『都市芸研』第八輯/「明太祖遊武廟」物語の成立と展開

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「明太祖遊武廟」物語の成立と展開―武成王廟から歴代帝王廟へ―

川 浩二

1.はじめに

洪武四年(1371)、明の太祖朱元璋は、引退を請う劉基に対し、惜しみ引き止めつつもついにはそれを許し、七律一首を贈ってはなむけとした。

妙策良才建朕都 妙策良才 朕が都を建て
亡吳滅漢顯英謨 呉を亡ぼし漢を滅して 英謨を顕わす
不居鳳閣調金鼎 鳳閣に居し金鼎を調えずして
卻入雲山煉玉爐 却って雲山に入り 玉爐を煉る
事業堪同商四老 事業は商四老と同じうするに堪え
功勞卑賤管夷吾 功労は管夷吾を(ひく)く賎しむ
先生此去歸何處 先生此のたび去りて 何処にか帰る
朝入青山暮泛湖 朝に青山に入りて 暮れに湖に泛ばん

(『高皇帝御製文集』巻二十)*1

いかにも開国の君主と名臣らしい佳話であり、これは明の嘉靖末から万暦初年に制作されたと思われる歴史小説『皇明英列伝』の第五十九則「劉伯温辞爵帰山 沐文英貴州大戦」にも取りあげられている。『皇明英列伝』では劉基はこの後には登場せず、まさしく仙遊して去ったように描かれている。

図1 北京の歴代帝王廟 現在の社殿は2003年に改修されたもの。構造は旧時を保っているが、東西二廡の従祀名臣の神位はなく、別の展示物が置かれていた。(2009年9月現在)

ところが、現代において「英烈伝」の物語に親しむ読者の記憶においては、この場面の印象は大きく異なるはずである。

たとえば『英烈伝』の活字本としては代表的なものといえる宝文堂書店刊行の『英烈伝』を見ると、第七十八回「皇帝廟祭祀先皇」では、以下のような物語が語られる*2

都の歴代帝王廟に参ったのち、朱元璋が歴代功臣廟に向かうと、廟の建物の外に一つの塑像を見つける。傍らの劉基に尋ねると、三国の趙雲であるという。朱元璋がその武功を殿内に置かれるに足るというと、趙雲像はみずから殿内に入っていく。殿内に進むとまた別の塑像があり、他の坐像と異なり立像である。劉基に尋ねると楚の伍子胥だという。朱元璋が伍子胥の不忠を難ずると塑像は自ら殿外に去った。さらに進むとまた塑像があり、尋ねると張良だという。太祖はその名を聞くと怒って張良像に指をつきつけ、厳しく不忠をとがめたところ、張良像は涙を流す。劉基はこれを見て、張良に比すべき自分の将来を危ぶみ、身を引くことを決意する。

朱元璋はここでは君臣の佳話どころか、史上における開国功臣たちに対する粛清の激しさを思わせるような姿を見せている。

この場面は実は『皇明英烈伝』より後出にあたる同題材の小説『雲合奇蹤』の、それも清代になってから出版された版本、いわゆる『雲合奇蹤』乙本系統にのみ載るものである。しかしその『雲合奇蹤』乙本系統が、清代のある時期以降は他を圧倒し、現在『英烈伝』と題される活字本は基本的に『雲合奇蹤』乙本系統に由来するものであるため、よく知られているのはむしろ上記の要約のような物語となってしまっているのである。

この場面は劉基が辞職を決意することから「劉基辞朝」と呼ばれることもあり、京劇や他の地方戯、語り物芸能などでは『遊武廟』という演目で知られている。

本稿は、この物語を仮に「明太祖遊武廟」と名づけ、それがいつどのように生まれ、『雲合奇蹤』乙本に取り上げられ、演劇や芸能として演じられたかという様相について検討し、それがいかなる環境において行われたかを明らかにすることを目的とする。

2.『雲合奇蹤』乙本系統 第七十八回「皇帝廟祭祀先皇」

太祖朱元璋の開国物語である「英烈伝」の小説は、まず『皇明英烈伝』が嘉靖末から万暦初年に制作され、いわゆる『雲合奇蹤』甲本がその後に作られた*3。万暦末年には、両者が並存している状況であったといえる。各種版本の様相と、日本への輸入の状況から見て、この両者並存の状況はおよそ十八世紀初頭までは続いていたと思われる。

そしてある時期に『雲合奇蹤』甲本に話柄を足した改訂版と呼べる『雲合奇蹤』乙本が作られ、清末にかけて他を圧倒していくというのが大きな流れではあるのだが、『雲合奇蹤』乙本がどの時期に作られたのか、ということについてははっきりしない。

たとえば、上海図書館蔵『繍像京本雲合奇踪玉茗英烈全伝』は、十巻八十回、半葉十一行毎行二十一字、封面には「稽山徐文長先生編 雲合奇踪 玉茗堂英烈全伝」と題し、金閶書業堂梓行とある。「東山主人序」と題された序を載せ、毎回の回目は目録では七字二句、本文では七字一句と典型的な乙本の形態である*4

上海図書館の書目ではこれを康熙刊本とするが、全体を通して記年は無く、その根拠は不明である。たしかに金閶書業堂は清代前半に蘇州にあった書林で、康熙年間にも多数の書物を出版しているが、他の白話小説に関しては『説呼全伝』を乾隆四十四年(1779)に、『新刻批評繍像後西遊記』を乾隆五十八年(1793)に出版するなど、乾隆年間に刊行されたものが見られ、活動は嘉慶年間にまで及んでいる。したがって実際のところ清初から嘉慶年間まで下る時期のいつなのかは特定しかねるように思われる*5

全体の構成や回の切れ目について見ると、『雲合奇蹤』乙本は甲本と基本的に違いはなく、増加された話柄はどれも回の途中に入れられていることが分かる。

第五回では朱元璋が幼いころ牛飼いをしていたという「太祖牧牛」の話柄が、第六回では梅を売る商売をしていた朱元璋が、「五顕神」と名乗る疫病をもたらす瘟神と出会い、言われるままに南京に売りに行くと、流行していた疫病に梅が特効薬になるというので飛ぶように売れて巨利を得る、という「販烏梅」の話柄が足されており、これらは演劇や語り物芸能と共通するものである。また第四十回には朱元璋が「古雷音寺」に迷いこみ、歴代の王侯の芳名帖を見せられ喜捨を求められるという幻を見る「誤入廬山」の一段が加わっているが、これは今のところ来源不明である。

そしてもう一つの加えられた話柄が、第七十八回「皇帝廟祭祀先皇」である。回目にある「皇帝廟」に朱元璋が参詣する部分の全体は、大きく四つに分かれており、それぞれの部分は連続しているが、要約が長くなるため部分ごとに述べる*6

ⅰ 歴代皇帝像を見る(『雲合奇蹤』甲本から改訂)

歴代皇帝の廟の祭祀を行うさい、それぞれの皇帝の前に一杯の酒を捧げるよう礼部の役人が定める。朱元璋は廟に詣でたさい、漢の高祖劉邦像の前まで来ると、自らと劉邦のみが何も持たない平民の身から中国を統一したことを述べ、二杯多くの酒を捧げる。続いて元の世祖フビライの前に来ると、像の表情は暗く、涙を流した跡がある。朱元璋は世祖を励まし、百年の天下を築いたことを認めると、やや世祖像に明るさが戻った。

この部分は『雲合奇蹤』甲本から見られるもので、二つの部分に分かれる。前段は正徳年間の梁億『遵聞録』に基づき*7、後段は嘉靖年間の郎瑛『七修類稿』巻七「世祖像涙」に拠る*8。ただし『七修類稿』および『雲合奇蹤』甲本では、世祖に対し「痴韃子」とモンゴル人に対する蔑称を用いているが、『雲合奇蹤』乙本ではそれが削られている。『雲合奇蹤』乙本は全書を通して同じ処理が見られ、これは清代になってからのものと解せよう。

ⅱ 歴代名臣像を見る(『雲合奇蹤』乙本ではじめて登場)

要約は本稿第1節に掲げた通り。趙雲が殿外から殿内に入り、伍子胥が殿内から殿外に出て行き、張良像が罵られて涙を流す、という展開になっている。この部分が唯一『雲合奇蹤』乙本のみに存在する。後に詳しく検討する。

ⅲ 牛首山を鞭打ち、周玄素に山河を描かせる(『雲合奇蹤』甲本から引き継ぐ)

朱元璋が輿の中から見ると、金陵の周囲の山のうち牛首山と太平門外の花山だけが金陵の方を向いていない。朱元璋は刑部の役人に言いつけると、牛首山を棒打ちの刑に処し、牛の首に当たるところに孔を開けて鎖を繋いだうえ、江蘇江寧の管轄から、安徽宣州の管轄に移し、花山は罰として草木を抜いてはだか山にしてしまう。

