未完の五虎将軍†
はじめに†
通俗歴史物語に見える五虎将軍は、史書に見えない虚構の役職である。『三国志演義』に登場する、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人が有名であるが、五虎将軍が登場する通俗歴史物語は三国ものに留まらない。例えば、『水滸伝』では百八人の豪傑が勢揃いした後、関勝・林冲らが五虎将軍に任じられているし、清代の狄青ものの小説に『五虎平西』・『五虎平南』がある。彼らはいずれも、当該故事における最強クラスの武将であるが、その一方で、五虎将軍を擁した勢力が必ずしも天下を統一しているわけでもない。
本稿では、明清の通俗歴史物語に見える五虎将軍について、五代残唐故事・隋唐故事と三国故事を中心に、その「不完全性」という観点から検討し、通俗歴史物語受容の一端の解明を目指すものである。中国の古典歴史物語は、もともと戯曲・説唱・説書などの芸能を通じて形成されており、現存する平話や雑劇、さらには明成化本説唱詞話などに鑑みるに、その出発点はキャラクターを中心に展開する、英雄伝奇的性格が強いものであった。
また、明代の『三国志演義』を初めとする講史小説では、歴史書の引用を交えて長編小説を構成したこともあって英雄伝奇的性格が薄まるものの、同様の手法で作られた所謂「志伝」系の小説は大半が凡作であり、隋唐故事では『説唐全伝』、南宋中興故事では『説岳全伝』などの、清代中期の英雄伝奇的小説が最もポピュラーな存在となっている。また志伝系でも英雄伝奇的な性格の強い『北宋志伝』・『楊家将演義』は例外的に読み継がれている。こうして見ると、中国の講史小説においては、むしろ章回小説黎明期に現れた、史書の助けを借りて英雄伝奇的性格を弱めた歴史演義小説が例外的なのであり、その主流は英雄伝奇的な小説であったとも言える。
五虎将軍は、史書に見えない最強ヒーローの称号であるので、典型的な英雄伝奇的要素だと言える。そこで本稿では、さまざまな時代を扱った故事における五虎将軍のあり方を検討することで、英雄伝奇的な物語や小説がいかに成熟していったのか、また歴史物語がいかに受容されたのか、その一端を明らかにしたい。
晋(後唐)の五竜将軍†
小説『残唐五代史演義伝』(以下、『五代残唐』)には、晋(後の後唐)の五竜将軍が登場する。虎と竜の違いはあるが、これも五虎将軍の類例であると見なすことができよう。
『五代残唐』は全六十回、唐末黄巣の乱から北宋の成立までを扱うが、第四十二回までが晋と後梁との抗争に割かれており、主に李克用の義子で無双の英雄である李存孝の活躍が描かれる。各巻首に「貫中 羅本 編輯」と題しており、『三国志演義』の作者として知られる羅貫中の作を称する。しかるに、『五代残唐』は後で取り上げる『隋唐両朝史伝』と同じ蘇州の書肆龔紹山によって万暦年間に刊行されたものであり、両者ともに一部の描写を『三国志演義』聯輝堂本から引き写して制作されている。聯輝堂本は『三国志演義』の原本ではありえないので、『五代残唐』・『隋唐両朝史伝』が羅貫中の作とするのは、仮託に過ぎないことになる*1。
『五代残唐』は『三国志演義』から引き写した部分を除くと、描写が甚だ簡略であり、かつストーリーの飛躍が多く、小説としてはこなれていない。五代残唐故事については、明・銭希言『桐薪』の以下の記事が知られる。
『金統残唐記』は黄巣のことを詳しく載せているが、中間では李存孝の勇を大いに褒めそやし、またその冤罪を訴えており、この書はまったくもって李存孝のための作である。後の詞話は、ことごとくこれに倣っている。武宗が南幸した際、夜、急に『金統残唐記』の善本を取り寄せるようにとの詔が降り、宦官が大枚をはたいて書肆で購入したが、一部五十金にもなった。今の人は『水滸』・『三国』ばかりに耽溺しており、『金統』が伝わっていないが、その本を見たことがないからに過ぎない。(巻三「金統残唐記」)*2
『五代残唐』はこの『金統残唐記』を継承したものと考えられているが、『五代残唐』の書きぶりから類推するに、章回小説ではなく平話であった可能性が高い。
さて、『五代残唐』では李克用が讒言を信じて李存孝を殺した後、かつて李存孝に敗れた王彦章が後梁の将軍として晋軍の前に立ちはだかる。第四十二回「五竜逼死王彦章」で、史建唐率いる晋軍は、高行周を先鋒とし、五竜将軍に五方五帝陣を布かせて王彦章に決戦を挑む。五竜将軍とは以下の五人である。
一竜は直北沙陀李晋王の世子李存勗、後に梁を滅ぼして唐の荘宗皇帝となる。
一竜は直北沙陀李晋王の養子李嗣源、後に唐の明宗皇帝となる。
一竜は河西の石敬塘、後に晋の高宗皇帝となる。
一竜は沙陀の劉智遠、後に漢の高祖皇帝となる。
一竜は同台の郭彦威、後に周の太祖皇帝となる。*3
ここから分かるように、五竜将軍の呼称は後に帝位に就いていることから遡って名付けられたもので、史書に見えない称号である点で五虎将軍と類似している。しかし、『五代残唐』で五竜将軍が登場するのはこの部分だけで、その由来も後日談も描かれておらず、唐突の感を免れない。
史実では、李克用の没後、後を継いだ李存勗は908年、潞州を攻囲する朱全忠率いる梁軍に対して決定的な勝利を得て、引き続き数年間にわたり黄河以北への侵攻を続ける。『五代残唐』は晋軍と王彦章との戦いを、朱全忠没後のこととしているが、これら一連の戦いを敷衍したものであると考えられる。
清・趙翼の『廿二史劄記』巻二十二「一軍中有五帝」に以下のように見える。
(後)唐の莊宗が晋王であった時、梁軍と黄河のほとりで対峙すること、十年にも及んだ。…(略)…このとき、唐の荘宗、明宗、廃帝、晋の高祖、漢の高祖がいずれも軍中にいたので、一軍にあわせて五帝がいたことになるが、これは古来、未曾有のことである。*4
『五代残唐』に見える郭(彦)威については史書に記述がないが、代わりに廃帝(李従珂)が従軍しており、晋の軍中には実際に五人の未来の皇帝がいたようだ。趙翼は『陔余叢考』でも小説に見えるエピソードを取り上げ、いかなる史料に基づくのかを考証しているので、「一軍中有五帝」も『五代残唐』の記述を受けて書かれた可能性が高い。
なお、雑劇の五代残唐ものには、五竜将軍ではなく五虎将軍が登場する。関漢卿『劉夫人慶賞五侯宴』雑劇に、以下のように見える。
それがし、李嗣源である。…(略)…憎らしきは梁元帥の無礼なること。今、賊将、王彦章を差し向け、十万の兵でそれがしに挑戦してきおった。やつは、存孝なきあと、それがしにまだ五虎大将がいることを知らぬ。恐るるに足らぬ。*5
ここでいう五虎将軍は、李従珂・李存勗・石敬瑭・孟知祥・劉知遠の五人であり、帝位に就いていない孟知祥が含まれている。『五侯宴』の現存テキストは明朝宮廷に由来する脈望館本であるので、あるいは皇帝への禁忌から五竜将軍を回避したのかもしれない。
