『都市芸研』第一輯/台湾における国劇概念

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台湾における国劇概念—国民党遷台から1960年代まで—

平林 宣和

「京劇は中国の国劇である」という定義は、全ての中国人が納得するわけではないにしても、ごく一般的な常識、あるいは決まり文句として中国社会に流布している。我々外国人も、京劇が国家の文化を代表する演劇として定位されている、ということに、とりたてて不自然な印象を持つことはない。とはいえ現在大陸においては、この定義自体は頻繁に引用されるものの、京劇の呼称は一貫して「京劇」であり、劇団名や公演名に直接国劇という名称が用いられることはほとんどない。また、国劇は即ち国粋であるがゆえに、みだりに加工せず可能なかぎり原形をとどめて継承するのが好ましい、という態度が取られているかといえば、新編歴史劇や現代戯が常時一定量生産されている現状からして、そうした通念もまた共有されているとはいえないだろう。むろん新作に労力を割かず、保存継承を重視すべきだという人は多いし、近年の音配像のような試みもあるが、それは決して支配的な趨勢とはなっていない。大陸において「国劇」は、呼称としても、あるいは我々が一般的に思い描くような価値観としても、通用してはしていないのである。一方台湾では、国民党の遷台以後、二十世紀の後半を通じほぼ一貫して国劇という名称が用いられてきた。並行して「平劇」という呼称も使用され、また1990年代に入ってからは、その相対的な地位の下降や大陸との緊張緩和によって徐々に「京劇」も使われるようになったが、たとえば国防部国劇隊という名称に見られるように、オフィシャルな場面では主に「国劇」が長期にわたって用いられてきたのである。京劇が国劇かどうか、という議論に最終的な結論はない。この命題に根拠らしきものを与えるのは、それを支持する人々が用いる文化的、政治的文脈の戦略性のみだからである。とはいえこうした言説は、時に一つの演劇の命運を左右する力を持ちうるものであり、台湾における国劇の位置づけは、その顕著な実例の一つとなると思われる。小稿は、台湾の国劇概念の消長をたどりつつ、それが担った意味内容に関して初歩的な検討を試みるものである。ただし、当時の資料の把握、収集が未だ十分でないため、主に二次資料に基づいた簡単な整理レベルに止まるものであることを最初にお断りしておく。

一、国劇ということば

本題に入る前に、国劇ということばとその含意について、簡単に確認をしておこう。二十世紀を通じて、国劇には複数の含意があったが、それはおおよそ以下の三つと考えられる。

  1. 中国在来の演劇の総称。
  2. 在来の演劇の代表として特に京劇を指し示す。1,2はともに、国医、国画、国術等と同様、伝統文化の粋という含意がある。
  3. 余上沅の提唱による、中西双方の演劇の特質を融合した新たな国民演劇としての国劇。

このうち3については、1920年代に現れた実験的芸術運動のコンセプトであり、通念として一般化したものではないので、ここではひとまず検討の対象から外しておく*1。1と2に関しては、時期的にまず1の出現が先行している。管見に及ぶ限りでは、1905年に発表された蒋観雲「中国之演劇界」*2の末尾に、国劇ということばの最も早い使用例が見られる。悲劇を持たないことが中国演劇の最大の欠点であるとして、「国劇刷新」を唱える改良運動期の代表的文章だが、ここで使われている国劇ということばは、特に京劇に限定されたものではなく、1の中国在来の演劇全般という意味であった。

一方2の用例に関しては、初出および普及の時期に関して十分な考証を行っていないため、確実なことは言えないが、おおよその印象では、1931年の北平国劇学会の創立前後に一般化していったのではないかと思われる。七年後の1938年に刊行された徐慕雲『中国戯劇史』の皮黄戯の項に、「晩近竟有上皮黄劇以国劇之尊号者」との一文があり、この記述を信用するなら、国劇=京劇という用法は、1930年代にはある程度普及していたということになるだろう。もっとも国劇学会の「国劇」も、その機関誌である『戯劇叢刊』創刊号所載の傅芸子「発刊詞」において、「崑漢黄秦」全てを研究対象とすると述べられているように、当初は1の意味で用いられていた。しかし学会の中核にいたのが、梅蘭芳、斉如山など京劇関係者であり、また梅蘭芳や程硯秋等が相次いで欧米に紹介された時期でもあったため、他の劇種は徐々に脇に追いやられていったのであろうと思われる。