宮廷に帰ってきた朱元璋は、周玄素が詔を受けて天下の山河の図を壁に描いているのを見つけ、牛首山と花山を描いたか尋ね、その山を削れという。周玄素は描き始めるときに朱元璋が手を入れていたことから、「陛下がお定めになった山河をどうして動かせましょう」と述べると、朱元璋は笑ってそれを許す。

この部分は『雲合奇蹤』甲本から見られる*9。前段は正徳年間の楊儀『明良記』に見える話であり、牛首山が都に向いていないために棒打の刑に処し、安徽太平の管轄にしたこと、また鐘山の西南にある丘がふしぎにもそこから飛び去ろうとし、形を見るごとに変えるため、鉄釘を打ちこんだという話柄に基づくと思われる。

後段は正徳年間の徐禎卿『翦勝野聞』に見える話であり、もともとは朱元璋が画工周玄素に天下の江山の画を宮殿の壁に描かせようとしたが、周玄素は自分が国中をまわったこともないため、陛下がお示しになった後に描き足しましょう、といい、朱元璋が筆をふるって大勢を描いてみせると、周玄素は「陛下、山河已に定まれり、豈に動揺すべけんや*10」と答え、朱元璋もこれを笑って許し、重責をのがれたというものである。

原話はそれぞれ部分的に書き改められており、『雲合奇蹤』甲本の時点ですでに朱元璋の傲慢を表すようなものになっているといえよう。

ⅳ劉基の辞職を許す(『皇明英烈伝』から改訂援用)

翌日劉基は辞職を願う。引き止める朱元璋に対し、劉基は病があるため故郷に帰って天命を終えたいと願い出る。朱元璋は劉基の再三の願いを受け入れ、長子劉璉に伯位を継がせることにする。劉基は故郷に帰る。

劉基が辞職を願うこの場面だけは、『皇明英烈伝』からの改訂になっている。『皇明英烈伝』では劉基の辞職を願う表や、本稿冒頭にあげた太祖が劉基を送る詩も引用されるが、『雲合奇蹤』乙本ではそれらは削除されている。また、『皇明英烈伝』では「私はひたすら心を修養し、天寿を全うしたいと存じます*11」と述べ、清遊を志すことが強調されているのに対して、『雲合奇蹤』乙本では「身有暗疾」という一言が加わっている。これはこの後、『雲合奇蹤』甲本から引き継ぐ、劉基が病で故郷に戻っていたところ、かつて劉基に宰相の器ではないと切り捨てられて怨んでいた胡惟庸がひそかに毒を盛って殺害した、という話を載せるためである。

全体を通して見ると、まず一般的には『皇明英烈伝』に比べて、史書筆記を引き写すことの少ない『雲合奇蹤』甲本であるが、この場面に関しては、展開の一つ一つに先行する筆記があり、字句についてもかなりそのまま用いていることが分かる。ふつう『雲合奇蹤』甲本は、『皇明英烈伝』の史書の文に近い文章を、より多くの白話語彙を用いつつ書き直すことで成り立っているが、ここではその方法を用いることができなかったためであろう。

そして『雲合奇蹤』甲本を改訂した『雲合奇蹤』乙本では、劉基は歴代名臣廟での朱元璋の振る舞いを見て身の危険を感じて退くことを決意し、病を口にして辞職するものの、この部分が『皇明英烈伝』から改訂しただけで原文が残っているため、故郷に帰り「自在逍遙」したことになり、さらにその後に『雲合奇蹤』甲本がそのまま用いられ、病で故郷に帰っていたところを毒殺される、という展開になり、かなり不自然なものになっている。

他の部分にはそれぞれ基づく先行の話柄があること、また展開が不自然になっていることからみて、『雲合奇蹤』乙本から新しく増えた本稿でいうⅱの部分は、『雲合奇蹤』乙本において創作されたものではなく、何らかの形で先行する話柄に由来するものであると考えられよう。

『皇明英烈伝』は、本来では開国の功臣たちが粛清され始めるはずの年代に至ってもその話柄を載せず、高らかに太平をうたい上げて終わり、対して『雲合奇蹤』甲本は『水滸伝』を思わせるような功臣たちの次々におとずれる最期を書いてやや暗い。『雲合奇蹤』乙本は、先行する物語を取りこむさい、その両方を用いたためにちぐはぐな部分が残ってしまっている。しかし『雲合奇蹤』乙本において、この場面が少なくとも朱元璋が歴代帝王廟に参った話であることについては矛盾する点はない。

では、この朱元璋が歴代帝王廟に詣でた話を、なぜ演劇・芸能では『遊武廟』と呼ぶのだろうか。じつは、皇帝が歴代の名臣の評価を行う、という構造の物語は、明の太祖朱元璋から始まったものではなく、宋の太祖趙匡胤から起こったものであった。そこではまさに、「武廟」つまり武成王たる太公望を祀った「武成王廟」の物語が語られている。

3.「宋の遊武廟」の物語

「英烈伝」の物語と小説について、基礎的な研究を最初に行ったのは趙景深であり、それは『小説閑話』の「英烈伝」および『小説論叢』における「英烈伝本事考証」にまとめられている。それらの中では、『雲合奇蹤』乙本の第七十八回「皇帝廟祭祀先皇」の来源、とくに前節にいうⅱの部分、朱元璋が歴代帝王廟に参詣し、歴代名臣廟に行く、という話柄の来源については述べられていない。ただし、彼の『中国小説叢考』所収の「雨窓欹枕集」には、「老馮唐直諫漢文帝」の項目に、以下のように述べる*12

これら十二編の残欠のうち、私の注意をもっとも惹いたのは「老馮唐直諫漢文帝」の「入話」であった。この一段の入話はすでに長く伝わった伝説であったということができようが、近来の京劇と大鼓の中にもいまだにこのような物語があり、ふつうそれらはすべて「遊武廟」と呼ばれるものである。(略)京劇『遊武廟』は一名を『劉基辞朝』といい、『欹枕集』の中で述べられる物語とは多くの点で異なる。1、宋の太祖を明の太祖に改めている。2、趙雲を貶めることから趙雲を尊ぶことへと改めている。3、『欹枕集』は韓信、李勣を貶めて殿内から外し、趙充国と李茂を代わりに殿内に入れている。諸葛亮はかわらずもとの地位にいる。伍子胥・趙雲は門前で祭祀を受けることになる。『劉基辞朝』は、趙雲と王伯当を殿中に入れ、伍子胥と韓信を殿外に追い出し、張良像を打ち砕く。(略)つまるところ平話(ここでは『欹枕集』を指す)と京劇・大鼓が一つの物語の異なるスタイルであるのか、それとも二つの似た物語の連続―宋太祖が趙雲を殿外に追い出し門神にし、明太祖が彼を殿内に招き入れる―であるのかは、知りうるべくもない。しかし私は総じて前者の説がやや事実に近いのではないかと推測している*13。(括弧( )内は本稿が補った。以下同じ)

また、『小説閑話』の「英烈伝」には、明朝開国の物語を持つ京劇を列挙した上で、『遊武廟』についてこう述べる。

『遊武廟』は演義(ここでは『雲合奇蹤』乙本を指す)第七十八回「皇帝廟祭祀先皇」に基づき、増加および削除を加えたものである。演義では塑像が自ら歩くことを述べてあまりに荒唐無稽にすぎるので、京劇では塑像は兵士によって担ぎ入れられたり担ぎ出されたりするように改めている。演義ではわずかに趙雲をたたえ、伍員を貶め、張良を罵るという三つの事柄のみを述べるが、劇中では、王伯当をたたえ、韓信像を壊すという二つの事柄を加えている*14

二つの文を合わせると、趙景深は京劇における『遊武廟』は、一方で「老馮唐直諫漢文帝」の入話を書き換えたものであり、一方で『雲合奇蹤』乙本の「皇帝廟祭祀先皇」を改めたものである、と述べていることになるが、ついに「老馮唐直諫漢文帝」入話と『雲合奇蹤』乙本との関係については検討することがなかったようである。

また『小説論叢』所収の「英烈伝本事考証」は、もともと『雲合奇蹤』乙本を底本に、史書筆記に記載の記事を集めた性格のものであり、小説や俗曲の類については述べない*15

以降、この問題について仔細に検討した論文は見当たらず、いずれも『雲合奇蹤』乙本と演劇・芸能の『遊武廟』、「老馮唐直諫漢文帝」入話と演劇・芸能の『遊武廟』に関連があることを指摘するにすぎない。