さて、『五代残唐』第四十二回に戻ると、高行周によって狗家疃におびき寄せられた王彦章は五方五帝陣に陥り、五竜将軍に包囲される。その陣は以下のように描写される。
東方の陣立てがいかがかと言えば、証拠の詩がある。
一に東方甲乙木を按じ、
倒馬の金戈をならべ布く。
手に三股の托天叉を執り、
短剣に傍牌が先導する。*6
以下、南・西・北・中の各陣が同様に詩に詠われる。上田望1999は、成化本説唱詞話などに似かよった表現が見られ、田仲一成1993がいう「五方兵馬」儀礼に由来すると指摘する。ともなると、五竜将軍、あるいは五虎将軍は、五行・五方に配当され、天下を統一すべき帝王の軍としてのニュアンスを持つことになろう。
ところで、明・無名氏『呉起敵秦掛帥印』雑劇には秦の五虎将軍、淑簡是・蒙彪・王雄・張虎・姬欒が登場する。題名から分かるようにこの劇で秦は敵側であるので、五虎将軍は主人公側の専売特許という認識はなく、むしろ全国統一を目指す帝王の軍団を象徴する存在として位置づけられていたことが窺える。
隋唐故事の李密五虎将軍†
隋末の戦乱から唐の統一と玄武門の変による太宗の即位までを扱う、いわゆる隋唐故事では、元明雑劇の段階から群雄の一人である李密の配下として五虎将軍が登場する。隋唐故事は明清小説のバリエーションが他の時代に比べて際だって多いことが一つの特色であり、主要な作品だけでも以下の6種がある。
- 明・熊大木『唐書志伝』
- 明・無名氏『隋唐両朝史伝』
- 明・諸聖隣『大唐秦王詞話』*7
- 清・袁于令『隋史遺文』
- 清・褚人獲『隋唐演義』
- 清・鴦湖漁叟『説唐全伝』
これらの小説の継承関係や成立については、欧陽健1988、上田望1996、小松謙2001、千田大介1995・1996といった研究があるので、本稿では深く論じることは避け、李密の五虎将軍の描かれ方を中心に考察したい。
雑劇の李密五虎将軍†
李密は隋末の群雄の一人で、一時は強勢を誇り天下を伺う勢いを見せたが、煬帝を殺害して北上した宇文化及の迎撃で消耗し、洛陽の王世充に決定的な敗北を喫する。その後、唐に帰順するが、間もなく反乱を企てて殺されている。また、李密配下からは李勣・魏徴・秦瓊・程咬金・羅士信など、後に太宗の臣として活躍する人材が輩出している。
元・鄭徳輝『程咬金斧劈老君堂』雑劇は、後の太宗李世民がまだ秦王であったころ、狩りに出て誤って李密の本拠地である金墉城に至り、程咬金に捕らわれるが、徐茂功*8・魏徴・秦瓊らに救われる、という話である。同雑劇の第一折に以下のように見える。
それがしは李密である。代々、京兆府の人。生まれつきの英勇にして、幼いころよりの豪傑。今、隋帝は失政し、今や六十四箇所で反乱が起き、豪傑どもが身を起こしている。それがしは金墉城を築き、麾下には二士、三賢、五虎、七熊、八彪がおり、百万の兵と、千人の将軍を擁している。*9
元明間・無名氏『長安城四馬投唐』雑劇は、李密が唐に帰順するが反乱を起こして討ち取られ、その旧部であった徐茂功・程咬金らが唐に降るという内容である。その第四折で、魏徴は李密のことを以下のように唱う。
【甜水令】彼はかねてより奔放にして驕慢、凶暴にして残虐、狡猾にして軽率。仁義を絶ち、綱常を失い、かの二士、三賢、五虎、七熊、八彪の郞将を空しく有し、忠諫を拒み賢良を用いず。*10
このように、隋唐故事の雑劇には李密配下として「二士、三賢、五虎、七熊、八彪」がいた、という設定が見られる。字面からして、武将の最高位は「五虎」であると思われるが、しかし五虎将軍が誰であるのかに言及した雑劇は見あたらない。
なお『水滸伝』容与堂本第七十一回では、百八人の豪傑が勢揃いした後で、席次と職責を定めるが、そこに「五虎将」「八驃騎」が出てくる。水滸故事の元明雑劇では梁山好漢について、例えば『元曲選』本『燕青博魚』の楔子が「三十六の大頭目、七十二の小頭目、あまたの手下を集める*11」と作るように、合計百八人という数に言及するだけである。恐らく、水滸故事に基づいて小説『水滸伝』を制作する過程で、隋唐故事の「二士、三賢、五虎、七熊、八彪」を参照し、梁山好漢の役目を定めたのであろう。
ところで小松謙2001は、『智降秦叔宝』雑劇で山東出身の秦瓊らが河東の人とされていること、『大唐秦王詞話』第四回で山東出身の程咬金を「河東躁猛人」としていることなどから、「内府本雑劇や『大唐秦王詞話』には露骨な山西指向が認められる」(p.174)として、隋唐故事の諸作品が山西系・山東系に分かれるとするが、この説は首肯しがたい。
『大唐秦王詞話』第二十六回、李世民に降った徐茂功が秦瓊を推薦する場面に、以下のよう見える。
家は済州東河郡に住み
代々の将にて美名を馳せる 姓は秦
果たして英雄にして対手なく
才は文武を兼ね 並び立つものなし*12
秦瓊の出身地を「済州東河郡」としている。秦瓊は『新・旧唐書』の列伝によれば斉州歴城(現在の山東省済南市)の人であり、東河という地名も山東に見当たらない。しかるに、隋唐故事の主要人物のひとりである程咬金は、歴史上、程知節の名で知られるが、『新・旧唐書』の列伝によれば、彼の出身地は済州東阿である。程知節は李密の敗亡後、秦瓊らと行動を共にし、洛陽の王世充に身を寄せた後に唐に降っており、隋唐故事の諸作品でも同様に描かれる。両者の近さゆえに、秦瓊の出身地が済州東阿に誤られたと考えられる。
つまり、『智降秦叔宝』雑劇や『大唐秦王詞話』第四回で秦瓊・程咬金の出身地が「河東」になったのは、東阿が東河、そして河東と誤記されたことに起因すると見るべきである。『智降秦叔宝』雑劇は校訂の過程で更に「太原府」が補われたのであろう。そもそも、新潟県人が武田信玄を越後の武将と誤り得ないのと同様、山西人が代表的な山東英雄である秦瓊を山西人と誤認するはずがないのであり、これらの例はむしろ『智降秦叔宝』雑劇や『大唐秦王詞話』が、山西・山東から離れた地域で形成されたことの証左と見るべきである。
『大唐秦王詞話』の五虎将軍†
『大唐秦王詞話』の性質†
明・諸聖隣『大唐秦王詞話』六十四回、説唱芸能系のテキストに起源すると思われるが、白話散文の分量が過半を占めており章回に分かれている。
『大唐秦王詞話』については、鄭振鐸が鼓詞のテキストであるとしているが特に根拠は示されておらず、諸聖隣が寧波の人であること、また方言の使用などから南方の説唱芸能に起源すると思われる*13。
成化本説唱詞話『唐薛仁貴跨海征東故事』第九葉に「秦王排総管」と題する攢十字が見える。以下、その冒頭部分を原文のままで引用する。
唐天子 坐金鑾 蟠竜交椅 両辺排 飛虎将 護国忠臣
頭員将 徐
茂公 淮陽居住 暁陰陽 知禍福 別弁風雲左手下 立済州 叔宝染病 小将軍 秦懐玉 趕駕征東
呼雷豹 逞英雄 包成世界 万銀釘
賓 鉄簡 打就乾坤右手下 立朔州 老将敬徳 遭羅袍 烏
