郃陽木偶戯初探†
1.はじめに†
郃陽県は陝西省中部、関中地区の最北部にあり、現在の行政区画では渭南市の一部となっている。ここに上から糸で人形を吊って動かす人形劇、すなわち「提線木偶」があり、「郃陽木偶戯」と称され、線戯・線猴・線胡・線吼・線腔戯・線偶戯ともよばれている。
中国の南方では福建省を中心として多くの木偶戯が行われているが*1、北方には少ない。わずかに河南省の越調木偶戯や、河北省の滄州河間木偶戯、また山西省の浮山孝義木偶戯などがあるだけで、しかもいずれも消滅寸前といえるような情況にある。そうした中で郃陽木偶戯は比較的活発で、現在でも複数の劇団が活動している。
筆者は2006年の8月に共同で第一回目の郃陽現地調査を行った。調査結果については別稿を参照していただくとして*2、
今回の調査に際して整理した文献資料等をひとまずまとめておき今回の調査報告の補足とするとともに、あわせて問題の所在について検討し、今後の調査の覚えとしておく。
2.陳平伝説†
郃陽木偶戯はいったいいつ頃から行われているものであろうか。『郃陽県志』では老芸人の党生坤の以下のような話を紹介している。
我が県の線偶戯は、漢王(劉邦)のために大きな手柄を立てたことがある。漢王が北に匈奴を攻めた際、平城(現在の山西省大同)で敵に包囲されてしまった。冒頓の妻である閼氏に正面から攻められ、事態は緊迫していた。代国の王子が陝西の人で、我が線戯を見たことがあり、また匈奴の情勢にも明るく、陳平に計略を献じて言った。「匈奴の冒頓の妻である閼氏は、勇猛果敢ではありますが、非常に嫉妬深くもあり、いつも夫の寵愛を美しい女に奪われるのではないかと恐れていると聞いております。西河(今の郃陽)の傀儡戯は本物の人間のような動きをするので、ひとつ職人にたくさん人形を作らせて美女に扮装させ、糸で操り夜の月の光に乗じて城楼で舞わせて閼氏に見せれば、必ずや包囲を解くことができるでしょう。」そこで陳平がその計略通りに行うと、果たして成功したという*3。
続けて『郃陽県志』は、この伝承が唐の段安節の『楽府雑録』「傀儡子」に載せる以下の話と符合するとしている。
漢の高祖劉邦は、平城で冒頓に包囲された。城郭の一面は冒頓の妻閼氏が守り、残る三面よりも兵力が強かった。城内では食料が尽き、漢軍は困窮していた。陳平は閼氏が嫉妬深いと知って、木偶人を作って城壁の上で舞わせた。閼氏はこれを見て生きた人間だと思いこみ、もしこの城を陥落させたら冒頓は必ずや妓女を側室に納めるだろうと考え、兵を退いた*4。
しかしこれは順序が逆で、むしろこの郃陽木偶戯の伝説は、『楽府雑録』の記事をもとにその後郃陽侯に封じられた代王劉仲なども登場させてそれらしく創作された話だと思われる。『郃陽県志』はつづけて唐・杜佑の『通典』や唐・鄭処誨の『明皇雑録』に見える唐王室の傀儡関係の記事を引き、郃陽木偶戯は「漢代に起源し、唐代に勃興した(起於漢、興於唐)」ものだとしている。これは『郃陽県志』だけでなく、今回の現地調査でインフォーマントとなっていただいた郃陽線腔木偶劇団の郭崔成氏もやはり同様の話を述べていたので、現地では広く行われている説であろう。