小説「老馮唐直諫漢文帝」

趙景深のいう「雨窓欹枕集」はいわゆる清平山堂の『六十家小説』の一部とされ、寧波の天一閣旧蔵であったと目される短編小説集の残欠であり、「老馮唐直諫漢文帝」はそのうち『欹枕集』所収の一篇である。嘉靖年間後半に出版されたと思しく、同時期の晁瑮・東呉父子の蔵書目である『宝文堂書目』には「馮唐直諫漢文帝」を収める。

入話は第一葉を欠くため冒頭が不明ではあるが、おそらく唐代にはじめて武成王廟に「武廟十哲」が従祀されたという話から始まっている。

[諸]葛亮・越の范蠡・唐の郭子儀らを、二列に分けて十哲とした。二本の廊下に[名臣?]を分かち、それぞれ[三]十二人を並べた。左の列は白起を首位とし、右の列は孫臏を首位とし、その他の名臣をそれぞれの順位に定めた*16。(括弧[ ]は判読不能箇所を補って訳した)

史実としては、『新唐書』巻十五吉礼五には、上元元年(760)に孔子廟にならって、武成王廟に歴代の名将十人を十哲像として従祀することを定めたと記載があるが、それは白起・韓信・諸葛亮・李靖・李勣・張良・田穰苴・孫武・呉起・楽毅という構成であった。さらに建中三年(782)に、范蠡や郭子儀を含めた六十四人を従祀することが定められている*17

物語では続いて、乾徳元年(963)に太祖趙匡胤が宰相の趙普らとともに武成王廟に赴き、名臣たちの事績を尋ねることを述べる。

太祖趙匡胤は玉塵斧をたずさえ、殿を出て左廊に向かい、首位の名臣を指して尋ねた。「これは誰か」竇儀が「秦将の白起でございます」と応えると、太祖は「趙の兵四十万を穴埋めにした白起か」と尋ねる。竇儀が「仰せの通りです」と応えると、太祖は大怒し、白起の画像を指差してこう言った。「降伏した相手を殺すような者がどうして首位に居るのか」塵斧でその画の顔を破き、趙普を振り返って言った。「何人をもって代えるべきか」趙普は「呉起でなくては務まりますまい」と応えた。太祖は呉起の事績を尋ね、趙普は呉起に関する書物を献上した。[太祖は]大いに喜び、命令を下して即日これに代え、臣下はその事を記して太祖に奏上した*18

ここでいう「玉塵斧」は「玉麈斧」もしくは「玉柱斧」と書くべきであり、玉でできた小型の斧の形の道具である。趙匡胤がこれを用いて臣下の歯を折ってしまった逸話があり、話中で像を壊すのに「玉柱斧」を用いるのはそのためであろう*19

『宋史』巻一百五・志第五十八・武成王廟には、建隆四年(963)に太祖趙匡胤が武成王廟に参詣したおり、白起の画像を指して「此の人已に降るを殺すは、武ならざること甚だし、何ぞ此に受享せん*20」と言い、白起を従祀名臣から外した、という記事を載せる。

さらに物語では、真宗の時代に移り、武成王廟に参ったおりに真宗自らが韓信の不忠をとがめて廟から外し、尚書張詢の言葉により唐の李勣が外され、代わりに漢の趙充国と唐の李茂が祀られることになる。また、伍子胥と趙雲が外されるよう上奏があったが、真宗は二人の功績を認め、廟内からは外しつつも、武成王廟の門に飾るように命じる。

作中でいう李茂は李晟の誤りであろう。これは物語と年代こそ異なるものの同じく『宋史』巻一百五に、乾道六年(1170)に李晟を堂に上せ、李勣の順位を下げたことが載っている。また韓信については、何度か地位が上下している*21

続く本筋の話は、馮唐が漢の文帝の臣下の待遇を、陛下がもし往年の名将である廉頗や李牧を得たとしても、使いこなすことはできないでしょう、と諫めた故事によるものであり、馮唐の最も知られたエピソードとして『史記』・『漢書』にも取られているため、特に説明を要しまい。ただし「老馮唐直諫漢文帝」では、この話が出てくるのが、入話と同じく文帝が前代の名臣の画像を見て傍らの馮唐にそれが何者かを尋ねるところから始まっているところが特徴といえ、入話との共通性を強調したものと考えられる。

全体として、史書に見える話から出発しており、荒唐無稽な筋立ては特に無い。中でも宋の武成王廟の記事については、かなり近いものを史書から見出すことができる。

宋代の現実の武成王廟では、正面の堂中に武成王たる太公望をはじめとした名臣の塑像が置かれ、東西の二廡にはそれぞれ画像が置かれていた。歴代でしばしば名臣たちの入れ替わりがあったが、宣和五年(1123)には、太公望・張良・管仲・孫武・楽毅・諸葛亮・李勣・田穰苴・范蠡・韓信・李靖・郭子儀の十二人が堂内に塑像として置かれ、東廡には白起以下二十九人が、西廡には呉起以下三十二人が画像として置かれ、太公望の従祀七十二将が定められている*22

誰が名将であるのか、は祭祀に携わる官僚たちだけでなく、直接かかわりのない世の人々の間でも話題になっていたことに違いない。とくに生活に身近なところでいえば、この「老馮唐直諫漢文帝」入話が、趙雲と伍子胥という、一見なんのつながりもないように見える二人がどうして門神として祀られるようになったのか、という縁起譚として機能していることは指摘できよう。秦瓊と尉遅敬徳の縁起譚ほど後世に広く伝わりはしなかったものの、武成王廟の従祀名臣の物語に門神の物語をからめる発想自体は、「明太祖遊武廟」につながったものと思われる。

『宝文堂書目』に載る「馮唐直諫漢文帝」に現在と同じ入話があったかどうかは不明である。現存の「老馮唐直諫漢文帝」が載る『欹枕集』は嘉靖年間後半の刊行であり、この話柄が明代以前にあったという記録は見出しえない。しかし「遊武廟」の物語のうち、先行するのが「宋の遊武廟」の物語であることは間違いないであろう。「宋の遊武廟」の物語はこれのみではないためである。

雑劇『十様錦諸葛論功』

いわゆる「脈望館鈔校古今雑劇」の中に、『十様錦諸葛論功』雑劇がある。作者名は不明であるが、元代の作と目される。この『十様錦諸葛論功』は、話柄じたいは武成廟に従祀される名臣を定めることにまつわるもので、前述の「老馮唐直諫漢文帝」とは全く異なるものの、広い意味で「宋の遊武廟」の物語の一つと考えられる。

この『十様錦諸葛論功』については、元の尚仲賢の作であるともいわれている。

鍾嗣成『録鬼簿』のいわゆる繁本には、尚仲賢の項に『洞庭湖柳毅伝書』・『張生煮海』など九種の雑劇の題名を載せるが、その中に『武成廟諸葛論功』雑劇がある*23。少なくとも同様の物語を持つ雑劇を作っていたことは間違いないようだ。

また王国維は『宋元戯曲考』において、現存の『十様錦諸葛論功』を無名氏撰とした上で、『輟耕録』所収の「金院本名目」にある『十様錦』をこれと同内容であろうと同定している*24。譚正璧『話本与古劇』はやや大胆に、尚仲賢の『武成廟諸葛論功』の別名を『十様錦諸葛論功』とし、『孤本元明雑劇』所収本があることを述べた上で、「金院本名目」の『十様錦』と題材を同じくすると述べる*25

『全元戯曲』は慎重に佚名撰とするが、孫楷第が『也是園古今雑劇考』で『十様錦諸葛論功』を尚仲賢の作であると主張し、厳敦易が『元劇斟疑』で尚仲賢作の「別本」であると述べたことを受け、曲詞にある諸葛亮が琴を鳴らし、剣を弾いて奇跡を起こしたことが関漢卿『単刀会』にも見えることを指摘し、基本的には関漢卿の同時代人である尚仲賢の作とする意見に同意する*26

本稿では現存の『十様錦諸葛論功』が尚仲賢の作であるかどうかについて検討はせず、ひとまず「武成廟」を舞台とする「諸葛論功」の物語が金代から、少なくとも元代には存在していたということのみ確認しておく。

現存の『十様錦諸葛論功』のあらすじは以下の通りである。

宋の太宗趙匡義のころ、中書侍郎李昉は命を受けて武廟に祀る十三人の名臣と七十二将の座次を定めることになり、それを正末扮する吏部侍郎の張斉賢に依頼する。(第一折)

正末扮する玉帝の使者が太公望のもとに現れ、武廟での座次を定めることになったことを告げ、太公望・范蠡・張良・孫武子・田穣苴・楽毅・白起・李靖・管仲・李勣・郭子儀・諸葛亮・韓信の十三人が集まる。三国の夏侯惇と唐の張士貴が現れ、武廟に加えてもらうべく入っていく。(第二折)

