薛家将征西故事小説変遷考
はじめに†
唐の高句麗征討や遊牧民との抗争で活躍した将軍・薛仁貴は、後世、通俗歴史物語の主人公となり、更に明末以降、その架空の子孫たちの活躍する一連の物語が形成された。それらは薛家将故事と総称され、(薛仁貴)征東・(薛丁山)征西・(薛剛)反唐という三世代・三つの部分から成る。本稿ではこれらのうち、征西部分について取り上げる*1。
薛家将征西故事は、薛仁貴の息子の薛丁山、そして何よりもその妻である女将軍・樊梨花の活躍を描くものであり、明代万暦年間の弋陽腔系伝奇『金貂記』にその原形が現れ、清代乾隆年間の小説『説唐三伝』が一つの完成形となっている。薛仁貴は太宗の高句麗親征で頭角を現した後、朝鮮半島のみならず、鉄勒や九姓突厥との戦いでも活躍しているが、征西故事の内容は、そうした史実と関わりを持たないフィクションである。
薛家将征西故事の形成過程については、従来必ずしも明らかになっていなかったが、筆者は千田大介2019で、『三皇宝剣』伝奇と内府本戯曲・皮影戯影巻などの比較対照を通じて、小説『説唐三伝』に先行して、それとはいささか展開の異なる三休樊梨花故事――薛丁山が樊梨花との結婚を三回拒んだ末に結ばれるエピソード――が京腔で行われていたとの結論を得た。また千田大介2020では『三皇宝剣』伝奇が魏長生の『滾楼』を取り込んでいたことを明らかにし、女将軍が活躍する物語が盛行した背景として、清代中期北京の舞台における粉戯の盛行を想定した。さらに千田大介2021では、京腔系の三休樊梨花故事の内容と影響を、伝統劇・伝統芸能の演目などを参照しつつ考察するとともに、『説唐三伝』が先行小説と京腔系三休樊梨花故事を吸収する形で成立したとの見取り図を示した。
しかるにこの見取り図は、小説の内容を細かに検討してはいないため、修正の余地がある。そこで本稿では、各征西故事小説の内容・記述を具体的に検討し、それらの継承関係および物語の形成過程を、戯曲との影響関係を考慮しつつ、より詳細に論じてみたい。
1.『混唐後伝』~樊梨花登場以前の征西故事小説†
『混唐後伝』の成立年代をめぐって†
薛仁貴・薛丁山父子の征西を扱った通俗作品としては、前述のように明無名氏の『金貂記』伝奇が最も古く、明の万暦年間に多くの弋陽腔系伝奇を刊行したことで知られる金陵富春堂の刊本が残っている。前半で尉遅敬徳の貶謫を描き、その後で薛仁貴が唐に挑戦してきた蘇保童を伐つものの鎖陽関で包囲され、それを子の薛丁山や尉遅敬徳らが救援する、といったストーリーが展開される。
こうして成立した薛家将征西故事は、清代に入って章回小説の題材としても取り上げられるようになるが、その嚆矢となったのが『混唐後伝』である。
『混唐後伝』は、本稿で用いる『古本小説集成』所収大連図書館所蔵芥子園刊本のほか、董晧校注『混唐平西伝』*2、『明代小説輯刊』第三輯所収曲沐点校本*3などの排印本も刊行されている。
芥子園刊本の封面は『繍像薛家将平西演伝』、目録題は『繍像混唐平西演伝』に作るが、序題・版心題・巻首題はいずれも『混唐後伝』である。封面に「竟陵鍾伯敬定」・「卓吾評閲」とあり、また各巻巻首に「竟陵鍾惺伯敬編次、温陵李贄卓吾参訂」と見える。
孫楷第『中国通俗小説書目』は、『異説征西演義全伝』(以下『異説征西』)の項目で以下のように述べる。
褚人獲の本(筆者注:『隋唐演義』を指す)の六十八回より引き写し始め、馬賓王・蕭后の事を省略し、薛仁貴征西の事を捏造している。第十一回以下は褚の本の第七十回以下の文を完全に踏襲している。*4
また『薛家将平西演伝』(『混唐後伝』)の項では以下のように述べる。
この本は恂荘主人編の『異説征西演義全伝』にほかならず、ただ巻首の征西のことがやや略されている。*5
孫楷第は『異説征西』が先、『混唐後伝』が後としているが、後述のように実際の成立順序は逆であると思われる。
孫楷第は『混唐後伝』が清の褚人獲の『隋唐演義』を引き写したものであるとしているが、これに対して欧陽健1988は、『混唐後伝』が明末の成立で、むしろ『隋唐演義』の方が引き写したのだとする。この説については、いくつかの反論が出されており、改めて整理・検討しておく必要がある。
欧陽健の主要な論拠は、以下の二点である。
- 1.『隋唐演義』が康熙帝の諱である「玄」字を避けているのに、『混唐後伝』が避諱していない箇所が見られる。
- 2.『混唐後伝』巻之一第二回に「若說開國之君,閨門不正,莫過于漢唐;閨門之正,自古到今,莫過于我明……」と見える。
欧陽健の掲げる論拠のうち、「玄」字の避諱については、竹村則行2003が反論している*6。すなわち、『珍本禁毀小説大観』に引く乾隆五十年刊『繍像征西全伝』、および康熙十年の戯曲『天宝曲史』など、「玄」字を避諱していない例があるので、避諱のみをもって年代を確定することはできない、というものである*7。筆者の目睹した範囲でも、例えば乾隆五十八年刊の『説唐全伝』観文屋堂本第六十八回第七葉には欠画のない「玄武門」が見られる。戯曲・小説などの通俗的なテキストでは、避諱が必ずしも徹底されていなかったと見るべきである。
また、欧陽健のもう一つの論拠、「我明」であるが、筆者が確認・検索した限りでは、『混唐後伝』に該当箇所を発見できなかった。これは実際には、『混唐後伝』を整理・増補して乾隆十九年に刊行された『異説征西』第十回の末尾に見えるものであり、これをもって『混唐後伝』が明刊である証拠とすることはできない。
ところで、『混唐後伝』の序と『隋唐演義』の序は、前者が「竟陵鍾惺伯敬題」、後者が「康熙乙亥冬十月既望長洲褚人獲學稼氏題於四雪草堂」と署名するほかは、数文字が異なるだけで同じものであるが、そこに以下のように見える。
昔、友人が所蔵している『佚史』を私に見せてくれたが、隋煬帝と朱貴児が唐明皇と楊玉環に転生する因縁を載せており、とりわけ新奇であった。そこで考えた上で、この小説に取り入れて、一編の首尾をつなぐ筋立てとした。それと『遺文』・『艶史』を合わせて、その物語を膨らませて……。*8
『隋唐演義』序は「友人(有友人)」を「籜庵袁先生」に作っている。これは、両方の序に見える『遺文』、すなわち『隋史遺文』の作者である袁于令を指す。事実、『隋唐演義』の前半部分の大半は『隋史遺文』の引き写しである。ちなみに『艶史』は明の斉東野人の『隋煬帝艶史』を指し、やはり『隋唐演義』に取り入れられている。
この部分について、『古本小説集成』の『混唐後伝』影印に付された朱玲球の「前言」は、『隋史遺文』が刊行されたとき、鍾惺は既に没していたので、この序が鍾惺の作でありえないと指摘する。確かに『隋史遺文』の刊行は崇禎六(1633)年、鍾惺の没年は天啓五(1625)年であり、これは『混唐後伝』が『隋史遺文』を引き写して鍾惺に仮託した際の杜撰に起因するものだろう。