確かに唐の都であった長安では木偶戯が行われたのだろうし、それは現在の行政区画でいえば陝西省ということになるだろうが、しかしそれを現在の郃陽木偶戯に繋げて考えるのは無理である。自らの郷土文化を少しでも良いものだと主張したいあまり起源を古い時代におこうとする傾向は、多かれ少なかれどの地方芸能でも行われることで、かつ陝西省の場合さらに漢唐帝国の中心地であったという歴史的事実がその上に被さってくるため、こうした言説が行われることになるのだが、実際にはその成立年代ははるかに下るものであろう。したがって陳平の逸話は基本的には単なる伝説としてとらえておく。
3.李灌†
郃陽木偶戯についてはもう一つの伝承がある。それは、明末清初に挙人の李灌なる人物が民間で行われていた素朴な木偶戯を改良し、演劇としての体裁を整えて今日の郃陽木偶戯の基礎を作ったというものである。『郃陽県志』にいう。
明の崇禎六年(1633)の挙人である郃陽の李灌が、線偶戯に人物造形・臉譜・糸操りの技巧から節回し・音楽に至るまで改良と向上を行い、また『黒山記』『白汗衫』『五霊庵』などの台本も作成した。この頃、線偶戯は商人たちに付き随い蘇州や揚州まで南下して上演を行った*5。
李灌は実在の人物で、清・李元度『清先正事略選』卷四に載せる伝によれば*6、李灌は字を向若といい、郃陽の人で、明朝滅亡に際して慟哭し、出家して僧となって各地を放浪し、清朝に仕えるのをよしとしなかったという。いわゆる明遺臣の一人である*7。そして焦文彬『秦腔史稿』によれば、この李灌が晩年に線戯のために多くの台本を作成したという*8。李灌は明遺臣という立場から、郃陽の魏天命の反清起義を描いた『黒山記』や、崇禎帝の最期を描いた『上煤山』を作成したが、いずれも乾隆年間に焚書にされ、現在残っているのは『龍鳳燈』『金玉墜』『碧霞宮』『玉鳳簪』『白汗衫』『鸞鳳釵』『合鳳裙』の七種であるという。また劉文峰は、他にも『七国斉』などの演目の名前を挙げ、全部で三十あまりの台本を作成したとしている*9。
以上の記述を信じるならば、李灌はいわば崑曲における梁辰魚の様な役割を果たしたということになる。また同様に読書人が台本制作に関与することで偶戯の発展を促したものとしては、碗碗腔皮影戯における李十三の例などが挙げられる*10。ただ一方で、こうした説は本来集団で行われたはずの芸能の形成を一人の天才に仮託しているだけではないかという疑いもある。万暦年間の黄素志を創始者とする冀東皮影戯の伝説などは恐らくこれに類するものであろう。
李灌の伝承は、少なくとも陳平の伝承などよりは遙かに現実味があるものではあるが、上に紹介した論考のいずれもが芸人内部の伝承の類をソースにしている点でやや問題が残り、現状では単なる伝説なのかどうかは判然としない。
ちなみに郃陽県の東端、黄河に面した東王郷莘里村に木偶専用の戯台があり、そこの万暦年間の石碑に「每逢春秋重陽節獻演小戲(春秋の重陽節には毎年小戯の上演を献ずる)」という碑文がある。「小戯」とは「大戯」、すなわち人戯に対する言葉で、木偶戯や皮影戯を指す。ここは木偶専用の戯台なので当然前者を指すのだろう。この碑文を信じるなら、ともかく明末には郃陽ですでに何らかの木偶戯が行われていたことになる。
4.杜進虎†
老芸人の雷清雲によれば、郃陽木偶戯は乾隆・嘉慶年間に再び蘇州や揚州で上演を行い、同治年間にはさらに北京の前門外でも上演を行ったことがあるという。ただ芸人の伝承としてそう言われているだけで、特に記録の類があるわけではなく、詳細は不明である。