正末扮する張斉賢が第一位を太公望に定めたところで転寝をすると、十三人が現れる。夏侯惇と張士貴は門前払いを食わされる。太公望が座次を定めていくが、孫武子に並ぶ位置に諸葛亮が配されると韓信が反論し、諸葛亮と韓信が互いの十大功を述べ合う。諸葛亮は韓信の十大罪を責め、これを太公望が認めてついに座次が定まる。遅れてきた周瑜はやはり諸葛亮と論争するが勝てず、張斉賢を逆恨みして切りかかる。張斉賢は目を覚まし、夢であったことを知る。(第三折)

正末扮する張斉賢が李昉に報告し、李昉はその座次の判断の由来をたずねる。張斉賢は夢で名臣たち自らがそれを決めたことを述べる。玉帝の使者の増福神が現れて慶賀する。(第四折)

四折の北雑劇の構成ではあるが、芝居の中心は正末の唱にはなく、名臣たちが口々に述べる自らの功績の部分と諸葛亮と韓信の論戦部分のセリフの念誦にある。

「老馮唐直諫漢文帝」の入話や史書と異なるのは、まず武廟が太宗の時代に建てられていることである。李昉と張斉賢は実在の人物であり時代も合うが、武廟の従祀の変化に関与したという他の資料は見出せない。

前述の通り、宋代の武成王廟は、堂に塑像を配し、東西の二廡に画像を配する形式になっていたと思われるが、上記の十三人が同時に堂に祀られていた時期はないようだ。最も近いのは、宣和五年に白起を除く十二人が堂内に塑像を祀られ、白起が東廡の筆頭に定められたことであろう。

金の武成王廟も同じく堂に塑像を、東西の二廡に画像を祀ったが、李晟が画像から塑像に昇格され、李勣が降格されて画像のみにされるなど、やはり上記の十三人が完全には揃わない。

『十様錦諸葛論功』が北雑劇であり、元代の作品と疑われる以上、元の従祀の様相が重要になるが、元代には詳しい資料が見出せず、従祀名臣の詳細は今のところ不明である。『元史』巻七十六・志第二十七上・祭祀五・武成王には「孫武子・張良・管仲・楽毅・諸葛亮以下十人を以て従祀せしむ*27」とあり、他の名臣が従祀されていたのかどうかは分からない。少なくとも唐代以来の名臣は入っていたようであるが、少なくとも「十二人」と書かれておらず、『十様錦諸葛論功』と完全に一致していたとは思われない。

以上のことから見る限り、『十様錦諸葛論功』は特定の時期の様相を反映するものではなく、武成王廟の従祀名臣の、いわば最大公約数的な配置を行っているものだといえる。

4.明代の武成王廟と歴代帝王廟

明代における、武成王廟の祭祀の変化は、唐から始まり宋・金・元の各代に起こった変化を上回るものであったといえる。洪武年間には、国家の祭祀としての武成王廟が廃されているのである。洪武二十一年(1388)、太祖朱元璋は武成王の王号を削り、武成王廟の祭祀を廃した。同時に太公望は改めて歴代帝王廟に従祀することに決定した。詔には「太公は、周の臣にして、諸侯に封ぜられる。若し王を以て之を祀らば、則ち周の天子と并ぶ*28」とあり、そもそも太公望に武成王の位を冠することを否定している。これは当時すでに国内の平定が成っていたことから、文治政治を打ち出すことと、また君臣の別を明確にすることとの意味があっただろう。

これにより武成王廟の従祀名臣も廃され、歴代帝王廟には別に従祀名臣を選んだが、これにも唐以来の歴代にはないほどの変化があった。宋代からすでに武成王廟の従祀名臣には必ずしも尊崇に価しない人物が入っていることは指摘されてきた。そこで歴代帝王廟への従祀名臣は、武功だけではなく、君主への忠義が重視されていたのである。

歴代の皇帝を祀ることはもちろん明代に始まったことではないが、その祭祀のあり方は大きく変化している。趙克生『明朝嘉靖時期国家祭礼改制』第三章第二節において、この洪武年間の改制について、京師に歴代帝王廟が建てられたこと、また伝統的な帝王廟における君主と名臣との対応関係が崩されていることが歴代にない変化であったと指摘されている*29

もともと礼部から上がった三十六人の候補のうち、朱元璋は自ら宋の趙普を外し、元の名臣のうち、木華黎をもって安童に代え、阿朮を外し、漢の陳平・馮異、宋の潘美を加え、決定したのが以下の三十七人であった。

風后・力牧・皐陶・夔・龍・伯夷・伯益・伊尹・傅說・周公旦・召公奭・太公望・召虎・方叔・張良・蕭何・曹参・陳平・周勃・鄧禹・馮異諸葛亮・房玄齡・杜如晦・李靖郭子儀李晟・曹彬・潘美・韓世忠・岳飛・張浚・木華黎・博爾忽・博爾瀕・赤老溫・伯顏(下線は宋の武成王廟従祀名臣と重複)

三十七人のうち、太公望を含めたたった八名しか宋の武成王廟と重ならない状況が、その選定基準の違いを示していよう。またそれでもなお諸葛亮が入っていることから、諸葛亮がその忠義によっても評価されていたことが読み取れる。

北京への遷都の後、この歴代帝王廟の祭祀は南京で続くことになり、皇帝が自ら参詣することがなくなったため、注目は大きく薄れたものと思われる。その後大きな変化が起こるのは、嘉靖年間になってからのことであった。

嘉靖帝は嘉靖十一年(1532)、歴代帝王廟を北京に移した。いわゆる「北虜南倭」の外患を抱えた時期であり、中華の正統を強調する意味があったのだろう。華夷の別をふまえた正統論を受けて、嘉靖二十四年(1545)には元世祖フビライを歴代皇帝から削り、それに伴い従祀名臣から木華黎以下の五人をも削った。嘉靖年間に書かれた『七修類稿』*30や『今言』*31には歴代帝王廟の経緯が記され、当時の話題になっていたことを伝えている。ちなみに南京の歴代帝王廟には塑像があったが、北京の現在の位置に移されてからの歴代帝王廟の中には、皇帝も名臣も「神位」と呼ばれる位牌のみが置かれ、塑像が作られることはなく、これは後に述べる清代についても同じであった。

さらに、嘉靖十五年(1536)には、武成王廟の祭祀をおよそ百五十年ぶりに復活させている。『野獲篇』巻三十三・補遺三は「而して武成の廟は、直ちに嘉靖十五年四月に至りて、兵部 議するに武学の太だ窄きを以てし、其の制を拓き、大興隆寺の故址に改建せんことを請う*32」と記し、北京の武学に武成王廟を建てることになったことを詳しく述べる。さらに従祀名臣については、「皆な宜しく唐制に仿うべしと言い、武成王廟を立つ、其の配食せらるる者は、益すに尉繚子・黄石公・李広・趙充国を以てし、宋将は則ち韓世忠・岳飛を増し、本朝は則ち徐達・常遇春・張玉・湯和配享せらる*33」と記す。

ここでいう「唐制」が誰を指すかの全ては明記されないが、清初の孫承沢『天府広記』巻三・武学によれば名臣は以下のような構成であった。

孫武呉起田穰苴・尉繚子・黄石公・張良韓信李広趙充国諸葛亮鄧禹馮異関羽張飛李靖李勣郭子儀・曹彬・韓世忠・岳飛・徐達・常遇春・張玉・湯和(青は唐代の武廟十哲と、緑は唐代の従祀六十四将と重複)

順位の変動が大きく、唐の制度そのままというには無理があるようではあるが、ともあれ明末まで武成王廟において国家規模での祭祀が行われる制度が続いた。

『欹枕集』所収の「老馮唐直諫文帝」が読まれ、脈望館本の雑劇『十様錦諸葛論功』が手抄されていたのは、まさにこのような状況のもとであったといえよう。「宋の武成王廟」はすでに前代のものであったが、嘉靖年間後半には、現実の武成王廟が話題にのぼる状況になっており、「宋の武成王廟」の物語を享受するさい、現実の武成王廟とその従祀名臣を連想することができたことになる。

5.清代の「明太祖遊武廟」の物語

明代末年まで「宋の遊武廟」の物語が生き残るに至った状況は上に述べた通りであるが、清代になってからは、「宋の遊武廟」の物語は演劇や小説となった例が見出せず、また先に現れていた小説や元曲も、清代になってから読み物として、あるいは上演される演劇として、物語を伝達できるほど広まっていたと考えるのは難しい。

しかしいっぽうでは清代後期に「明太祖遊武廟」の物語があったことは間違いなく、演劇や芸能として行われ、唱本も比較的多く残っている。もちろんその物語は『雲合奇蹤』乙本によって広く知られていくことになったのであるが、したがって清代初期にも何らかの媒体によって武成王廟をめぐる物語は伝えられてきていたはずである。