以上から、『隋唐演義』が『混唐後伝』に基づいたとの説は成立しがたく、『隋唐演義』の後半部分を引き写して、薛仁貴征西故事を付け足したのが『混唐後伝』であるとする孫楷第の説に従うべきである。このため、『混唐後伝』の成立年代は『隋唐演義』が刊行された康熙三十四(1695)年より後ということになる。一方、鍾惺・李卓吾らの名を冠するのは、その名声がいまだに響いていた時期の成立であることを示唆する。おそらくは『隋唐演義』からさして時をおかず、康熙四十年前後に刊行されたものである蓋然性が高い。
『混唐後伝』の概要†
『混唐後伝』は、冒頭に巻之首第一回~第五回を置き、その後に改めて巻之一第一回が置かれている。巻之一以降は、最後の巻之八まで回目が通番になっており、各巻四回で第三十二回まで、巻之首と合わせて計三十七回となる。
内容は、孫楷第が指摘するように、褚人獲『隋唐演義』の後半部、第六十八回以降に薛仁貴征西故事五回分を付け加えたものとなっている。巻之首と巻之一について、両者の対応関係をまとめたのが表1である。
『混唐後伝』では巻之首第二回後半から巻之一第二回前半にかけて、薛家将征西故事を扱っている。合計五回分であり、巻之首の回数と一致する。ここから『混唐後伝』は、『隋唐演義』の後半部、第六十八回以降に手を加えて独立した小説として刊行する企画として進められ、刊刻もある程度進んだ段階で、急遽、薛家将征西部分を五回分増補することとなり、そのために第一巻の前に巻首を挿入したことが推測される。
『混唐後伝』の薛家将征西故事†
以下、『混唐後伝』の征西故事部分のあらすじを、回ごとに纏めておく。
巻之首第二回†
西遼華於国の迷王は、唐侵略のため兵を集める。高麗の蓋蘇文の子・蘇保童は西遼に身を投じて駙馬・征唐大都督となり、長安に戦書を送る。唐の太宗は親征を決め、薛仁貴を起用すべく徐勣を竜門県に派遣する。徐勣は激将法を用い、渋る薛仁貴に出征を受諾させる。
巻之首第三回†
太宗は薛仁貴を元帥に任じ、秦懷玉・段野林を左右先鋒に封じて親征に出る。唐軍は草橋関を落とす。蘇保童は節天関に空城計*9を設け、薛仁貴は計略を疑うも太宗が入城を命じ、蘇保童の重囲に陥る。
巻之首第四回†
蘇保童は飛刀で段野林を討ち取る。続いて秦懷玉が出るも勝負が付かず、蘇保童は互いを三鞭ずつ打ち合って勝負を決めることを提案する。秦懐玉は先に鞭で三度打つが蘇保童がそれに耐えたため、敵せぬと見て城内に逃げ帰る。翌日、薛仁貴が出るが、蘇保童の飛刀を受けて負傷し、帰陣後、人事不省となるが、蘇保童も太宗に射られて負傷する。太宗はひたすら救援を待つ。薛丁山は、かつて父・薛仁貴にそれと知らずに射殺されたが、雲夢山水
連 洞の鬼谷老祖に救われていた。老祖は武器を与えて下山させる。途中、妖怪を降して馬を得て、太白金星から鞍轡・盔甲を贈られる。薛丁山は家に帰り母・姉と再会し、一万の兵を率いて父の救援に向かう。節天関で蘇保童と戦い、飛刀を神箭で破る。
巻之首第五回†
薛丁山は蘇保童を退け、入城して太宗に拝謁し、傷の癒えた薛仁貴との再会を果たす。蘇保童は叔母の蘇金定に救援を求める。薛丁山は蘇金定と戦い追撃するが、冷箭を受けて陳家に匿われる。陳家の娘・陳金定は、遅れてやってきた蘇金定を寝室に誘い込み、闇討ちにする。薛丁山は陳金定を娶る。蘇保童は師の青雲老祖の下山を請う。薛丁山に敗れた青雲老祖は計略を設けて、薛丁山夫婦を捕らえる。
巻之一第一回†
薛金蓮はかつて後花園で長眉大仙より武芸・道術を授けられていたが、長眉大仙より兄の救援に赴くように命じられ、雲に乗って西遼に赴き、法術で薛丁山夫婦を救出する。長眉大仙は玉帝に奏上して青雲老祖を捕らえる。
巻之一第二回†
唐軍は反攻に転じ、逃走する蘇保童を薛金蓮が捕らえ、迷王は降伏する。太宗は蘇保童を斬り、長安に凱旋し、薛仁貴親子に加増する。
『金貂記』および他作品との比較†
『混唐後伝』は、征西途上で包囲に陥った薛仁貴を薛丁山が救援する、という大枠こそ『金貂記』伝奇と共通するが、相違も多々見られる。
まず唐に挑戦する敵国の名称について、『混唐後伝』は「西遼華於国」、国王を「迷王」としている。『金貂記』では、第十六齣で蘇保童が以下のように名乗りを上げる。
わしはかつて本国・高麗に居ったが、わが叔父・蓋蘇文が唐と天下を争い薛仁貴と戦い死んだため、わしは海西に落ち延び、遼の天子に拝されて大元帥となった。*10
同齣には、「わが地は西は遼水に臨み、東は扶桑を望む*11」ともあるので、蘇保童が属するのは現在の東北地方ということになり、五代・北宋時の遼を意識しているとも思えるが、第十七齣で薛仁貴が征西大元帥に任命されているので、征西の物語であると認識されていたことに間違いはない。柴崎久美子2014は西遼を意識したものと推測するが*12、通俗伝奇の作者・受容層に正確な歴史や地理の知識があったのかは疑問である。征東の次は征西という大枠が先にあり、相対的に西の地名を適当に補ったに過ぎないと考えるべきであろう。
蘇保童は蓋蘇文の子もしくは甥とされているが、姓が食い違っている。これは戯曲・芸能で蓋を略して蘇文と呼ばれるのを、姓名と誤認したことに起因しよう。ちなみに史実では、蓋蘇文が名で、泉もしくは淵(高句麗語の意訳)が姓である。
また、『金貂記』では薛仁貴が征西軍を率いて鎖陽関に包囲されるが、『混唐後伝』は太宗が親征しており、主戦場も節天関に変わっている。
『混唐後伝』で、薛仁貴は征東から帰還した後、妻と再会する前に、出生時にまだ母胎の中にいた薛丁山を、武芸にすぐれ妄言を吐いたために射殺したとしているが、これは『金貂記』には見えない。薛丁山の双子の姉・薛金蓮も同様である。
巻之首第四回で秦懐玉と蘇保童が互いを鞭で打ち合うのは、小説『隋唐両朝史伝』等に見える秦叔宝と尉遅敬徳の「三鞭換両鐗」と同じ趣向であるが、直接的には薛仁貴征東を描いた『白袍記』伝奇第三十四齣で尉遅敬徳が先に蓋蘇文を三鞭打った後、自らは鞭を受けずに逃走したのを意識しているのであろう(これは、成化本説唱詞話『唐薛仁貴跨海征遼故事』にも見える)。その尉遅敬徳であるが、『金貂記』では薛丁山とともに救援に駆けつけるが、『混唐後伝』には登場しない。
『金貂記』の薛丁山は、最終第四十二齣で尉遅敬徳の娘と結婚している。陳金定は、『説唐三伝』では薛丁山の第二夫人であり、醜女であるとされるが、『混唐後伝』には容姿に関する記述は特に見えず、知勇に優れた女将軍として描かれる。この点、道術を使う女将軍である薛金蓮と、キャラクターのタイプが区別されている。なお薛金蓮は『金貂記』のみならず、京腔系の征西故事にも登場しない。
一方、彼女たち、特に薛金蓮が活躍する代償として、『混唐後伝』で薛丁山の影は相対的に薄くなっている。これは、多くの薛家将征西故事の小説・戯曲等に共通する欠点でもある。
2.『異説征西』~樊梨花の登場†
『異説征西』と『混唐後伝』†
『異説征西』、大塚秀高1987が収録する最も古い版本は乾隆十九(1754)年刊鴻宝堂刊本であるが、本稿で用いる同書未収の積秀堂本も同年の「新刊」である。積秀堂本は封面に『征西全伝』と題し、「中都佚叟原本」とあり、目録題・巻首題を『異説征西演義全伝』に作る。