郃陽木偶戯の具体的な情況が解るのは光緒年間以降である。光緒のはじめに杜進虎なる芸人が唱詞や音楽の改革を行い、さらに「三箱・二楼・双釵」と称される現在の郃陽木偶戯の常演演目を作ったとされている(演目については後述)。光緒年間は各地で人戯や偶戯などの地方劇が形成された時期でもあり、おそらく現在の郃陽木偶戯もこの杜進虎の段階でようやく確立されたものではないかと思われる。
杜進虎の死後、郃陽木偶戯は南北二派に分裂する。一つは「花柳派」(別名「南派」)といい、温文典雅な風格で知られ、杜進虎の衣鉢を継いだ北黒池の王玉潤を中心に形成された。王玉潤の戯班は光緒二十六(1900)年に甘粛・河南・山西などへ上演に行ったという。もう一つは「将家派」(別名「北派」)で、熱烈豪放な風格で知られ、東清善村の顔喜牢(芸名は「紅眼娃」)によって形成された。かれらが活躍した光緒末年は郃陽木偶戯の最盛期で、郃陽県内だけでも七十あまりの戯班が活動し、陝西各地のみならず、山西の芮城や河南の霊宝にまで広まったという。
「花柳派」と「将家派」はその後も数十年に亘って争いを続けたが、民国の初め頃に王武漢(芸名「六八児」)が両者を折衷して「冤仇派」を創設し、両派は統一をみた。しかし抗日戦争期には活動が停滞し、解放前夜には戯班が十三にまで減少していたという。
5.解放後†
解放後、共産党は各地に散らばっていた芸人を集めて県劇団を組織した。これは芸人の地位を向上させようという社会主義的観点にもとづく処置であるとともに、政策を宣揚するため芸能を利用していこうという党の方針によるものであった。そして1952年、郃陽県城で県劇団の「郃陽晨光線劇社」が成立する。メンバーは魏天才・王孝前・肖緒法(説戯)、王化南・王成娃(搭戯)、王忠緒・王棣娃・党来娃・王東瑣(提線)で、団長は魏天才がつとめた。
1953年に西安と北京で『和氏璧』『周仁回府』を上演し、1955年に北京で開かれた「中華人民共和国第一届木偶皮影戯観摩演出大会」では『打金枝』の一折「進宮背舌」を上演、また1956年の「陝西省木偶皮影会演大会」では『白汗衫』を上演して王化南が一等賞を受賞するなど、劇団は順調に活動をしてゆく。
これと同時に、「全ての地域に演劇(人戯)をつくる」という党の方針のもと、1952年に成立した秦腔の劇団である「郃陽県新生劇団」が中心となって、郃陽木偶戯の人戯化も進められた。そして1957年に李新慶・趙三敏・侯振華らが木偶戯の伝統演目『金鳳釵』の人戯上演に成功、この新たに生まれた劇種は「郃劇」と命名された。
一方の県劇団は、1958年の韓城県・郃陽県の合併の際に「韓城県戯曲劇院三団」へと改組され、1961年に合併が解消されると劇団は「郃陽戯曲劇院線偶団」となって再び郃陽に戻った。この頃から劇団は現代戯にとりくみ、『箭桿河辺』『朝陽溝』『一罐銀元』『紅松店』などを上演したが、左派の圧力が強まる中で、結局1963年に「木偶戯は革命英雄人物を表現することができない(木偶戏不能表现革命英雄人物)」との理由で解散を命じられた。
しかし劇団員は下放されてきた他県の木偶戯芸人たちと合流して「郃陽県高線木偶劇団」を組織し、それも解散を命じられると今度は「郃陽県紅線劇団」を作って現代戯の上演を続けた。そして文化大革命の末期となる1973年に県劇団は「郃陽県線腔木偶劇団」として復活、1980年代後半にはフランスのテレビに出演したり、「全国木偶戯芸術研討会」や「陝西省第二届芸術節」で上演を行ったりと活発な活動を行い、1997年にはブラジル公演も果たしている。