まず、『遊武廟』の演目が作られた結果として残った唱本の分析から行うこととする。

『遊武廟』の演目自体の記録は、今のところ清朝の宮廷で咸豊十一年(1861)に演じられたというものまで時代を下り、それ以前のものを見出せない。これは山東の老生董文が、英仏連合軍の侵攻により熱河行宮に逃れていた咸豊帝のために演じたものであり、『沙陀国』・『陳宮放曹』・『撃掌』・『文昭関』・『南陽関』などとともに『遊武廟』の演目が見える*34。王芷章『中国京劇編年史』はこれを咸豊期に新たに見出せるようになった劇目とする*35。これを『遊武廟』の演目の成立の下限と考えることができよう。

『遊武廟』の現存の抄本も、いずれも清代後期から清末にあたるものといえる。

京劇『遊武廟』

『清蒙古車王府曲本』には、京劇の抄本『遊武廟』一種が収められる*36。ここでは京劇車王府本と呼ぶ。この抄本の内容は、後に演じられ続ける京劇『遊武廟』と大きく変わるものではない。あらすじは以下の通りである。

朱元璋は武廟に向かう。廟の建物の外の趙雲像と、隋末の王伯当像を、功績を認めて廟内に入れるよう命ずる。殿内の太公望をはじめとした各代の名臣を見ながら進んでいくと、ある功臣の像があり、劉基に尋ねると楚の伍子胥だという。朱元璋は伍子胥の不忠を難じて自ら塑像を砕く。さらに韓信像をも同じく砕き、張良像の前では張良を激しく罵る。朱元璋は気づいて後悔するが、劉基は辞職を決意する。

先に紹介した『雲合奇蹤』乙本と比べると、登場する名臣の名前は非常に多い。展開に関わる王伯当と韓信はもちろん、その他にも、じっさいに武成王廟の従祀名臣である管仲・孫武子などの名が見え、通俗文芸の影響と思われる秦叔宝・羅成・薛仁貴などの名もある。

この京劇車王府本には、武成王廟を建立したさい、趙雲と王伯当の像が廟の外に置かれていることについて、「趙普先生把本奏」と趙普の奏上によるものとする。趙雲が門神になった話柄については、本稿第3節で見た「老馮唐直諫漢文帝」の入話では、太祖趙匡胤と趙普ではなく、真宗趙恒と張詢の話として伝えられていた部分である。

いっぽう台北の中央研究院傅斯年図書館所蔵の唱本からなる『俗文学叢刊』には、抄本『遊武廟』が二種収められている*37。ここでは仮に京劇傅斯年本甲本および乙本と呼ぶ。これらは京劇車王府本とかなりの部分で歌詞は重なるのだが、上記の「趙普先生把本奏」の歌詞については、京劇傅斯年本甲本の該当部では「鉄筆官児把本題」とかかれ、「官児」の横には「先生也可」と別の歌詞でもよいことが注されている。この部分は京劇傅斯年本乙本では「掌朝官員奏主知」という歌詞であり、いずれも趙普の名はない。この部分に関しては、京劇車王府本により具体的に「宋の遊武廟」の物語の影響を見て取れる。

子弟書『遊武廟』(図2)

図2 子弟書車王府本『遊武廟』 「管部先生把本題」の字が見える。「管」は俗字で、管仲の名にも同じ字体が使われている。

いっぽう、同様に『清蒙古車王府曲本』に収められる『遊武廟』と題する俗曲には、他に子弟書がある。傅斯年図書館にも同題同内容の子弟書が所蔵されており、『俗文学叢刊』にも収められているため、これらを子弟書車王府本、子弟書傅斯年本と呼んでおく。

子弟書車王府本・子弟書傅斯年本は基本的に全体に渡って歌詞が共通している。これが京劇と異なるのは、参詣しているのは「宋の武成王廟」であるはずなのにも関わらず、途中に『雲合奇蹤』甲本にも見られる、劉邦像に三杯の酒を捧げる話柄が入り、明らかに歴代帝王廟を指している点である。また最後に劉基が辞職を願い出るさい、かなり詩句は異なるものの、朱元璋が本稿冒頭に掲げた八句の詩を劉基に贈る場面もある*38

つまり子弟書は、この詩を贈る場面を持っていることに関していえば、京劇はもちろん『雲合奇蹤』乙本と比べても、『皇明英烈伝』やそれが基づく史書・筆記以来の、劉基が辞職するさいの古い話柄を取り入れているということになる。

また、前述の通り京劇には劉邦像に三杯の酒を捧げる話柄はないのだが、趙雲・王伯当の門神の話柄が終わり、殿内に入って太公望の像の前に来たとき、京劇車王府本・京劇傅斯年本甲本・乙本ともに「焚香又奠酒三杯」の歌詞がある。これは後述の京韻大鼓にも「該值官奠上酒三滴」という歌詞として残っており、後世にも引き継がれたものと思われるが、とくにこの歌詞の必然性はない。

前述の通り子弟書では、「朕当多敬酒三卮」と劉邦像に酒を三杯捧げるのだが、物語のこの箇所に酒を捧げる歌詞が先にあり、それを子弟書が劉邦像の話にふくらませた、と考えるよりは、京劇が子弟書もしくはその来源の作品にあった劉邦像に酒を捧げる場面を削った、と考えるほうが自然ではないだろうか。

また、上記の京劇車王府本における「趙普先生把本奏」という歌詞は、子弟書では「管部先生把本題」とする。これをはじめ上記の通り「鉄筆先生」という歌詞がありうることから、何らかの形で官員について指す言葉であろうと解していたが、「趙普先生」の歌詞と対照すると、人名かとも疑われた。

これについて、「明太祖遊武廟」の話に限って捜索する限り、他の演劇や芸能にも関連すると思われる資料は見当たらないが、再び捜索の範囲を「宋の遊武廟」の物語にまで広げてみると、「管部先生」の典拠を見出すことができた。

院本『十様錦』

1996年、山西省東南部、上党の古称を持つ地方における楊孟衡氏らのフィールドワークによって、「賽社」と呼ばれる土地神の祭りに用いられる祭文やその時演じられる演劇の台本が収集され、整理されて『上党古賽写巻十四種箋注』にまとめられた*39。そのうち、『賽楽食雑集』と名づけられた演劇の二種の台本集に、「武成廟」の劇がある。

原題は無く、末尾に「趙太祖立登龍位 修武廟□□□□ 奪座位韓侯闘智 十様錦諸葛論功」とあり、基本的には元雑劇『十様錦諸葛論功』と同じ物語を演ずるものであるが、曲牌を用いず、途中にはまるで小説のような三人称の語りが入る。これを楊孟衡氏は「詩讃体」の演劇形式を保つものであり、現地での呼称に合わせて「院本」と呼んでいる。当然「金院本名目」の『十様錦』が想起され、それが保存されたものだとも考えられるが、ここではその当否はひとまず置く。

本稿ではこれを仮に院本『十様錦』と呼ぶが、まず、この院本『十様錦』抄本が清代嘉慶九年(1804)のものであり、清代後期まで、少なくとも祭祀の文脈に限れば「宋の遊武廟」の物語が生きていたことを確認しておく。

この「武成廟」に登場する人物は、雑劇『十様錦諸葛論功』のように完全ではなく、太公望・諸葛亮・韓信の主要人物三人の他には張良・管仲・孫武・白起・楽毅しか登場しない。

雑劇『十様錦諸葛論功』との違いとしては、構成から見ると雑劇『十様錦諸葛論功』の第四折にあたる部分はほとんどなく、周瑜に斬りかかられた担当の役人が目覚めてすぐに劇は終わることになっていることなどが挙げられるが、中でも重要だと思われるのが、雑劇『十様錦諸葛論功』では、皇帝・命を受ける臣下・実務の担当者が、前述の通り太宗・李昉・張斉賢という三人であるのに対し、この「武成廟」ではそれぞれ太祖・趙普・楊関部という三人とされている点である。

この「武成廟」の物語については、喬健等『楽戸 田野調査与歴史追踪』第八章「楽戸与中国音楽及戯劇」もやはり同地の賽社のための演劇抄本を入手し、詳しく述べている*40。こちらは題名を『十様錦諸葛論功』とする。引用部の字句に細かな異同があるため、上記の二者とは異なる抄本に拠ったようだが、原本の手抄年代は記されていない。ただし、末尾の四句をこちらは「趙太祖立登龍位 修武廟関部監工 奪座位韓侯闘智 十様錦諸葛論功」としており、『賽楽食雑集』で判読不能だった箇所を埋めることができる。本稿では以下、上記の二者を総称し、現地における呼称を採って院本『十様錦』と呼ぶ。