前述のように、孫楷第『中国通俗小説書目』は『異説征西』を改編したのが『混唐後伝』であるとするが、『混唐後伝』に見られる巻一の前に巻首を置く混乱が『異説征西』には見られないこと、征西部分で樊梨花関連のエピソードが増やされていること、また序はやはり『隋唐演義』序の引き写しであるが、署名が鍾惺でなく「乾隆十八(1753)年恂荘主人序」となっていることから、逆に『異説征西』が『混唐後伝』に基づいたと見るのが妥当である。
『異説征西』もその大部分は『隋唐演義』からの引き写しになるが、薛家将征西故事を扱う部分は、『混唐後伝』よりも分量が増えている。表2は両者の征西部分の回目の比較である。
『異説征西』で増補されているのは、第三回から第四回前半、第五回後半から第六回、第八回、第十回になるが、『混唐後伝』と重なる部分についても、ある程度手が入っている。『混唐後伝』にはほとんど見えなかった挿詩がしばしば使われているし、描写も細かくなっているほか、人物や地名の追加・変更もある。
『異説征西』の増補部分†
以下、『異説征西』で増補された部分について、あらすじを紹介し、他の小説・戯曲との相違点を検討する。
第三回・第四回†
蘇保童は西番の軍勢百万を率いて幽州に攻め寄せ、三関を奪う。太宗は親征して、鎖陽城で蘇保童の空城計に陥り、包囲される。遼軍がたびたび攻め寄せるところ、秦懐玉、尉遅豹慶・尉遅豹麟らの活躍で退ける。蘇保童の軍師である道士の桑木艮は、白猴の精である袁白焉の下山を請い、節天関に空城計を設ける。
これに続く節天関の戦いは、『混唐後伝』をほぼそのまま踏襲している。
『旧唐書』の「尉遅敬徳伝」によると、尉遅敬徳の子の名は宝琳であり、豹麟はその音通である。元無名氏の『小尉遅』雑劇(『元曲選』本)は保林に、『説唐後伝』・『説唐三伝』などは宝林に作る。豹慶は史書には見えず、また尉遅敬徳・宝林父子の再会譚を扱う『小尉遅』雑劇・『説唐後伝』にも登場しないが、『説唐三伝』は宝慶に作り、宝林の兄弟だとする。
西番の兵が幽州(河北)に攻め寄せるというのも、『金貂記』や『混唐後伝』と同様、通俗文芸作品にしばしば見られる地理の混乱である。本来、山西省の太原と大同の間に位置し、北宋と遼との境界に位置した雁門関等の総称である三関が、楊家将故事の影響により、漠然と夷狄との境界として認識されている例は、多くの通俗歴史物語に見られる。
征西の経路について、『混唐後伝』は草橋関を落とした後、節天関で唐軍が空城計に陥っているが、『異説征西』では鎖陽城・節天関の順になっており、三関の奪還は描かれない。また、鎖陽城・節天関で空城計が繰り返されるばかりか、宮殿に鳩を入れた箱を残しておき、唐軍が箱を開けて鳩が飛び立つのを合図に城を囲む、という敵の計略も同じである。ちなみに征西故事で薛仁貴が包囲されるのは、『金貂記』、さらに他の戯曲・小説がいずれも鎖陽関あるいは鎖陽城としており、鎖陽の出てこない『混唐後伝』はむしろ孤立した例になっている。
第五回後半・第六回†
太宗は程咬金に命じて、長安に救援を求めさせる。程咬金は投降兵を装い、敵の馬を奪って逃げおおせ、太子に謁見し、八万の援軍を率いて救援に向かう。
『混唐後伝』の太宗が援軍をひたすら待っていたのに対して、『異説征西』では程咬金を救援要請に派遣している。そもそも『金貂記』伝奇で、程咬金が救援の使者に送られ、蘇保童を唐朝のあまたの名将を恐れるのかと挑発して敵陣を通り抜けており(第二十七齣)、他の征西故事の戯曲・小説でも皆、程咬金が使者となっている。
この後に続く薛丁山の下山と帰宅、出征にかけては『混唐後伝』と変わらないが、その後に樊梨花が登場する。
薛丁山は一隊を率いて遼西に向かう途中、棋盤山で山賊・樊梨花と戦い捕らわれる。樊梨花はかつて異人から薛丁山との宿縁を聞かされていたので結婚を迫り、薛丁山は征西終了後に婚礼を挙げることを約す。樊梨花は山寨を焼き部下を率いて薛丁山に従って進軍する。途中、程咬金の軍に合流し、ともに救援に赴く。
棋盤山は『説唐三伝』第十八・十九回にも見え、竇一虎・竇仙童兄妹が山賊として立てこもっており、負けて捕らわれた薛丁山が竇仙童を一人目の妻とする。
『異説征西』では、続く第七回で薛丁山が蘇保同に勝利して太宗・薛仁貴に見えるが、『混唐後伝』を踏襲しており樊梨花は登場しない。その後に、遅れて程咬金が入城する一段が挿入され、救援の経緯を説明する中で棋盤山と樊梨花のくだりに言及している。
蘇金定との戦いは、薛丁山が陳家に逃げ込んだ後、陳金定が屋敷を訪った異人より購入した薬を用いることで半月後に平癒し、その後で陳金定と祝言を挙げ、蘇金定を討ち取っており、いささか展開が異なる。
第八回†
薛丁山と陳金定は蘇金定を破り帰還する。樊梨花と陳金定は姉妹のちぎりを交わす。蘇保童は青雲老祖の下山を請い、烈焔陣を布いて唐軍に挑戦する。唐軍の諸将はこの陣が分からず、秦懐玉が敵の命令書を偽造して陣中を偵察する。薛仁貴の命を受けた樊梨花が敵陣に突入し、大いに破る。
以上に続いて第九回にかけて、薛金蓮が敵に捕らわれた薛丁山・陳金定を救い出し、青雲老祖と蘇保童を破る。『混唐後伝』と基本的に同じであり、樊梨花は登場しない。
第十回†
第十回は、まず太宗が征西から凱旋し、次いで武媚娘が太宗の後宮に入り、晋王と誼を通じる、図讖に応じているとして死罪に問われるが剃髪して尼になることで赦される、といった内容を描く。その後に再び征西の始末に話が戻る。
太宗は凱旋した後、薛仁貴に褒美を取らせる。薛仁貴父子は朝見して恩に感謝し、薛丁山と樊梨花・陳金定との婚姻を願い出る。太宗は程咬金に媒酌を命じ、薛丁山は二人と祝言を挙げる。
これは、第六回で薛丁山が敵を破った後に樊梨花と祝言を挙げることを約していることに呼応しているが、陳金定とは第七回で既に祝言を挙げているので、いささか矛盾を来している。
三休樊梨花への言及†
第十回で媒酌を命じられた程咬金は、以下のように奏上する。
……梨花は師匠から、他日、中華朝廷の将軍・薛仁貴の子・丁山と汝に宿縁がある、我が言葉をしかと覚えておくように、と言いつけられていたがため、帰順いたしました。あにはからんや、丁山は彼女の父兄の死に疑念を覚えました。また、青竜関では烈焔陣にあい、彼女は請われてこの陣を破り、朝廷に力を尽くしました。またも朱雀関で関水陣にあい、またも彼女は請われて破り、兵法は無双であります。樊氏が小将・王翠山を義子としたがため、丁山は彼女ら母子に私情があるものと疑い、二度も三度も樊氏に暇を出したので、樊氏が深く怨みに思うのは致し方ないところ。臣の考えでは、今、薛丁山に樊氏を迎えに行かせるのが宜しいでしょう。願わくば我が王には厚く封増を賜りますよう。*13
そこで太宗は、樊梨花を威寧侯大将軍に封じることを決め、程咬金が勅使として樊府を訪い都に呼び寄せ、官職に封じるとともに、樊梨花・陳金定を薛府に送り、祝言を挙げさせる。
さて、一見してわかるように、上に引いた程咬金の上奏の内容と、これまでに描かれてきた内容との間には、乖離が見える。結婚については、第六回で、薛丁山は樊梨花と婚約しただけなので、一応、伏線が貼られているが、薛丁山と樊梨花の確執は描かれていない。樊梨花は第六回で棋盤山の山賊として登場し、山寨を放棄して薛丁山に従っており、家族の存在に言及していないが、ここでは唐突に母とともに樊府に居住しているとしている。また陳金定は、第十回に名前こそ出てくるものの、祝言の場面に登場していない。