追 馬 賽過凶神使一条 火光鎗 如竜出水 方玄鞭 如大蟒 合出竜門
小将軍 薛万徹 白袍素鎧 褚白鎗 似猟後 捨命無魂
程知節 棗
留 駒 追風趕月 肩擔着 鋼刃利 賽過凶神
『大唐秦王詞話』第三十九回「南御園小交兵 寿山殿排総管」では、高祖の御前で秦王李世民が配下の総管の閲兵を行う。
唐太子坐金妝盤竜交椅 両辺排飛虎将善武能文
第一員名李勣黎陽人氏 暁兵機明将略併識風雲
左壁廂是済州秦瓊叔宝 爛銀盔金葉甲青錦袍新
呼雷豹慣追風践成世界 撥雲鎗劈楞簡打奪乾坤
右壁廂朔州人尉遅敬徳 腕懸鞭三尺蟒纔離潭門
擎一桿刃鉄鎗烏竜掉尾 皁羅袍烏油甲黒馬竜鱗
程制節執金吾官封上將 棗騮駒宣花斧宛似天神
羅士信小将軍白袍素甲 盔似霜人比玉白虎臨塵
高句麗親征は太宗の治世末期のことであるから、成化本説唱詞話が即位前の呼称で「秦王」と題するのはそもそもおかしい。これは、成化本説唱詞話が『大唐秦王詞話』の原形である説唱テキストから引用し、時代設定に合わせて書き換えたものだと考えられる。『大唐秦王詞話』は成化本説唱詞話と同系の説唱芸能に起源し、成化年間以前にはその原形が形成されていたことになる。
小松謙2001が指摘するように、『大唐秦王詞話』の物語内容は、元明雑劇と概ね一致する。また『隋唐両朝史伝』の隋唐故事部分とも似かよっており、しかも両者の間には字句の共通も見られる。以下は、『隋唐両朝史伝』第七十七回、『大唐秦王詞話』第六十三回の、玄武門の変の後、太宗が魏徴を接見する場面である。
両 | 秦王曰:「汝何為離間我兄弟。合得甚罪。」左右之人聞言, |
詞 | 太宗曰:「汝何為離間我兄弟。合得甚罪。」百官 見說, |
両 | 皆為之危懼。 徵 舉止自若,對曰:「先太子早從徵 |
詞 | 盡皆 恐懼。魏徵容色不變。舉止自若。對曰:「先太子早從徵 |
両 | 言,必無今日之禍。」秦王大怒曰:「敗臣到此,尚自不屈。」喝 |
詞 | 言,必無今日之禍。」太宗大怒曰:「敗臣到此,尚自不屈。喝 |
両 | 令推出,便欲斬之。敬德跪曰:「此等忠臣,正可容留。」秦王 |
詞 | 令推出 斬之。敬德跪曰:「此等忠臣。正當容留。」太宗 |
両 | 遂為改容,笑曰:「我亦知玄成經濟大才,素抱忠義,故戲之 |
詞 | 笑曰:「我亦知玄成經濟大才,素抱忠義,故戲之 |
両 | 耳。」王親舉酒壓驚。 |
詞 | 耳。」 親舉酒壓驚。 |
また『大唐秦王詞話』同回の末尾には以下の詩が掲げられる。
憶昔太宗居宝位 近臣伝詔賜皇封
唐朝景運従茲盛 舜日尭天喜再逢
この詩は『隋唐両朝史伝』では「麗泉有詩云」とする挿詩であり、楊麗泉の詩を引くのは『隋唐両朝史伝』・『五代残唐』の特色でもあるので、『大唐秦王詞話』は『隋唐両朝史伝』を参照して整理された可能性が高い。
以上から『大唐秦王詞話』は、江南地方に流通していた成化本説唱詞話と同系の説唱テキストに基づき、『隋唐両朝史伝』などの小説の影響を受けつつ編纂されたものであると考えられる。
五虎将軍の描写†
『大唐秦王詞話』では第四回の斧劈老君堂の場面で、李密の五虎将軍が登場する。秦瓊・王伯当・単雄信・羅成(羅士信)・程咬金の5人で、李密の五虎将軍全員の名前が見えるものとしてはこれが最も古い。同回で、五虎将軍のいでたちは以下のように唱われる。
叔宝がいかなる装束、兵器であるかと見れば、
五虎の中に相手なし、代々斉の地の仙郷に住まう。黒袍と銀甲に寒光が迸る。盔の房は烈火と翻り、宝帯に金の飾りが輝く。 斑豹馬は海を翻す獣を欺き、烏油の戦戟長鎗。劈楞簡を掛け色は霜のよう。九天の右副将にして、四海に妖王を斬る。
王伯当も弱くはない。
飛鳳の銀盔に光は燦爛、百花の袍に掛ける錦は鮫鮹。細紋の金甲に鸞帯を締め、水獣の烏靴は波を起こす。跨がるは胭脂の千里馬、肩に担うは珠纓の斬将刀。
単雄信も猛々しい。
鑌鉄の兜に紅纓を着け、上下金色の装いは真新しい。李密駕前の虎を屠る将、棗矟を横たえ軍門を出る。
羅成は完全武装。
玉を嵌めた明盔は日に輝き、銀飾りの鎖帷子は輝きを争う。腰に締める錦帯には鸞魚の縫取、弓箭は体にぴったりと。 人は西方の白虎、馬に跨がれば水から出た蛟。梨花鎗は雪を舞わし花を飛ばし、灌口二郎の降臨。
程咬金の猛々しさは天神にも勝る。
ぐるぐると珠玉を綴り、乱れ散る赤毛の纓。纏う袍は十様錦、着ける鎧は禿竜の鱗。弓には犀角の握り、箭に挿すは黒い雕翎。肩に担うは月のような開山斧、あたかも華岳の巨霊神。*14
ここに描かれる五虎将軍の装束の色を抜き出してみよう。
秦瓊:黒袍、銀甲
王伯当:百花袍、金甲
単雄信:金色
羅成:銀粧鎖甲
程咬金:十様錦
白・黒・金などであり、五行・五方の五色には割り当てられていない。
李密は五虎将軍を擁し一時は天下に覇をとなえるが、しかし老君堂を契機としてその勢力は一気に傾く。李密は詔勅を改竄して李世民を釈放したとして、魏徴を庶民に落とす。また、諫言に耳を貸さず、忌日に洛口倉を開いたため飛鼠に糧米を奪い去られ、更に単雄信が王世充の美人計に陥りその駙馬となり内応する。かくて、李密は王世充に敗れて国を失うこととなる。
李密は唐に投降した後、李世民に意趣返しで辱められ、まもなく唐にそむくことを決意し逃亡する。『大唐秦王詞話』第十六回で、逃亡する李密はさまざまな怪異に見舞われる。
さて、李密は王伯当と道を急いだが、ある日、野猪坡というところにさしかかった。坂の下では猪が、犬を地面に嚙み伏せていた。李密は心中不平で、あわてて弓を執って矢をつがえ、引き絞って放ち、猪を射て犬を救おうとした。これも天意か、慌てていたため、はからずも犬を射殺してしまった。じつは李密の正体は婁金狗であり、自らの本命を射貫いてしまったのである。*15
更に、火星宝剣も奪われる。
わしはほかならぬ天上界の宜山老母である。かつてお前に剣を賜ったとき、「盛・独・鹿」の三字を犯さぬように言いつけたのに、どれも守ることができなかった。全てを守ることができたなら、あと3年の天下があったのだが、天命に逆らったので、天界の命を受けて取り戻しに参った。*16
宜山老母は梨山老母のことであろう。「盛・独・鹿」は、宝剣で謀反に際して唐将盛彦古と、唐朝より娶された独孤氏を斬り、更に空腹を癒やすために鹿肉を切った事をいう。
この後、李世民が軍を率いて李密を捕捉する。
貴殿は本来婁金狗
罪を得て俗世に落とされ無理に君主となったもの*17
これは詩讚部分で李世民の言葉になっているが、戯曲・説唱の歌詞では登場人物の口を借りてメタ的な設定を語らせることがままあるので、作中の人物が本当にそれと知っていたとは限らない。
いずれにせよ李密は、そもそも婁金狗が降凡したものであり、本命を射る、戒めを守らない、などの自業自得で天下を失ったことになる。『大唐秦王詞話』の五虎将軍も、李密が天下に覇を唱えたことを示すアイコンではあるが、五行には配当されず、五虎将軍全体ではなく秦瓊・程咬金ら個別のキャラクターに焦点が当たっている。
