよばれ、主に旗人の堂会で上演されていたため、清末民初に急速に衰えた。一方の東派皮影戯は、唐山一帯で行われていた冀東皮影戯(灤州皮影戯・楽亭皮影戯とも称する。冀東は河北省東部の意)が道光・咸豊年間頃に北京に進出したもので、東城の東単から東四・隆福寺の一帯を中心に活動していた。影戯班(劇団)はいずれも冀東地域から進出してきており、人気が落ちると冀東に帰り、北京に定着しなかった。北京東派皮影戯そのものは滅びているものの、冀東皮影戯は現在でも冀東から東北にかけての農村部を中心に、広く行われている。
北京西派皮影戯と北京東派=冀東皮影戯には、前者が2尺(60cm)ほどの影人(影絵人形)を使うのに対して、後者は7寸(21cm)ほどである、前者が影巻(台本)を暗記して上演するのに対して後者は影巻を見ながら上演する(翻書影)といった相違がある一方、行当(役まわり)ごとに異なる芸人が歌唱する、〔三趕七〕・〔悲調〕などの曲牌が用いられるといった、他の地域の皮影戯にはない共通点も多い。
筆者は千田大介2018において、北京や冀中・冀東の4種の皮影戯を比較検討し、清代の京腔(弋陽腔・高腔)や諸声腔に関する研究成果を参照することで、同地域の皮影戯が、清初の梆子仏・福影の基盤の上に、清代前期の高腔の乾唱形式を留める冀中の老虎影、乾隆末年に秦腔の影響を受けて文場を導入し「秦京不分」*1となった京腔を導入した北京西派皮影戯=涿州皮影戯、そして涿州皮影戯の上演方法や曲調を改良した冀東皮影戯の順に形成され、北京西派と冀東皮影戯との間には台本の互換性があることを明らかにした。
そして次なる課題として、皮影戯で演じられた影巻および物語が、いかに形成され変容したのかを、かかる歴史的な背景をふまえつつ具体的に解明する必要が浮上している。
西唐故事と「大罵城」†
以上の観点から、本稿では西唐故事を取り上げる。
隋唐故事の通俗文芸では、唐の天下統一と太宗の即位が描かれた後、周辺の異民族王朝を征討する物語が後に続く。北番征討において、尉遅敬徳が生き別れの子・宝林と再会し、羅成の遺児・羅通が活躍する羅通掃北故事、薛仁貴の活躍によって高麗(高句麗)を服属させる薛仁貴征東故事などがあり、本稿で取り上げる西唐故事はそれに引きつづき、薛仁貴の子の薛丁山らが西方を征討する故事である。
唐の西方征討を扱った作品としては、明の万暦年間に金陵富春堂によって刊行された『金貂記』伝奇が最も古く、後半部で、遼西の蘇保童を討って鎖陽城に包囲された薛仁貴を、その架空の子である薛丁山、尉遅敬徳らが救援する物語を演じている。富春堂本の戯曲は、いずれも通俗的な性格を持つ声腔、弋陽腔のものであったと考えられている。北京では明末以降、弋陽腔が盛行したため、『金貂記』は清朝宮廷でも演じ継がれていたが、本稿ではそれらを扱わない。
『金貂記』の物語が発展し、やがて薛仁貴・薛丁山や唐の開国功臣の子孫が西方の異民族を征討し、女将・樊梨花らが活躍する物語が形成された。章回小説では乾隆四十四(1779)年刊本が残る『説唐三伝』(底本のタイトルは『異説後唐傳三集薛丁山征西樊梨花全傳』)が西唐故事の1つのスタンダードになっている。
この物語は、薛丁山征西故事、あるいは薛家将故事と呼ばれることが多いが、活躍するのは必ずしも薛仁貴の一族だけでなく、羅成の子孫の羅通や羅章、秦叔宝の孫の秦英らを主人公とするエピソードもある。このため本稿では、北京・河北の通俗文芸の「西唐」という呼称を用いる。西唐故事は、薛仁貴らの世代が中心となる「大西唐」、その没後に子の薛丁山とその妻・樊梨花らが活躍する「少西唐」、秦叔宝の孫の秦英を中心とする「小西唐」に分かれるが(表1参照)、本稿では、主に大西唐にあたる部分を扱う。
故事名 | 主人公 | 小説 | ||
表1 西唐故事の名称と範囲 | ||||
薛仁貴征東 | 薛仁貴 | 『説唐後伝』 | ||
薛丁山征西 | 西唐 | 大西唐 | 薛仁貴・薛丁山 | 『説唐三伝』 |
少西唐 | 薛丁山・樊梨花 | |||
秦英征西 | 小西唐 | 秦英 | なし |
北京・河北の通俗文芸における西唐故事は、『説唐三伝』と物語の大枠や主要人物などを共有しつつも、独自の発展を遂げている。その最たるものが「大罵城」、すなわち「樊金定罵城」故事で、その梗概は以下のようになる。
薛仁貴が征東の途中で妻とした樊金定は、18年後、子の薛景山らを伴い、征西して鎖陽関に包囲された薛仁貴らの救援に赴く。薛仁貴は、その存在を太宗に報告しておらず、また軍旅の中での婚姻であったことから、罪に問われることを恐れて、妻子であると認めず、悲嘆に暮れた樊金定は自殺する。
英雄たる薛仁貴が、自らの地位に汲々とする小人物と化しているが、前近代の中国では英雄の狭量な一面がしばしば描かれるので、それ自体は珍しいことではない。薛仁貴の妻は、『唐書』の伝に柳氏が見え、通俗作品にも登場するが*2、次妻が初めて現れるのは乾隆期の小説『説唐後伝』の樊繍花になる。薛仁貴が山賊の襲撃から村を守った結果、樊員外の娘と娶されるのだが、樊家の柱に使われていた樊噲戟を手に入れるために作られたエピソードの感が強い。薛仁貴はその後、唐軍への入隊を認められて立身出世し、樊繍花は征東の終了後、そのもとに赴き夫婦団円している。樊金定は、この樊繍花を元に産み出された人物である可能性が高い。
「大罵城」は、後述のように清代中期の戯曲に現れ、北京・河北およびその文化的影響下にある東北地方の、京劇・評劇・皮影戯・子弟書・西河大鼓・楽亭大鼓・馬頭調などで扱われているが、他の地域ではほとんど演じられた形跡がない*3。北京皮影戯と北京の演劇・芸能文化との関係を考察する上で、好適な題材であるといえよう。
以下では、皮影戯および戯曲の大西唐故事作品への検討を通じて、物語の形成と変遷の過程について考察するとともに、かかる地域偏差が生まれた背景についても、戯曲史をふまえて考察したい。
固有名詞について†
西唐故事の皮影戯台本・戯曲は、いずれも俗字・音通が多用された通俗的テキストであり、固有名詞の表記も一定しない。このため、主要人物・地名について、本文中では以下の標記に統一し、必要に応じて原文における表記を補足する。
樊(范)金定(錠)、薛景(井)山、竇(豆)金蓮、竇(豆)一(義・乙)虎、驪(梨・離)山聖母、黄石(士・師)公(功・攻)、薛丁(頂)山、樊(范)梨花、姜(江)須、蘇海(蘇保童、蘇宝童、葛蘇海)、牧(木)羊(陽)関
1.北京・冀東皮影戯の大西唐故事影巻†
影巻とは、皮影戯の台本のことを指す。本来は、台本を見ながら上演する「翻書影」方式を採る冀東系の皮影戯の用語であるが、本稿では便宜上、北京西派皮影戯の台本も含めて、影巻と呼ぶ。
北京西派皮影戯は口伝で歌詞・セリフを暗記して上演するため、影巻が伝わりにくい。一方、北京東派=冀東皮影戯は翻書影であるため、多くの影巻が現存している。他方、北京西派と東派とでは、使用される曲牌が共通しており、影巻にある程度の互換性があったと推測される。
「大罵城」を扱った影巻は数多く現存しており、ストーリーは概ね一致するものの、細部や歌詞・セリフには差異が見られる。それらは、大きく2つの系統に分類することができる。1つは、北京皮影戯の単齣影巻(折子戯)、もう1つは冀東系の連台戯『鎖陽関』の系統である。
単齣影巻「大罵城」と影巻『前鎖陽』†
清末民初に北京で収集された皮影戯の単齣影巻集が、世界各地の研究機関にかなりの数、所蔵されている。それらは、北京西派のレパートリーとされる演目を多く含んでおり、しかも冀東皮影戯関連の文献や影巻目録にほとんど見えないので、北京西派の影巻であるか、あるいは北京東派が北京での上演ニーズに応えるために、西派から取り入れた影巻ではないかと考えられている*4。
単齣台本集を網羅的に収集・整理したのが、ドイツ人シノロジストのウィルヘルム・グルーベとエーミール・クレープスによって1915年に編纂・刊行された『燕影劇』である*5。そこには西唐故事の演目が4種収録されている。
「大罵城」、「小罵城」、「抱盔頭」、「爬柳樹」
前2者が大西唐、後2者が少西唐に属する。
このほか、ハーバード燕京インスティテュートに多くの北京皮影戯単齣台本集が所蔵され*6、『俗文学叢刊』第273冊が台湾中央研究院所蔵の単齣台本集9種を収録し、早稲田大学演劇博物館が1点所蔵しているほか、いくつかの図書館・研究機関も同種の資料を所蔵している。
それらに収録される西唐故事の演目は、管見の限りでにおいて、いずれも『燕影劇』所収の4種の枠内に留まる(表2参照)。
燕影劇 | ハーバード燕京 | 早大本 | 俗文学叢刊 | |||
永順和 | 喜慶班 | 吉順班 | 影詞六目(p.73) | 影詞六目(p.403) | ||
表2 西唐故事単齣影巻 | ||||||
小罵城 | 小罵城 | |||||
大罵城 | 碰城 | |||||
抱盔頭 | 抱盔頭 | 清沙帳 | ||||
扒柳樹 | 爬柳樹 | 扒柳樹 | 扒柳樹 | 爬柳樹 |
収録数が最も多く、人気があったとおぼしいのは「爬(扒)柳樹」であるが、他の3種も、それぞれ2種の単齣影巻集に収録されている。「大罵城」は、『燕影劇』のほか、ハーバード燕京所蔵の喜慶班本に「碰城」の題で収録されている。
このほか魏力群『中国皮影戯全集』(以下、『全集』)が「劇本❶ 河北伝統皮影戯劇本(上)」に、「樊金定罵城」を収録する(以下、『全集』本)。魏力群の著作には、引用箇所と本文との区別が不明確である、出典や資料の由来が明記されないといった問題が見受けられるが、「樊金定罵城」もその例に漏れず、いかなる出自のテキストであるのかが記載されていない。字句は、魏力群監修のVCD『樊金定罵城』*7と一致するので、それを演じた劇団(VCDに劇団名は記されていない)の台本であるのかもしれない。
連台本では、『中国俗文学叢刊』200冊に『前鎖陽』五巻が収録されており、「大罵城」に相当する部分は巻二に見られる。「前」と題していることから「後」とセットであったと思われ、巻五の結末は明らかに尻切れトンボである。
ここで注目すべきは、「大罵城」部分の唱に「琴腔唱」と記されていることである(下図)。「琴腔」は「秦腔」の音通であり、京腔が乾隆末年に北京に進出した(西)秦腔を取り入れたものである。その影響を受けて形成されたと考えられる北京西派皮影戯でも*8琴腔は使われていたが*9、冀東皮影戯では用いられない。ここから、『前鎖陽』は北京西派の影巻であると確定できる。ただし、北京西派皮影戯と冀東皮影戯の影巻には互換性があったと思われるため、この影巻を所有していた劇団が必ずしも北京西派であったとは限らない点には、注意が必要である。
さて、以上4種の「大罵城」であるが、ストーリー・歌詞は基本的に一致する。表3は、樊金定が鎖陽関に到着した場面のセリフの比較である(表中の「燕」は『燕影劇』、「喜」はハーバード燕京所蔵喜慶班本、「俗」は『中国俗文学叢刊』所収『前鎖陽』、「全」は『全集』本を示す。以下、同)。まず相違点であるが、『全集』本のみが太子の親征に作っている。また、『燕影劇』本・喜慶班本は、太宗が樊金定に薛仁貴の家系を言わせて、偽りがないかを確認するが、『前鎖陽』と『全集』本にはその場面がない。一方、そうした部分を除くと、セリフは、細かい表現も含めて各本でかなり似かよっており、特に『燕影劇』本・喜慶班本・『前鎖陽』は、ほぼ同じであると認められる。
表3 「大罵城」科白比較 | |
燕 | 〔上山薛天子〕城下那一女子少往前進。再若前進,滾木擂石打下,你命休矣。 呀。但見城 |
喜 | |
俗 | 〔天子白〕城下那位女子少望前進。再若前進,城上滾木雷石打下,你命休矣。」 城 |
全 | 〔太子〕那一女子少往前進,城上滾木礌石打下,你命休矣! 〔樊金定〕哦,城 |
燕 | 頭答話者, 想是當今萬歲。待奴 啟奏。 |
喜 | 傳朕口旨,宣報號人見朕。」 |
俗 | 上答話者何人」朕唐觀」 呀,原來是當今萬歲,代奴下馬啟奏。〔下馬 |
全 | 上有人說話,抬頭一看,但見城頭一人身穿紅袍,頭戴王冠,想是 太子。待我跪而啟稟。 |
燕 | 萬歲萬歲,臣妻見駕。 口稱臣妻, |
喜 | 萬歲,〔上白〕萬萬歲。臣妻見駕。」 你口稱臣妻,是朕那家國公總管收的妻子,你那 |
俗 | 跪〕萬歲萬萬歲,臣妻見駕,我皇萬歲。」 你口稱臣妻,與何人配偶, , |
全 | 千歲千千歲,臣妻見駕。 〔太子〕你口稱臣妻,你與何人配偶, |
燕 | 家住那裡,姓甚名誰,一一奏來。 萬歲,臣妻身居薊州邦均店兵馬三庄,樊有功之女,名叫 金 |
喜 | 家鄉住處,姓字名誰,一一奏來。」 萬歲,臣妻家居薊州邦均店兵馬三店,樊有功之女,名叫樊金 |
俗 | 那里人氏,姓甚名誰,一一奏來。」 萬歲,臣妻 薊州邦均店兵馬三店,樊有功之女,名叫樊金 |
全 | 家住哪裡, 細細說來。〔樊金定〕奴家居在薊州邦均店 馬三庄,樊成之女, 名叫樊金 |
燕 | 定,許配 薛禮為妻。 |
喜 | 定,許配平遼公薛禮為妻。萬歲,我特來尋夫報號。」代朕問來。薛御弟。(萬歲)城下那一婦人言 |
俗 | 定,匹配平遼公薛禮為妻, 我特來尋夫報號。」代朕問來。薛愛卿。(臣) 方才那 婦人言 |
全 | 定,乃是平遼王薛禮之妻。 |
燕 | |
喜 | 道,說是愛卿 收的妻子,快些傳令開城,你夫妻相認。」萬歲,不可開城。他說是臣收的妻 |
俗 | 道,說是愛卿在邦均店收的妻子,就當傳令開城,你夫婦相認。」萬歲,不可開城。他說是臣收的七 |
全 | |
燕 | |
喜 | 子,臣的家鄉住處宗族幾代,代他若說對,便是臣收的妻子,他若一字言叉,便是西涼的奸細。」代 |
俗 | 子, |
全 | |
燕 | 你說薛禮是你丈夫。他的家鄉住處,宗祖幾代,一一說來,你若說對, |
喜 | 朕問來。城下那一婦人聽真,你說薛禮是你丈夫,他的家鄉住處,祖宗幾代,一一說來,你若說對, |
俗 | |
全 | 〔太子〕既然如此, 你可知他家祖上何名,要你一一說來。 |
燕 | 朕當與你開城。 如若說的不對,便是西涼的奸細。 |