地名についても、朱雀関は作中に出てこないし、青竜関という地名も第八回の烈焔陣攻略の場面に見えない。
これらは、『異説征西』の編纂の杜撰、あるいは倉卒を窺わせるものである一方、樊梨花故事の形成を考える上で重要な手がかりを提供している。まず、三休樊梨花故事の成立が乾隆十年代にまで遡ることがわかる。そして『異説征西』は『混唐後伝』をベースに、新たに形成された三休樊梨花故事を取り込んだものであると考えられるので、鎖陽城と節天関の内容的重複は、前者が三休樊梨花故事によって補われたために生じたと解されるし、三休樊梨花故事は『混唐後伝』の征西故事が発展したものではなく、それとは別個に形成されたことを窺わせる。
『異説征西』の樊梨花に関する文が中途半端である原因としては、以下の二つの可能性が考えられる。一つは、先行して成立していた樊梨花を山賊とする物語に基づいて増補した後に、新たに成立した三休樊梨花故事が伝わったため、程咬金の上奏文を増補して言及した可能性である。もう一つは、『混唐後伝』を大幅に書き換えて三休樊梨花故事を全面的に取り込むだけのコストをかけられなかったため、穆桂英・劉金定タイプの女山賊として樊梨花を登場させ、程咬金の上奏文でのみ三休に触れることでお茶を濁した、という可能性である。同時期の資料が乏しい現状では、どちらか一方に絞り込むことが難しい。
『説唐三伝』の薛家将征西故事†
『説唐三伝』の概要†
三休樊梨花故事の小説として最も内容が整い、広く普及しているのが『説唐三伝』である。本稿で用いる『古本小説集成』所収の経文堂本は、封面に「如蓮居士」とあり、序の署名も「如蓮居士題於似山居中」である。如蓮居士は『説唐全伝』・『説唐後伝』の作者でもあり、本書が説唐シリーズとして作られていることがわかる。封面・序などに年記がなく、刊行年はわからない。大塚秀高1987に掲載する『説唐三伝』の版本では、乾隆四十二(1777)年演劇軒刊本が最も古い。
底本の封面題は『説唐三伝』、目録題は『新刻異説後唐伝三集薛丁山征西樊梨花全伝』、各巻の巻首題は『異説後唐伝三集薛丁山征西樊梨花全伝』に作る。内容は、李道宗による薛仁貴陥害と尉遅敬徳の死から、薛家将征西、薛剛反唐までをカヴァーするが、タイトルでは征西故事の小説であることが強調されている。
底本の回目は、目録と本文各回とでしばしば出入りがあり、二句の文字数が異なるなど対句になっていないものも多く、かつ音通や誤字が散見される。そのため表3の『説唐三伝』征西部分の回目一覧は、『中国通俗小説総目提要』所載のものを引用した。
以下にあらすじをまとめておく。
第六回~第十六回†
哈迷国の蘇宝同の挑戦を受け、太宗は薛仁貴を征西大元帥に任じて親征する。界牌関・金霞関・接天関を落とすが、鎖陽城で空城計に陥る。蘇宝同は秦懐玉・尉遅兄弟を討ち取り薛仁貴を負傷させる。程咬金は長安に救援を求める。
~第二十三回†
王敖老祖は薛丁山を下山させる。薛丁山は救援軍の将軍募集に応じ、二路元帥となり出征する。棋盤山の竇仙童は薛丁山を捕らえて結婚し、竇一虎とともに帰順する。界牌関で羅通が陣没する。薛丁山が蘇宝同を退け、鎖陽関の包囲を解く。太宗は征西を薛仁貴に委ねて長安に戻る。
~第二十七回†
蘇宝同はまたしても鎖陽城を包囲するが、王禅の弟子の秦漢が下山し敵を退ける。蘇宝同の姉の皇后・蘇錦蓮が来援し、薛丁山を助太刀した陳金定がその次妻となる。
~第三十四回†
唐軍は樊江関を攻める。樊梨花は薛丁山に結婚を承諾させるが、降伏にあたり守将の父と兄を、事故・故意で死なせたことがわかり、薛丁山は結婚を拒む。青竜関で烈焔陣に陥った薛丁山は樊梨花に救出されるが、結婚を拒む。朱雀関で洪水陣に陥った薛丁山を樊梨花は救援する。薛丁山は樊梨花とその義子・薛応竜との仲を疑い結婚を拒む。
~第四十回†
玄武関で、秦漢は敵の女将・刁月娥を手篭めにして結婚し、竇一虎は薛金蓮と結ばれる。
~四十六回†
白虎関に攻めた薛仁貴は、白虎山で陣没する。朝廷では太宗と徐茂公・魏徴が相次いで没する。高宗は征西軍支援のために親征する。薛丁山は勅命で樊梨花に謝罪する。樊梨花は白虎関の守将で許嫁であった楊凡を斬る。
~第五十回†
唐軍は、諸仙の援護を受けつつ、麒麟山・沙江関・風凰山を落とす。
~第五十四回†
蘆花関で蘇宝同は金光陣を布く。樊梨花が陣中で子を産んだことで陣は敗れる。薛応竜は戦死し、蘆花河の水神となる。
~六十四回†
二郎神・紅孩児らの救援を受けつつ、金牛関・銅馬関を落とす。
~七十回†
蘇宝同は金璧風・李道符らの助力のもと、玉竜関に諸仙群会陣を布く。唐軍も諸仙人の援助を受け、また巻き込まれた孫悟空の加勢を受けて敵陣を破り、蘇宝同らを斬り、哈迷王は降伏する。
『説唐三伝』の特色†
『説唐三伝』では『混唐後伝』・『異説征西』に比して、征西故事物語が拡大している。すなわち、従来は太宗が親征し、敵の空城計に陥り、敵の包囲・挑戦を退けることで決着が付いていたが、『説唐三伝』では鎖陽城で敵軍を退けて太宗が帰国した後に、三休樊梨花、薛仁貴の死、そして敵城の攻略が繰り広げられる。
とりわけ樊梨花が主役となる樊江関以降は、敵城を攻略し緒戦で敵将を破るが、その師匠筋の截教の仙人や妖怪が来援し、唐側は闡教の仙人の援助を得て撃破する、というパターンが、趣向を変えつつ繰り替えされる。しかも戦いの多くは法術比べであり『封神演義』の影響が色濃いが、後半部分は敵の妖怪をその本来の主人が引き取るという『西遊記』的な展開も目立つ。紅孩児・二郎神なども登場するし、例えば麒麟山の八卦道人・長寿大仙は亀・蛇の精で、北極真君座下の張大帝に引き取られる(第五十回)。第五十四回で金牛関の副将・青獅は捕らわれた後、以下のように言う。
私は文殊菩薩の仏弟子の青獅子童子です。勝手に下界に下り、三蔵法師のお経取りの邪魔をし、誤って朱崖配下に身を投じました。*14
『西遊記』で青獅は、仏祖の命により烏鶏国王に化けていたのを、第三十九回で文殊菩薩によって収められ、また、獅駝嶺の三大王の一人となっていたのを、第七十七回でやはり文殊菩薩によって収められる。
第六十八回では、諸仙群会陣が破れたところ、黄眉童子が布袋に唐側の諸仙を取り込む。それに三蔵一行が巻き込まれたため、孫悟空が弥勒仏を請来して童子と如意乾坤袋を回収することになる。これも『西遊記』第六十六回で弥勒仏に収められる黄眉大王を下敷きにしている。
孫悟空そのものは、京腔系の三休樊梨花故事にも闘戦勝仏・孫悟空が登場していたと思われるので(千田大介2021)、『説唐三伝』の独創ではないのだが、『西遊記』の西天取経が太宗朝のことであるのに、『説唐三伝』第六十八回の時点で太宗は既に没しているため、矛盾を来している。おそらく、京腔系の闘戦勝仏・孫悟空を敷衍して三蔵一行へと改編したが、細部の整合までは考慮しなかったのであろう。後半部に『西遊記』的な展開が目立つのも、あるいは孫悟空の登場に触発されたものかもしれない。