『隋唐両朝史伝』†
前述のように『隋唐両朝史伝』は、『五代残唐』と同じく万暦年間蘇州の書肆龔紹山の刊である。全百二十三回で隋煬帝の失政から王仙芝の乱までを描いており、いわゆる隋唐故事が描かれるのは第七十九回までになる。
『隋唐両朝史伝』に見える隋唐故事は、『大唐秦王詞話』や雑劇と概ね同じであるが、李密の五虎将軍への言及は第三十二回、斧劈老君堂の場面で以下のように見えるだけである。
金墉城内に、将校が報告した。「叔宝・知節ら五虎の臣が秦王世民を捕らえました。」*18
五虎将軍は雑劇にも見えているので、『隋唐両朝史伝』が意図的に削除したものの、この部分だけに残ったのであろう。
一方、『大唐秦王詞話』にあった星神の降凡、五虎将軍といった要素がいずれも見られなくなっている。同じく龔紹山が刊行した『五代残唐』と対照的である。これはあるいは、『隋唐両朝史伝』には歴史演義指向の強い『唐書志伝』という五虎将軍の登場しない先行小説があり、それを意識して英雄伝奇色を薄める必要があったのに対して、『五代残唐』にはそのような制限がなかったからかもしれない。
『説唐』の五虎将軍†
清・鴦湖漁叟、あるいは姑蘇如蓮居士の『説唐』(『説唐全伝』)六十八回は乾隆初年に刊行された隋唐故事小説だが、典型的な英雄伝奇小説で、主要なキャラクターは星神の降凡であり、登場部将のランキング「隋唐十八条好漢」が存在し、当然のことながら五虎将軍も登場する。
第三十六回、瓦崗寨を拠点とする反乱軍は、程咬金が寨主に飽きたため、魏国公李密を新たな主に迎える。李密は西魏王を称し、瓦崗寨を金墉城に改称するとともに、五虎将軍を任じる。
秦瓊:飛虎大将軍
邱瑞:猛虎大将軍
王伯当:雄虎大将軍
程咬金:痴虎大将軍
単雄信:烈虎大将軍
後に邱瑞が陣没し、第四十回で新たに帰順した羅成が猛虎大将軍に封じられ、『大唐秦王詞話』に見える五虎将軍と同じ顔ぶれが揃う。
『説唐』の五虎将軍の崩壊はあっけない。第四十三回、魏徴が詔勅を改竄して李世民を釈放したことに李密は怒り、魏徴・徐茂功、そして秦瓊・程咬金・羅成らを庶民に落とし、追放する。荒唐無稽ではあるが、李密が敗れるためには最強の五虎将軍の存在が邪魔であったことと、後に李世民の股肱となる秦瓊らに敗将の汚名を与えたくなかったことなどから、このように処理されたのであろう。
『説唐』とその続編の『説唐後伝』・『説唐三伝』の主要登場人物は、前述のように天界の諸星神の降凡であり、前世や天上界での恩讐が作中の現実世界に因果応報として現れる。言うなれば、信仰に支えられたメタ的なプロットを構築することで、物語の展開に説得力を与えている。
その端的な例が、第四十六回の以下の説明である。
方々、かつて玉皇大帝が紫微星を降臨させて世を治めるにあたり、また二十八宿を遣わして手助けさせようとした。かの二十八宿は承知せずに、大いに泣いて言った。「さきに昆陽の大戦であまたの手柄を立てたにもかかわらず、彼は酒に酔って姚期を斬り、醒めては鄧禹を追い詰めました。かかる冷酷非情、口にするだに忌々しい。」皆は揃って彼を護衛しようとしなかったため、三十六天罡を護衛に降臨させた。二十八宿は怒りを抑えきれずに、やはり紫微星を邪魔しようと、下界に降って各地の反乱軍の王となったのである。*19
漢中興故事に見える、後漢の光武帝が酒に酔って讒言を信じ、雲台二十八将を皆殺しにするエピソードを踏まえ、紫微星と二十八宿の因果が、唐の太宗の天下統一に巡ったとしている。
ここで注目されるのが、唐の高祖・李淵である。『説唐』第一回で、李淵は以下のように紹介される。
さて、この李淵は成紀の人。天上界の亢金竜が臨凡したもの。*20
亢金竜は二十八宿の一つである。従って、『説唐』の高祖李淵は子の太宗李世民の全国統一を妨害する存在として位置づけられていることになる。これは一見、李淵が後継問題で太子李建成と李世民の対立を収拾できなかったことを指すように思えるが、実際には五虎将軍の継承を阻害したことがそれに当たると思われる。
『説唐』第三回で、李淵は太子楊広(後の煬帝)扮する山賊に襲撃され、あわやのところを秦瓊に救われるが、その直後、近付いてきた人馬を賊の援軍と誤認して、単雄信の兄・単道を射殺してしまう。このため、単雄信は唐を不倶戴天の敵とするようになる。
『説唐』第五十回で、尉遅敬徳を配下に加えた秦王李世民は、以下のように言う。
余は、青、黄、赤、黒、白の五将軍が欲しくてたまらぬ。今、赤を着る程咬金を得て、黄を着る秦叔宝を得て、黒を着る尉遅恭を得たが、まだ白を着るものと、青を着るものが揃っていない。白を着るものには、余は羅成を考えており、青を着るものには単雄信を考えておる。もしこの二人を唐に帰順させることができたならば、すばらしいではないか。*21
太宗は李密の五虎将軍の継承・再編を企図しているが、最終的に継承できたのは秦瓊・羅成・程咬金の3人で、黒衣の王伯当は尉遅敬徳に交代する。しかし青の単雄信は、王世充の部将として唐に立ち向かって尉遅敬徳に捕らわれ、死罪に問われる。第五十七回、刑場で程咬金は単雄信に別れの杯を勧める。
咬金は言った。「単兄貴、もう一杯干してくれ。来世では手強い好漢となり、今日の仇に報いますように。」雄信は言った。「すばらしい。我が意を得たり。」またも酒を飲み干した。咬金は言った「単兄貴、この三杯目も飲んでくれ。来世はこいつら友達がいのないヤツらを、一人ひとり、ゆっくりとやっちまいますように。」雄信は言った。「ますますもってその通りだ。」またしても酒を飲み干した。*22
そして、最後に杯を手向けた羅成を大いに罵り、怒りに我を忘れた羅成に斬られることとなる。
彼の魂は、まっすぐに外国に向かって転生し、後に蓋蘇文を借りて、唐朝の天下を奪おうとするのである。*23
一方の羅成も、李建成・李元吉に陥れられ、劉黒闥配下の蘇定方に討ち取られる。彼の転生は『説唐後伝』第十六回で言及される。薛仁貴は幼い頃、口がきけなかったが、十六歳のとき白虎に襲われる夢を見て、話せるようになる。
羅成が死んだので、薛仁貴がようやく口を開いたのである。*24
『説唐後伝』では、単雄信の転生である蓋蘇文が太宗配下の三十六総管を全て討ち取るが、羅成の転生である薛仁貴に敗れることになる。
このように、太宗の五虎将軍は未完に終わり、単雄信は死してなお唐の天下を脅かし続ける。つまり、李淵は単道を誤って殺したことで間接的に李世民の五虎将軍の完成を妨害し、また後の征東・征西といった外患の種をまいた、と解釈できる。
一方、程咬金の単雄信への手向けの言葉は、『説唐後伝』で現実となるが、そもそも単雄信と羅成の仲を裂いたのも程咬金である。『説唐』第十六回、秦瓊の母の誕生祝いに集まった好漢たちは賈家楼で義兄弟の契りを結び、祝宴を張る。