喜 | 朕 與你開城,你夫妻相認。如是一字言叉,便是西涼 奸細。 |
俗 | |
全 |
次に歌詞を比較する。表4は樊金定が薛仁貴を罵倒するクライマックス場面であるが、基本的に一致している。罵語を畳みかけるように積み重ねる部分は、斉言句になっておらず、テキストによって句の切り方が一定しないが、おそらく速いテンポで歌い上げていたのであろう。また、『全集』本はセリフとしており、表現は基本的に一致しているものの、他の3種とはいささか違いも見受けられる。
表4 「大罵城」歌詞比較 | |
燕 | 強人你 忠不忠 孝不孝 節不節 義不義 |
喜 | (強人那)目中無君非人也(不怪你)不知夫婦恩愛深 強人你 忠不忠 孝不孝 節不節 義不義 |
俗 | 強人那目中無君非人也 (莫怪你)不知夫婦恩愛身(強人你)忠不忠孝不孝 節不節義不義 |
全 | 〔代白〕強人哪強人, |
燕 | 仁不仁 信不信 不忠,不孝,不節,不義,不仁,不信,人倫不懂 枉作高官管三軍 |
喜 | 仁不仁 信不信 不忠不孝 不節不義 不仁不信 人倫不懂 枉作高官管三軍 |
俗 | 仁不仁信不信 不忠不孝 不節不義 不仁不信 人倫不懂 枉作高官管三軍」 |
全 | 你真是不忠不孝不節不義不仁又不信, 枉作高官管三軍。 |
燕 | |
喜 | |
俗 | 〔程〕(好哇)咬金城上連誇好 樊弟妹女中魁首弟一人 句句罵的真有禮我老程聽著解恨才𧽃心」 |
全 | |
燕 | 強人你 你真是 清不清 濁不濁 剛不剛 柔不柔 禽不禽 獸不獸 |
喜 | (強人那)你真是 清不清 濁不濁 剛不剛 柔不柔 禽不禽 獸不獸 |
俗 | 罵呀罵呀」 強人那 你真是 清不清 濁不濁 剛不剛 柔不柔 禽不禽 獸不獸 |
全 | 〔代白〕強人哪強人, |
燕 | 不清,不濁,不剛,不柔,不禽,不獸 又毒又狠狠到底 |
喜 | 不清不濁 不剛不柔 不禽不獸 又非六畜又毒又狠壞到底 |
俗 | 不清不濁 不剛不柔 不禽不獸 又非六畜 又毒又狠壞到底 好一個 鼠肚雞腸一小人 |
全 | 你真是不明不清不柔不剛又濁又混, 如禽如獸,又毒又歹。 |
燕 | 好一個鼠肚雞腸一小人 越罵越惱越加氣 氣的我渾身亂戰咬牙根 |
喜 | 好一個鼠肚雞腸一小人 月罵月惱月加氣 |
俗 | 好一個 鼠肚雞腸一小人 月罵月惱月加氣 氣的我渾身上下咬牙根 |
全 | 〔唱〕昧心喪良真可恨, 鼠肚雞腸一小人。 越罵越惱越有氣, 渾身亂顫咬牙根。 |
燕 | 使的我一腔熱血吐幾口 一陣昏迷倒在塵 |
喜 | 氣的我一腔熱血吐幾口 一陣昏迷倒在塵 |
俗 | 使的我一腔熱血吐幾口 一陣昏迷倒在塵 |
全 | 一腔熱血吐幾口,一陣昏迷倒在塵。 |
次に『前鎖陽』で「琴腔」とされている部分を比較する(表5)。『燕影劇』は、他のセリフ・歌詞が喜慶班本・『前鎖陽』とほぼ同じであるのにもかかわらず、この一段だけは違った歌詞の唱に置き換わっている。他の3種については、句の多寡はあるが、共通部分はほぼ一致している。
表5 「大罵城」〔琴腔〕歌詞比較 | |
喜 | 〔唱〕 說罷放聲哭啼起 哀求老爺把恩開 方才冒犯我的錯 怒我無知禮不該 |
俗 | 〔琴腔唱〕說著放聲啼哭起 哀求老爺巴恩開 方才冒犯我的錯 怒我無知禮不該 |
全 | |
喜 | 老爺明鏡照萬里 但代奴佳想不開 你今留下我母子 不枉投奔只里來 |
俗 | 千錯萬錯是我錯 但待奴佳想不開 你今認下我母子 不枉投奔這里來 |
全 | |
喜 | 認下罷來認下罷 不看我也看景山業章孩 …中略… |
俗 | 認下罷來認下罷 不認我也該景山孽章孩 …中略… |
全 | |
喜 | 娘有機句知心話 我兒要你記心懷 (母親不要捉想)你回家好好侍奉你外祖 |
俗 | 娘有機句知心話 我兒你要記心懷 你回家好好侍奉你外祖 |
全 | 娘有機句知心話,我兒緊緊記在懷。 你回家好好侍奉你外祖, |
喜 | 你外祖老來無兒誰葬埋 老爹爹女兒今生不能盡孝 死後墳前不能盡哀 養老送終全靠你 |
俗 | 你外祖老來無子誰葬埋 眼望邦均流痛淚 大叫娘爹吐悲哀 你外祖養老送中全靠你 |
全 | 老來無兒誰葬埋? 爹爹呀,女兒生前不能盡孝,死後墳前不能悲哀。 養老送終靠哪個? |
喜 | 不枉從小疼你來 這是為娘前後話」 |
俗 | 不枉從小疼你來 爹娘那女兒生前不能盡孝 死後墳前不能盡哀 這是為娘前後話」 |
全 | 疼兒一場也是白。 這是為娘前後話。 |
以上から、「大罵城」4種は、若干の出入りはみられるものの、基本的に同一テキストであると認めてよかろう。そして、前述のように『前鎖陽』が北京西派系であると確定できるので、これらはいずれも北京西派の流れを汲んでいることになる。これは、北京西派と東派の台本には互換性があり、北京皮影戯の単齣台本集が北京西派に由来するとの仮説を、具体的に裏付けるものである。
冀東皮影戯における「大罵城」の改編†
冀東皮影戯(北京東派皮影戯を含む)は、時に数十冊にも及ぶ長大な影巻を特徴とする。影巻は、1冊の上演に3時間ほどを要し、それが基本的に1回の上演分に相当するといい*10、冀東や東北の農村では、農閑期に劇団が1箇所に時に1ヶ月以上滞在してそれらを連続上演したほか、影巻が読みものとしても受容されていたという*11。
冀東皮影戯では一般に、大西唐故事の影巻を『鎖陽関』、少西唐故事を『牧羊関』(『木陽関』)と称するが、物語が連続しているため、両者が一体となった影巻も多い。
『鎖陽関』の古い影巻としては、『北平国劇学会図書館書目』に記載され、中国芸術研究院に所蔵される梅蘭芳旧蔵魁盛和抄本3冊があるが、梅蘭芳旧蔵本は現在、梅蘭芳記念館に移管されており、閲覧が困難である*12。
『鎖陽関』・『牧羊関』は上海江東書局から石印本が刊行されており、『俗文学叢刊』200・201冊に収録されている。『牧羊関』巻末に「宣統己酉元年秋七月下旬閑録滌煩薫室下」と見えることから、宣統元(1909)年に抄写されたテキストに基づくことがわかる。『鎖陽関』も同じテキストに基づく蓋然性が高い。また、『俗文学叢刊』201冊には『鎖陽関』抄本3冊が収録されている。これらはいずれも三請樊梨花から大破金沙陣までを扱っており(次頁以下の梗概参照)、大罵城を含まない。
中国都市芸能研究会が収集した影巻には、以下の7種の『鎖陽関』・『牧羊関』がある*13。
- ①『大西唐』、9冊、1982年王(国発?)抄本。1~3冊は『大西唐 樊梨花征西』と題し、4~9冊は『破鎖陽』と題する。「大罵城」を含む『大西唐』第4冊が欠落していると思われる。遼寧省建平県の劇団のものか。
- ②『少西唐』、9冊、1982年薄国林抄本。第3冊の後に「大罵城」を含む1冊が欠落していると思われる。①を抄写しなおしたものか。
- ③『鎖陽関』、8冊、1987年李均拙抄本。第2・5・7・8冊は「鎖牧關」と題する。三請樊梨花以降のみを扱う。承徳の劇団のものか。
- ④『鎖陽関』、16冊、1983年張錫九抄本。書皮に「八道溝西隊」と見えるが、具体的な場所は不明。
- ⑤『木羊關』、6冊。
- ⑥『鎖陽関』、16冊、1980~82年抄本。遼寧省凌源市郭永山氏旧蔵影巻。
- ⑦『鎖陽関』、4冊。遼寧省凌源市郭永山氏旧蔵影巻。
以上のうち、遼寧省凌源市の著名な皮影芸人であった故・郭永山氏の旧蔵で、素性が比較的はっきりしている⑥に基づいて、少々長くなるが、以下に全体のストーリーをまとめておく。なお、凌源の皮影戯は冀東皮影戯が伝播したものであり、かつ現在でも唐山地域の皮影劇団と人的交流を有しているので、冀東皮影戯そのものであると考えて差し支えない。
1冊†
李道宗、薛仁貴を酔い潰して翠花宮に運び込み、娘娘に戯れたと誣告する。太宗、薛仁貴を死罪に問う。尉遅敬徳、諫言が聞き入れられず憤死する。西涼の反表が届き、太子が親征、薛仁貴は元帥となり功で罪をあがなう。
樊金定、薛景山の勧めにより薛仁貴のもとに向かう。
薛仁貴、界牌関を攻めるが守将・蘇江と引き分ける。
2冊†
王禅、薛丁山を父の助勢に下山させる。薛丁山、薛仁貴の元に投じ、蘇江を討ち取る。薛仁貴、
寒 江関を攻め、姜須、樊竜・樊虎を討ち取る。驪山聖母、樊梨花を下山させる。樊梨花、父・樊洪の元に投じ、薛丁山と対陣、法術で捕らえて結婚を約する。樊洪、憤死する。樊梨花、寒江関を献じる。
五峰山の竇一虎、薛景山・強竜・強虎を捕らえる。姉の竇金蓮、薛景山と結婚する。
3冊†
唐軍、牛頭関を攻める。薛丁山、楊凡と対陣し樊梨花の許嫁であると知る。一休樊梨花。
唐軍、函谷関を攻め、薛丁山、魏奔の法宝・聖手に落命する。姜須、一請樊梨花。樊梨花、魏奔を破り、薛丁山を仙薬で蘇生させる。薛丁山、樊梨花を闇討ちしようとする。二休樊梨花。
4冊†
薛丁山、魏奔を敗走させ、函谷関陥落。唐軍、鎖陽関を攻め、蘇海の空城計に陥り、包囲される。
竇一虎・薛景山ら、魏奔を破り鎖陽関東門に至る。徐勣、転殺四門させる。薛仁貴、詐術を疑い拒絶、樊金定自尽する。唐軍、薛景山らを受け容れる(大罵城)。
蘇海、黄羊子を得て、二困鎖陽関。
5冊†
薛丁山、黄羊子の落魄幡に落命する。姜須、二請樊梨花。樊梨花、黄羊子を討ち取り、薛丁山を仙薬で蘇生させる。薛丁山、三休樊梨花。
黄羊子の妹の黄紅霄・黄雲霄(二霄)、魏奔帳下に投じ、七箭法で竇金蓮を害する。竇一虎、彩霞聖母の助勢を請う。二霄、竇一虎を捕らえ、金沙で彩霞聖母を退ける。彩霞聖母、窪鼻大仙の助勢を請う。東方朔、竇一虎を救出、草人を奪って七箭法を破り、二霄を退ける。竇金蓮、魏奔を討ち取り、魏金蝉を捕らえる。
6冊†
竇一虎、魏金蝉と結婚。二霄、九尾仙姑の助勢を得て、蘇海の帳下に投じる。九尾仙姑、強竜・強虎を討ち取り、竇金蓮を破る。
樊梨花、寒江関に攻め寄せた楊凡を討ち取る。
元元老祖、西涼に投じ、金沙陣を布く。姜須、三請樊梨花するも、打ち据えられる。薛金蓮、兄に代わり寒江関に赴くも、口論に発展(小罵城)。
7冊†
薛丁山、姜須とともに寒江関に。樊梨花、大帳で薛丁山を跪かせるが、夜、送枕。樊梨花、鎖陽関を救援し元元老祖を破る。
薛仁貴、病気に。水を汲みに行った薛丁山、白虎を射て、一箭還一箭、薛仁貴死す。
樊梨花、元帥に。驪山聖母の下山を請う。驪山聖母、金沙陣に入るも、金沙に敵せず。竇一虎、三皇宝剣を求めて黄石公を訪ねるが、霧で洞門を隠され、崑崙山の東方朔の元から宝剣を盗み出す。
8冊†
三皇宝剣、妖怪に変じて、夏員外に自らの廟を建てさせる。黄石公、三皇宝剣を収める。唐軍、金沙陣攻略。竇金蓮・魏金蝉、陣中産子。黄石公、三皇宝剣で元元道を討ち取る。九尾・蘇海、敗走する。
蘇海、牧羊関の花面狼に投ずる。花面狼、薛丁山に敗れる。白納真人、蘇海の子、蘇文を下山させる。蘇文、樊梨花に敗れ、白納真人・白霊聖母の下山を請う。
9冊†
白納真人・白霊聖母、樊梨花の誅仙剣・定海珠に敗れ、九花娘娘に援軍を請う。九花娘娘、截仙陣を布く。
樊梨花、薛丁山に鎖陽関の羅章夫婦を召還する使者を命ずるが、反抗したため打ち据える。その後、後宅で謝罪する(抱盔頭)。
10冊†
姜須、鎖陽関に向かう途上、楊翠屏を降して妻とする(爬柳樹)。樊梨花、截仙陣に討ち入り、五香扇に敗れる。驪山聖母、樊梨花を蘇生させ下山、彩霞・碧霞に南極教主の助勢を、竇一虎に、王禅・王敖・馬霊聖母の助勢を請わせる。姜須、復命し陣前招親を報告、樊梨花、故意に死罪に問うが、楊翠屏の助命嘆願により赦免。
11冊†
白鶴童子、斉眉山に串山道人の助勢を請う途上、金碧風に捕まる。毛遂、白鶴童子を解き放ち、金碧風が追跡に向かった隙に、金蛇吐燕を盗む。金碧風、白鶴童子を追って斉眉洞に至るも、串山道人の量天尺に敵せず退く。金碧風、復讐のために牧羊関に。竇一虎、王禅・王敖を激して下山させる。馬霊聖母、白猿を遣わす。王禅・王敖、截仙陣に陥るが、毛遂、南極教主の仙丹を届け命脈を保つ。南極教主、元始天尊より太極図を預かる。
12冊†
彩霞・碧霞、金刀聖母の助勢を請う。元始天尊、仏祖に金翅鳥収服を依頼。玉帝、李靖・二郎神・哪吒・孫悟空らを差し向ける。孫悟空、術比べの末、金碧風(大鵬金翅鳥)を捕らえる。毛遂、敵陣に忍び込み、白霊子の法書・雲牌を盗む。蘇文、金香子と結ばれる。唐軍・諸仙、陣を攻め、毛遂、四門の宝剣を盗む。南極教祖、太極図で四門の妖狐、白霊子を討ち取る。驪山聖母、三昧神火で白納真人を討ち取る。樊梨花、花面狼を討ち取り、蘇海を走らせ、牧羊関を落とす。
13冊†
蘇海、鉄板真人の助勢を請う。鉄板真人、竇一虎を破り、姜須を鉄板で討ち取る。竇一虎、敵陣に忍び込み、鉄板真人の宝貝を盗む。樊梨花、仙丹で姜須を救い、鉄板真人を破る。
唐軍、芦花関を攻め、竇一虎、洪飛虎を破る。洪飛虎の娘、洪素梅、仙袋で薛丁山を捕らえ、同じく洪素蘭、竇一虎を破る。樊梨花、洪素梅と戦うも敗れる。
14冊†
洪素梅・洪素蘭、薛丁山をめぐり仲違い。薛丁山、竇一虎の計略に従い、洪素梅との婚姻を偽ってともに唐営に。樊梨花、洪素梅を斬る。唐軍、洪素蘭・洪飛虎らを討ち取り、芦花関を落とす。
鉄板真人・青蛟竜姑、芦花関に攻め寄せ、薛丁山、青蛟竜姑の臭口気に吹き飛ばされる。鉄板真人・青蛟竜姑、樊梨花に敗れ、叩仙鉢で芦花関の皆殺しを図る。
薛丁山、九天玄女の弟子・金玉蓮に救われ、次妻とする。竇一虎、串山道人の助勢を請う。
15冊†
串山道人、広成子の助勢を請う。胡越王、雲霞に十万の軍勢を授ける。広成子、翻天印で叩仙鉢を打ち破り、青蛟竜姑を走らせる。串山道人、鉄板真人を走らせ、樊梨花、青霞道人を退ける。
青蛟竜姑、青霞道人の軍に投ずる。薛丁山、金玉蓮とともに陣営に帰還。樊梨花、聚魂笄・消魂鑼により人事不省に。金玉蓮、雲に乗って敵陣に忍び込み、法宝を破壊する。
16冊†
青蛟竜姑・青霞道人、悪鬼陣を布く。姜須、悪鬼陣に入り落命。竇一虎・樊梨花、黄石公・驪山聖母の助勢をそれぞれ請う。懼留孫、竇一虎の子、竇希介を下山させる。太乙真人、薛丁山の子、薛猛を下山させる。彩霞・碧霞、地蔵王菩薩の助勢を請う。地蔵王、玉帝に天将・天兵の派遣を要請。
樊梨花、悪鬼陣を総攻撃。青蛟竜姑・雲霞を捕らえ、蘇海、自尽する。西涼王、降表を献じ、唐軍、凱旋する。