この題名にもある「関部」は、『賽楽食雑集』所収の院本『十様錦』で、太祖趙匡胤の依頼を受け、武廟を建立することになった趙普が、その人選を依頼する「翰林院学士楊関部」なる人物を指す。この「楊関部」は登場以降、「関部」という名で呼ばれ続けることになる。この人物について楊孟衡氏は論文「古賽賛詞考」で、「文中の『関部』はあるいは『関播』の誤りではないかと考えている。その人物ならば確かに武成王廟の建成と関連がある*41」と述べ、『新唐書』巻十五「礼楽志」五の貞元二年(786)に、当時の刑部尚書関播が、孔門十哲は当時の弟子だが、今の武廟十哲は時代もばらばらでこれに対応するものではない、と奏議を出し、以降は「唯だ武成王及び留侯(張良)のみ享け、諸将は復た祭らず*42」と定められたという記事を引く。

この論は妥当なものと思われ、本稿ではこれに子弟書に見える「管部先生」が「関部先生」の音通であり、子弟書が少なくともこの部分においては京劇よりも古い層にある証拠となることを指摘しておく。これをふまえれば、京劇に見える別の歌詞はこの「管部先生」の意味が分からなかったためか、「宋の遊武廟」の物語において、より有名な趙普に書き換えたためかによってできたものと考えられよう。

また、院本『十様錦』が、従祀名臣を登場人物として扱い、それに意思を持たせていることも重要であろう。『雲合奇蹤』乙本が採用した、朱元璋の評価によって塑像が自ら動き涙を流すという筋立てについては、『雲合奇蹤』甲本から存在する元の世祖像が涙を流した話柄と、この院本『十様錦』のような、歴代名臣が登場人物として現れる演劇からの影響であると考えられる。

上記の院本『十様錦』は、今のところ山西でしか確認できず、北京とのつながりを考えるのは容易ではないかに思われる。ただし、『楽戸 田野調査与歴史追踪』がその経緯を詳しく述べるように、賽社の演劇を清代まで伝えたのは山西の楽戸であり、明代に宮中の教坊司を支えていたのもまさしく山西の楽戸であったことは指摘できる。清初は明の旧制を受け継いでいたため、宮中に同様の演目が伝えられていた可能性はあろう。

「明太祖遊武廟」の物語には、北雑劇や南戯伝奇はもちろん崑曲などには見出せず、演劇としては京劇や梆子腔諸劇、語り物としては子弟書や鼓詞にのみ見られるという状況も、知識人が作った演劇によってではなく芸人たちによって「宋の遊武廟」の物語が伝えられたためではないか。

また楽戸は雍正年間にその制度を解かれ、良民となることを許された経緯があり、これが現存の「明太祖遊武廟」の物語がことさらに明の朱元璋の狭量さを描く遠因になっていることも考えられよう。

加えていえば、子弟書・京劇ではともに冒頭に趙雲とともに王伯当が登場するが、これについては、「宋の遊武廟」の前述の話柄が、趙雲と伍子胥が門神になった縁起譚として読むことができることを考えれば、王伯当が門神となっている前提が必要になる。少なくとも旧時の北京では、王伯当が門神として使われる例はあり、また門神は自らの出身の地域の英雄を飾ることがあったという*43。ちなみに、王伯当の故里は山西長治である。

ともあれ、清代において「宋の遊武廟」の物語が生き残っていた情況は確認でき、子弟書の中にはそれを受け継ぐと思われる部分もあることが判明した。

では、なぜ清代に「明太祖遊武廟」の物語が生まれたのであろうか。そこには再び現実の祭祀における名臣たちへの評価が関わっていたと思われる。

6.清代の歴代帝王廟

第4節で述べたように、歴代帝王廟は嘉靖年間に北京に移され、同時期に武成王廟が復活したが、清代になると、明初と同様に再び歴代帝王廟の従祀名臣が武成王廟の従祀名臣の役割を兼ねるようになったと思われる。また清が満洲族の王朝でありながら中華の正統を受け継ぐことを示す意味でも、歴代帝王廟の祭祀は重要なものとなった。(図3)

図3 帝王廟祭祀図 『古今図書集成』所載。清初の歴代帝王廟の様子を示す。建物の構造は明代から受け継がれている。元太祖・元世祖の文字が見えることから、康熙六十一年に改められる以前の配置であることが分かる。

順治帝・康熙帝・乾隆帝のそれぞれの時期に増祀が行われており、詳細は表1にまとめたが、従祀名臣について変化があったのは劉基ら九人が増祀された順治元年(1644)、潘美と張浚が削除された順治十七年(1661)、そして四十人もの名臣が増祀された康熙六十一年(1722)である。

歴代帝王廟 皇帝、従祀名臣表
皇帝名臣
洪武六年(1373)伏羲、神農、黃帝、少昊、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜、夏禹、商湯、周武王、漢高祖、漢光武、唐太宗、唐高祖、宋太祖、元世祖(17)
洪武二十一年(1388)同上(17)風后、力牧、皐陶、夔、龍、伯夷、伯益、伊尹、傅說、周公旦、召公奭、太公望、方叔、召虎、張良、蕭何、曹參、陳平、周勃、鄧禹、馮異、諸葛亮、房玄齡、杜如晦、李靖、李晟、郭子儀、曹彬、潘美、韓世忠、岳飛、張浚、木華黎、博爾忽、博爾術、赤老溫、伯顔(37)
嘉靖十一年(1532)同上(17)同上(37)
嘉靖二十四年(1545)元世祖削除(16)木華黎以下五人削除(32)
順治元年(1644)唐高祖削除
遼太祖、金太祖、金世宗、元太祖、元世祖、明太祖増祀(21)
張巡、許遠、耶律赫嚕、尼瑪哈、斡里雅布、穆呼哩、巴延、徐達、劉基増祀(41)
順治十七年(1660)遼太祖、金太祖、元太祖削除
商中宗、高宗、周成王、康王、漢文帝、宋仁宗、明孝宗増祀(25)
潘美、張浚削除(39)
康熙六十一年(1722)隋文帝、煬帝、明神宗、光宗、熹宗を除く歴代皇帝増祀(164)倉頡、仲虺、畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫、劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲、狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度、呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥、呼嚕、博果密、托克托、常遇春、李文忠、楊士奇、楊栄、于謙、李賢、劉大夏増祀(79)
乾隆四十九年(1784)明建文帝(元年に増祀)、東西晋、北魏、五代の歴代皇帝増祀(188)同上(79)
(皇帝・従祀名臣の括弧内は合計人数)

この康熙六十一年の増祀は、康熙帝の遺詔を実現する形で雍正帝により行われたものであるが、全体としては歴代の宰相や文官が多い中で、ひとり趙雲が目を惹く。

康熙年間には、三国時代、とくに蜀漢の名臣に対する祭祀を強化した傾向が見出せる。たとえば成都の武侯祠は康熙十一年(1672)の重建で現在に続く規模が定められており、諸葛亮の故地南陽の武侯祠は康熙年間だけで五度の改修が行われ、康熙五十年(1711)には中でも最大の規模で改修された*44

また趙雲が没したとされる四川大邑では、康熙十年(1671)に県知事の李徳耀が子竜廟を再建し、絶えていた祭祀を復活させている*45

いっぽう、清代からは国家規模での武成王廟の祭祀の制度が廃され、それに代わってすでに明の万暦年間にはすでに武神の中では最も高位といえる「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」の称号を得ていた関羽の、いわゆる関帝廟がその位置を徐々に占めるようになり、「武廟」の名も関帝廟を指すことがある状況が現れてくる。

そうした文脈を見ればいちおうこの時点での趙雲の増祀は理解できよう。

そして歴代帝王廟の従祀名臣が、もはや国家の祭祀としては行われない武成王廟の位置を譲り受け、そこに大きな変動があったとき、かつて「宋の遊武廟」の物語が起こったように、通俗文芸にも反応が起きたのではないだろうか。

現在まで確認できる「明太祖遊武廟」の各種の物語の中で完全に共通するのは、ただ一人、趙雲が門神の位置から殿内に入ることだけである。

中でも『雲合奇蹤』乙本の展開に着目すると、京劇では伍子胥・韓信の像が、子弟書では加えて張良の像もいずれも壊されてしまうのに対して、『雲合奇蹤』乙本では趙雲の像は殿内に入り、伍子胥の像は殿外に走り出て行き、そして張良像は涙を流しはするものの、あくまで殿内に留まるのである。