酒を飲みながら、咬金は考えた。「ここにいる友達の中では、みたところ強盜の親玉の単雄信と、若造の羅成が手強そうだ。二人をそそのかして戦わせてみようじゃないか。」*25
このように、太宗の五虎将軍が未完に終わった原因の一端は、程咬金にある。それゆえに『説唐』シリーズでは、薛剛反唐故事で自らの所業に起因する全ての因果応報が終わるのを見届けて、程咬金はようやく死ぬことができるのである。
なお、隋唐革命時に二十八宿が降凡したという説は、『大唐秦王詞話』第一回にも見える。以下、原文のまま引用する。
角木蛟唐高祖神尭治世 亢金竜竇皇后同掌乾坤
氐土駱是建成英王太子 房日兔杜如晦足智多能
心月狐張貴妃唐王寵玉 尾火虎程
制 節勇冠三軍箕水豹殷開山初興唐室 斗木獬名唐儉善武能文
牛金牛王伯当金墉虎将 女土蝠長孫后賢徳夫人
虛日鼠是尹妃西宮領袖 危月燕薛万徹附馬皇親
室火猪号霸王西秦薛挙 壁水貐名蕭銑称帝江陵
奎木狼三太子斉王元吉 婁金狗名李密鞏県屯軍
胃土雉号梁王名為李軌 昴日鶏劉武周山後胡人
畢月烏沈法興毗陵霸業 嘴火猴名朱燦楚国屯兵
参水猿房玄齢包蔵謀略 井水犴竇建徳河北称君
鬼金羊劉黒闥漢東王号 柳土獐長孫氏無忌元勳
星日馬劉守光燕王僣号 張月鹿高談聖混世相争
翼火蛇梁師都延安称帝 軫水蚓王世充僣国西京
天蓬星秦叔宝開疆展土 黒煞神尉遅恭絶滅煙塵
破軍星并武曲天罡李靖 李淳風称文曲定数如神
禄存星是魏徵忠良善諫 天機星徐世勣精暁兵文
左輔星褚遂良托孤宰相 右弼星為蕭瑀位列麒麟
紫薇星小秦王神尭仲子 九州曜天降下済世安民
駆士馬滅煙塵一十八処 翦強梁除草寇一統乾坤
李淵は角木蛟で、亢金竜は李世民の生母である竇皇后となるなど『説唐』とは出入りがあるし、二十八宿の降凡として挙がっている人物には、李密・王世充・竇建徳・劉黒闥ら唐朝と敵対した勢力の領袖のほか、房玄齢・杜如晦・程知節(程咬金)などの太宗の股肱までもが含まれており、二十八宿の内部対立の様相を呈している。かかる先行する転生譚を整理・再編したのであろう、『説唐』の紫微星と二十八宿の対立図式の方がすっきりとしている。
また、羅成・単雄信の薛仁貴・蓋蘇文への転生も、それぞれ『大唐秦王詞話』第四十四回・第五十一回で言及されているが、両人が不仲であったという描写はなく、単雄信を斬ったのも尉遅敬徳である。この点でも『説唐』は、キャラクターの関係性に関するエピソードを積み重ねることによって、説得力を増そうとしている。
『大唐秦王詞話』は各巻巻首に「按史校正唐秦王本伝」と題し、第三十一回の冒頭の詩の後で、
時人 開場句を厭うことなかれ
座客 還た聴け按鑑の詞を*26
とするように、明代の講史小説がしばしば題名に冠する「按史」・「按鑑」(『資治通鑑』を踏まえる)などの語をもって自らを形容しており、英雄伝奇的な書きぶりにも関わらず、明代講史小説の『資治通鑑』・『資治通鑑綱目』系の歴史書の権威を借りることで叙述の正統性を担保する、言うなれば歴史書コンプレックスを克服できていない。
一方、清代乾隆年間の『説唐』に至ると、従来の隋唐故事諸テキストに見えるが必ずしも整合的ではなかった星神の降臨や転生を、紫微星と二十八宿の対立、五虎将軍の未完成などの形に再編し、物語内容に描かれる現実世界の枠を超えたメタ的なプロットを幾重にも構築することで、英雄伝奇が史書的な因果関係や儒教倫理からの自立を果たしている。
清代中期に英雄伝奇小説が隆盛した要因としては、空前の好景気を背景として、京腔などの通俗演劇や芸能が隆盛し物語の発展を促すとともに、通俗的な小説の受容層が成長した、といった背景があるものと思われるが、小説そのものも白話文体が成熟して自由に文を書き連ねられるようになり、かつ上述のようなプロット構築方法が確立したことも重要なファクターであると言えよう。
五虎将軍の登場しない『隋史遺文』・『隋唐演義』†
隋唐故事の小説としては、このほか、明崇禎年間刊の袁于令『隋史遺文』六十回、清康熙年間刊の褚人獲『隋唐演義』一百回があるが、後者の唐開国を描く部分は『隋史遺文』をほぼそのまま取り込んでいるので、以下では『隋史遺文』について触れておきたい。
『隋史遺文』については、いくつかの回の「総評」で「旧本」の存在に言及しており、その内容から「旧本」は『説唐』の源流にあたる小説、ないしは芸能テキストであると考えられている*27。
『隋史遺文』は秦瓊の一代記的な構成となっており、若かりし頃の彼と程咬金・単雄信らとの交流を中心に、『水滸伝』にも似た俠義小説風に展開する。第四十五回で秦瓊は李密配下に加わるが、そこに五虎将軍の呼称は登場しない。雑劇や『大唐秦王詞話』、そして『説唐』に見える以上、「旧本」には五虎将軍が存在したことは確実なので、袁于令が意図的に削除したことになる。
『隋史遺文』の序文には以下のように見える。
さきに『隋史遺文』を作ったが、秦胡国公の出生前を描き、さらにその周辺の恩怨を共にした人びとにも及んでいる。…(略)…幻想は俗人を喜ばせるが、必ずしも理に根ざしていない。伝聞の品の無さを踏襲するのは、あまりに人を謗ってしまう。妖艶な話を作るのは、独りよがりに過ぎる。これらをことごとく書き改めた。それらの残すべきは残し、削るべきは削り、増やすべきは大いに増やした。本来の意図が史の遺漏を補うことにあるのだから、史からかけ離れる必要はなかろう。*28
従来の講史小説が歴史そのものを語るというスタンスを持ち、「按史」・「按鑑」などの語を冠して、正統な歴史書の記述に基づいており、それらを代替しうることをセールスポイントとしていたのに対して、『隋史遺文』は史書に描かれないエピソードを補うというコンセプトを打ち出し、史書と重なる部分、すなわち秦瓊らが世に出た後の部分にはさほど力を入れていない。また、「俗人を喜ばせる」「幻想」が「削るべき」ものであったと読めるので、『隋史遺文』旧本にも『説唐』的な星神の降凡や転生が描かれていた可能性が高い。五虎将軍も、それと同列のものとして扱われていることになる。
以上から、「旧本」は五虎将軍や星神の降凡が描かれる、非知識層を主体とする受容層のニーズに即した英雄伝奇であったが、その前半を俠義小説寄りの史書を補うものとし、後半を大幅に削り史書の記述に近づけることで、知識層にも受け入れやすい形に再編したのが『隋史遺文』であることが分かる。こうした傾向は『隋唐両朝史伝』にも見られるが、歴史書との整合の問題をうまく回避している点で、『隋史遺文』はより洗練されている。
京劇などの伝統劇で演じられた隋唐故事の演目は『説唐』に近い英雄伝奇が圧倒的多数を占め、『隋史遺文』を吸収・継承した『隋唐演義』の影響力が限られるのは、かかる編纂意図を考慮すれば、しごく当然なことであると言えよう。
蜀漢の五虎将軍†
平話・雑劇・小説の五虎将軍†