『封神演義』的な戦闘シーンと陣前招親がくり返されているが、冀東皮影戯影巻にはこの種の物語が非常に多い。
各テキストは、カバーしているストーリーの範囲や、細かい情節の有無といった違いはあるものの、歌詞・セリフは基本的に一致する。一例として、上海江東書局本と郭永山旧蔵本の三請樊梨花部分の樊梨花登場シーンを比較したのが、表6である。翻書影スタイルである冀東皮影戯の影巻は、抄写に抄写を重ねて伝わるため、口伝の台本に比べて差異が生じやすいとされるが、それでも基本的な共通性を保っていることがわかる。
表6 三請樊梨花部分比較 | |
上 | 不如意事常八九。可對人言無二三。奴 樊梨花。可恨薛丁山那个強人。 疑心太重。連貶奴 |
⑥ | 不如意事長八九。可與人言無二三。奴佳樊梨花。可恨強人薛文舉 負義之徒。疑心太重。連貶奴 |
上 | 家寒江二次。思想起來。 真叫人可惱。〔唱〕 |
⑥ | 寒江兩次。我思前想後。正可憐人也。〔唱〕 |
上 | 思前想後如酒醉 強人哪你把夫妻二字丟 |
⑥ | 思前想後心內恨 強人他竟將夫妻恩愛丟 全不想仇深似海我不報 我與你結下蘭鳳儔 |
上 | 從夫大禮奴也懂 宜爾室家效綢繆 可恨楊凡賊醜鬼 攪鬧我們不對頭 |
⑥ | 從夫大禮奴也懂 宜室一家效綢繆 可恨那醜鬼楊凡賊狗子 攪鬧的好好夫妻不到頭 |
上 | 貶奴寒江正兩次 淒淒涼涼度春秋 |
⑥ | 遭貶寒江正兩次 受此淒涼度春秋 你忘了合歡床上同睡寢 你忘了顛鸞倒鳳樂悠悠 |
上 | 你忘了同觀兵書與戰策 交與你排兵布陣巧計謀 你忘了合婚床上同睡寢 奴與你一心無二樣 |
⑥ | 你忘了夜觀兵書與戰策 交與你排兵布陣巧計謀 奴與你一心無二樣 |
④⑥に見える「大罵城」は、前掲の『燕影劇』等と大きく異なっている。まず、冀東皮影戯影巻では、太宗ではなく太子の親征になっている。樊金定は女将ではなく閨女として描かれており、それゆえに罵城の場面で、薛仁貴は後妻・樊金定の存在を認めたものの、遠く鎖陽関にまで来たことを信じず、敵軍の計略を最後まで疑い、結果的に樊金定を自殺に追い込んでいる。このため、セリフ・歌詞ともに、『燕影劇』等と共通する部分がほとんど見出せない。『燕影劇』等では、本人と知りながら自己保身のために自殺に追い込んでいたのが、合理的な理由に基づく疑念と行き違いによる偶発的な自殺となっており、薛仁貴の英雄形象はさほど傷つかない。
少々変わっているのが⑦である。1980年代の抄写である他の郭永山氏旧蔵影巻に比して遥かに使い込まれており、山下一夫2011bは中華人民共和国建国前の抄本であると推測する。西涼の造反から薛仁貴の死まで扱うが、『燕影劇』等と同様に、太宗が親征し鎖陽関に包囲される。薛景山は薛仁貴・柳迎春の次男であるとされており、柳迎春が楊家将の佘太君さながらに元帥となって鎖陽関救援に赴く。このため、樊金定は登場せず、大罵城も描かれない。しかしこれは一方で、薛丁山・薛金蓮兄妹は、薛仁貴が征東に赴いた後に生まれた双子であるという、薛家将ものに共有されている設定との矛盾をきたしている。
一方、薛丁山の三請樊梨花の前に、妹の薛金蓮が寒江関を訪ねて樊梨花の出馬を請うが、受け容れられずに罵り合いに発展する「小罵城」はといえば、いずれの歌詞もほぼ同じである。表7は、2人が罵倒しあう場面の〔三桿七〕であるが、歌詞がほぼ同じであり、しかも、『燕影劇』本・上海江東書局本・⑥の三者それぞれの間で、それぞれ別の句が完全に一致していることから、各テキスト間に直接の継承関係が存在しないことがわかる。「抱盔頭」・「爬柳樹」についても、字句の比較は掲げないが、各テキストは基本的に一致している。
表7 「小罵城」歌詞比較 | |
燕 | 金蓮惱 怒沖沖 叫聲賤人 聽我說明 先許楊醜鬼 又愛我長兄 楊凡生的醜陋 家兄長的妙伶 |
上 | 薛金蓮 怒沖沖 叫聲娼婦 細耳聽明 先許楊醜鬼 後愛我長兄 楊凡生的醜陋 家兄長的妙靈 |
⑥ | 薛金蓮 怒沖沖 罵聲娼婦 聽吾說明 先許楊醜鬼 後愛我長兄 楊凡生的醜陋 家兄人才妙令 |
燕 | 逼死父親為不孝 世界那有你這樣丫頭精 |
上 | 逼死其父算不孝 世界上那有只樣丫頭精 |
⑥ | 逼死爹娘為不孝 世界那有這樣丫頭精 |
燕 | 薛金蓮 臉少逞 許親之事 我父醉中 姻緣定錯配 自擇婿乘龍 爹爹本是自刎 一家四散西東 |
上 | 娼婦你 少逞能 許親之事 我父醉應 姻緣豈錯配 自己選乘龍 我父本是自刎 一家四散西東 |
⑥ | 小賤婢 你是聽 許親之事 我父醉中 姻元豈錯配 自己選乘龍 爹爹本是自刎 一家四散西東 |
燕 | 聲名傳揚難更改 縱有淨水洗不清 |
上 | 聲名傳出難更改 縱在黃河洗不清 |
⑥ | 聲名傳出難更改 縱有淨水洗不清 |
燕 | 小賤人 臉少逞 憐我哥哥 止封元戎 王禪大老祖 度去做門生 你父不肯允就 丫頭慾火發生 |
上 | 小賤婢 自朦朧 愛我哥哥 職封元戎 王禪老祖師 收去做門生 你父不肯棄舊 丫頭慾火發生 |
⑥ | 罵一聲 娼婦精 愛吾哥哥 職局元戎 王禪大老祖 收去作門生 你父不肯允就 丫頭慾火發生 |
燕 | 為夫殺父休遮蓋 偏偏老天不肯容 |
上 | 為夫殺父禮不對 偏偏老天不肯容 |
⑥ | 為夫殺父禮不對 偏偏老天不肯容 |
ここから、冀東皮影戯影巻『鎖陽関』に見える「大罵城」は、『燕影劇』等と同系のテキストに基づいているが、薛仁貴を、保身を優先する小人物として描くのを嫌い、書き換えたものであることがわかる。ともなれば、『全集』本「樊金定罵城」は、北京皮影戯の影巻を、冀東で太子親征に改めたが、薛仁貴の英雄形象保護のための書き換えがまだなされていない、過渡的段階のテキストであると理解されよう。そして⑦は、大罵城そのものを無かったものとする方向で書き換えたが、薛家将ものの基本設定をふまえていないこともあり、広く行われるには至らなかったと考えられる。ともなると、上海江東書局本や③が三請樊梨花から始まっており、①②で「大罵城」の収録されていたとおぼしき冊が欠けているのも、やはり薛仁貴の英雄形象を傷つけないための配慮である蓋然性が高い。
かかる「大罵城」をめぐる改作の動きは、京劇における動きと軌を一にしている。例えば、「連環套」・「駱馬湖」・「悪虎村」などの黄天覇は、本来、猜疑心の強い小人物としての一面が描かれていたが、内廷供奉などを通じて洗練された結果、そうした側面が消されて完全な英雄へと変貌した*14。きっかけは宮廷での上演であったとはいえ、改編された台本や上演方法が受け容れられ定着したのは、民間の受容層のニーズに合致していたからにほかならない。冀東皮影戯における「大罵城」の改編も、19世紀後半以降、受容層の嗜好が変化したことの表れであると言えよう。
影巻『鎖陽関』・『牧羊関』改編の痕跡†
冀東皮影戯の影巻『鎖陽関』・『牧羊関』は、いくつかの矛盾を抱えている。
羅章は、『説唐三伝』では羅通の子、羅成の孫とされ、薛丁山に従って鎖陽関に救援に赴く。影巻『鎖陽関』では、薛仁貴配下の将軍として姜須・周青・馬良・王明・牛忠・王亮らがもっぱら活躍しているが、截仙陣のくだりで唐突に、鎖陽関から羅章夫婦を呼び寄せるという話が出てくる。
牧羊関で樊梨花に斬られた妖道・黄羊子の仇を討つため、妹の黄紅霄・黄雲霄が西涼軍に加わり七箭法を用いるが、科白に以下のように見える。
竇金蓮よ、竇金蓮、お前は今日、我が手の内にあり、お前の命脈の尽きる時だ。*15
復讐の対象は樊梨花であるべきだが、竇金蓮に入れ替わっている。その薛景山・竇金蓮夫婦は、截仙陣を破った後、牧羊関の守備を任されて物語からフェードアウトし、大団円の凱旋および官職・爵位に封ぜられる場面にも登場しない。
さらに、金沙陣を破るために三皇宝剣を借りに赴く竇一虎の科白に、以下のように見える。
この宝剣はさきに金冠李道符を斬ったもの。その後、玉帝が勅旨を下し、仙人に交替で見張らせている。*16
また、竇一虎が截仙陣を破る助勢を求める場面で、鬼谷子王禅は以下のように言う。
かつて、李道符という道人がおり、神兵陣を布いたが、その時には山人が下山し協力して陣を破り、妖人を除いた。*17
影巻『鎖陽関』に李道符は登場せず、神兵陣も見えない。
これらの矛盾は、冀東皮影戯影巻『鎖陽関』・『牧羊関』が、先行する複数の影巻をつなぎ合わせて改編した痕跡であると考えられよう。その先行する影巻が扱っていた物語がいかなるものであったのか、次章以降で戯曲との比較を通じて検討したい。
2.『三皇宝剣』伝奇をめぐって†
『三皇宝剣』伝奇の概要†
冀東皮影戯影巻『鎖陽関』・『牧羊関』に名前のみ見える李道符は、北京皮影戯影巻『前鎖陽』、そして『三皇宝剣』伝奇などに見える西涼の軍師である。この『三皇宝剣』伝奇は、大罵城など、影巻『前鎖陽』や『鎖陽関』とも共通する物語を演じているので、皮影戯の西唐故事の由来と位置づけを考える上で、その物語内容、およびその流れを汲む戯曲作品について検討しておく必要があろう。
『三皇宝剣』伝奇の抄本は、現在、中国芸術研究院図書館に所蔵されている。現存するのは頭本から第三本までで、以下は失われている。各巻巻首には、「杜穎陶捐贈」の印が押される。頭本は十三齣(原文は「出」。以下、本文中では齣と標記する。)全42葉、第二本は八齣全27葉、第三本は十二齣全41葉である。杜穎陶1948は、
第一巻・第三巻の二巻のみが現存し、各巻十二出であるので、推測するに、全四十八出もの長さであったのだろう。*18
としているが、おそらく同稿の執筆以後に第二本を入手したのであろう。いずれにせよ、全四本四十八齣との推測は、妥当性を欠いている。筆跡は全般に整っており美しい。
物語内容については、『古本戯曲劇目提要』に概要が掲載されているが、一部に誤りも見られるので、以下に改めてまとめておく。なお、齣題については、後掲の表8を参照されたい。
頭本†
西涼征討の途中、鎖陽関で空城計(敵軍を空の城郭都市に誘い込み包囲する、いうなれば焦土作戦の一種)に陥った唐太宗・徐勣・薛仁貴らは援軍を待ち望む。樊金定は、募兵に応じてから17年音信不通となっている夫の薛仁貴を思う。折しも風に攫われて長眉大仙の弟子となっていた薛景山が、師命を受けて戻り、軍勢を募り鎖陽関に援軍として赴くことを決める。黄石公は弟子の竇一虎(原文は豆乙虎)を下山させる。竇一虎の妹で金刀聖母の弟子である竇金蓮(原文は豆金蓮)は、虎牙山の麓に招夫牌を掲げる。通りかかった薛景山は、招夫牌をたたき割って竇金蓮と戦うが、道術によって捕らえられる。竇金蓮の父の竇洪が樊金定を訪ね、2人の婚儀を整える。樊金定らは竇金蓮を伴い、竇一虎の助力を得て散関を落とす。
第二本†
李道符が諸将を配して鎖陽関の包囲を厳重にするところ、薛景山・竇一虎は敵陣を突破して城門に至り樊金定の来援を告げるが、薛仁貴が次妻の存在を認めないため、徐勣は改めて樊金定とともにやってくるように命じる。翌日、樊金定が至っても薛仁貴は諸将のとりなしを拒否して彼女が妻であることを頑として認めず、樊金定は剣を抜いて自刎する。残された薛景山らが敵営に投じようとするところ、太宗が薛仁貴捕縛を命じ、四門の敵を掃討した後、城門を開くと宣撫し、諸将は各門外の敵軍を退け、竇一虎が李道符の宝具の金鐘を打ち破る。
第三本†
太宗は城門を開き、薛景山らを受け容れて祝宴を開き、樊金定および諸将に爵位を授ける。清虚真人は、蘇海と戦い敗れた羅章を李蘭英・洪月娥と娶せるため、風で吹き飛ばす。薛仁貴は李道符の計略により扶竜峰に包囲され死を覚悟するが、伽藍神より樊金定を死に追い込んだ天譴であり、翌日、援軍が至ると告げられる。樊金定は薛景山の夢枕に立ち、薛仁貴の救援に赴くように言いつけ、翌日、薛景山らは軍を進め、竇金蓮が山神土地に鹿角を取り除かせ、薛仁貴を救う。女媧聖母は、風で竇一虎を寧州県の蔣氏の花園に吹き飛ばし、また弟子の蔣翠屏に雌雄宝剣を授け、竜虎丹で千斤の力を与え、竇一虎と娶せる。唐軍は敵陣に総攻撃を加えて、多くの敵将を討ち取り、李道符を走らせる。李道符は、漁耀真人・漁羊真人・漁浦真人(それぞれ鯉・鮫・雷魚)の助勢を得て、魏奔らに命じ鹿鳴山に陰兵劫煞陣を布く。
大西唐故事を扱ってはいるが、頭本・第二本は樊金定を軸に展開している。唐軍が鎖陽関に包囲されるに至った経緯については、第一本第二齣の徐勣の科白に、
我々は命を受け陛下の親征をお守りしておるが、はからずも鎖陽の空城に陥れられ、囲みを破ることができぬ。*19
と見える程度で、具体的な描写や説明はない。太宗が親征して鎖陽関に包囲されるという物語を『三皇宝剣』は前提としているのであり、またそうすることが可能であるほど、その物語が広く知られていたことになる。
小説『説唐三伝』と比較すると、征西して鎖陽関に包囲されるという流れは同じであるが、樊金定・薛景山が登場しない以外にもさまざまな相違がある。例えば、秦瓊の子の秦懐玉は、『説唐三伝』では鎖陽関で空城計に陥った直後、蘇宝童(すなわち蘇海)を迎え撃って陣没するが(第十一回)、『三皇宝剣』では頭本第二齣・第三本第二齣に登場している。逆に秦懐玉の子の秦漢は、『説唐三伝』では竇一虎とともに『封神演義』の土行孫的な矮将として活躍するが、『三皇宝剣』には登場しない。『説唐三伝』で、薛丁山は竇仙童・陳金定・樊梨花の3人の妻を娶るが、『三皇宝剣』に薛丁山の妻は登場せず、竇仙童の代わりに竇金蓮が薛景山の妻として登場する。一方で、羅章・竇一虎といった両者に共通する架空の人物も見られる。
『三皇宝剣』の成立年代について、郭英徳1997は「道光咸豊間抄本」としているが*20、根拠は示されてない。『三皇宝剣』には年記や序跋がないが、「歷」「曆」に常用漢字体と同じ「歴」「暦」が使われており、これは文淵閣『四庫全書』などにも見える乾隆帝の避諱字である。一方、「寧」を「 」に作るが、俗字として古くから使われる字形であるし、道光帝の避諱字として一般的な「甯」でもない。ここから、『三皇宝剣』伝奇は乾隆・嘉慶間の成立である蓋然性が高い。
『三皇宝剣』系伝奇と影巻『前鎖陽』†
『三皇宝剣』と同じく樊金定罵城を扱う伝奇が、幾つか現存している。
❶内府本『西唐伝』†