また現在、県劇団とは別に、郭崔成氏を団長とする郭家坡村の郃陽線腔木偶劇団や、党鳳菊氏を団長とする郃陽県新芸線偶団もある。前者は郃陽木偶戯の伝統を守り、また後者は郃陽木偶の皮影戯化を試みるなど、ともに活発な活動を行っている。
6.演目†
郃陽木偶戯の演目は、老芸人の回想によれば全部で五百あまり存在するというが、1961年に陝西劇目工作室が行った収集活動では二百あまりであった。その際に筆録された抄本は現在では陝西省芸術研究所に収蔵されている。芸人は普通五十から六十、多ければ百以上の台本を唱えるという。民国期の王武漢は二百あまりを覚えており、また県劇団の王孝前も百あまりを覚えていたとされている。
演目の中では李灌の『龍鳳灯』『金玉墜』『碧霞宮』『玉鳳簪』『白汗衫』『鸞鳳釵』『合鳳裙』の七種が最古層ということになるが、現在でも常演演目となっているのは『白汗衫』のみである。光緒年間に杜進虎が作成した三箱(『百宝箱』『囊哉装箱』『西廂記』)、二楼(『謫仙楼』『鴛鴦楼』)、双釵(『金琬釵』『雙鳳釵』)は現在でも常演演目として行われている。このほか、十二龍鳳(『龍鳳針』『龍鳳灯』など)、二十四巻(『孝廉巻』など)、七十二図(『苦節図』など)などの演目もあるという。多くは郃陽木偶戯独特の演目であるが、『蝴蝶杯』『周仁回府』『打金枝』など、一部人戯の梆子腔演劇と共通する演目もある。これらは一般に後述する「乱弾調」で行われるものである。
以上の演目はいずれも「本戯」とよばれるが、このほか即興上演に近い「小戯」がある。これは「捎戯」ともいい、代表的なものに『挖蔓菁』『解破米』『響棒槌分家』『売雑貨』『聶先生教学』『禿子尿床』などが挙げられる。これらは陝西省の様々な皮影戯や山西浮山孝義木偶などでも共通して行われる演目で、こうした偶戯と何らかの影響関係が存在することが推測される。
7.音楽†
郃陽木偶戯の腔調は大きく二つに分けられる。一つは「線偶腔」で、錚子と呼ばれる楽器を中心に演奏を行うものである。別名を「本腔調」といい、郃陽木偶戯本来の音楽であるとされる。慢板・二倒板・二八板・小滾白・大滾白・尖板があり、台詞を述べる間は演奏を行わず、叙述性が強い。演劇というよりは説唱に近い形態であり、郃陽木偶戯が起源的に説唱と何らかの関わりを持っていることを推測させる。
もう一つは「乱弾腔」で、錚子は使わず、板胡を中心に演奏を行うものである。慢板・二八板・帯板・二倒板・尖板・喝場があり、台詞を述べる際も特に演奏が止まることはない。「乱弾調」とも呼ばれるが、乱弾とは梆子腔の別名として用いられる言葉であり、実際当該地域で行われている人戯の「同州梆子」の音楽に非常によく似ている。「線偶腔」が郃陽木偶戯本来の腔調であるということは、逆に言えば「乱弾腔」は後に採用された腔調ということになり、おそらく同州梆子の影響で行われるようになったものであろう。その際に、演目も一緒に移植されたものと思われる。
腔調に古層と新層の二種類があり、後者が人戯の梆子腔に近いというのは、西北部の様々な偶戯に共通して見られる現象である。陝西省の皮影戯でいえば、華陰県で行われているものは「老腔」と呼ばれ、比較的古い腔調である。これに対して清末に爆発的に普及し、華県や大荔県を中心に広い範囲で行われている「碗碗腔」は、実際には梆子腔の亜種といってよい存在である。また山西省孝義の皮影戯の場合、古くからある「皮腔」と、後発の「碗碗腔」という二種類の「劇種」があるが、実際には同一の芸人が両方を行うことができるので、これを孝義皮影戯の二つの「腔調」と考えるとすれば、郃陽木偶戯における二種類の腔調とほぼパラレルなものと捉えることができる。