五虎将軍と聞いて多くの人が連想するのは、蜀漢の劉備配下の関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人であろう。『三国志』「蜀書」六は「関張馬黄趙伝」であり、正史の段階からこの5人は蜀漢建国の主要な武将として位置づけられており、そのことが五虎将軍の濫觴となったのであろう。
五虎将軍の称号の登場は元代の『三国志平話』に遡る。巻下第九葉、諸葛亮が馬超を帰順させ成都に戻った場面で、「封五虎将」と題する上図が掲げられ、五将を描いている。本文中では以下のように言及される。
さて、軍師が兵を引いて益州に入り、皇叔に見えると宴席となった。関公を寿亭侯に封じ、張飛を西長侯に封じ、馬超を定遠侯に封じ、黄忠を定乱侯に封じ、趙雲を立国侯に封じた。皇叔は五虎将軍を封じたが、愛弟の関公だけがその場にいなかったので、心腹の人に命じて金珠を賜り、荊州に赴いて、関公を寿亭侯に封じさせた。*29
一方、三国故事の雑劇で五虎将軍に言及するものは少なく、管見の限りでは元明間・無名氏『曹操夜走陳倉路』雑劇第一折の劉備のセリフに、「わが漢の五虎将も弱くはないぞ*30」と見える程度である。これは、五虎将軍最後の一人である馬超が劉備に従ったのは成都攻略直前と遅く、そのしばらく後には関羽が敗死してしまうため、そもそも五虎将軍が勢揃いする機会が無かったことに起因しよう。
『三国志演義』第七十三回では、劉備が漢中王に即位し、五虎将軍を封じている。前章までで検討してきたように、五虎将軍は天下を目指す勢力が擁する最強武将たちの称号であり、かつ英雄伝奇的な色彩が強い。従って、劉備は漢中王に即位して高祖劉邦の後継者になる意志を明らかにするとともに、それを実現する力として五虎将軍を封じたと解釈できるし、『三国志演義』に五虎将軍が登場するのは、その知名度ゆえに『三国志平話』から継承せざるを得なかった英雄伝奇的要素であると考えられる。
しかし、まもなく蜀漢は関羽と荊州を失い、その弔い合戦である夷陵の戦いを通じて、張飛・黄忠を失い、劉備も没することになり、天下統一は実現しない。結果として、五虎将軍はその役割を果たすことができなかった。
関羽は何故敗れたか†
三国志関連の民話集である『三国外伝』に、「関公換刀」という民話が集録されている。その冒頭に以下のように見える。
青竜偃月刀は、もともと世に二振りあった。関羽のものと、周倉のものである。あにはからんや、関羽のものは、曹操に袍を贈られたときに壊されてしまった。*31
この後、関羽は周倉の青竜偃月刀をだまし取って、それによって幾多の武功を挙げることになる。ここでは関羽の青竜偃月刀が「壊された」ことに言及しているが、それに対応する民話は管見の限りでは『三国外伝』や他の三国故事民話集に収められておらず、誰がどのように壊したのか分からない。
その答は、李洪春『京劇長談』に見出すことができる。李洪春は、清末から中華民国期にかけて活躍し「活き関公」と称された京劇の紅生――関羽専門の役まわり――であり、『京劇長談』は彼の平生や芸歴、梨園の見聞、芸談などをまとめた自伝的な本である。その中で李洪春は、自身の演じた『水淹七軍』の最後の場について、以下のように説明している。
この場で関公は紅蟒を着る。この紅蟒はかつて関公が灞橋でからげた大紅袍である。今になって着た目的は、曹操の衣装を着て曹操の手下を斬ることにある。以前、迷信的な説明もあった。かつて袍を仕立てた際に、郭嘉は密かに婦女の血で汚れた布を衣の布地の間に仕込んでおり、だからこそ関公が着るや、まず矢傷を受け、その後で命を失ったのである。郭嘉はこのために短命で死んだ、という迷信的な説明である。*32
ここから、前に引いた「関公換刀」で関羽の青竜偃月刀が「壊された」原因も、郭嘉が仕込んだ婦女の血(経血)の穢れを受けたことに起因するものと推測できる。『三国外伝』がそのエピソードを収録せず、また直接言及しないのは、「迷信的な説明」であるために忌避したものであろう。また、『三国外伝』は湖北で採録された民話を整理・収録しているが、李洪春は北京で生まれ育ち劇を学んでいるので、それらの民話が湖北と北京とで共有されていた、つまり全国的に流通していたことが窺われる。
さて、『水淹七軍』の最後の場で関羽は「紅蟒を着る」が、京劇で関羽の衣装の色は一般的に緑である。これは『三国演義』第二十五回の記述に基づいている。
ある日、曹操は関羽の着ている緑の戦袍が古びているのを見て、彼の体に合わせて、珍しい錦を使って戦袍を仕立てて贈った。関羽は受け取ると、襦袢の上に着て、相変わらず古い袍をその上に纏った。曹操は笑って言った。「雲長はもの持ちが良いのう。」関羽は言った。「もの持ちが良いのではありませぬ。古い袍は劉皇叔に賜ったもので、これを着るのは兄に会っているようなもの、丞相に新たに賜ったからといって、兄にかつて賜ったものを忘れるわけに参りませんので、上に着たのです。」*33
それでは、三国故事中の関羽の衣装は昔から緑であったかというと、必ずしもそうとは言い切れない。
脈望館本の雑劇には、登場人物の扮装をまとめた「穿貫」が付せられるものが幾つかある。関羽が登場するものでは、『三戦呂布』・『黄鶴楼』・『単戦呂布』・『単刀劈四寇』・『石榴園』・『龐掠四郡』・『怒斬関平』が穿貫を持つが、関羽の扮装はいずれも全く同じである。
滲青巾、蟒衣曳撒、紅袍、項帕、直纏、褡膊、帯、帯剣、三髭髯
関羽は緑袍ではなく紅袍を纏っている。脈望館本の穿貫では、一般に「袍」とだけ書かれて色が指定されないが、劉備・関羽・張飛は別格であったようで、それぞれ黄袍・紅袍・皂袍となっている。劉備は『三戦呂布』でも黄袍であるが、即位前に黄袍を着用するのは物語の場面に合わない。宮廷演劇という文脈から、未来の皇帝である劉備の服装が規定されたものと考えられる。
宮廷という特殊な環境で演じられた台本であることから、登場人物の扮装も市井の演劇と異なっていた可能性があり、事実、「明憲宗元宵行楽図」に描かれる『三戦呂布』雑劇の関羽は緑の衣装を纏っている。だが少なくとも、関羽=緑袍というイメージが、現在ほど確固たるものでなかったことは確実である。舞台における関羽の緑袍は明代後期以降、『三国志演義』の影響力によって定着したものである可能性が高い。
京劇『水淹七軍』は、紅生という役まわりの創始者で李洪春の師である王鴻寿(三麻子)の代表作として知られる。王鴻寿は道光年間の生まれで、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した。多くの関羽戯を創作・改編しており、民間故事に基づいた『斬熊虎』を創作するなど、歴史書や民間故事に広く取材して京劇舞台における関羽のイメージを一新している*34。李洪春のいう『水淹七軍』にまつわる迷信的説明や関羽の紅袍も、王鴻寿に由来する可能性が高い。
『三国志演義』の英雄伝奇的理解†