抄本、全九段、各段八齣(原文は出)の連台本戯。うち頭段・二段・五~七段・九段が『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』に、四段が『故宮博物院蔵清宮南府昇平署戯本』に収録される。
❷内府本『鎖陽関』†
抄本、六齣(原文は出)。『故宮珍本叢刊』第664冊に収録されるほか、工尺譜の付いた光緒二十二(1896)年昇平署抄本が『傅惜華蔵古典戯曲珍本叢刊』130冊に収録され、両者の科白・歌詞はほぼ一致する。❶の二段に相当するが、曲牌や字句には相違も見られる*21。また「罵城」の題綱2種が『故宮珍本叢刊』第690冊「外派弋腔題綱」に、『鎖陽関』全体の題綱が同第691冊に収録される。
❸養和堂本『西唐伝』†
抄本、十齣(原本は齣ごとの分冊となっており、齣の番号は記されていない)。『俗文学叢刊』第66冊所収。「崑曲」に分類される。「報号」・「罵城」の二齣は他と筆跡が異なっており、❺に基づいて補ったものであろう。養和堂は、おそらく北京の堂子だったのであろう。
❹一巻本『三皇宝剣』†
抄本、十齣(原文は「劇」)。中国芸術研究院図書館蔵。冒頭から第二齣途中までを欠く。
第十三葉表には「仁利和記」の印が押される。仁利和記は清代の紙廠であり、「仁美和記」にも作る。乾隆四(1739)年武英殿刻本『前漢書』*22、小説『姑妄言』雍正間抄本*23、『西夏図』*24、および車王府曲本の「三難新郎」・「范蠡帰湖」*25などに見える。仁利和記がいつ頃まで活動していたかが定かではなく、また保存されていた紙を利用した可能性もあるため、これだけで抄写年代を確定することはできないが、『姑妄言』と『西夏図』がいずれも1849~1862年にかけてロシアの外交官スカチコフが北京で収集したコレクションに含まれていることを考えれば、一巻本『三皇宝剣』の抄写年代もその時期より前である蓋然性が高い。
ところで、杜穎陶1948は、道光二十二(1842)年抄本の弋腔本から「罵城」齣の〔孝順歌〕を引いているが、その歌詞・科白は❸❹❺の当該部分と非常に近い。あるいは、これが杜穎陶旧蔵の道光抄本で、巻首の欠落部分に抄写年代などが書かれていたのかもしれない。そうであるならば、字句に若干の出入りが見られるのは、引用にあたって手を入れたためであろうか。
❺折子戯「報号」・「罵城」†
車王府曲本に収められ、『清蒙古車王府蔵曲本』は「報号」を崑曲に、「罵城」を高腔に収録する。また『俗文学叢刊』41冊「高腔」が百本張本の「報号」と「罵城」、および「報号」の抄本を収録する。以上の各テキスト、および養和堂本『西唐伝』の同齣は、科白や歌詞さらに注記までも含めて、ほぼ一致している。おそらく、百本張本が原本で、他はそれを抄写したものであろう。
表8は『三皇宝剣』伝奇と❶~❹の齣題の対照だが、影巻『前鎖陽』についても、対応箇所の巻数と『俗文学叢刊』本のページ数を記載している(影巻『前鎖陽』巻五の後半以降は、二困鎖陽関・一休樊梨花を描き、伝奇と重ならないため、記載していない)。
『三皇宝剣』 | 内府本『西唐伝』 | 内府本『鎖陽関』 | 養和堂本『西唐伝』 | 一巻本『三皇宝剣』 | 影巻『前鎖陽』 | |||||||
頭段 | 第一齣 | 設計儯城 | ||||||||||
第二齣 | 入関遭困 | |||||||||||
第三齣 | 囲城射敵 | |||||||||||
第四齣 | 観星取救 | |||||||||||
第五齣 | 敕命下山 | |||||||||||
第六齣 | 招賢起程 | 第二齣 | 招軍 | |||||||||
第七齣 | 賜宴賀功 | 第三劇 | 犒賞 | 第三齣 | 𤞑営慶晏 | |||||||
第八齣 | 法破飛刀 | 第四齣 | 見駕 | 第四齣 | 見駕破刀 | |||||||
頭本 | 第一齣 | 開場 | ||||||||||
第二齣 | 啓告拈香 | |||||||||||
第三齣 | 樊公訓女 | |||||||||||
第四齣 | 長眉遣徒 | 第一齣 | 遣徒 | 第二齣 | (長眉遣徒) | 1-7 | ||||||
第五齣 | 景山聞路 | 1-13 | ||||||||||
第六齣 | 認母招丁 | 第五齣 | 見母 | 第五齣 | 場過見母 | 1-15 | ||||||
第七齣 | 石公遣虎 | 二段 | 第三齣 | 遣徒下山 | 第七齣 | 遣虎 | 1-61 | |||||
第八齣 | 操演起程 | 第二齣 | 興兵䬻別 | 第二出 | 興兵䬻別 | 1-29 | ||||||
第九齣 | 父女議婚 | 1-39 | ||||||||||
第十齣 | 劈牌受伏 | 第四齣 | 截路訂婚 | 第三出 | 截路訂婚 | 第八齣 | 招親 | 第七齣 | 水困招婿 | 1-48 | ||
第十一齣 | 豆洪求親 | 1-57 | ||||||||||
第十二齣 | 洞房花燭 | 1-60 | ||||||||||
第十三齣 | 散関大戰 | 1-66 | ||||||||||
第二本 | 第一齣 | 道符遣將 | 第一齣 | 点將復讐 | 第一出 | 点將復仇 | 第六齣 | 二困 | 第六齣 | 道符派將 | 1-75 | |
第二齣 | 遣子報号 | 1-80 | ||||||||||
第三齣 | 景山面君 | 第五齣 | 投城奪寨 | 第四出 | 投誠突寨 | 第九齣 | 報号 | 第九劇 | 探路反目 | 2-91 | ||
第四齣 | 調隊回音 | 第六齣 | 闖営回報 | 第五出 | 闖営回報 | 2-101 | ||||||
第五齣 | 鎖陽踹営 | 2-105 | ||||||||||
第六齣 | 金定罵城 | 第七齣 | 金定尽節 | 第六出 | 金定尽節 | 第十齣 | 罵城 | 第十劇 | 尽節踹営 | 2-110 | ||
第七齣 | 魏奔起兵 | 2-173 | ||||||||||
第八齣 | 合兵破営 | 第八齣 | 重踹蕩宼 | 2-163 |
三皇宝剣』 | 影巻『前鎖陽』 | ||
第三本 | 第一齣 | 歸隊進關 | |
第二齣 | 封官告戰 | 3-211 | |
第三齣 | 神風解戰 | ||
第四齣 | 出師困山 | ||
第五齣 | 樊氏托夢 | ||
第六齣 | 破山救父 | ||
第七齣 | 月老稟婚 | ||
第八齣 | 仁貴佈陣 | ||
第九齣 | 賜寶招夫 | 3-181 | |
第十齣 | 遙觀大戰 | ||
第十一齣 | 道符求法 | ||
第十二齣 | 抅魂擺陣 |
内府本『西唐伝』 | 影巻『前鎖陽』 | ||
表8 『三皇宝剣』系伝奇齣題対照表 | |||
四段 | 第一齣 | 奉調興兵 | 3-223 |
第二齣 | 褒封賜宴 | ||
第三齣 | 同議兵機 | ||
第四齣 | 密排神陣 | ||
第五齣 | 入陣心驚 | 3-235 | |
第六齣 | 棒打道符 | 3-248 | |
第七齣 | 変狗探営 | 4-265 | |
第八齣 | 羅章闖営 | 4-273 | |
五段 | 第一齣 | 劫糧大戦 | |
第二齣 | 羅章中箭 | ||
第三齣 | 二女称觴 | 4-277 | |
第四齣 | 巧合雙縁 | 4-286 | |
第五齣 | 投師求剣 | 4-336 | |
第六齣 | 促程交令 | 5-357 | |
第七齣 | 破陣交鋒 | 5-358 | |
第八齣 | 剣斬道符 | 5-366 | |
六段 | 第一齣 | 重整戎師 | 5-374 |
第二齣 | 智敗金鋒 | ||
第三齣 | 預知遭厄 | ||
第四齣 | 勝兵征進 | ||
第五齣 | 李翠誇英 | ||
第六齣 | 交鋒遇難 | ||
第七齣 | 聞報心驚 | ||
第八齣 | 探関回報 | ||
七段 | 第一齣 | 義虎求仙 | |
第二齣 | 賜丹救厄 | ||
第三齣 | 請神除妖 | ||
第四齣 | 試法降魔 | ||
第五齣 | 斬関夜戦 | ||
第六齣 | 鞭傷強虎 | ||
第七齣 | 勧父降唐 | ||
第八齣 | 戎寇遭殘 | ||
九段 | 第一齣 | 楊凡中鐧 | |
第二齣 | 唐帳訛偵 | ||
第三齣 | 樊母決姻 | ||
第四齣 | 韓将馳援 | ||
第五齣 | 梨花驚疑 | ||
第六齣 | 丁山討敵 | ||
第七齣 | 社神述果 | ||
第八齣 | 逼斬楊凡 | ||
第九齣 | 敗回報信 | ||
第十齣 | 投誠凱旋 |
表8からわかるように、物語内容については、長眉仙が薛景山を下山させる、鎖陽関へ向かう途上、竇金蓮と結婚する、といった「罵城」に至るまでの流れが概ね一致している。とりわけ『三皇宝剣』伝奇の第一本・第二本と影巻『前鎖陽』は高い共通性を持ち、いずれも薛景山と竇金蓮の婚儀の過程や、散関の攻略を丁寧に描いている。
また、これらの伝奇のうち、開場の齣を持つのは『三皇宝剣』伝奇のみであり、しかも頭本・第二本は他のテキストに比べて詳細かつ丁寧に物語を描いているが、いささか物語の展開が遅いとも言える。現存のテキストが原抄本であるのかは断言できないが、しかし『三皇宝剣』伝奇の比較的初期の姿を留めていると見て問題なかろう。長大な連台本戯でかなりの上演コストを要するので、王府などの大劇団の台本であったのだろう。
他のテキストは、宮廷での上演のニーズに合わせるために、あるいは嘉慶・道光期以後の演劇上演の変化に合わせるために、それぞれアレンジしたものであろう。また、『古本戯曲叢刊』九集所収の内府本連台本戯は、天界から神仙が下凡する開場を持つが、同じ宮廷の連台本戯でありながら内府本『西唐伝』は開場の齣を持たない。これは清朝宮廷における連台本戯の製作・上演の、時代による変化を反映したものと思われる。
ところで、内府本『西唐伝』について柴崎公美子2014は、その頭段が内府本『定陽関』を改編したものであることを指摘した上で、康熙帝・乾隆帝の対外戦争の業績と重ね合わせて称揚する目的で、本来の『定陽関』にはなかった太宗親征という要素を付け加えたものだとする。
しかるに『三皇宝剣』系の各伝奇では、薛丁山による鎖陽関救援の扱いが異なっている。養和堂本『西唐伝』・一巻本『三皇宝剣』は、薛景山下山の後の齣で、薛丁山の鎖陽関救援を描いており、内府本『西唐伝』は『定陽関』を取り込んだ頭段でそのくだりを演じている。この部分であるが、養和堂本『西唐伝』・一巻本『三皇宝剣』には若干の字句の共通が見られるが、内府本『西唐伝』とは演じている内容は似ているものの、字句レベルでの共通は見出せない。
注目すべきは、影巻『前鎖陽』も薛景山の下山、樊金定の出陣から物語を始めていることであり、ここから『三皇宝剣』系故事が、もともと薛丁山の救援を描かずに暗黙の前提としていたが、後にその前提が共有されなくなったため、各テキストがそれぞれ薛丁山の救援のくだりを補ったのだと推測できる。
『定陽関』から『西唐伝』頭段への改編も、同様の文脈で解釈できよう。すなわち、『三皇宝剣』伝奇を中核とし、『定陽関』をも利用して西唐故事をカバーする連台本戯を制作する際に、物語の整合性を取るため、太宗親征化を含む一連の書き換えが行われたと考えるべきである。また『西唐伝』二段は、『定陽関』を取り込んだ結果として似たような内容が連続することとなった、薛景山の下山や散関攻略のくだりを整理・再編して、作られたのであろう。その痕跡は、薛景山が下山する場面が無いのにもかかわらず、強竜・強虎が二段第二齣冒頭で「公子が下山して母と再会し、西涼に陛下の救援に行こうとしている*26」と話すところなどに表れている*27。
『三皇宝剣』の声腔†
さきに触れたように、『三皇宝剣』系の故事は、北京および河北・東北地方の伝統演劇・芸能に見られる一方で、他の地域の伝統劇などではほとんど演じられた形跡がなく、極めて強いローカル色を帯びていた。清代前半の北京・河北地域で行われていた聯曲体の演劇は、崑曲か弋陽腔、すなわち京腔かということになるが、『三皇宝剣』系の伝奇はいずれも主に京腔で唱われていたと思われる。
京腔とは、弋陽腔が明末に北京に伝播した後、土着化して変化したもので、康熙二十三(1684)年刊の王正祥『新定十二律京腔譜』が、その形成のメルクマールであるとされる。弋陽腔・高腔とも称されるが、本稿では京腔と呼ぶことにする。
京腔など弋陽腔系声腔の特徴は、楽器伴奏を伴わない「乾唱」と、一人が歌い人びとが和する「幇腔」にある。後者は、一人が歌った句を人びとがもう一度唱う「畳句」として現れ、戯曲テキストではしばしば「ヒヒ」「〃〃」といった反復符号で記される。『三皇宝剣』伝奇および❶~❺には、畳句や反復記号が多用されており、幇腔を用いていたことがわかる。
「罵城」齣の〔孝順歌〕では、❶❷❹で弋陽腔系の特徴である「滾白」が用いられている。その他のテキストについても、当該歌詞を比較すると(後掲)、やはり滾白を用いていたと思われる。また、前述のように、昇平署本「罵城」の題綱は「外派弋腔題綱」に収められているので、その元となった内府本の『西唐伝』や『鎖陽関』も弋陽腔であったことになる。
養和堂本『西唐伝』は、『俗文学叢刊』で崑曲に分類されているが、曲辞に傍線や〇などの符号が付されている。これは、『新定十二律京腔譜』に見える京腔歌唱の「腔」・「調」を表す符号なので、崑曲ではありえない。『俗文学叢刊』にせよ『清蒙古車王府藏曲本』にせよ、崑曲・高腔の分類に問題が多いことが知れる。昇平署抄本『鎖陽関』の曲譜でも、工尺は第一齣の全曲牌、および第二・三齣の一部曲牌に付されているだけで、他は京腔の歌唱符号が付されている。
車王府曲本の「報号」・「罵城」(すなわち❺)について、蘇子裕2009に以下のように見える。
『三皇宝剣』伝奇は、樊金定が西涼に夫(薛仁貴)を訪ねる故事を扱っている。『百本張高腔劇目録』には同伝奇の「報号」・「罵城」の2つの折子戯を著録しており、北方崑劇院の伝統劇目目録には「罵城」が著録される。車王府曲本の「報号」では、人びとが吹曲〔二犯江児水〕を唱い、唐王が〔吹風入松〕を唱う。あるいはこの劇は梆子腔に起源するのかも知れない。*28