主要な登場人物については、先行小説を概ね継承しているが、細かな相違も多い。
敵役である蘇保童であるが、前述のように先行作では高句麗の蓋蘇文の血縁とされる一方、姓が異なるという矛盾を抱えていた。『説唐三伝』では蘇宝同に作り、蘇定方の孫、蘇鳳の子とすることでこの問題を解決しているが、蘇宝同による薛仁貴への復讐というプロットの明快さが損なわれていることは否めない。
歴史上の蘇定方は優秀な将軍で、白村江の戦いでも大いに武勳を挙げており、決して奸臣ではない。『説唐全伝』では隋末の群雄・劉黒闥配下の将として、李世民の部将・羅成を討ち取っている。おそらく当初は、羅成ほどの武勇の者を討ち取るにたる将軍として蘇定方に白羽の矢が立ったのであろうが、人気のキャラクターを殺害したことで悪役に貶められてしまう。『説唐後伝』前半の羅通掃北部分では、太宗による北方征討と同時に羅成の遺児・羅通による蘇定方への復讐が描かれ、しかも復讐を正当化するために蘇定方は奸臣として描かれる。このように羅家と蘇家の間の復讐の連鎖が、『説唐三伝』も含めて、説唐シリーズ全体を貫くプロットの一つとして使われている。
蘇宝同の属する国は、哈迷国とも西涼国ともされる。蘇宝同の姉の蘇金(錦)蓮は、先行小説の蘇金定に相当するが、西涼国皇后であるとされる。
さて、『説唐三伝』の先行小説との大きな違いは、三休樊梨花故事の全体を含むことにある。樊梨花は、樊江関の守将である父が敗れたために出陣し、戦場で薛丁山と出会って師より聞かされた運命の人であると知り、法術で何度も彼を捕らえて結婚を了承させる。しかし、それを聞かされ激怒した父が躓いて彼女の持つ剣に当たって死に、激高して斬りかかってきた二人の兄を返り討ちにしてしまう。そのまま祝言を挙げるが、そこで父と兄を殺した事を知った薛丁山が結婚を拒否する。その後も薛丁山は、敵の魔術的な陣に斬り込み、身動き取れなくなったところを二度にわたり樊梨花に救われるが、その都度、結婚を拒否する。しかし、薛丁山は白虎山で誤って薛仁貴の原神である白虎を射て父を死に追いやった罪を問われて、樊梨花に謝罪を重ねて、ようやく二人は結ばれる。
二人の因縁は、第三十二回で以下のように説明される。
弟子よ、今まで話していなかったが、お前たち夫婦には因縁がある。かつて蟠桃会に、諸天・諸宿・群仙が集まったが、玉帝御前の金童が玉女とふざけて、瓊瑤を割ってしまったため、玉帝はたいそうお怒りになり、金童・玉女を罪に問われた。南極老人が進み出て奏上するには「二人がふざけたのは、下界への憧れを懐いたゆえ。どうか二人の罪を赦して、罰として下界に下って夫婦とならせ、この因縁を終わらせてくださいませ。」玉帝はそれを認めて、直ちに下界に下らせた。玉女は霊霄宝殿を出るところ、披頭五鬼星と出くわしたが、その醜さに、クスッと笑った。五鬼星は玉女が自分に気があるものと思い込んで、恋心を懐き、やはり下界に逃げ出した。それが白虎関総兵の楊凡*15で、仲人を頼んでお前と許嫁になってしまったのだ。金童は玉女が誰にでも笑いかけるのを見て大いに怒り、軽薄なアバズレめと罵った。玉女は振り返って金童に三度笑いかけ、一緒に下界に下った。金童こそが薛丁山、玉女がお前だ。このため、何度か捨てられるだろうが、いずれ収まるところに収まるので、心配することはない。*16
樊梨花が楊凡と許嫁であることは第二十九回で言及され、第四十五回には以下のように見える。
おまえ、白虎関の守将・楊凡には注意しなさい。彼の父の楊虎がお前の父と仲が良かったので、小さい頃に許嫁としました。媒酌人を介して結婚を求めてきたこともありましたが、醜いと聞いたので、承知しませんでした。*17
そして、第四十六回で楊凡は樊梨花と対決し、薛応竜に斬られるが、その魂は樊梨花の胎内に宿って薛剛となり、後の反唐故事で大罪を犯して薛丁山一族が皆殺しとなり、仇に報いることなる。
説唐シリーズは、複数世代に受け継がれる、あるいは転生による復讐がしばしばプロットとして使われる。前述の蘇定方・蘇宝同もそうであるし、『説唐全伝』第四十六回には、紫微星が李世民として下界に下る際、二十八宿がかつて雲台二十八将として紫微星・光武帝を補佐したときに、酒に酔って讒言を信じて彼らを皆殺しにしたことを怨んで補佐を拒んだばかりか、下界に下って各地の反乱軍の王となって李世民を苦しめたと見える。『三国志平話』冒頭の司馬仲相による冥界裁判もそうであるが、この種の因果応報譚は、物語の強引な展開にもある種の説得力を持たせることができ、また一種のトリビアを提供することから、通俗的な作品で好まれる傾向にある。
以上のあらすじからも、『説唐三伝』と『異説征西』の間の共通点が見出せよう。しかし『説唐三伝』は単純に『異説征西』を改編して作られたわけではなく、両者の関係はいささか込み入っている。
『異説反唐』の概要†
如蓮居士の隋唐故事小説に、『異説反唐』がある。本稿で用いる『古本小説集成』所収の瑞文堂蔵板は、如蓮居士の序を載せており、封面題は『異説反唐演伝』に作り、封面題上に「武則天改唐演義」、右に「評点薛剛三祭鉄坵坟全集」とある。また、目録題は『新刻異説武則天反唐全伝』、各巻の巻首題は『新刻異説反唐全伝』に作る。瑞文堂本は百四十回だが、より遅い時期の版本の多くは、若干ダイジェストされて百回になっている。
底本に年記はないが、孫楷第1982によると、三和堂本の序は「時乾隆癸酉(十八年)仲冬之月如蓮居士録于似山居中」に作っており、筆者が蔵する桂芳斎本も同様である。大塚秀高1987によると、首都図書館に乾隆二十一(1756)年刊本が所蔵されるので、乾隆二十年前後の成立と見て良かろう。
『異説反唐』の薛家将征西故事†
『異説反唐』は、薛丁山と樊梨花の子・薛剛が、武則天に反旗を翻し唐王朝を恢復する過程を描くが、まず征西に勝利し唐に凱旋する場面から始まる。そこに現れる人物や地名は、『異説征西』のみならず『説唐三伝』ともいささか異なっている。
まず、征西の敵国の名称は、親唐国となっている。征西経路の諸城については、以下のように見える。
大軍は出立し、玄武・朱雀・興唐府・寒江・青龍関を経て、鎖陽城に到着した。*18
これらのうち興唐府以外は『説唐三伝』にも見えるが、鎖陽関以降の関城は『説唐三伝』に比して遥かに少ない。
唐側の武将についても、相違が見られる。まず、薛丁山の妻であるが、『説唐三伝』では竇仙童・陳金定・樊梨花の三人だが、『異説反唐』では五人いる。第五回で高宗は凱旋した薛丁山らを官職に封ずる。
薛丁山を上柱国・西京留守・両遼王とし、子孫世襲とする。妻樊梨花を鎮国一品夫人、高瓊英・高蘭英を定国夫人・安國夫人、程掌珠を護国夫人、申媚花を寧国夫人とする。*19
ただし、妻の人数と名前には揺れがある。第八回では薛丁山の子と母が列挙される。
両遼王薛丁山には四人の子があった。一人は薛猛で、母は高蘭英。一人は薛勇で、母は高瓊英。一人は薛剛で、母は樊梨花。一人は薛強で、母は程金定。*20