このように民話や京劇では、『三国志演義』が歴史書的な因果関係でプロットを構築するのに対して、信仰的要素に支えられたキャラクター中心の視点で小説の事件に別のプロットを付与している。
かかるプロット構築の方法は、『説唐』などとも共通しているが、『説唐』がテキスト内部にメタ的なプロットを構築していたのに対して、三国故事は小説『三国志演義』の絶大な影響下にあるため、小説の枠外に構築されていた。いずれにせよ、清代中・後期の非知識層にとって、信仰的要素に支えられた英雄伝奇的なキャラクター中心の歴史故事理解が一般的であったことになる。
彼らにとって、神にもなった無敵の将軍関羽が敗死する理由として、呉との外交・戦術上のミスだけでは弱かったため、『三国志演義』の枠外に関羽が死ぬ理由を作る必要があったのだろう。そこで関羽の服の色が五虎将軍の五行配当から外れることに着目し、郭嘉の詭計という信仰的なプロットが作られ、それに基づいて再解釈された三国戯が舞台を通じて再発信されることになった。
前述のように『三国志演義』の五虎将軍は、『三国志平話』など従来の三国故事の英雄伝奇的性格を断片的に受け継いだものであると言え、それが清代の非知識層による『三国志演義』の英雄伝奇的再解釈に利用されたのは、ある意味必然であったと言えよう。
おわりに†
以上をまとめると、五虎将軍は英雄伝奇的色彩の強い元代の雑劇や平話に現れ、当初から天下統一を目指す勢力の最強将軍という位置づけという性格を帯びていたが、五行・五方との結びつきは必ずしも明確ではなく、歴史演義を指向する小説からは排除される傾向にあった。清代中期の英雄伝奇小説では、非知識層のニーズに基づき、キャラクターを中心として信仰的要素によってメタ的なプロットを構築するようになり、『説唐』では五虎将軍がその一環に組み込まれる。また、歴史演義小説の代表たる『三国志演義』についても、非知識層の間では英雄伝奇小説と同様な解釈が行われていた。そして、隋唐故事・三国故事ともに、五虎将軍の不完全性がクローズアップされ、それが物語のメタ的なプロット構築や解釈に利用された。
中国の歴史物語は演劇や芸能を通じて形成されたが、中国演劇は伝統的に舞台装置や背景をほとんど用いず、清代に北京などの大都市で常設劇場が発達するまでは、一劇団10人にも満たない人数で上演されるのが一般的だった。現在の伝統劇舞台でも、軍隊を極度に簡略化した竜套や文堂は上手・下手の敵味方各4人が一般的であり、旧時のドサ回り上演では各2人で演じられることも多かったであろう。かかる舞台では、観客の視線は英雄を演ずる役者に注がれるのであり、歴史物語が英雄伝奇的色彩を帯びるのも、英雄伝奇的に受容されるのも、自然ななりゆきである。
そして、転生や因果応報によるプロット構築は一見荒唐無稽であるが、非知識層の間ではそれなりの説得力を持っていたか、少なくともお約束として受け入れられたからこそ、それを積極的に活用することで、清代中期に英雄伝奇的な長編小説が陸続と生み出されたと考えられる。現代日本の漫画・ライトノベルなどにも、転生やらタイムリープやら因果応報やらをプロットの中核に据える例を多々見出すことができることを考えれば、通俗的なサブカルチャー作品は地域や時代を超えて、ある程度似かよった性格を持つのかもしれない。
夙に指摘されるように、通俗文学は作者と読者の共同創作物的な性格を持つため、受容の実態解明が不可欠である。中国の古典通俗小説は作品が残っていても、それがどのように読まれ受容されたのかに関する記録が極めて乏しいのが実情であり、このことが受容研究を進める上で大きな障害になっている。
従来、通俗小説研究において戯曲・伝統演劇資料は、主に材源研究の方面から台本資料が利用されてきたが、本稿で使用した芸談や知識層による劇評などは、役者や観客がどのように小説や物語を受容・表現したのかを知ることができる資料としての側面を持つのであり、今後、通俗文学の受容研究に積極的に活用されるべきであろう。
引用文献†
伝統文献†
- 『桐薪』、明錢希言、中國國家圖書館所藏明萬曆刊本
- 『廿二史劄記校証』、清趙翼、王樹民考証、中華書局2013排印本
- 雑劇『劉夫人慶賞五侯宴』、元関漢卿、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 雑劇『呉起敵秦掛帥印』、元明間無名氏、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 雑劇『程咬金斧劈老君堂』、元鄭徳輝、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 雑劇『長安城四馬投唐』、元明間無名氏、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 雑劇『徐懋功智降秦叔宝』、明無名氏、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 雑劇『曹操夜走陳倉路』元明間無名氏、『孤本元明雑劇』(中国戯劇出版社1959影印本)所収排印本
- 『三国志平話』、国立公文書館所蔵元至治間刊本
- 『唐薛仁貴跨海征遼故事』、文物出版社1979『明成化説唱詞話叢刊』所収明成化間刊本
- 『残唐五代史演義伝』六十回、明無名氏撰、中国書店1986景明万暦間龔紹山刊本
- 『三國演義』一百回、羅漢中、中華書局2009排印本
- 『隋唐両朝史伝』一百二十回、尊経閣文庫所蔵明万暦間龔紹山刊本
- 『大唐秦王詞話』六十四回、文学古籍刊行社 1956影印本
- 『隋史遺文』六十回、袁于令、『古本小説集成』(上海古籍出版社1992)所収国立国会図書館所蔵名山聚蔵明崇禎六年序刊本
- 『説唐全伝』六十八回、鴦湖漁叟、『古本小説集成』(上海古籍出版社1992)所収上海古籍出版社所蔵乾隆四十八年観文書屋刊本
- 『説唐後伝』五十五回、鴦湖漁叟、『古本小説集成』(上海古籍出版社1992)所収中国芸術研究院戯曲研究所蔵乾隆四十八年観文書屋刊本
近人論著†
- 江雲・韓致中主編 1986 『三国外伝』、湖北群衆芸術館編、上海文芸出版社
- 呉同賓・周亜勛主編 2007『京劇知識詞典』増訂版、天津人民出版社2007
- 李洪春
- 1982 『京劇長談』、中国戯劇出版社、p.459
- 歐陽健
- 1988 「《隋唐演義》“綴集成帙”考」、『文献』1988年第2期、pp.63-94
- 田仲 一成
- 1993 『中国巫系演劇研究』、東京大学出版会、p.1204
- 上田 望
- 1996 「講史小説と歴史書(1):『三国演義』,『隋唐両朝史伝』を中心に」、『東洋文化研究所紀要』第130冊、pp.97-180
- 1999 「講史小説と歴史書(2):『残唐五代史演義』,『南宋志伝』の構造と変容」、『東洋文化研究所紀要』第137冊、pp.43-90