同齣ではこのほか、〔吹皂角児〕も使われている。
養和堂本『西唐伝』では第八齣「招親」に、これとほぼ同じ歌詞の〔二犯江児水〕が用いられている。ここからも、「報号」・「罵城」齣が養和堂本『西唐伝』と由来の異なるテキストであることがわかる。
「報号」に見える吹曲、すなわち吹腔については、秦腔・梆子腔の祖型とも*29、あるいは陝西の秦腔とは異なる声腔であるとも*30言われるが、いずれにせよ、乾隆四十四(1779)年に魏長生が北京にもたらした秦腔とは異なる声腔である。内府の戯曲では乾隆年間に使われはじめ、嘉慶以降に多用されるようになる*31。『三皇宝剣』伝奇および内府本『西唐伝』・『鎖陽関』では吹腔が用いられていないので、当初は京腔のみで唱われていたのが、後に民間の劇団で吹腔が導入されたと考えるべきであろう。
『新定十二律京腔譜』と対照すると、〔二犯江児水〕は句法がいささか合わず、〔皂角児〕もいくつかの四字句が減っているが、〔風入松〕は南曲の曲律に合っている。いずれにせよ、長短句の曲牌になっており、板腔体化するには至っていない、より初期的な吹腔スタイルである。
一巻本『三皇宝剣』も「報号」に相当する第九齣「探路反目」で〔吹腔〕を唱うが、こちらは途中、太宗登場時の〔引〕を夾み、最後に〔尾声〕を唱うまで、齣冒頭の一部が五字句であるほかは七言斉言になっている。以下に一部を引用する。
(眾應,貞唱)
君臣一同上了馬 且到城頭觀明白
只見回兵紛紛亂 黃沙滾滾蕩塵埃(同上城,景上唱)
策馬來在關門外 遙望君臣城頭排
急急向前去報好 (乙)公子,我躲在一傍看明白
「貞」は太宗、「景」は薛景山、「乙」は竇一虎を表す。
養和堂本『西唐伝』や❺の「報号」では、長短句の曲牌を吹腔で唱っていたのに対して、一巻本『三皇宝剣』の方は斉言句であり板腔体化しているが、上下句形式であり、19世紀末以降の皮黄腔や梆子腔よりも古いスタイルを留めている。清代にはさまざまな声腔が勃興して北京に進出しているが、以上の『三皇宝剣』系伝奇に見える吹腔の事例からは、民間の京腔の劇団が新興の声腔を取り入れて変容していった、その過程を見て取ることができる。
「罵城」齣の比較†
『三皇宝剣』系の伝奇のクライマックス、「罵城」齣を比較してみよう。それぞれの套曲は以下のようになっている。
『三皇宝剣』†
〔引〕〔水底魚〕〔孝順歌〕〔鎖南枝〕
❶内府本『西唐伝』†
〔駐雲飛〕〔前腔〕〔駐雲飛〕〔孝順歌〕〔前腔〕〔前腔〕〔前腔〕〔尾聲〕
❷内府本『鎖陽関』†
〔駐雲飛〕〔又一體〕〔又一體〕〔孝順歌〕〔鎖南枝〕〔又一體〕〔又一體〕〔水底魚〕
❸❺「罵城」齣†
〔駐雲飛〕〔孝順歌〕〔前腔〕〔前腔〕〔前腔〕〔尾聲〕
❹一巻本『三皇宝剣』†
〔引〕〔賺〕〔駐雲飛〕〔窣地錦〕〔駐雲飛〕〔孝順歌〕〔前腔〕〔一江風〕〔普天樂〕〔朝天子〕〔朝天子〕〔普天樂〕〔尾〕
『三皇宝剣』伝奇の曲牌が少ないのは、〔孝順歌〕の〔前腔〕を標記していないためである。また一巻本『三皇宝剣』は、罵城の場面に続けて殺四門を演じているため、〔一江風〕以下、曲牌が多くなっている。内府本『鎖陽関』の〔水底魚〕も同様である。
樊金定と太宗・薛仁貴とのやりとりで唱われる〔孝順歌〕は、この齣の眼目であるが、各テキストの字句は似かよっている。以下に、各本の〔孝順歌〕を引用する。なお引用にあたり、白・夾白は省略した。内府本『鎖陽関』については、参考のために、続く〔鎖南枝〕も引いてある。いわゆる正字体に寄せて翻刻したが、同音字・反復記号などは書き換えていない。
『三皇宝剣』†
〔孝順歌〕聽奴告訴因伊,〃〃,我本邦君一民女。仁貴到鄉居,我父來招贅,不料他病染沉疴,〃〃。眾功勳,只因我父見他,相貌非俗,又在孤息,將他收留在家招為門婿。誰想他病癒災除,寫下遺書投軍而去,〃〃。真實語訴君知,〃〃。妾身指望效于飛,望君家相憐息,〃〃。(唐唱)★聽他語暗尋思,〃〃,追想緣由果是實。(白)……(仁)……(唱)賊人設計危,婦人弄懸虛,休信讒言語。(唐白)……(徐)……(唱)我有言問你,〃〃。(白)……(唱)誰是你夫君,指定名兒,便是你夫婿。(定唱)離別後一十七,〃〃,日久年深無會期。目覷蒼鬚,銀盔鳳翎,素白銀粧恰似我夫婿。(眾白)……(丁)……(仁)……(唱)★無知輩弄懸虛,〃〃,世間那有你這癡婦女,冒認夫君,來乍城池,急早回去莫待遲。(徐白)……(定)……(唱)無虛語莫猜疑,〃〃.今日裡統領鄉軍,〃〃,非容易苦戰惡相持,殺奔西涼城地。扶唐世大會期,〃〃,表奴家真節義,〃〃。(徐白)……(定)……(仁)……(扯介,定唱)★辜負輩扯遺書,〃〃。罷了。冤家,當初狼狼狽狽,去到邦君,招贅在家。今日受此高車祿位,誰想你返面無情,不認妻兒了,冤家,誰似你辜恩負義,恰似〃〃狠王魁。罷了。萬歲爺,我今日,統領鄉丁,殺奔西涼,大破關隘,指望夫妻完聚,父子團圓保唐君,〃〃。冤家,不料你,狼心野性狠蛇蝎,眾鄉丁,爾等隨我苦征鏖戰,殺奔關隘,指望棄暗投明,受此恩榮。誰知到此枉費徒勞,教我心下如何忍得了。鄉丁,可憐我趨前退後無可棲,〃〃。也罷,倒不如青鋒劍下把身斃。(眾)
❶内府本『西唐伝』†
〔孝順歌〕聽臣妾奏因伊,我是邦均一民女。仁貴受災罹,我父將他來招婿。誰知兵魔纏體,是我費盡慇懃,延醫來調理。(滾白)我父見他相貌非常,又在孤苦之中,將他收留在家,招為門婿,自投軍以來,到今日一十七載無消息音信不見回,因此上,與孩兒尋夫認父來此的。(徐勣白)……(金定白)……(滾白)到此來非容易,拋棄爹娘認父尋夫婿,真情事訴與知。(唱)伏望君恩垂憐庇。
〔前腔〕聽他說真是奇,他的言詞無虛意。卿等細詳機,爾等群臣議,真情事豈可疑,教他認夫君莫遲帶。(白)……(徐勣白)……(金定白)……(唱)
〔前腔〕從別後總未歸,孤單影隻冷淒淒,我今看容儀,蒼鬚風翅兮,這公卿貌甚奇,宛然是我夫婿,宛然是我夫婿。(薛禮白)……(眾白)……(薛禮白)……(徐勣白)……(金定白)……(徐勣白)……(咬金白)……(咬金作繫筐取書科。徐勣白)……(咬金白)……(丁山白)……(唱)
〔前腔〕娘親到會合期,爹行何故不認妻。其中事可疑,教人難猜謎。……(薛禮白)……(滾白)無恥婢太無知,世間那有這蠢東西,假冒認夫君,傷風敗化壞人倫。(眾唱)老元帥休著急,老元帥休著急。實意真情,他怎敢冒認夫妻,忘卻了恩情義。(貞觀白)……(薛禮白)……(金定白)……(滾白)當初狼狼狽狽,到我邦均,在家招婿,奴教你病癒災除,慈心揀書現在。今日受此皇恩,高居祿位,忘卻恩義了。冤家,似你這等辜恩負義狠王魁。罷了,兒夫,我與你統領鄉兵,不辭千里而來冲鋒冒敵,投奔到此,指望夫妻相會,父子重逢。不相他反面無情,把我一片冰霜節烈,一旦一旦赴流水。罷了。眾鄉軍,我與爾等受盡千辛萬苦,闖破銅牆鐵壁,投奔前來,指望爾等建功立業,受些君恩,誰想不認親,只是不認,只是不認了。天,你叫我率領莊兵無所歸,怎生回去見雙親。(白)……(眾上馬科。金定白)……(唱)七星劍下歸泉世。
❷内府本『鎖陽関』†
〔孝順歌〕聽臣妾奏因伊我是邦均一民女,仁貴受災罹,我父將他來招婿,誰知兵魔纏體,是我費盡慇懃,延醫來調理。(滾白)我父見他相貌非常,又在孤苦之中,將他收留在家,招為門婿,自投軍以來,到今日一十七載無消息音信不見回,因此上,與孩兒尋夫認父來此的。(徐勣白)……(金定白)……(滾白)到此來非容易,拋棄爹娘認父尋夫婿真情事訴與知。(唱)伏望君恩垂憐庇。(唐望白)……(唱)
〔鎖南枝〕聽他訴真是奇,他的言詞無虛意,卿等細詳催,何用多猜忌,真情事豈可疑,教他認夫君莫遲滯。(白)……(徐勣白)……(金定白)……(唱)
〔又一體〕從別後總未歸,孤單影隻冷凄凄,我今看容儀,蒼鬚鳳翅盔,這公卿貌甚奇,宛然是奴夫婿。(作指薛禮科。薛禮白)……(眾白)……(薛禮白)……(徐勣白)……(金定白)……(徐勣白)……(程咬金作繫筐取書同看科,徐勣白)……(程咬金白)……(薛丁山接書科,白)……(唱)
〔又一體〕娘親到會合期,爹行何故不認妻,其中事可疑,教我難猜謎。(薛仁貴白)……(作接書扯科白)……無耻輩太無知那有你這蠢東西。(唐王白)……(薛仁貴白)……(金定白)……(薛仁貴白)……(金定白)……(滾白)夫當初狼狼狽到我邦均,在家招婿,奴救你病癒災除。你今受此高官厚祿,忘卻恩義了。冤家,似你這辜恩負義勝王魁。罷了,兒,我與你同領鄉兵,不辭千里而來,冲鋒冒敵投奔到此,指望夫妻相會,父子重逢,誰想反面無情罷我一片冰霜節烈,一旦一旦赴流水,噯呀眾鄉軍,我與爾等受盡千辛萬苦,打破了鐵壁銅墻,投奔前來,指望尔等建功立業,受些君恩,誰想不認只是不認了,天教我帶領莊兵無所歸,怎生回去見雙親。罷。景山過來,你父既然不認,速速領兵回去罷。(眾應,作上馬科,金定唱)青鋒劍下歸泉世。
❸❺「罵城」齣†
〔孝順歌〕聽臣妾,奏因伊,聽臣妾,奏因伊,我本邦均一民女。仁貴到鄉居,我父將他來招婿,不料他病染災危,ヒヒ。罷了麼我的萬歲爺,只因我父見他像貌非俗,又在孤恓之中,將他收留在家,招為門婿,不料他病染再床,幸喜災除病愈,辭親投軍而來,到今日一十七載無消息,音信杳不見歸,今到此非容易,拋父尋夫君。幸喜我的孩兒至。(徐白)……(旦白)……(唱)這些話告訴君知,ヒヒ,妾身指望效于飛,望垂憐相周濟,ヒヒ。(唐唱)
〔前腔〕聽他訴真可悲,ヒヒ,豈料言詞果是寔。卿等細詳推,便知詳和細。(徐白)……(旦白)……(念)……(唱)離別後一十七,日久年陳無會期。暮鬚蒼髯,銀盔鳳翅,恰似我夫婿。(薛白)……(唐白)……(徐白)……(咬白)……(筐繫書上。徐看介。咬奪,白)……(看介。向丁山白)……(丁白)……(薛白)……(薛扯介,白)……(唱)
〔前腔〕無恥輩弄眩虛,無恥輩弄眩虛,世間那有這樣蠢婦癡,假冒是夫君,傷盡人倫事。(唐白)……(薛白)……(眾白)……(旦唱)
〔前腔〕無恥輩扯遺書,ヒヒ,真乃狼心狗肺忘恩義。仁貴我的夫,當初狼狼狽狽,投到邦均,在家招贅。是奴受盡之苦,救你病癒災厄,寫下遺書到此現在。今受高爵祿位,你就忘卻恩義,ヒヒ了,冤家似這等辜恩負義,狠王魁。(向景唱介)罷了麼兒。(景跪介白)……(旦唱)我與你統領莊丁,不辭千里而來,指望夫妻父子重逢。(回身向城唱介)不略他反面無情,你把我一片冰霜節烈,一旦一旦盡赴東流水。(向眾莊兵唱介)罷了我的眾鄉兵。(眾跪介白)……(旦唱)我與爾等受盡千辛萬苦,闖過銅牆鐵壁,殺奔前來,爾等指望建功立業,同受君恩,誰想說破口皮,只是不認,ヒヒ了,天,你叫我帥領莊丁無所歸,七星劍下歸陰府。
❹一巻本『三皇宝剣』†
〔孝順歌〕聽臣妾奏因伊,ヒヒ,我是邦均一民女。仁貴到鄉居,我父將他來招婿,不料他病染災危,ヒヒ。(徐白)……(滾白)罷了麼萬歲爺,只因我父見他相貌非俗,又在孤灑,將他收留在家,招為門婿,誰想染病在床,幸然災除病癒,辭親投軍而來,到今日一十七載無消息,音信杳不回ヒヒ,今日里,統軍兵ヒヒ,非容易拋父尋夫君,又喜孩兒至,神天鑑之,ヒヒ。(徐白)……(正白)……(唱)這是真情話告訴君知,ヒヒ。妾身只望效于飛,望垂憐相周濟,ヒヒ。(貞觀唱)
〔前腔〕聽他說真可愁,ヒヒ,追想言詞果是實。卿等細詳推,可問講和細。(白)軍師,你將言問取,ヒヒ。指定是他夫,便是無虛意。(徐白)……(正唱)離別後一十七,ヒヒ,日久年深無會期。目覷蒼髮,銀盔鳳翅,便是我夫婿。(薛白)……(眾白)……(薛)……(正)……(徐)……(眾)……(卒繫介,正)既……(眾白)……(咬金白)……(丁)……(薛)……(撕介,唱)★無知輩弄懸虛,ヒヒ,世上那有這癡婦女。假冒設奸計,誰是你夫婿。(眾唱)老元戎你著急,ヒヒ。若不是實義真情,他怎肯冒認夫男,忘卻了羞和恥。(薛白)……(正唱)★狠心的怨的,你當初狼狼狽狽,投到邦均,在家招贅。誰想病癒災除,辭妻遺書現在。今日受此皇恩,高居祿位,忘卻恩義,ヒヒ了,冤家似你這辜恩負義,恰似了狠王魁。兒,你我統領鄉兵,不辭千里而來,冲鋒列勢殺奔前來,指望夫妻父子完聚。不料反面無情,把我一片冰心節烈,一旦ヒヒ盡赴東流水。罷了麼。眾莊軍,我與爾等,受盡千辛萬苦,闖過銅牆鐵壁。爾等只望建功立業,同受君恩,不想說破口皮,只是不認,今天你叫我率領鄉兵無處歸,似這等進退兩難,死無門地。(介)也罷,鋒芒劍下歸泉世。
『三皇宝剣』は前腔換頭・滾白を標記していないため少々分かりにくいが、他のテキストと対照すると「★」を付した箇所から〔前腔〕になっていると思われる。一巻本『三皇宝剣』の〔前腔〕以下も同様である。〔孝順歌〕とその前腔換頭を計4曲唱い、その間に滾白が挟み込まれていることになる。内府本『鎖陽関』は、初めの前腔換頭以降を〔鎖南枝〕として再編しているが、〔鎖南枝〕(および〔孝順歌〕)は、『新定十二律京腔譜』があらゆる律で使用可能な「閏月律」に分類している曲牌であり、曲律上、問題はない。
いずれも、樊金定に薛仁貴を指し示させる、仁貴の置き手紙を示させる、それを仁貴が破り捨て、金定が自尽に追い込まれる、という流れは同じで、字句レベルでも冒頭部分がほぼ共通しているほか、各句の表現も概ね似かよっている。1つ目の〔前腔〕の「離別後一十七,日久年深無會期……」のくだりは、『三皇宝剣』と一巻本『三皇宝剣』、「罵城」散齣で共通しているが、内府系のテキストの唱詞には見られない。一方で、内府本『西唐伝』の「闖破銅牆鐵壁」の句は、『三皇宝剣』には見えないが、❷「打破了鐵壁銅墻」、❸❹❺「闖過銅牆鐵壁」と似かよっている。とりわけ、❸❺と❹の歌詞は非常に似かよっている。
『新定十二律京腔譜』によれば〔孝順歌〕は「緊板」でも唱われるので、滾白を交えつつ速いリズムで歌い上げ、薛仁貴と樊金定の応酬でそれが最高潮に達したのであろう。双方が昂揚して激しく唱い合うシチュエーションを作り得たこと、それがこの齣が折子戯として演じられた所以であろう。京劇に「金定殺四門」*32があり、子弟書や馬頭調でも専ら「樊金定罵城」が取り上げられていることからも、その人気が窺える。伝統劇舞台、特に折子戯の上演では、感情移入できるシチュエーションと芸の見せ場が相まっていれば、十分な劇場の快楽が得られるのであり、その際に、薛仁貴の英雄イメージや全体としての物語の整合性などは、さして問題にならない。
各テキスト間の共通点†