程掌珠と程金定はおそらく同一人物を指すが、表記が一定していない。程掌珠は程姓であるので、あるいは程咬金の孫娘かとも思われるが、程金定ならば陳金定が訛ったものである可能性もあるし、故意に陳を程に書き換えた可能性もある。
一方、第十九回で薛強は、公主・孟九環の繍球を受け取って大宛国の駙馬となるが、その自己紹介に以下のように見える。
わが父は征西大元帥、襲職両遼王の薛丁山。樊・豆・程、三人の母がおり、我ら兄弟四人を生みました。*21
薛丁山の妻の人数が三人に減っており、豆氏が出てきている。豆が竇の音通であるとすれば『説唐三伝』の三人が訛ったものとも取れるが、前引の第八回の例からすると、高の誤記である蓋然性が高い。
このほか、第十五回の薛氏一門が収監される場面では、樊梨花・高瓊英・高蘭英・申媚花の四人が列挙され、第二十二回で薛氏が皆殺しになる場面には、樊梨花・高瓊英・高蘭英だけしか見えない。
以上の全てに共通して挙がるのは樊梨花だけであり、その他の妻については、名前も存在も安定していないことがわかる。
『異説反唐』の樊梨花†
樊梨花の設定は、『説唐三伝』とほぼ共通する。第二十二回で、薛丁山の一族は皆殺しになるが、樊梨花は師の
(太乙山竇青)老祖は樊梨花を振り返って言った。「道兄、こちらが天魔女ですかな?」老母「不肖の弟子です。」老祖は頷きながら言った。「天魔女、おまえが蟠桃会で金童と微笑みを交わして下界を思ったがために、金母はお前を下界に落として苦しみを受けさせた。みたび辱めを受け、白虎関で九醜星楊凡を斬ったが、恨みに報いるため、おまえの腹に転生し、薛家三百八十余人が、いずれも血を流し、鶏や犬すらも残さず、前世の恨みに寸分も違わず報いたのだ。おまえの災厄はまだ満ちておらず、まだ瑤池に戻ることはできない。災難が終わった日には、凡胎を脱して、ようやく瑤池に上ることができよう。……」*22
以上の因縁譚は前に引いた『説唐三伝』とほぼ同じであるが、樊梨花が玉女ではなく天魔女になっており、楊凡・薛剛も五鬼星ではなく九醜星になっている。
『説唐後伝』との呼応†
『異説反唐』第一回に唐の武将として唐万仞が登場する。
私は死んでから既に二十九年、九天玄女娘娘にお救い頂き生き返りましたので、この身は既に化外の身であります。元帥夫人にお別れして、鸞鳳山で修行いたしたく存じます。*23
唐万仞の名は史書に見えない。褚人獲『隋唐演義』では第四十五回で、隋将・張須陀に殉じて自刎している。『説唐後伝』では唐万人に作る。第三十回では、太宗が高麗に上陸し鳳凰城に入ったところに高麗の主将・蓋蘇文が攻め寄せ、迎え撃った唐開国の老将たちは、唐万人を含めて、蓋蘇文の飛刀によって皆殺しにされる。ここで唐万人は「挿血兄弟」と呼ばれる中に入っているので、秦叔宝らと義兄弟の契りを結んでいたことになるが、『説唐全伝』第二十四回の賈柳店結義の場面にその名は見えない。
さて、『説唐後伝』第三十一回で太宗は彼らを葬らせる。
徐茂公は総兵たちの遺骸を山の裏手に葬らせたが、ただ唐万人だけは山の前に葬らせた。天子は訊ねた。「なぜ唐万人の遺骸を山の前に葬ったのか。」徐茂公は言った。「陛下、後日、役に立ちますので、この遺骸を山の前に葬ったのです。」*24
『説唐後伝』のこの記述は、確かに『異説反唐』の唐万仞の言葉と呼応しているが、しかし『説唐三伝』の征西部分に彼は登場しない。
『説唐後伝』の末尾、第五十五回には以下のように見える。
この続きは『薛丁山征西伝』にて、あらためて唐の歴史をお話しいたしましょう。*25
従来、この『薛丁山征西伝』は『説唐三伝』を指すと考えられてきたが、しかし『異説反唐』に見える征西故事が『説唐三伝』とかなり異なること、また唐万仞の記述の呼応などを考えると、これは『説唐三伝』と異なる別の小説を指していると考えるべきである。
清代乾隆年間頃の通俗小説であれば、坊刻の翻刻本が大量に刊行されて伝存しているはずなので、如蓮居士は何らかの理由で『薛丁山征西伝』をお蔵入りとし、改めて『説唐三伝』を作ったことになる。また、大塚秀高1987に載せる『説唐後伝』の最も古いテキストは乾隆三十三(1768)年刊であるが、その成立は乾隆十年代にまで遡る可能性が高い。
『説唐三伝』と『異説征西』・京腔系三休樊梨花故事†
それでは、如蓮居士はなぜ『薛丁山征西伝』を発表しなかったのだろうか。それは『異説反唐』と『説唐三伝』の征西故事を比較することで見えてこよう。
『異説反唐』第一回で、竇必虎*26・薛金蓮夫婦は鎖陽関の守将となり、秦漢・刁月娥夫婦は修行のため雲夢山に旅立っていく。竇一(必)虎・秦漢の矮将コンビは『説唐三伝』でも活躍しているが、竇一虎の妹で薛丁山の第一夫人となる竇仙童が『異説反唐』には登場していない。また、先にも触れたように、棋盤山の山賊は『異説征西』で樊梨花とされていたのが、『説唐三伝』で竇一虎・竇仙童に入れ替わっている。薛丁山の第二夫人・陳金定も『異説反唐』に見えないが、『混唐後伝』・『異説征西』には登場する。
このように薛丁山の妻について、『説唐三伝』は『異説反唐』が前提とした『薛丁山征西伝』を、『異説征西』寄りに改編していることがわかる。竇仙童は、三休を描く上で樊梨花を樊江関で登場させる必要があったため、棋盤山の女山賊として『説唐三伝』で新たに作られたのだろう。
『説唐三伝』への『異説征西』の影響は、薛家将征西故事の中核ともいうべき三休樊梨花故事にも見出せる。
『説唐三伝』で薛丁山が結婚を拒む理由は、一休と二休は父兄を殺害したこと、三休は薛応竜との仲を疑ったことであり、許嫁の存在には言及されない。これは前に引いた『異説征西』第十回の程咬金の上奏文で挙げる三休の原因、「丁山は彼女の父兄の死に疑念を覚え」たことと、「樊氏が小将・王翠山を義子としたがため、丁山は彼女ら母子に私情があるものと疑」ったことと同じである。
薛応竜は玉翠山の山賊であったが、『説唐三伝』第三十五回で樊梨花の義子となる。『異説反唐』にはその名が見えず、第一回に挙げられる地名に彼が戦死して神となる蘆花関が見えないことから、『薛丁山征西伝』には登場していなかったと思われる。さきに引いた『異説征西』第十回の程咬金の上奏文には「小将・王翠山を義子とした」と見える。原文「王翠山小将」の「王」字は、底本では「玉」の点が欠けた痕跡が認められないので、人名であると解される。丁山を意識した命名なのであろう。従って『説唐三伝』は、『異説征西』の王翠山を玉翠山という地名に変え、新たに薛応竜の名を与えて取り込んだことになる。
『異説反唐』第十五回、薛剛が七太子を蹴り殺し、驚いた高宗が崩御したために、薛氏一門が捕らわれる場面で、樊梨花は薛丁山に以下のように語る。
かつて西涼の句虎関で、あくまでも私に楊凡を斬らせましたが、今日、一族皆殺しになるのは、それが原因なのです。*27
句虎関は白虎関の誤りであろう。
『異説反唐』は三休について具体的に言及してはいないが、薛丁山と樊梨花の間に楊凡をめぐって行き違いがあったことが推測される。