- 小松 謙
- 2001 『中国歴史小説研究』、汲古書院、p.274
- 千田 大介
- 1995 「李玉の歴史故事伝奇と乾隆期英雄伝奇小説~『麒麟閣』と興唐故事小説とを中心に」、『中国古典小説研究』第一号、pp.78-88
- 1996 「乾隆期英雄伝奇小説『説唐』の主題」、『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第41輯・第二分冊、pp.133-144
※本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏における芸能文化の伝播・流通・変容」(令和3~4年度、基盤研究(B)、課題番号:20H01240、研究代表者:山下一夫)による成果の一部である。
*1 上田望1996は楊麗泉が創作の中心であったと推測する。
*2 《金統殘唐記》載其事甚詳,而中間極誇李存孝之勇,復稱其冤,為此書者全為存孝而作也,後來詞話悉俑於此。武宗南幸,夜忽傳旨取《金統殘唐記》善本,中官重價購之肆中,一部售五十金。今人躭嗜《水滸》、《三國》,而不傳《金統》,是未嘗見其書耳。
*3 一龍是直北沙陀李晉王世子李存勖,後滅梁為唐莊宗皇帝。
一龍是直北沙陀李晉王養子李嗣源,後為唐明宗皇帝。
一龍是河西石敬塘,後為晉高宗皇帝。
一龍是沙陀知遠,後為漢高祖皇帝。
一龍是同臺郭彥威,後為周太祖皇帝。
*4 唐莊宗為晉王時,與梁軍拒於河上,垂十年。……計是時,唐莊宗、明宗、廢帝、晉高祖、漢高祖皆在行間,一軍共有五帝,此古來未有之其也。(p.483)
*5 某乃李嗣源是也。…(略)…頗奈梁元帥無禮。今差賊將王彥章。領十萬軍兵。搦俺相持。他則知無了存孝。豈知還有俺五虎大將。量他何足道哉。(第三折)
*6 怎見得東方陣勢,有詩為證。
一按東方甲乙木
倒馬金戈列擺佈
手執三股托天叉
短劍傍牌前引路
*7 『大唐秦王詞話』は厳密には説唱芸能系のテキストであるが、白話散文部分が韻文部分よりも圧倒的に多く、かつ章回形式を取っているので、小説に準ずるものとして扱う。
*8 徐茂功は李勣のこと。原名徐世勣、字懋功で、隋唐故事諸テキストでは、徐茂功・徐茂公などと表記されるが、本稿では徐茂功に統一する。
*9 某乃李密是也。祖居京兆府人氏。生而英勇。自小豪傑。如今隋帝失政。今六十四處煙塵。豪傑並起。某建立金墉城。我麾下有二士三賢五虎七熊八彪。兵有百萬。將有千員。
*10 【甜水令】他從來馳騁矜驕,兇頑殘暴,姦滑莽撞,絕仁義,失綱常。空有那二士三賢五虎七熊八彪郞將,拒忠諫不用賢良。
*11 聚三十六大夥、七十二小夥、半垓來的小僂儸。
*12 家住濟州東河郡
世將傳芳身姓秦
果是英雄無對手
才兼文武有誰倫
*13 千田大介1999参照。
*14 看叔寶怎生打扮,甚樣兵器:
五虎叢中無對手,祖居齊地仙鄉。青袍銀甲迸寒光。盔纓飄烈火,寶帶耀金粧。 斑豹馬欺翻海獸,烏油戰戟長鎗。劈楞簡掛色如霜。九天右副將,四海斬妖王。
看王伯當也不弱:
飛鳳銀盔光燦爛,百花袍掛錦鮫鮹。細紋金甲拴鸞帶,水獸烏靴拱浪潮。跨下胭脂千里馬,肩荷珠纓斬將刀。
單雄信十分威猛:
鑌鐵護頂綴紅纓,上下金粧一片新。李密駕前梟虎將,橫拖棗矟出軍門。
羅成全副披掛:
玉嵌明盔耀日,銀粧鎖甲爭輝。腰拖錦帶綉鸞魚,弓箭隨身可體。 人是西方白虎,馬騎出水蛟螭。梨花鎗舞雪花飛,灌口二郎降世。
程咬金惡賽天神:
團團珠玉綴,亂撒絳毛纓。袍披十樣錦,甲掛禿龍鱗。弓彎犀角靶,箭插皁雕翎。肩擔月樣開山斧,宛如華岳巨靈神。
*15 且說李密同伯當于路趲行,到一去處地名,喚做野猪坡。坡下見一個猪,把一隻犬咬倒在地。李密心中不平,連忙拈弓取箭在手,扯開弓一箭,指望射猪救犬。也是天意,倉卒中,不想一箭倒將犬射死。原來李密本像星是婁金狗,正射着自家本命。
*16 吾不是別的,上界宜山老母就是。當初賜劍與你之時,要你遵依,不犯“盛、獨、鹿”三字,怎麼違抝,一件也不依。若依得全美,還有三年天下,今逆天命,上界著我取回。
*17 你王本是婁金狗
罪謫塵凡強做君
*18 金墉城內,軍校入報:「叔寶、知節五虎臣擒得秦王世民。」
*19 看官,當日玉皇大帝差紫微星臨凡治世,又要差二十八宿下凡幫助。那二十八宿不肯,大哭道:“前日昆陽大戰有許多功勞,他却酒醉斬姚期,醒來逼鄧禹。如此無情,說也傷感!”大家一齊不肯保他,却差三十六天罡下凡保他。這二十八宿氣不甘伏,也下來炒鬧紫微,就是眾反王了。
*20 且說這李淵乃成紀人也,按上界亢金龍臨凡。
*21 孤家心中所樂五將,乃青黃赤黑白之五色也。如今穿紅的有了程咬金,穿黃的有了秦叔寶,穿黑的有了尉遲恭,還少穿白、穿青二人。那穿白的,孤想着羅成,穿青的,想着單雄信。若此二人可得歸降于唐,豈不妙哉。
*22 咬金道:“單二哥,再喫一杯,愿你來生做一個有本事的好漢,來報今日之仇。”雄信道:“妙阿。老子也有此心。”把酒又吃了。咬金道:“單二哥,這第三杯酒是要喫的,愿你來世將這些沒情的朋友,一刀一刀慢慢地殺他。”雄信道:“這句話也說得有理。”又把酒喫乾了。
*23 他一點靈光,直往外國去投胎去了,後世借了蓋蘇文,來奪唐朝江山。
*24 不曉得羅成死了,薛仁貴所以就開口的。
*25 飲酒中間,咬金想到道:「在席的朋友,看起來惟有單雄信這強盜頭兒與那羅成這小伙子利害,待我串他二人打一陣兒看看,有何不可。」
*26 時人莫厭開場句
座客還聽按鑑詞
*27 欧陽健1988参照。
*28 向為《隋史遺文》,蓋以著秦胡國于微,更旁及其一時恩怨共事之人。…(略)…奇幻足快俗人,而不必根於理。襲傳聞之陋,過于誣人;創妖艷之說,過於憑己;悉為更易。可仍則仍,可削則削,宜增者大為增之。蓋本意原以補史之遺,原不必與史背馳也。
*29 又說軍師班軍入益州,見皇叔筵會。關公封壽亭侯,張飛封西長侯,馬超封定遠侯,黃忠封定亂侯,趙雲封立國侯。皇叔恩封五虎將軍,唯不見愛弟關公,使心腹人賜金珠,赴荊州,封關公壽亭侯。
*30 俺漢家這五虎將非輕也。
*31 青龍偃月刀,原先世上有兩把,關公的一把,周倉的一把。沒想關公的那把,在曹操贈袍時給弄壞了。(p.44)
*32 這場關公要穿紅蟒。這個紅蟒就是當年關公在灞橋時關公所挑的大紅袍。今天纔穿的目的,就是穿你的衣裳斬你的人!過去還有個迷信說法,就是當年造袍時,郭嘉暗將婦女血污之布暗放衣的夾層內,所以纔有關公穿了先受箭傷而後喪命,郭嘉因此短壽而死的迷信說法。(p.313)
*33 一日,操見關公所穿綠錦戰袍已舊,即度其身品,取異錦作戰袍一領相贈。關公受之,穿于衣底上,仍用舊袍罩之。操笑曰:“云長何如此之儉乎?”公曰:“某非儉也。舊袍乃劉皇叔所賜,其穿之如見兄面,不敢以丞相之新賜,而忘兄長之舊賜,故穿于上。”
*34 李洪春1982「第三章 老師王鴻寿」、呉同賓・周亜勛2007 pp.149-150参照。