このように「罵城」齣が各テキストで概ね共通している一方で、その他の齣はといえば、ストーリーこそ共通するものの、ある程度まとまった字句が全テキストで共通している箇所は見出せなかった。
個別のテキスト間では、内府本『西唐伝』と『鎖陽関』の間には、前述のように明確な継承関係がある。
また、養和堂本『西唐伝』と一巻本『三皇宝剣』にも、いくつかの共通が見られる。物語については、養和堂本『西唐伝』第八齣「招親」、一巻本『三皇宝剣』第七齣「水困招婿」、そして影巻『前鎖陽』は、いずれも竇金蓮が法術で一面を水浸しにして、薛景山を身動きできなくして捕らえる。一方、『三皇宝剣』では定神法を用いて、内府本『西唐伝』・『鎖陽関』では黄巾力士を召還して、それぞれ捕らえている。
養和堂本『西唐伝』と一巻本『三皇宝剣』には、字句レベルでの共通も見られる。
養和堂本『西唐伝』第四齣「見駕」†
〔點絳唇〕大帝忠良,開都立創安邦,將社稷護匡,不料遭魔障。
一巻本『三皇宝剣』第四齣「見駕破刀」†
〔點絳唇〕大帝忠良,開都立創安邦,將舊業封王,不料魔障。
養和堂本『西唐伝』第八齣「招親」†
〔粉蝶兒〕女傑英豪、俺本是ヒヒ,把六韜三略齊曉,聖母傳授上高,煉丹爐演奇術,深山瓊島。今日個,奉師命,特下山蹺,與唐將結絲蘿,同把那西涼平掃。
紅妝窈窕仗昆吾,六韜三略掌中扶。雖無男兒軍威壯,敢ヒ是堂ヒ女丈夫。
一巻本『三皇宝剣』第七齣「水困招婿」†
〔粉蝶兒〕女傑英豪、俺本是女傑英豪,把六韜三略齊曉,仗聖母傳授功高,煉丹爐演奇術在深山瑤今日里奉師命配卻良緣等唐將結絲羅,同把那西涼盡掃。
紅妝窈窕仗昆吾,六韜三略掌中符。雖然男兒軍令狀,敢稱堂堂女丈夫。
他にもいくつかの似かよった字句が見られるものの、全体として見れば、共通しているのは一部に留まる。
『三皇宝剣』伝奇は四本以上のボリュームを持ち、各本の上演には丸一日を要したものと思われるが、そもそも連台本戯として上演される機会は稀であったろう。折子戯台本の残存状況から、実際の上演は、とりわけ人気の高かった「罵城」齣、それとその前段にあたる「報号」齣に限られており、その部分については台本が口伝されたため、『三皇宝剣』との共通性がある程度保たれた一方、その他の部分は上演頻度が低く、連台本戯の台本はさほど流通せず、科白や歌詞も口伝されなかったことが、各テキスト間の字句の不統一をもたらしたのであろう。
以上から、『三皇宝剣』系伝奇の変遷をまとめてみると、まず比較的早い段階で『三皇宝剣』伝奇をもとに内府本『西唐伝』が作られ、それが清末に内府本『鎖陽関』に改作された。清朝の宮廷演劇は、俳優などの人材面、あるいは台本などの面で民間の梨園の影響を受けたものの、宮廷演劇から民間への影響は、清末の京劇の内廷供奉などを除けば限定的であった。その台本や檔案は、むしろ清代の各時期に行われていた演劇や物語・上演の状況がタイムカプセル的に保存されている点に戯曲史・通俗文学史的価値があるとされるが、内府本『西唐伝』・『鎖陽関』についても、養和堂本『西唐伝』や一巻本『三皇宝剣』とは別の発展の道を歩んだことが見て取れる。
一方、物語が『三皇宝剣』伝奇から発展して「水困」などの要素の加わった段階で、おそらく道光年間に、長大な連台本戯から本戯への改編が行われ、吹腔の影響の多寡などにより、養和堂本『西唐伝』、一巻本『三皇宝剣』、百本張本などに分化したのであろう。
内府本『西唐伝』の成立年代†
『三皇宝剣』伝奇の成立年代は、いつ頃にまで遡り得るのであろうか。その際に参考になるのが、内府本『西唐伝』である。柴崎公美子2014は、劇中に皇帝である太宗が登場すること、「回部」「哈密国」などの語句が使われることなどから、その成立を乾隆五十年から嘉慶初年頃と推測する。以下では、それとは異なる方法によって、成立年代を推測してみたい。
内府本『西唐伝』は、各巻の封面に「旧大班」の印が押されている。この「大班」は、清朝宮廷演劇組織のうち、景山の外学大班を指す。乾隆・嘉慶期の宮廷演劇の機構は、大きく南府と景山とに分かれ、南府には宦官による内学と、民間出身の俳優による外学とが置かれ、景山には外学のみが置かれた。景山外学は乾隆年間(王芷章1937は乾隆十六(1751)年の第一次南巡後と推定する)に設置され、乾隆五十(1785)年には外頭学・外二学・外三学の3劇団が置かれていたことが確認できるが、嘉慶年間に大班・小班の2劇団に再編されている。再編された時期について、王芷章1937は嘉慶十八(1813)年ではないかと推測している*33。道光元年に景山外学は円明園に移されて南府外学と合併し大班・小班は消滅するので、『西唐伝』は嘉慶年間の景山外学大班が保有した台本であったことになる。ただし、再編以前の景山外学の台本を大班が継承していた可能性もあるので、これだけでは成立年代を絞り込むことができない。
内府本『西唐伝』には、七段のみ、配役一覧である「題綱」が残っている。そこには合計50名の俳優が見えるが、「康寧」と「朱康寧」は同一人物であると思われるので、実数は49名であろう。
清代南府・昇平署の檔案は、『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』として影印出版されているが、乾隆年間以前のものが失われており、嘉慶年間も十一(1806)年・二十三(1818)年・二十四(1819)年の一部しか現存していない。道光元年以降の檔案は残っており、内学についてはそこに道光三(1823)年以降の名簿「花名檔」が含まれるため、劇団員の氏名・年齢・行当などが詳細に分かるが、外学の名簿は現存しない。外学所属俳優の資料としては、道光元年「恩賞日記檔」に、同年正月にリストラ対象となった人員の一覧や、同年三月二十六日に嘉慶帝の霊柩見送りに動員された人員の一覧が見える以外は、檔案の上演や恩賞の記録を拾うしかない。王芷章1937は第五章「職官太監年表」に、それら外学の劇団員の一覧をまとている。また、王芷章1936は、外学も含めて、昇平署檔案に名前の残る主要な俳優を収録している。
表9は、内府本『西唐伝』提綱に見える俳優名と上記資料もしくは昇平署檔案への掲載状況をまとめたものである。表から分かるように、49名中25名と半数の俳優が道光初年に在籍していたことが確認できる*34。外学の名簿が完全でないことを考慮すれば、『西唐伝』提綱に見える俳優の過半数が道光初年時点で在籍していたと見てよかろう。逆に言えば、半数近くの俳優が、道光初年までに引退あるいは物故していたことになる。
『清代伶官傳』 | 道光元年革退 | 道光元年送金柩 | 其他 | |
※アラビア数字は、檔案の日付。 表9 内府本『西唐伝』俳優名一覧 | ||||
永壽 | 〇 | 阜成門內 | ||
華南 | 〇 | 阜成門內 | ||
喜林 | ||||
貴全 | 地安門內 | |||
玉元 | 阜成門內 | |||
金正 | ||||
九福 | 1/29(外頭学) | |||
慶喜 | 1/19(大班民籍学生) | |||
桂林 | ||||
迎福 | ||||
三慶 | ||||
三元 | ||||
三多 | ||||
三龍 | ||||
施康寧 | ||||
朱康寧 | ||||
康寧 | ||||
春喜 | 〇 | 阜成門內 | ||
春壽 | ||||
順喜 | 阜成門內 | |||
松順 | 1/19(大班民籍学生) | |||
祥慶 | 〇 | 阜成門內 | ||
祥福 | 地安門內 | |||
秦二官 | ||||
瑞喜 | ||||
瑞慶 | ||||
全喜 | 阜成門內 | |||
大福官 | ||||
張福 | 〇 | 地安門內 | ||
長喜 | ||||
長遇 | 道光三年恩賞日記檔(12/1) | |||
長得 | ||||
沈秀 | 〇 | 地安門內 | ||
陳福 | 阜成門內 | |||
天祿 | 阜成門內 | |||
得喜 | 1/29(銭糧処) | |||
得泰 | 1/29(外二学) | |||
得福 | 1/19(小班民籍学生) | |||
得齡 | 1/29(外頭学) | |||
馬喜 | 阜成門內 | |||
百祥 | ||||
富林 | ||||
保兒 | ||||
陸喜官 | 阜成門內 | |||
劉鳴 | ||||
壽生 | ||||
壽齡 | ||||
姚二官 | 〇 | 阜成門內 | ||
薛瑞 | ||||
增寧 |
乾隆・嘉慶年間の外学の俳優は、主に蘇州織造が江南で名をなした俳優を選抜して南府に送り込んでおり、また北京出身の旗籍の子弟もいた*35。当時は近代的医療普及以前であり、平均寿命は60に満たなかったと考えられるが、仮に15歳で舞台に登り、55歳まで俳優を務めたとすると、活動期間は40年間、劇団員の半数が引退するのに要する時間は、20年程度になる。
『西唐伝』提綱にみえる俳優の中で注目すべきは姚二官で、王芷章1936に「姚二」として伝が立っている。
姚二、本名は二官、正浄を習い、嘉慶末の月俸は三両に達していた。…中略…考えるに、二官には子の百歳がおり、ともに内府に仕えていた。この年(道光七年:筆者補)二月に、南府の制度改革によって、いずれもお役御免となったが、何らかの理由で北京に留まり、三慶班に客演した。二十五年の『都門紀略』はその傑作として、「冥判」の大判官の役を挙げている。没年やその後の事については、わからない。*36
『西唐伝』では竇一虎を演じているが、矮人という設定であるので、膝を抱えるように曲げて歩く「整矮子」で演じていたのであろう*37。
道光二十五(1845)年の『都門紀略』が三慶班の看板役者の1人として扱っているので、その頃はまだ現役であったことがわかる。また、道光三(1823)年「恩賞日記檔」に子の百歳が南府に任用されたことが見えるが、8歳であったと記されているので、嘉慶二十(1815)年の生ということになる。姚二官が道光二十五年時点で55歳であったとすれば、生年は乾隆五十五(1785)年、子の百歳をもうけたのが25歳となり不自然ではない。百歳出生時に姚二官が20歳から40歳であったとすれば、彼の生年は乾隆五十(1780)年から嘉慶五(1800)年の間ということになる。彼が乾隆年間に宮廷の舞台に登った可能性は極めて低く、嘉慶十(1805)年前後に初めて内府の舞台を踏んだ可能性が最も高い。
また、道光三(1823)年に百歳とともに任用された閏児は、内府本『西唐伝』で弟子を演じた馬喜の子で、当時9歳、嘉慶十九(1814)年の生である。彼と姚二官と、1人のみならず2人ともが40歳以上で子をなした確率はかなり低くなるので、内府本『西唐伝』の成立が乾隆年間であった可能性も、それだけ減ずることになる。
以上を総合すれば、内府本『西唐伝』は嘉慶十年前後に制作された蓋然性が高い。ともなれば、それが主に依拠したと思われる『三皇宝剣』伝奇の成立は、それよりも前ということになる。内府に『西唐伝』より古い『三皇宝剣』系故事の戯曲が残らないことからすると、その制作時期は内府本『西唐伝』とさほど隔たっていないのではあるまいか。
『三皇宝剣』と内府本『西唐伝』の欠落部分†
杜穎陶1948は頭本・第三本に三皇宝剣が見えないことから、「『三皇剣』という名称は、どこから来たのであろうか」*38としている。また、内府本『西唐伝』は三段・八段を欠いている。このうち、両者の物語内容が重なる部分について、それぞれがいかなる内容であったのかを考察したい。
内府本『西唐伝』の欠落した三段で演じられていた物語については、四段第三齣「同議兵機」の敵方の軍師・李道符の科白から窺い知ることができる。
(蘇元帥は)そこで密かに四門斗底陣を布き、唐兵を陣中に包囲しましたが、突然、矮賊と女に陣形を見破られ、唐将に挟み撃ちにされ、数万の兵士が討たれ、数人の大将を失いました。蘇元帥は敗残兵を率いてそれがしのもとにおいでになり、反攻し復讐しようとされました*39。
第二本末で薛景山らが鎖陽関四門の包囲陣を打ち破った後を受けて、第三本では、蘇海が四門斗底陣で対抗するが、竇一虎・竇金蓮らが活躍して打ち破る、といった内容が演じられていたことがわかる。
また、四段第二齣「褒封賜宴」には、蔣翠屏が登場しており、太宗に対して次のように自己紹介する。
わたくしは、当地の民の娘でございます。竇義虎が石に打たれて傷つき、遁法で逃げて、わが園中に落ちましたので、わたくしがお救いいたしました。既に婚約を交わしましたので、助太刀し手柄を立てに参りました。*40
竇一虎と蔣翠屏の結婚は『三皇宝剣』第三本でも描かれているが、女媧聖母が第七齣で竇一虎を風で吹き飛ばし、第九齣で弟子の蔣翠屏に宝剣と仙丹を与えて竇一虎と娶せており、展開がいささか異なる。また、第三本末尾の第十一齣「道符求法」・第十二齣「抅魂擺陣」で、李道符が漁耀真人・漁羊真人・漁浦真人の助勢のもと、陰兵劫煞陣を布陣するが、内府本『西唐伝』の四門斗底陣に相当する場面は見えない。
『三皇宝剣』第三本では、扶竜峰に包囲された薛仁貴を、薛景山が救援するエピソードを主に演じているが、内府本『西唐伝』で薛仁貴が罪を許されて原職に復帰するのは四段第二齣なので、三段で薛仁貴は軍を率いる立場になかった。すなわち扶竜峰のくだりは描かれていなかったことになる。
また、影巻『前鎖陽』では、竇一虎が巻二末尾で敵将・何浄の「必沙神石」(碧沙神石か)に敗れ、巻三冒頭で人事不省のまま蔣家の花園に落ちたところを、蔣翠屏(原文は蔣翠平)が仙丹で救って結婚を約しており、内府本『西唐伝』で蔣翠屏が語るところとほぼ同じである。神仙が直接的に婚姻を成立させる『三皇宝剣』伝奇に比べると、物語の流れの中で処理されるようになっている。また、『前鎖陽』の蔣翠屏は「先祖代々、西涼界牌関外の蔣家村に住んでおります*41」と称しており、これも内府本『西唐伝』の「当地の民女」と付合する。一方、『前鎖陽』で蘇海が布いたのは八卦連環陣で、四門斗底陣ではない、といった違いもある。
いずれにせよ、内府本『西唐伝』の失われた三段の内容は、蘇海の陣を攻めた竇一虎が敵の宝具に敗れ蔣翠屏に救われる、蘇海の布いた四門斗底陣を竇金蓮と、駆けつけた竇一虎・蔣翠屏夫婦の活躍で破る、といったもので、影巻『前鎖陽』の巻二・巻三と近い内容であったことになる。