なお人戯はこうした情況にはなく、基本的には梆子腔に塗り替えられてしまっており、それより古い層との共存は見られない。むしろ梆子腔と、より新興の眉戸との二層構造の方が普遍的に見られるようである。これは、人戯が古層を淘汰する形で発展することが多いのに対し、偶戯は古い腔調を残してゆくことが多いからだと思われる。同様の事例としては、台湾で移民初期に行われた潮調が、その後の北管戯の隆盛とともに人戯としては消滅したのにもかかわらず、台湾南部皮影戯では現在でも行われていることなどが挙げられるだろう。他にも、台湾南部で行われる傀儡戯には、潮調と同様に没落した南管戯で行うものと、新興の北管戯で行うものとがあるが、これなども新旧二層が併存しているという点で郃陽木偶戯と似通った情況にあると言える。
8.おわりに†
偶戯の研究には様々なアプローチの仕方が可能だと思うが、いずれにしても言えるのは偶戯だけの枠組みで考えていてもなかなかその全体像は見えてこないということである。木偶戯にしても、漢唐から明清までの歴史的展開を系統樹のようなものを作って俯瞰するということは恐らく難しいだろう。それはもう一つの偶戯である皮影戯の場合も同様である。なぜならばそこには、人戯との関係が常に付きまとうからである。それは逆に人戯の場合も同じであって、偶戯との関連は常に考えていかなければならない。中国の伝統演劇は、人戯と偶戯とが一体となって展開していったものと考えられるからである。
郃陽の位置する陝西省・山西省・河南省の境界地帯は歴史的には梆子腔発祥の地とされている。一帯には人戯のほか、陝西省大荔県の同州碗碗腔皮影戯・華陰県の老腔皮影戯・華県の東路碗碗腔皮影戯・山西省浮山の杖頭木偶戯・河南省霊宝県の道情皮影戯など、様々な偶戯も分布している。これらの中には梆子腔の古い形ないしは亜種と思われる腔調を持つものが多く、不明な点が多い梆子腔演劇の形成過程の解明に一定の材料を提供しうるものではないかと考えられる。中でも郃陽木偶は説唱的な要素を残し、また山西省のような皮影との「両下鍋」も見られない独自の形態を有するものであり、梆子戯における人戯と偶戯の関係を考える上で重要なものであると思われる。こうした点については今後さらに調査をすすめ、検討していきたいと思う。
9.郃陽木偶戯参考文献一覧†
- 丁言昭『中国木偶史』(学林出版社、1991年)
- 『中国戯曲劇種大辞典』(上海辞書出版社、1995年)、「郃陽線腔戯」の項
- 李漢飛編『中国戯曲劇種手冊』(中国戯劇出版社、1987年)、「郃陽線腔」の項
- 郃陽県志編纂委員会編『郃陽県志』(陝西人民出版社、1996年)、「郃陽線戯」の項
- 田川『草莽芸人』(江蘇人民出版社、2002年)
- 『中国戯曲志・陝西巻』(中国ISBN中心、1995年)、「線戯」の項
- 『中国民間歌曲集成・陝西巻』(中国ISBN中心、1994年)、「線腔」の項
- 『中国民族民間器楽曲集成・陝西巻』(人民音楽出版社、1992年)、「線腔」の項
- 『中国戯曲音楽集成・陝西巻・線腔分巻』(未見)
- 王道明・惠増厚『郃陽線偶戯音楽』(未見)
- 魏潤生『郃陽線戯音楽』(未見)
- 党正乾『郃陽線偶戯音楽』(未見)
- 李静慈「郃陽線偶戯紀略」
- 「芸人介紹大荔線戯老芸人馬東訓」