ここで想起されるのが、内府本『西唐伝』伝奇である。民間の征西故事伝奇を吸収したと思われる『西唐伝』は、皇宮という上演環境に規定されたのか三休樊梨花を扱わないが、薛丁山は樊梨花と出会った後に許嫁の楊凡の存在を知り、九段第八齣「逼斬楊凡」で貞節を証明するためにこれを斬らせている。また、樊梨花の二人の兄は薛丁山に討ち取られ、父は樊梨花の意向を知って自害している。
京腔の影響を強く受けている北京皮影戯影巻『前鎖陽』・『鎖陽関』でも、樊梨花の父と兄の死は『西唐伝』同様に描かれており、薛丁山は一貫して許嫁・楊凡の存在を理由に結婚を拒んでいる。影巻『前鎖陽』は一休までで途切れているが、影巻『鎖陽関』では樊梨花が
これに対して『説唐三伝』第四十六回では、樊梨花が躊躇うところ、薛応竜が楊凡を斬り捨てているが、この時点で樊梨花は既に結婚しておりかつ元帥であるので、元の許嫁との対戦は二人の関係に影響していない。これは、許嫁という設定を生かし切れていないとも言える。
内府本『西唐伝』は嘉慶初年の成立であると思われるが、製作にあたって参照した京腔系の樊梨花故事伝奇は、『説唐三伝』の影響を受けていなかったと思われる*29。このことは、内府で嘉慶年間に物語内容を『説唐三伝』に寄せた『征西異伝』が新たに作られていることからも明らかである。
従って『異説反唐』の記述と『西唐伝』伝奇との類似は、如蓮居士が『薛丁山征西伝』の時点で、樊梨花が父兄殺害に関わらず、義子も登場せず、専ら許嫁の存在だけが問題となる京腔系の三休樊梨花故事を参照していたためであると考えられる。『説唐三伝』と京腔と近しい京劇『鎖陽城』・影巻『鎖陽関』には、孫悟空の登場、金碧峰(璧風)・李道符などの敵側の人物といった共通点も見られるが*30、これらも如蓮居士が京腔系故事を参照していた痕跡であると理解される。
『異説征西』は乾隆十八(1753)年の序を載せ、乾隆十九(1754)年新刻本が残り、『異説反唐』は乾隆十八年の序を載せ、乾隆二十一(1756)年刊本が残るので、両者の刊行時期は極めて近い。ここから、『薛丁山征西伝』についてもほぼ同時期の刊行が計画されていたが、『異説征西』が一歩先んじたためにお蔵入りとし、改めて『異説征西』の要素をも取り込む形で『説唐三伝』が作られたものと推測できる。『説唐三伝』が薛家将征西故事のみならず反唐故事までもカヴァーしているのは、新たに作られた征西故事部分に合わせて『異説反唐』の記述を調整する必要があったためであろう。
このほか、前述のように、『説唐後伝』には尉遅敬徳の息子として尉遅宝林のみが登場するが、『異説征西』には尉遅豹麟・豹慶兄弟が登場する。『説唐三伝』にも尉遅宝林・宝慶兄弟が登場しているので、『説唐後伝』の設定が『異説征西』寄りに改められたことになる。
おわりに†
以上をまとめると、薛家将征西故事小説としては、康熙年間後半に成立したと思われる『混唐後伝』が最も古く、薛仁貴による薛丁山射殺が語られ、薛金蓮が登場し、薛丁山の妻は陳金定一人である。乾隆十九年刊の『異説征西』は、『混唐後伝』を一部手直ししたもので、樊梨花が登場するものの、三休は程咬金の上奏文で言及されるだけに留まっている。説唐シリーズの作者である如蓮居士は、『説唐三伝』に先だって『薛丁山征西伝』を企画しており、『異説反唐』での言及から、その三休樊梨花故事は京腔系に近い内容であったことがわかる。それに『異説征西』の人物・設定などを取り込み、『異説反唐』の記述を調整・合併して、最終的に『説唐三伝』を刊行したものと思われる。以上を通じて、薛家将征西故事および三休樊梨花故事の変遷過程の一端を明らかにするとともに、隋唐故事小説の決定版とも言うべき『説唐』シリーズの成り立ちについて、新たな知見を提供し得たと思う。
ところで、清代の内府本の『金貂記』の流れを汲む戯曲に樊梨花が登場することを、柴崎公美子2014が指摘している。樊梨花の登場する『金貂記』・『金貂記征東』・『唐伝』は、康熙帝の諱に含まれる「玄」字の避諱への対応がまちまちであり、康熙年間頃の成立である蓋然性が高いが、具体的な成立年代は明らかでない*31。
これらは『金貂記』と題しているが、『敬徳不伏老』雑劇と同様に敵が高麗となっている。柴崎公美子2014はその要因を清朝の対外関係に求めるが、富春堂本『金貂記』の冒頭に『敬徳不伏老』が付刻され、『万壑清音』巻之二や『綴白裘』第二冊第二集所収の『金貂記』が収める「北詐」・「北詐瘋」が、いずれも実際には『敬徳不伏老』第三折であるように、『金貂記』と『敬徳不伏老』は混同されており、しかも、尉遅敬徳が発狂を装う場面は北曲版の人気が一貫して高かったので、それを中核に『金貂記』の要素などを手直しして取り込み、新たな連台戯に仕立て直したと見るべきである。戯曲から過度に政治性を読み取るべきではなかろう。
さて、これら内府本『金貂記』系伝奇の樊梨花であるが、残念ながら結婚を描く部分は現存しない。薛丁山の妻の女将軍として登場し、敵の陣図を破る活躍を見せるが、あくまでも一部将としての扱いに留まっており、『説唐三伝』や影巻『鎖陽関』で元帥となり実質的な主役を務めるのに比して、いささか控えめである。その扱いはむしろ『異説征西』に類似すると言えよう。
多くの通俗物語は、小説よりも製作が容易である戯曲・説唱芸能などを通じて発展しているが、三休樊梨花故事もその例に漏れず、当時中国最大の演劇・芸能市場であった北京を結節点として、劇団や芸人の競争を通じて、段階的に形成され広まったものと思われる。京腔系と異なる『異説征西』本文の樊梨花や、『異説征西』の程咬金上奏文で言及され『説唐三伝』に取り込まれた三休樊梨花故事は、かかる段階的な物語発展、および北京・江南などの地域を跨いだ通俗文芸の移動・交流の産物であると推測できるが、その具体的な解明は、今後の新たな資料の発掘と研究の深化に期したい。
※本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「中国古典戯曲の「本色」と「通俗」~明清代における上演向け伝奇の総合的研究」(平成29~令和3年度、基盤研究(B)、課題番号:17H02327、研究代表者:千田大介)および「近現代中華圏における芸能文化の伝播・流通・変容」(令和3年度、基盤研究(B)、課題番号:20H01240、研究代表者:山下一夫)による成果の一部である。
参考文献一覧†
伝統文献†
- 伝奇『白袍記』四十六齣、『古本戯曲叢刊初集』(上海商務印書館、1954)所収北京大学図書館所蔵明富春堂刊本。
- 伝奇『金貂記』四十二齣、『古本戯曲叢刊初集』所収北京大学図書館所蔵明富春堂刊本。
- 伝奇『金貂記』
- 二段:『故宮珍本叢刊』(海南出版社、2000)所収鈔本
- 末段:『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』(中華書局、2011)所収鈔本
- 伝奇『金貂記征東』、『綏中吳氏蔵抄本稿本戯曲叢刊』(学苑出版、2004)所収鈔本