これは最終的に趙雲が従祀名臣に加わり、伍子胥がその列に入っておらず、張良が変わらずもとのまま従祀名臣に入っている、という康熙六十一年の増祀の状況と符合する。

「宋の遊武廟」の物語のうち、「老馮唐直諫漢文帝」は、前述の通り趙雲が門神に祀られるようになった縁起譚としてもはたらいていたと思われる。そして「明太祖遊武廟」に至って、物語は趙雲が歴代帝王廟の従祀名臣に祀られるようになった縁起譚としての意味をも持つようになったと解することができよう。

現実の歴代帝王廟に近く、物語を生む刺激を受けやすいこと、また子弟書に最も古い要素があることから見ても、「明太祖遊武廟」の物語の発生が、北京で起こった蓋然性は高いと考える。

本稿では「明太祖遊武廟」の物語は、「宋の遊武廟」の物語から、康熙末年の歴代帝王廟への従祀名臣の増祀を受けておそらく詩讚系の語り物芸能の形で生まれ、その後、いわゆる乾隆禁書の影響で『皇明英烈伝』の版本が消えていく時期もしくはその前に、『雲合奇蹤』甲本に取りこまれて『雲合奇蹤』乙本を生み、「宋の遊武廟」物語の一部を残したまま、子弟書や演劇に改編されていった、と位置づけておく。『雲合奇蹤』乙本と演劇・芸能の『遊武廟』は互いに親子の関係でなく、兄弟の関係に当たるであろう。

7.その後の「明太祖遊武廟」の物語

清末から中華民国期にかけて、「明太祖遊武廟」の物語は各地の演劇・芸能で行われるようになっていった。

その中の代表ともいえる京韻大鼓『遊武廟』は、名芸人とうたわれ、「鼓界大王」と呼ばれた劉宝全の得意演目として知られた。これは子弟書をもとに改編したものとしばしば書かれるが、全体の歌詞を見る限りどちらかといえば京劇の古抄本により近い。また第6節に述べた趙普と「管部」をめぐる部分では、歌詞はやはり「趙普先生把本題」となっている。ちなみに同時代の芸人張小軒もこれを得意とし、両者がうたっていたものは少しく歌詞が異なっていたというが、現在では張小軒のものは失伝しており、劉宝全のものが伝承されている。

京劇においては、『伝統劇目匯編 京劇』第十一集所収の『遊武廟』は、清末抄本に基づいているが、これも京劇車王府本に比較的歌詞が近く、該当箇所は「趙普先生把本奏」となっている*46

ただし、現在演じられる京劇『遊武廟』は、京劇俳優の宋宝羅が自ら劉宝全がうたった京韵大鼓の歌詞を下敷きに、自らの創作をも加えて作ったものだと語っている。1950年代に宋宝羅が杭州から北京に移り、李万春が率いる北京市京劇一団で演じたさいにも、この劇を演じたという*47

『京劇劇目初探』によれば、漢劇・湘劇・秦腔・徽劇・滇劇などで『遊武廟』が演じられているといい*48、『中国梆子戯劇目大辞典』によれば西路秦腔・南路秦腔・山西蒲州・中路梆子・豫劇・宛梆に『遊武廟』の演目が見られるというが*49、当然これらのみには留まらないことは予測できる。

語り物芸能においては、民国期の出版にあたる数種の鼓詞の活字本が確認されているが、今のところ歌詞を確認できる範囲では、件の歌詞は「趙普先生把本題」になっている*50。『中国伝統鼓詞精彙』はこれを「内有奸臣把本題」とするが、明らかに後から改めたものであろう*51

演劇にせよ語り物芸能にせよ、各地に伝わる『遊武廟』が、どの層にあたるものなのか、網羅的に調査する必要がある。そのさい、今回検討した各種のテクストを、物語と歌詞の伝播の状況を探る基準にすることができるだろう。

いっぽう山東の西河大鼓、江蘇の蘇州評話・揚州評話などは「英烈伝」の物語を長編の鼓詞で演ずることで知られるが、それらはいずれも物語が「明太祖遊武廟」の部分まで行き着かないため、必然的にこの一段はない。

しかし、「明太祖遊武廟」の物語が長編に見られないわけではない。たとえば民国期の『絵図燕王掃北』四巻二十四回の第一回の題名は「都金陵明太祖即位 遊武廟劉伯温辞朝」であ る*52

8.おわりに

『雲合奇蹤』乙本に見える「明太祖遊武廟」の話柄は、先行する物語として「宋の遊武廟」の話柄を持っていた。「宋の遊武廟」の原型は、おそらく宋代の武成王廟に従祀名臣が定められた時点から遠からぬ時期にすでにできあがっていたものと思われるが、金・元にも従祀名臣をめぐる大きな変化が続き、それに応じるように元曲『十様錦諸葛論功』のような演劇が生み出されてきた。

明初には武成王廟が廃され、それにまつわる物語も盛んに行われていたとは考えづらいが、嘉靖年間に至って武成王廟が復活したため、「宋の遊武廟」の物語も前代の事件を同時代の事件として読みかえることで生き残ってきたものと思われる。

清初にはすでに娯楽としての読み物や芝居の上演において「宋の遊武廟」の物語が流行する素地はなくなっていたが、祭祀の場で行われる演目としてそれが保存されていた。そして仮想の武成王廟が、現実の歴代帝王廟を通して理解されるようになっていく状況の中で、康熙末年の大規模な従祀名臣の増加が起こることで、「明太祖遊武廟」の物語は現在見られる姿を得たのではないだろうか。

基本的にはその由来が前代の「宋の遊武廟」の物語にあるため、「明太祖遊武廟」の物語は独立性が高いものであり、清の宮廷で行われていた明朝開国を演ずる演劇から、現在の京劇をはじめとする各種の地方戯でも、この物語と前後に直結する朱元璋を中心とした演目は存在しない。そのため明初の物語の読み物としてはほぼ唯一定着していた小説『雲合奇蹤』が「明太祖遊武廟」物語を取り込むことで、物語の全体を知る読み物としての役割を果たすことになった。ただし、『雲合奇蹤』はやはり基本的には洪武帝の偉業をたたえる部分が多く、「明太祖遊武廟」物語を取りこむ上でもちぐはぐな部分が目立つ。

いっぽう清代後期に台頭するいわゆる『明英烈』の長編語り物芸能は、朱元璋の出身伝の前半に比重が置かれ、統一後の話である『遊武廟』までたどりつかない。けっきょく「明太祖遊武廟」の物語は、長編語り物芸能としては、朱元璋と劉基の物語であるにも関わらず、いわゆる『明英烈』の中には入らず、その後の時代を扱う『燕王掃北』の冒頭として扱われることになったのである。