次に『三皇宝剣』第四本以降について検討しよう。三皇宝剣という剣は、内府本『西唐伝』・影巻『前鎖陽』に見える。内府本『西唐伝』では四段第七齣「変狗探営」で、竇一虎が犬に変化して敵陣に忍び込み、李道符は三皇宝剣でなくては斬れないことを探り当て、五段第五齣「投師求剣」で黄石公を訪ねて三皇宝剣貸し出しを依頼、第八齣「剣斬道符」で首尾良く李道符を討ち取る。影巻『前鎖陽』も概略は同じだが、竇一虎が毛遂の助力のもと、剣を東方朔の元から盗み出すなど、細部には違いもある。
三皇宝剣と名付けられたからには、劇のクライマックスはこの三皇宝剣で李道符を斬る場面にあったはずである。従って『三皇宝剣』第四本以降は、内府本『西唐伝』四段第四齣から五段第八齣までの範囲とほぼ同じ、羅章が李蘭英・洪月娥を娶り、竇一虎が黄石公より三皇宝剣を借り受け、唐軍が陰兵劫煞陣に総攻撃を加え、竇一虎が李道符を斬る、といった内容であったと推測される。
内府本『西唐伝』や影巻『前鎖陽』では、引きつづき薛丁山と樊梨花のエピソードに移るが、李道符が斬られ、三皇宝剣というタイトルが既に回収されている以上、『三皇宝剣』伝奇ではそこまで演じていなかったはずである。
影巻『前鎖陽』は、『三皇宝剣』伝奇の物語を全体として継承しているが、薛仁貴が扶竜峰に包囲されるエピソードを扱わず、薛景山が「水困」で竇金蓮に捕らえられる要素が加わるなど、内府本『西唐伝』や養和堂本『西唐伝』・一巻本『三皇宝剣』、それぞれと相通ずる要素を持っている。内府に取り入れられたものから、さらに変化した段階の物語を反映しているのであろう。
地域性と三下南唐故事†
『三皇宝剣』伝奇第三齣で、樊金定の父・樊仲は、以下のように名のる。
それがし、姓は樊、名は仲、字は興如、直隸邦君店の人であります。*42
この「邦君」という地名は、前に引いた「罵城」齣でもたびたび歌詞・科白に登場しているが、他のテキストでも同様である。内府本『西唐伝』二段第二齣で樊金定の父・樊仲賢は「先祖代々邦均に住んでおります*43」と語り、一巻本『三皇宝剣』では第七齣が「邦均起」と題しており、影巻『前鎖陽』巻一でも「それがしは樊注広、字は有功。先祖代々、薊州邦均店兵馬三庄に住んでおります*44」とするなど、いずれも邦均という地名を強調している印象を受ける。
この邦君、あるいは邦均というのは、現在の天津市薊県邦均鎮である。清代は順天府に属した。北京のほぼ真東70km余りに位置し、山海関方面へと向かう街道筋で、宝坻を経由して天津へと南下する街道の起点でもある交通の要衝で、経済的にも繁栄していた。しかも、影巻『前鎖陽』に見える兵馬三庄は、道光『薊州志』で邦均を中心とする西花郷管下の村に兵馬庄が確認できるので*45、実在の地名である。村レベルの地名が合致するのは、影巻『前鎖陽』の形成・変遷の過程に現地の皮影戯劇団や芸人が関わっていた可能性を示唆する。
地名辞典では地名の由来を以下のように説明する。
伝説によると、戦国時代、商鞅がここで宿泊したので、商君店と名付けられた。唐の太宗が東征してここを通りかかり、「傷軍」と同音で禁忌を犯しているため、「邦軍店」と改名し、後に今の名に変化した*46。
冀東皮影戯影巻『鎖陽関』④⑥はこの地名にまつわるエピソードを劇中で語っている。
かの年、朝鮮が造反し、天子が親しく東遼を征伐されましたが、大軍がこの地に至ると、天が疫病を降らせて、唐の陣営の君臣・将兵がたくさん亡くなりました。唐王さまは疑わしく思われ、傷軍店を邦軍店に改められました*47。
薛仁貴征東故事では、雑劇から『説唐後伝』に至るまで、いずれも山東半島経由で海を渡って高句麗を攻めているが、実際の唐太宗高句麗親征は、幽州(すなわち北京)から陸路で行われている。この唐の太宗による改称のエピソードが下敷きになって、樊金定の出身地が選ばれたとも思えるが、逆に『三皇宝剣』系故事からエピソードが作られた可能性もあり、清代中期以前にこのエピソードが存在した証拠が見つからない現状では、断定することはできない。
それとは別に、清代、特に乾隆年間において、邦均は北京の人びとにそれなりに知られた地名であったと思われる。それは、順治帝・康煕帝などの陵墓が置かれた東陵、および名勝・盤山の存在による。東陵は現在の河北省唐山市遵化に造営されており、北京から往復する際には邦均を通過する。『清実録』によれば、康熙帝や乾隆帝など多くの皇帝が邦均に宿泊している。また盤山は薊県(清代は薊州)の北に位置しており、康熙帝も訪れているが、乾隆帝はことに気に入っていたようで、『清史稿』本紀で確認できる限りでも15回訪れており、その際にも盤山の真南に位置する邦均を通っていたことになる。乾隆帝は、東陵と盤山に合わせて30回以上巡幸しているので、その途上にある邦均も、北京の官民の間で知られていたはずである。それが『三皇宝剣』で樊金定の出身地としてこの地が選ばれた背景であろう。
薛景山の「景山」という名前も一考に値する。景山は、いうまでもなく、紫禁城の北に堀を掘削した土を積み上げて築かれた小高い丘であるが、歴史上は明の崇禎帝が縊死したことで知られており、縁起の良い地名とは言いがたい。しかし、景山には前述のように乾隆・嘉慶年間に宮廷演劇の機構の1つが置かれており、北京梨園となじみ深い場所であった。だからこそ、縁起の悪さが払拭され、人名に使うことができたのではなかろうか*48。前にも触れたように、景山外学の設置は、乾隆十六(1751)年であると推定されているので、『三皇宝剣』の成立はそれよりも遅い可能性が高い。
いずれにせよ、物語が北京・河北地域を中心に行われたのと同様に、地名や人名も地方色を帯びている。
『三皇宝剣』系の物語は、それ以前の小説・戯曲や芸能作品に見えないが、三下南唐故事との共通性が見られることを大塚秀高2017が指摘している。ただ、樊金定故事が三下南唐故事に影響を与えたとしているが、大塚秀高2014が巻末の別表七で、三下南唐故事を扱った最も古い作品である宮廷の連台本戯『盛世鴻図』を康熙以前成立と推定しているのだから、むしろ逆に『三皇宝剣』伝奇が三下南唐故事の影響下に成立したとするべきである。
『三皇宝剣』では樊金定が自尽した後、薛景山らが太宗の言に従い、手分けして他の三門を包囲する敵軍を破っているが、主将である母の死の直後に、しかも味方に間違いないと認定された後に他の三門を転戦するというのは、不自然といわざるを得ない。樊金定が三下南唐の劉金定の名を借りて、『説唐後伝』に見える薛仁貴の次妻・樊繍花を元に作られた人物であるとすれば、下敷きとした劉金定の殺四門を、お約束として無批判に継承したために生じた齟齬であると理解されよう。
このほか劉金定は双鎖山に「大言牌」・「招夫牌」などを掲げて高君保の挑戦を受けるが、『三皇宝剣』等の竇金蓮も「招夫牌」を掲げている。また、三下南唐故事では馮茂が犬に変化して敵陣を探るが、内府本『西唐伝』・影巻『前鎖陽』でも竇一虎が犬に変化して李道符の弱点を探り当てる。神仙の差配による諸将の結婚話がくり返されるのも同様である。
『三皇宝剣』伝奇は、三下南唐を下敷きに、「金定」の境遇を顛倒させた物語として構想されたのであろう。このとき、異国と戦い空城計に陥るという、三下南唐と似かよったシチュエーションを持つことから、舞台として大西唐故事が選ばれた。『三皇宝剣』は、西唐故事全体を見渡してその肉付けを図ったというよりも、当時流行していた『封神演義』的な道術を表現した立ち回りシーンを設計しやすく、かつ男女の結婚話をふんだんに盛り込んだ、一個の戯曲作品として制作されたのだと思われる。
3.薛丁山・樊梨花故事と『三皇宝剣』故事†
影巻の三休樊梨花故事†
薛丁山が樊梨花との結婚を3度拒絶する「三休樊梨花」は、西唐故事の中核を占めるよく知られたエピソードである。小説『説唐三伝』でも描かれているし、冀東皮影戯影巻『鎖陽関』・『牧羊関』でも扱われている。しかし、エピソードの展開は、小説と影巻とで大きく異なる。
『説唐三伝』の薛丁山は以下の理由で、3度、樊梨花を拒絶する。
- 一休:樊梨花が帰順に際して父と兄を殺したため
- 二休:樊梨花の不忠・不孝を責めて
- 三休:樊梨花と薛応竜との仲を疑ったため
樊梨花の義子・薛応竜という要素を加えることで、単純な繰り返しになることを避けている。
一方、影巻『鎖陽関』では、樊梨花の二人の兄は薛丁山に討ち取られ、父は樊梨花の投降の意志を知って自害しており、三休の理由はいずれも、樊梨花に楊凡という許嫁がいたことにある。そして、薛丁山は敵将の法術・法具に敗れて人事不省となったところを樊梨花に救われ、目覚めた後に拒絶して追い払う、というパターンを単純にくり返す。
影巻『前鎖陽』は一休樊梨花までしか描かないが、樊梨花の父と兄が死ぬ経緯は影巻『鎖陽関』と同様であり、また薛丁山は寒江関で樊梨花と結ばれた後に、楊凡と戦って許嫁であることを知り、休妻している。内府本『西唐伝』は、おそらく宮廷で3度の離婚を演ずるのを忌避したのであろう、薛丁山の目前で樊梨花が楊凡を斬って、そのまま結ばれることになっているが、そこでも、樊梨花の父兄は唐将によって討ち取られている。
『説唐三伝』を模倣して薛応竜を登場させることもできたはずだが、それをせずに3度同じパターンをくり返すのは、影巻などに見える三休樊梨花故事が小説との直接の交渉なしに成立したことを示唆する。つまり、影巻『前鎖陽』に見える三休樊梨花故事は、『説唐三伝』以前に成立していた可能性が高い。おそらく、三休樊梨花と元許嫁の陽凡というような簡単な設定が先にできており、その内容を北京の通俗文芸界と『説唐三伝』が、それぞれ別個に埋めたのであろう。
このほか、『説唐三伝』の薛丁山が竇仙童・陳金定・樊梨花の3人を妻とするのに対して、内府本『西唐伝』および皮影影巻では樊梨花のみを妻としている。
将軍・姜須†
ところで、影巻の西唐故事に姜須という武将が登場する。『説唐三伝』には見えない人物だが、影巻『鎖陽関』でも全編を通じて活躍しており、また北京皮影戯の単齣影巻「抱盔頭」・「爬柳樹」の主人公でもある。
「抱盔頭」は、薛仁貴の死後、元帥となった樊梨花が、軍議の場で軍令を拒否した薛丁山を棒打に処した夜、寝室を訪ねて真意を打ち明けて謝罪するが、その一部始終を姜須にのぞき見られ、からかわれる、といった筋である。その直後のエピソードが「爬柳樹」で、姜須が樊梨花の命を受けて羅章夫婦に援軍を求めに行く途上、女山賊の楊翠平に追われて柳の木に登って逃げるが、隙を見て降して妻とする話である。滑稽な役まわりを果たす矮人であり、『封神演義』の土行孫タイプのキャラクターである。
この姜須の出自については、『燕影劇』本「爬柳樹」に以下のように見える。
私は姜須、興本の子である。*49
姜興本は小説『説唐後伝』に見える。李慶紅、兄の姜興覇とともに風火山で山賊をしていたが、樊家荘を襲撃して薛仁貴に敗れ、義兄弟の契りを結ぶ(第二十一回)。小説中では、八人の義兄弟という数をあわせるための人物という感が強く、特に印象に残るキャラクターではない*50。
管見の限りにおいて、姜須が登場する最も古いテキストは内府本『定陽関』で、薛仁貴配下の唐軍の先鋒として活躍している。『定陽関』には、李道符が登場するなど、敵側の人名に『三皇宝剣』伝奇との共通が多々見られる。『定陽関』もまた表紙に「旧大班」の印が押されており、景山外学の台本であった。内府本『西唐伝』では、『定陽関』を手直しした頭段に姜須が登場するものの、『三皇宝剣』由来の二段以降、その姿は消えてしまう。一方、『三皇宝剣』伝奇では、同種のキャラクターである竇一虎が専ら活躍しており、姜須は見えない。
影巻『前鎖陽』では、『三皇宝剣』伝奇と物語が重なる李道符を斬るまでの部分に姜須は見えないが、李道符の師である黄洋子の登場とともに突如として活躍が始まり、一請樊梨花の使者を務めている。影巻『鎖陽関』でも、薛丁山に棄てられた樊梨花の出馬を請う使者を3度務めており、「大罵城」の継承関係に照らせば、『前鎖陽』の失われた巻六以降(あるいは『後鎖陽』)でも、姜須は薛丁山と樊梨花の仲を取り持つ重要な役目を果たしていたと推測される。
清代北京・河北における西唐故事の変遷†
このように、皮影戯や内府本『西唐伝』に見える西唐故事は、姜須が登場する薛丁山・樊梨花関連の部分と、登場しない『三皇宝剣』伝奇由来部分とに大別することができる。その上で、清代中期以降の北京・河北地域における西唐故事の展開をまとめれば、以下のようになろう。
北京では、姜須が活躍する三休樊梨花故事が『三皇宝剣』伝奇に先行して行われていた。『三皇宝剣』伝奇は、先行する物語と矛盾を来さないように、薛丁山の鎖陽関来援と樊梨花の登場の間に舞台を設定し、敵役を李道符に絞りこみ、三下南唐故事の影響下に制作された。現存の『三皇宝剣』伝奇は、同伝奇の比較的早い時期の姿を留めていると思われる。
人の演ずる演劇に比べて上演コストが低く、長編の物語を上演するのに向いていた皮影戯では、『三皇宝剣』をレパートリーに取り入れるとともに、三休樊梨花故事と合わせて1つの影巻に再編する作業が行われた。その結果が、『三皇宝剣』故事に三休樊梨花故事を接続した、北京西派皮影戯の影巻『前鎖陽』である。
道光・咸豊年間頃に、北京西派・涿州影を改良した冀東皮影戯が勃興すると、北京西派の影巻を継承するとともに、李道宗による薛仁貴陥害から征西の終了までを完全にカバーするように、また大罵城における薛仁貴の英雄形象を保全するように、改編が重ねられた。しかし『三皇宝剣』は、唐側の人物として姜須が登場しないなど、薛丁山・樊梨花故事との整合性が完全ではなく、いずれの物語も『封神演義』的な神仙を巻き込んだ魔法陣戦や陣前招親をくり返すスタイルを取っていたため、単純に両者をつなぎ合わせると冗長になってしまう。このため冀東影巻『鎖陽関』では、いくつかの戦いを省略したが、その痕跡が前述の齟齬・矛盾として残った。