- 尉葆樸「多才多芸的線戯芸人李任華」
- 党正乾「浅談線腔音楽的淵源及発展」
- 党正乾「線腔音楽淵源初探」
- 本稿は、日本学術振興会科学研究費・基盤研究B「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」(2005~2006 年度、課題番号:17320059、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。
*1 泰順木偶(浙江省)、揚州泰興木偶(江蘇省)、泉州提線木偶(福建省)、晋江布袋木偶(福建省)、漳州布袋木偶(福建省)、高州木偶(広東省)、潮州鉄枝木偶(広東省)、臨高人偶戯(海南省)、川北儀隴大木偶(四川省)、南充二木偶(四川省)、成都重慶精木偶(四川省)、湖南木偶[祁陽挙偶•衡山挙偶•龍山挙偶•常德挙偶](湖南省)、石阡木偶(貴州省)など。
*2 千田大介・山下一夫「2006年夏期皮影戯木偶戯現地調査要録」を参照。
*3 咱县线偶戏曾为汉王立过大功。当年汉王北征匈奴,被围困平城,冒顿妻阏氏主攻正面,情势危急。代国王子是对河一带人,看过咱的线戏,又知番邦详情,向陈平献计说:“在下深知匈奴冒顿之妻阏氏英勇善战而又嫉妒,每恐有美女夺其宠。西河(今合阳)傀儡戏楚楚动人,栩栩如生,莫若使工匠大而为之,妆扮美女,原仍以线系之,借夜月舞于城楼,令其望之,必可解围。”平从其计,果然成功。
*4 起於漢祖,在平城,為冒頓所圍,其城一面即冒頓妻閼氏,兵強於三面。壘中絕食。陳平訪知閼氏妬忌,即造木偶人,運機關,舞於陴間。閼氏望見,謂是生人,慮下其城,冒頓必納妓女,遂退軍。
*5 明代崇祯六年(1633)合阳著名举人李灌,对线偶戏从人物造型、脸谱、服装设计、提线技巧,到唱腔、音乐等方面都进行了改进和提高,并编写了《黑山记》、《白汗衫》、《五灵庵》等剧本。此期间,线偶戏曾随商帮南下苏州、扬州演出。
*6 台湾文献叢刊、1964年、326-327頁。
*7 先生名灌,字向若,陝西郃陽人。幼警敏,讀書日盡數千言。明崇禎癸酉舉人。甲申之難,痛哭北上,與呂孝廉得璜約同死王事。渡河如晉,其父以書止之,乃不果。棄家東渡,至北郭寺,遂薙髮為僧,放浪太華、黃河間。入山采藥,或累歲不知所向,或黃冠緇衣,行哭都市。識者曰:「此必李子向若也」。跡之果然,已翩然遁矣。國初,徵書累下,皆引疾不起。行蹤奇誕,多寄跡僧房梵宇,與田夫、牧豎伍。又自結茅菴於河滸,終歲屢空,晏如也。性至孝,負經濟才,博極秘緯。詩文清雄奇宕,自成一家。與人言,閎衍浩渺,一歸本於忠孝。長吏求一見,不可得。晚歲,於乳羅山鑿石室以居。得田數十畝,名小桃花源。居數月,遁去。嘗遊華山,至落雁峰,方移目,有異人飛空而至,與語久之,且曰:「要知未來,但觀已往」。語似有道者。先生卒,雲中郭君匡廬為題碣曰「逸民李向若先生之墓」,路徵君振飛書也。
*8 陝西人民出版社、1987年。
*9 李灌一生创作了《煤山泪》、《黑山记》、《七国齐》等30余个剧本。他的剧作有浓厚的民族思想和不屈不挠的反抗精神,在清初遭到禁演。(「西部建设中戏曲文化资源的开发和利用」)
*10 李十三、名は芳桂。華州の人。乾隆十三年生、三十二年生員、五十一年挙人、嘉慶三年洋県儒学教諭、嘉慶十五年卒。碗碗腔皮影のために『春秋配』『火炎駒』『紫霞宮』『香蓮珮』『如意簪』『万福蓮』『玉燕釵』『白玉鈿』の八大本戯、および『玄玄鋤谷』『四岔捎書』の二つの折子戯から成る「李十三十大本」を作成した。