小説と長編語り物に物語の全景を眺め渡す機能を預けて、「明太祖遊武廟」物語は短編で演じやすい演目『遊武廟』として全国に伝播したといえよう。


*1 『高皇帝御製文集』,朱元璋,内藤湖南旧蔵早稲田大学所蔵明刊本。
*2 『英烈传』,田藻校点,北京.宝文堂书店,1981.9。
*3 『雲合奇蹤』甲本と乙本の名は後述の趙景深の研究に由来し、以降の研究に踏襲されている。
*4 『雲合奇蹤』甲本は則をもって数え、毎則四字二句の題を冠する。
*5 大英図書館に嘉慶四年(1799)の記年のある『雲合奇蹤』が現存するが、版本系統を含めた詳細は不明である。
*6 以下に、該当部分の全文を掲げておく。段落冒頭の数字は本文中の展開に沿う。(編者注:原文が長大で技術的問題から注釈として表示できないため、以下のリンク参照。『都市芸研』第八輯/「明太祖遊武廟」物語の成立と展開/zhu
*7 『国朝典故』所収本などがある。『國朝典故』,北京.北京大學出版社,1993.4。
*8 『七修類稿』,上海.上海書店出版社,2001.8。
*9 この部分の典拠については、趙景深『小説論叢』所収の「英烈伝本事考証」につとに指摘されている。『小説論叢』,趙景深,上海.上海日新出版社,1947。
*10 原文「陛下山河已定,豈敢動搖。」『翦勝野聞』は『四庫全書存目叢書』所収本に拠った。
*11 原文「臣心只願修心養性,以全天年。」
*12 『中国小说丛考』,赵景深,济南.齐鲁书社,1980.10。
*13 原文:这十二篇残缺的话本中,最使我注意的,是《老冯唐直谏汉文帝》的”入话”。这一段入话可说是相传巳久的传说,直到近世的京戏和大鼓里都还有这样的故事,普通都是称作「游武庙」的。(略)京戏游武庙一名刘基辞朝,与欹枕集中所述有很多不同的地方:一、宋太祖巳改为明太祖。二,贬赵云改为褒赵云。三、欹枕集是贬韩信、李绩下殿,代以赵充国和李茂。诸葛亮仍在原位。伍子胥,赵云则在门首享祭。《刘基辞朝》是将赵云,王伯当请入殿中,伍子胥和韩信扯出殿去,并将张良像扯碎。(略)究竟平话与京戏大鼓是一个故事的异式,还是两个相似故事的连续(宋太祖把赵云赶出殿外作门神,明太祖又把他请了进去),那就不得而知了。但我总猜测前者的说素较为近于事实。
*14 原文:《游武庙》是据演义第七十八回《皇帝庙祭祀先皇》而加以增删的。演义叙泥人自己走路过于怪诞,京戏则改为泥人被兵士抬进或抬出。演义仅叙褒赵云,贬伍员,骂张良三事,戏中却添出褒王伯当和毁韩信像两事。
*15 前述の通り、該当部ではわずかに前掲の要約ⅳの部分の『明良記』・『翦勝野聞』についてのみ典拠を指摘する。
*16 原文:……葛亮,越范蠡,唐郭子儀,分兩行為十哲。兩廊下分囗囗,列囗十二人,左押班白起,右押班孫臏,其餘各有資次。
*17 『唐会要』巻二十三によれば、六十四人は以下の通り。范蠡・孫臏・廉頗・王翦・曹参・周勃・李広・霍去病・鄧禹・賈復・寇恂・馬援・皇甫嵩・張遼・関羽・周瑜・陸遜・羊祜・王濬・謝玄・慕容恪・檀道済・王僧辯・慕容紹宗・宇文憲・韓擒虎・史萬歲・尉遅敬徳・蘇定方・張仁亶・王晙・王孝傑・管仲・田単・趙奢・李牧・彭越・周亜夫・衛青・趙充国・呉漢・馮異・耿弇・段熲・鄧艾・張飛・呂蒙・陸抗・杜預・陶偘・王猛・長孫嵩・王鎮悪・呉明徹・斛律光・于謹・韋孝寬・楊素・賀若弼・李孝恭・裴行儉・郭元振・張斉丘・郭子儀。下線を引いた四人のみ後述の宋の太公望の従祀七十二将と重ならない。
*18 原文:太祖策玉塵斧,下殿左廊,指押班:「此何人也?」竇儀曰:「秦將白起也。」太祖曰:「莫非坑趙卒四十萬乎?」竇儀曰: 「然。」太祖大怒,指白起畫像而言曰:「坑降殺順之人何得押班?」以塵斧划碎其面,回顧趙普曰:「當以何人代之?」普曰:「非吳起不可。」太祖問吳起事, 普奏呈吳起之書。□心大喜,便令即日代之,就書其事於上。
*19 王瑞来「“烛影斧声”与宋太祖之死」『文史知识』2008年第12期,2008.12 に、司馬光『涑水記聞』巻一を引いてこの事件について述べる。
*20 原文:此人殺已降,不武之甚,何受享於此。
*21 宋李燾『続資治通鑑長篇』巻四・乾徳元年(963)六月の条には、灌嬰・耿純・王霸・祭遵・班超・王渾・周訪・沈慶之・李崇・傅永・段韶・李弼・秦叔宝・張公謹・唐休璟・渾瑊・裴度・李光顔・李愬・鄭畋・葛従周・周徳威・符存審の二十三人を新たに従祀し、それまでの呉起・孫臏・廉頗・韓信・彭越・周亜夫、段紀明・鄧艾・陶侃・関羽・張飛・杜元凱・慕容紹宗・王僧辯・呉明徹・楊素・賀若弼・史万歳・李光弼・王孝傑・張齊丘・郭元振の二十二人の従祀を廃した上、管仲は塑像として堂に置き、呉起は画像として廡に置くことを定めたとある。しかし、清畢沅『続資治通鑑』巻百二十七・紹興十六年(1146)九月の条には、趙充国を塑像として堂に置き、韓信を画像として廡に置くことを定めたと見え、少なくとも韓信はこの間に旧制に復して従祀名臣に入っていたと考えられる。
*22 全員は以下の通り。白起・孫臏・廉頗・李牧・曹參・周勃・李広・霍去病・鄧禹・馮異・吳漢・馬援・皇甫嵩・鄧艾・張飛・呂蒙・陸抗・杜預・陶侃・慕容恪・宇文憲・韋孝寬・楊素・賀若弼・李孝恭・蘇定方・王孝傑・王晙・李光弼(以上東廡)・呉起・田単・趙奢・王翦・彭越・周亜夫・衛青・趙充国・寇恂・賈復・耿弇・段熲・張遼・関羽・周瑜・陸遜・羊祜・王濬・謝玄・王猛・王鎮悪・斛律光・王僧辯・于謹・呉明徹・韓擒虎・史萬歲・尉遅敬徳・裴行儉・張仁亶・郭元振・李晟(以上西廡)。下線を引いた末席の二人のみ唐の六十四人と重ならない。
*23 『録鬼簿』簡本には『諸葛論功』の簡名のみが載り、『録鬼簿』増補本には『受顧命諸葛論功』とある。『校订录鬼簿三种』郑州.中州古籍出版社,1991.11。
*24 『宋元戏曲考』,『王国维文学论著三种』所収本,北京.商务印书馆,2001.3。
*25 『話本与古剧』譚正璧,上海.上海古典文学出版社,1956.6。
*26 『全元戲曲』北京.人民文學出版社,1990.1。第七巻。
*27 原文:以孫武子、張良、管仲、樂毅、諸葛亮以下十人從祀。
*28 原文:太公周之臣,封諸侯,若以王祀之,則與周天子並矣。『明太祖宝訓』巻二・議禮に見える。
*29 『明朝嘉靖时期国家祭礼改制』,赵克生,北京.社会科学文献出版社,2006.6。
*30 郎瑛『七修類稿』巻十二・国事類・帝王功臣廟。
*31 鄭暁『今言』巻一。
*32 原文:而武成之廟,直至嘉靖十五年四月,兵部議以武學太窄,請拓其制,改建於大興隆寺故址。
*33 原文:皆言宜仿唐制,立武成王廟,其配食者,益以尉繚子、黃石公、李廣、趙充國,宋將則增韓世忠、岳飛,本朝則徐達、常遇春、張玉、湯和配享。
*34 王芷章『中国京剧编年史』北京.中国戏剧出版社,2003.10。咸豊十一年の項。
*35 同上。
*36 『清蒙古車王府曲本』はいわゆる「車王府曲本」のうち北京の首都図書館現蔵の唱本に拠る。
*37 電子目録にはもう一種の演劇台本を載せ、書号はK-808とある。また朱元璋の登場詩も異なるようである。
*38 自從濠梁起義師,先生妙策定華夷。神機妙策扶我朕,鼎鼐調和功自奇。卿今欲效商山客,成仙得道上天梯。蓬莱去與神仙會,只因你看破紅塵把朕離。子弟書における送別の詩は以上の通り。本稿冒頭と比べると字句は大きく異なるが、ふまえていることは間違いないと思われる。
*39 『上党古賽写巻十四種箋注』,楊孟衡,台北.施合鄭基金會,2007.7。
*40 『乐戸 : 田野调查与历史追踪』乔健・刘贯文・李天生,南昌.江西人民出版社,2002.8。
*41 &lang(zh-cmn-Hans){原文:疑文中“关部”抑或唐代“关播”之误,其人确与建庙有关。「古赛赞词考」,杨孟衡,『中华戏曲』第28辑,2003.5。
*42 原文:自是,唯享武成王及留侯,而諸將不復祭矣。
*43 『想不到』第1辑,阿杜主编,北京.中国言实出版社,2003.4によれば、王伯当は謝映登と対になり、手に弓を持つ門神はこの一対のみだという。また河南人は趙雲・馬超を、陝西人は孫臏と龐涓を飾るなどしたと述べる。
*44 『诸葛亮与武侯祠』,诸葛亮与武侯祠编写组,北京.文物出版社, 1977.6。
*45 乾隆年間の『大邑県志』巻四・芸文は李徳耀の「漢順平侯趙将軍墓祠碑記」を載せる。
*46 『传统剧目汇编 京剧』第十一集,上海.上海文艺出版社,1959。
*47 『宋宝罗 艺术之窗』“三辞朝”:【张良辞朝】【刘基辞朝】【太君辞朝】http://blog.sina.com.cn/s/blog_5310e3510100caoy.html に本人の談話を載せる。
*48 『京剧剧目初探』上海.上海文化出版社,1957.12。
*49 『中国梆子戏剧目大辞典』太原.山西人民出版社,1991.11。49
*50 東京大学東洋文化研究所双紅堂文庫所蔵本・早稲田大学図書館風陵文庫所蔵本等。
*51 『中国传统鼓词精汇』,陳新主編,北京.华艺出版社,2004.3。
*52 中国国家図書館所蔵本等。

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