- 伝奇『唐伝』、『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』所収鈔本
- 伝奇『三皇宝剣』存三本、中国芸術研究院図書館所蔵鈔本
- 伝奇『西唐伝』
- 頭段・二段・五~七段・九段:『中国国家図書館蔵清宮昇平署檔案集成』所収鈔本
- 四段:『故宮博物院蔵清宮南府昇平署戯本』(故宮博物院編、紫禁城出版社、2015)所収鈔本
- 京劇『鎖陽城』存二本、『俗文学叢刊』(新文豐出版、2014)所収鈔本
- 影巻『前鎖陽』存五巻、『中国俗文学叢刊』(新文豐出版、2012)所収鈔本
- 影巻『鎖陽関』全16冊、遼寧省凌源市郭永山氏旧蔵、1980~82年抄本、中国都市芸能研究会所蔵鈔本
- 『隋唐演義』一百回、褚人獲、『古本小説集成』(上海古籍出版社、1990)所収山東大学図書館所蔵四雪草堂初印本
- 『混唐後伝』三十七回、闕名、『古本小説集成』(上海古籍出版社、1994)所収大連図書館所蔵芥子園刊本
- 『説唐全伝』六十八回、鴦湖漁叟、『古本小説集成』(上海古籍出版社、1992)所収上海古籍出版社所蔵乾隆四十八年観文書屋刊本
- 『異説征西』四十回、恂荘主人、UCバークレー東アジア図書館所蔵乾隆十九年積秀堂刊本
- 『異説反唐』如蓮居士
- 一百四十回:『古本小説集成』(上海古籍出版社、1994)所収遼寧省図書館所蔵瑞文堂蔵板
- 一百回:筆者所蔵桂芳斎清刊本
- 『説唐三伝』八十八回、姑蘇如蓮居士、『古本小説集成』(上海古籍出版社、1990)所収河東師範大学図書館所蔵経文堂刊本
近人論著†
- 孫楷第 1982 『中国通俗小説書目』重訂本、人民文学出版社
- 欧陽健 1988 〈《隋唐演义》“缀集成帙”考〉、《文献》1988年第2期、pp.63-94
- 大塚秀高 1987 『増補中国通俗小説書目』、汲古書院
- 竹村則行 2003 『楊貴妃文学研究』、研文出版
- 柴崎公美子 2014 「清朝宮廷演劇における「薛丁山」物語の受容:「金貂記」物語の変容を通じて」、『日本アジア研究』11、pp.201-220
- 千田 大介
- 2019 「北京皮影戯西唐故事考――「大罵城」と『三皇宝剣』伝奇を軸に――」、『中国都市芸能研究』第十七輯、pp.91-151
- 2020 「粉戯と陣前招親――西唐故事の形成と展開をめぐる仮説――」、『中国都市芸能研究』第十八輯、pp.5-44
- 2021 「旧西唐故事初探」、『中国都市芸能研究』第十九輯、pp.28-54
*1 筆者は以前、薛仁貴の子孫のみならず、羅章・秦英ら、薛家以外の主人公が活躍するサイドストーリーをも包含した呼称として「西唐故事」を用いたが、本稿では、薛仁貴とその子・薛丁山を中心とする物語のみを扱うため、薛家将征西故事の呼称を用いる。
*2 中州古籍出版社、1993年。
*3 巴蜀書社、1999年。
*4 自褚人穫書六十八回鈔起,省略馬賓王蕭后事,憑空捏出薛仁貴征西一事。第十一回以下全襲褚書第七十回以下文。(p.52)
*5 此書實即恂莊主人編之《異説征西演義全傳》,唯卷首征西事稍略。(p.53)
*6 竹村則行2003は『混唐後伝』が『隋唐演義』に先行するとの説を掲げるものとして『中国古代小説百科全書』のみを例示し、欧陽健1988に言及しない。また、『異説征西』を『混唐後伝』の異称とするなど、事実誤認も見られる。
*7 p.298。
*8 昔有友人曾示予所藏《逸史》,載隋煬帝朱貴兒,為唐明皇楊玉環再世因緣事,殊新異可喜,因與商酌,編入本傳,以為一部之始終關目。合之《遺文》、《艷史》,而始廣其事,……。(第一葉﹑第二葉)
*9 空の城を故意に占領させ、輜重の整わないうちに包囲する、一種の焦土作戦を指す。計略の名称は本文中に必ずしも明記されていないが、本稿では便宜上、空城計と呼ぶことにする。『異説征西』についても同じ。
*10 自家向年在本國高麗,俺叔父蓋蘇文,與大唐爭取世界。俺叔父被薛仁貴戰死,俺流入海西,遼邦天子拜俺為大元帥之職。(第二十一葉)
*11 俺這裏西臨遼水,東望扶桑。(第二十一葉)
*12 p.208。
*13 ……只因梨花之師父,曾有言分付他日後有中朝駕下將軍薛仁貴之子丁山,與汝有宿緣之分,汝可切記吾言,故此歸復投誠。誰想丁山見他父兄死得不明白,又在青龍關上遭逢烈焰陣,請他破了此陣,代朝廷出力;又在朱雀關逢著關水陣,又去請他來破,兵法無雙。只因樊氏繼承了王翠山小將為義子,那丁山疑他母子有私情,故此三翻兩次把樊氏休棄,難怪樊氏怨恨深深。依臣之計,不若如今著薛丁山前去請那樊氏來到,願吾王厚加封贈。(第五葉)
*14 我是文殊菩薩佛弟子青獅童子。私自下凡,去難唐三藏取經之路,誤投朱崖。(第四葉)
*15 底本では楊凡と楊藩が混在しているが、本稿では楊凡に統一する。
*16 徒弟,我一向不存對你說,你夫妻二人元有個緣故。當年蟠桃會上,有諸天、諸宿、群仙來赴會。玉帝駕前有金
*17 兒啊,要記著白虎關守將楊凡,他父楊虎與你父親相好,將你從幼許配于他,曾央媒求娶,為娘的聞他貌醜,不肯應承。(第一葉)
*18 大兵起身,過了玄武、朱雀、興唐府、寒江、青龍關,到了鎖陽城。(第四葉)
*19 以薛丁山為上柱國、西京留守、兩遼王,子孫世襲;妻樊梨花為鎮國一品夫人;高瓊英、高蘭英為定國夫人、安國夫人;程掌珠為護國夫人;申媚花為寧國夫人。(第二葉)
*20 兩遼王薛丁山生有四子。一名薛猛,乃高蘭英所生;一名薛勇,乃高瓊英所生;一名薛剛,乃樊梨花所生;一名薛強,乃程金定所生。(第三十八葉)
*21 我父乃征西大元帥襲職兩遼王,名薛丁山。有樊、豆、程三位母親,共生我兄弟四人。(第三十八葉)
*22 老祖回顧樊梨花叫聲:「道兄,此位敢就是天魔女麼?」老母道:「正是小徒。」老祖點頭,叫聲:「天魔女,只因你蟠桃會上,對金童一笑思凡,金母把你貶下紅塵受苦,三次羞罵,白虎關斬了九醜星楊凡,怨仇相報,托生汝腹,殺你薛門三百八十餘口,刀刀見血,雞犬不留,宿世冤仇,相報不差豪末。你今災難未滿,未該回上瑤池,待災退難滿之日,脫了凡胎,纔上瑤池。……」(第三葉)
*23 我已死二十九年,蒙九天玄女娘娘復救重生,則此身已為化外之身。今當拜別元帥夫人,往鸞鳳山修真學道。(第二葉)
*24 徐茂公分付把這數家總兵屍首葬在山後,單將唐萬人葬在山前。天子問道:「為何把唐萬人屍骸葬在山前?」徐茂公說:「陛下後來自有用處,所以葬在山前這屍首。」(第四十一葉)
*25 還有《薛丁山征西傳》,唐書再講。(第三十三葉)
*26 『異説反唐』では竇烈虎に作る箇所も見られる。
*27 當初在西涼句虎關,執意要我斬楊凡,今日抄家滅門,由此而起。(第二十二葉)
*28 千田大介2019 p.141-145参照。
*29 千田大介2019 pp.131-134参照。
*30 千田大介2021 pp.42-16参照。
*31 柴崎公美子2014は、玄字が避諱されていないことをもって『金貂記』二段・末段を順治年間の成立とするが、本稿第一章でも触れたように、避諱していないことは、通俗テキストの成立年代を確定する十分条件になり得ないので、康熙年間以降のテキストである可能性も否定できない。