嘉慶年間の内府本『西唐伝』も、薛丁山・樊梨花故事と『三皇宝剣』伝奇とを総合したもので、影巻と方向性は同じであるが、三休樊梨花を描かないなど、宮廷演劇という文脈故の書き換えも行われている。二段以降に姜須が登場しないのは、三休樊梨花を削った結果、活躍の場が奪われたからであろう。
一方、乾隆末年以降、戯園演劇が急速に発展するなど、戯曲の上演環境・方式が大きく変化する*51。それに適応するため、嘉慶・道光間に、『三皇宝剣』伝奇は長大な連台本戯から、「罵城」齣をクライマックスとする本戯へと改編されるとともに、吹腔が導入された。この頃になると、道光四(1824)年「慶升平班戯目」に見える「馬上縁」・「三休」・「芦花河」*52がいずれも小説『説唐三伝』由来であるなど、北京でも皮黄腔(京劇)などで小説寄りの西唐故事が広く行われるようになっており、改めて『三皇宝剣』系故事の位置づけを明確化する必要が生じたため、養和堂本『西唐伝』や一巻本『三皇宝剣』では、薛丁山の鎖陽関救援の齣が加えられたのであろう。
また、劇場上演で所謂「三軸子」スタイルが確立されるなど、折子戯主流の傾向が強まっていくなかにあって*53、『三皇宝剣』で演じられ続けたのは、三下南唐の「殺四門」を顛倒させたことによって他に類を見ない悲劇となった「罵城」齣と、その前段の「報号」齣に留まり、伝奇の全体像は忘れ去られていった。
興味深いのは、影巻『前鎖陽』や内府本『西唐伝』に見え、『三皇宝剣』伝奇でも演じられていたと思われる羅章の結婚のエピソードで、京劇や梆子腔系諸劇ではその後日談を含めて「紅霞関」・「羅章跪楼」などとして、遅れて形成された小西唐、すなわち秦英征西故事に取り込まれている*54。『三皇宝剣』伝奇の忘却によって帰属先を失ったエピソードが、再利用されたことになる。冀東影巻『鎖陽関』から羅章の結婚のくだりが姿を消しているのは、おそらくは小西唐故事の普及を受けて競合・矛盾を避けたのだろうが、それが逆に、前に指摘した羅章の唐突な登場という齟齬をもたらしたことになる。
おわりに†
西唐故事の地域性†
前に触れたように、西唐故事のうち『三皇宝剣』伝奇に由来する「大罵城」は、北京とその周辺地域、東北地方の伝統芸能でのみ演じられており、江南地方など他の地域で行われた形跡がない。これは、物語が京腔≒河北高腔や皮影戯、説唱芸能などが形成していた、北京を中心とするローカルな芸能ネットワークには乗ったものの*55、北京と江南など、地域間を結ぶマクロなネットワークには乗れなかったことを意味する。最後に、その理由を考えてみたい。
前述のように『三皇宝剣』伝奇は、弋陽腔の流れを汲む京腔で唱われていた。江南地方において、弋陽腔は明末には青陽腔・四平調などの徽調に変化し、やがてそこから皮黄腔が生まれるのであるが、康熙年間には既に、北京以外の地域では本来の弋陽腔がほとんど伝承されなくなっていた。
康熙帝の諭旨に以下のように見える。
近頃、弋陽腔は外の俗曲に乱されており、十のうち一二しか残っていない。ただ宮廷だけは古くからの教師がおり、口伝で伝えているため、その本来の様子が失われていない。*56
北京における弋陽腔、すなわち京腔が、康熙年間の段階で既に、他地域の声腔の変化から取り残されており、それが逆に独自の価値をもたらしていたことになる。
清末の同治・光緒年間に京劇が爆発的流行を始めるまで、宮廷・民間を問わず、北京の劇団の主流は崑曲と京腔(弋陽腔)とを合わせ用いる、いわゆる崑弋班であった。その最盛期は乾隆年間で、「八十王府班」と言われる王府所属の半官の京腔劇団が多数存在していたし、また「六大名班」と呼ばれる民間・王府の有名劇団も存在した*57。
しかしこの時期、長江沿岸では石碑調などの皮黄の先駆けとなる声腔が勃興し、陝西でも秦腔が形成されており、乾隆年間後期になると、魏長生の西秦腔、そして四大徽班晋京など、そうした新興の声腔が北京に進出するようになる。
京腔は康熙年間の段階ですでに北京のローカルな声腔になっており、しかも乾隆年間後期には全国的に新興の声腔が流行を始めていたため、京腔を主に用いる『三皇宝剣』をそのまま唱いうる劇団は、北京以外には既に無かったことになる。
また、四大徽班晋京以降、北京で人気を拡大していった皮黄腔では、前述のように『説唐三伝』に取材した西唐故事戯が主流となっている。『説唐』系列小説の作者は、鴦湖漁叟あるいは姑蘇如蓮居士を名乗っているが、鴦湖・姑蘇はいずれも浙江省嘉興を指す。江南で作られた小説が、やはり江南を中心に活躍した新安商人が後ろ盾となる安徽系の皮黄腔の題材となり、全国各地に流通した形になる。
ともなると、京腔という声腔が普遍性を欠いていたことに加えて、小説『説唐三伝』が、新たに勃興した花部諸腔とあいまって影響力を増しており、前提となる物語の異なる『三皇宝剣』系の物語を受容する環境が整わなかったことが、全国的な流通を阻害する要因になったと考えられる。
そして、内府本『西唐伝』の成立時期、および北京ローカル作品にとどまったことなどから、『三皇宝剣』の成立は乾隆年間のかなり遅い時期であり、北京の薛丁山・樊梨花故事の設定と、三下南唐の物語、そして『説唐』系列小説の樊繍花・竇一虎・竇仙童・薛金蓮などの人名を、ずらしつつ利用することで作られた蓋然性が高い。
北京皮影戯と冀東皮影戯†
影巻『前鎖陽』の事例によって、北京西派皮影戯=涿州皮影戯が京腔の物語を取り入れていたことが、具体的に明らかになった。道光年間頃に『三皇宝剣』系伝奇が連台本戯から本戯に改作されていることから、連台本戯の物語を取り込んでいる『前鎖陽』は、それより早い嘉慶年間頃の成立であると推測され、これは乾隆四十四(1779)年に魏長生の秦腔が一世を風靡した影響を受けて京腔が秦腔=琴腔を取り入れ、その影響下に北京西派皮影戯が成立したとの仮説を補強するものである。
北京皮影戯の影巻は、清代中期頃に行われた物語に基づいており、それを継承した冀東皮影戯は、観客の嗜好の変化や上演における必要などから手直しを重ねつつ、河北東部から東北へと物語を媒介したことになる。
北京・冀東皮影戯影巻がかかる性格を持つことは、これまで十分に意識されてこなかった。これは、北京・河北・東北の地域社会に根ざした伝統芸能や物語のあり方を検討する際に、厖大な影巻資料を活用する可能性を拓くものである。
生き続ける北京系西唐故事†
現在、「大罵城」が京劇などの伝統劇の舞台で演じられることはないが、しかし、『三皇宝剣』などに見える北京系の西唐故事が消え去ったわけでない。冀東皮影戯では現在でも『鎖陽関』・『牧羊関』が演じられ続けているし、また1980年代末から1990年代にかけて相次いで出版された、大鼓や評書を現代語に翻案した通俗読みもの、所謂「伝統整理評書」にも樊金定の登場するものがある。
例えば、『薛丁山征西』(黄国祥・劉林仙、北岳文芸出版社、1988年)では大罵城が描かれている。『薛家将』(陳鳳芸・劉琳、黄河文芸出版社、1987年)では、訪ねてきた樊金定を、薛仁貴がすんなりと受け容れているが、本来、自殺する話であったのを、薛仁貴の英雄イメージを損なわないように夫婦団円に書き換えた旨、後書きに記されている。劉林仙・陳鳳芸はいずれも、河北中部から東北にかけて広く行われている西河大鼓の芸人であり、北京・河北の通俗文芸・物語を継承していることがわかる。
興味深いのが2012年のテレビドラマ『薛丁山』である。仙人・李道符が西涼の主将・
清代に北京で形成され、河北から東北にかけての地域で行われた、小説『説唐三伝』と異なるストーリーを持つ西唐故事は、かくて今もまだ生き続けているのである。
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*1 『揚州画舫録』巻五「新城北録下」。
*2 通俗作品における薛仁貴の妻の名には、さまざまなバリエーションがある。元雑劇『薛仁貴』などでは柳迎春、成化本説唱詞話・南戯『白袍記』では柳金定、小説『説唐後伝』では柳金花である。清代以降の北京で行われた伝奇・皮影戯・京劇などでは柳迎春となっており、この呼称が元雑劇以来一貫して使われていることを窺わせる。一方、地方戯や伝統芸能の台本・劇目辞典などによると、北京周辺地域の河北梆子・蒲州梆子・山西省孝義碗碗腔皮影戯・西河大鼓などでは柳銀環となっている(蒲州梆子には柳英環に作るものもある)。これは迎春が銀春と誤記され、それを銀环に誤ったと思われ、梆子劇が北京で行われていた戯曲を文字媒体によって受容していたことを物語る。
*3 管見の限りでは山西省孝義の碗碗腔皮影戯『救鎖陽』に范金錠が登場する(馬明高2014 pp.2869-2910)。孝義碗碗腔皮影戯の伝播は20世紀初頭であり、また薛仁貴の妻の名を柳銀環に作るので、比較的新しい時期に梆子戯経由で伝わったものであろう。
*4 山下一夫2004、千田大介2018参照。
*5 山下一夫2004参照。
*6 戸部2016参照。
*7 中国国際広播音像出版社、ISRC CN-A07-03-0115-0/V.J8。
*8 千田大介2018参照。
*9 佟晶心1934 p.13参照。
*10 山下一夫2011a p.39参照。
*11 千田大介2001 p.84参照。
*12 本誌第二輯に収録する山下一夫「芸術研究院戯曲研究所所蔵影巻目録」は、このほか『鎖陽関』三冊本を記載するが、2017年に筆者が改めて芸術研究院にて調査を行った際には所蔵が確認できなくなっていた。現在、同研究院図書館は危楼に指定され、外部の者がカード目録を直接確認することすらもままならないため、今後、状況の改善を待って、改めて調査・確認する必要があろう。
*13 ①~⑤については、千田大介2002、⑥⑦については山下一夫2011b参照。
*14 蘇移1989 p.72参照。
*15 豆金蓮,豆金蓮,你今日犯在吾手,是你大限之日了。(⑥第5冊)
*16 只寶劍從前斬過妖人金冠李道符,以後玉帝降來勅旨,命
*17 昔年有箇道人,名叫李道符,擺下一座神兵陣式,那時山人下山共同破陣,除了妖人。(⑥第11冊、江東書局本p.383)
*18 僅存第一第三兩卷,每卷各十二出,察其全部,似總有四十八出之多。
*19 你我奉命保駕親征,不料失陷鎖陽空城,難以破解。
*20 p.1214。
*21 柴崎公美子2014参照。
*22 宋葉2018 p.15参照。
*23 朱萍2002 p.105参照。
*24 楊浣・王軍輝2015 p.115参照。
*25 黄仕忠2008 p.151参照。
*26 只因公子下山認母,要去西涼救駕。
*27 柴崎公美子2014は、内府本『西唐伝』で同じ齣の曲牌に韻目の一致しないものが見られることから、先行作の複数の齣をまとめた可能性があるとする。しかしこれは、例えば筆者が翻刻した明万暦間金陵富春堂刊本『白袍記』・『三顧草盧記』に、同じ齣の中で複数の韻目が使われている箇所が多々見られるように、弋陽腔系の格律が崑曲に比べて緩いからに過ぎない。
*28 《三皇宝剑》传奇,演樊金定西凉寻夫(薛仁贵)故事。《百本张高腔剧目录》著录该剧中的《报号》、《骂城》两折戏,北方昆剧院传统剧目目录著录《骂城》一折。车王府曲本在《报号》一折中,众唱吹曲【二犯江儿水】、唐王唱【吹风入松】。或许此剧传自梆子腔。
*29 流沙2006、蘇子裕2005参照。
*30 潘仲甫1984参照。
*31 戴雲2015 p.71参照。
*32 曾白融1989 p.405。台本は北京市戯曲研究所蔵。
*33 p.12、p.25。
*34 得喜は銭糧処所属であったので、『西唐伝』提綱にみえる得喜とは別人であるかもしれない。
*35 王芷章1937 p.24参照。
*36 姚二本名二官,習正淨,嘉慶末食月俸至三兩。……按二官尚有子百歲,亦隨同在內當差;及是歲二月,因南府改制,並被裁退,以他故留京,即搭三慶班演出,二十五年《都門紀略》舉其傑作,為“冥判”大判官一角,若其卒年及後事,則無考矣。(p.85)
*37 清代の戯曲や通俗歴史物語に矮人が頻出するのは、『封神演義』の土行孫の影響もさることながら、難度の高い整矮子の芸を楽しむ目的もあったものと思われる。
*38 三皇劍的命名,卻是由何而來呢?
*39 隨即暗擺一坐四門斗底陣,將唐兵困在陣內,忽然被一個矮賊一個陰人,識破陣圖,唐將兩下夾攻,傷了數萬回兵,損折數員大將。蘇元帥帶領敗殘人馬來投本爵,復兵報仇。
*40 臣女是本處民女。因竇義虎被石打傷,用遁法逃脫,跌落民女園中,臣女救轉,已訂姻親,前來助戰立功。
*41 祖居西涼界牌關外蔣家村人氏。(p.181)
*42 老夫,姓樊,名仲,字興如,乃直隸邦君店人也。
*43 祖居邦均
*44 老夫樊注廣,字有功。祖居薊州邦均店兵馬三庄。
*45 p.51。
*46 传战国商鞅在此宿店,名商君店。唐太宗东征经此,因谐音“伤军”犯忌,改名“邦军店”,后演变为今名。(崔乃夫1998 p.209)
*47 那年朝鮮造反,天子
*48 大塚秀高2017は、景山外学の影響のほか、丁山の丁→丙→景という言い換えであると推測するが、景山は弟であるから、十干に基づくとすれば戊山になるはずである。
*49 吾乃姜須,乃是興本之子。なお、ハーバード燕京本・演博本・『俗文学叢刊』所収本に、この句は見えない。
*50 伝統長編評書『樊梨花招親』(陳青遠・陳麗君・陳麗傑・王泉、中原農民出版社、1988年)は姜
*51 呉新苗2017 pp.96-101参照。
*52 周明泰1932参照。
*53 陸萼庭2006「第四章 折子戯的光芒」、呉新苗2017 p.98参照。
*54 曾白融1989 p.422、山西省戯劇研究所等1991 p.214、杜波等1989 p.75参照。
*55 蘇子裕2009、千田大介2018参照。
*56 近來弋陽腔已被外邊俗曲亂道,所存十中無一二矣。獨大內因舊教習,口傳心授,故未失真。(『掌故叢編』所収「成祖諭旨」p.51)
*57 路応昆等2017 pp.33-34。
*58 ドラマの内容については、https://www.tvmao.com/drama/HjRoLS0=/episode による。2019年1月10日最終確認。