二、1945年から1965年まで

さて、日本植民地時代即ち二十世紀前半の台湾では、京劇は「正音」、「外江戯」、「京戯」、「平劇」など様々な名称で呼ばれていた。大陸で生まれた国劇という名称がいつ頃台湾にもたらされたか、今のところ期日を確定し得ないが、少なくとも日本植民地時代の台湾演劇史を扱った複数の研究書からは、国劇の使用例を見い出すことはできない*3。一方、温秋菊編「清末民初以来伝統職業劇団的演出(1909-1948)」*4によれば、台湾における国劇の最も早期の使用例は、1946年に来台した新風国劇団であり、それに続くのが1948年に公演を行った鉄路局国劇研究社である。さらに毛家華『京劇二百年史話 上・下巻』には、1949年5月に上海から中国国劇団が来台、一部の俳優はそのまま大陸に戻らず、台湾に居残った、との記述がある*5。新風国劇団や中国国劇団は民間の職業劇団だが、このように光復から国民党遷台に至る時期以降、各種資料に国劇という名称が散見されはじめるのである*6。後に台湾における京劇上演活動の中核となる陸海空の三軍国劇隊、すなわち大鵬国劇隊、海光国劇隊、陸光国劇隊が、もともと軍中にあった劇団を基盤に設立されたのも、やはり1950年代のことであった(それぞれ1950年、1954年、1958年)。加えて、1961年に刊行された台湾演劇史の専著である呂訴上『台湾電影戯劇史』(銀華出版社)の一部、「台湾平劇史」を通覧すると、国民党の遷台後の記述にのみ国劇という名称が用いられ、それ以前の部分は平劇という名称に統一されている。この書籍が出版されたのは国民党遷台の十二年後であるから、文面には1950年代当時の語感が反映されていると見てよいだろう。以上の情報を総合すると、京劇を表す国劇という名称は、民間劇団や軍中の劇団によって国民党遷台前後に台湾に持ち込まれ、以後各国劇隊の設立とともに一般化していったものと考えられる。では当時この国劇ということばにはどのような含意があったのか。先述の「台湾平劇史」には以下のような記載がある。

民国四十年前後に顧秋正劇団が解散(訳注:顧劇団の解散は1953年)、永楽戯院も映画館に鞍替えし、一時期平劇の上演は全く絶えてしまった。一部の平劇関係者は次々と改業し、平劇は衰亡の危機に立たされたのである。時の参謀総長であった王叔銘将軍は、平劇が我が国固有の思想道徳を発揚し、それを暗黙のうちに人々に伝え、社会教育の不足を補うことができるということに鑑み、各方面からそれを大いに提唱した。これによって平劇は衰退の道から蘇ることができたのである。

演劇の社会教育機能を称揚する、近代以前からたびたび語られてきた言説だが、この資料によれば1950年台前半に、中国固有の文化を維持、伝達してゆく媒体として、平劇の維持すなわち国粋の保存が必要である、との主張が軍の実力者によってなされたということになる。この認識が当時どの程度共有され、また国民党の文化政策に具体的にどのように反映されていたか、現時点では十分明らかにしえない。しかし少なくとも、国軍を中心にして、国劇ということばに対し上記のような意味が注入され始めていたことは確実であろう。またそれは、中国文化の正統は我々が継承する、という当時の国民党の矜持にも合致したものであった。

三、1965年以降

しかしながら1950年代においては、一般人を対象とした国劇隊の上演はほとんど行われていなかった。そもそも1964年にいたるまで、三軍国劇隊はそれぞれ軍隊内の康楽隊に属しており、その主要な任務は軍隊の慰労だったのである。国光劇場など専用の劇場はあったものの、一般の人々が国劇隊の上演を実際に目にできるのは月に一回程度、その意味では、先に述べた国劇の社会教育機能は十全に果たされていたとは言い難く、国劇と一般社会との距離はかなり遠いものであった。しかし1965年に至って、この状況に一定の変化が訪れる。この年に国防部総政治作戦部が国軍新文芸運動を提唱し、国光劇場を改造して国軍文芸活動中心を開場、国劇隊の常打ち小屋とし、以降一般向けの上演が頻繁に行われるようになったのである。さらに翌1966年に中華文化復興運動が開始され、国劇の普及継承はその重要な一項目と見なされるにいたった。こうした変化の背景には、大陸における文化大革命の勃発がある。中華文化復興運動の発端については、省政府の出版物において以下のように説明されている。

この年(訳注:1966年)の八月、中共は大陸において紅衛兵を用いた文化大革命を発動し、中華伝統文化の一切を破壊することを企図した。有識者達は深い憂いにとらわれたこの時期に、…中略…国父誕生日を中華文化復興節と明確に定めるよう政府に建議し、一方で中華文化復興運動を立ち上げたのである*7

この運動のなかで国劇は、

国劇の推進活動と、各劇団の上演レベルの向上:国劇は国粋であり、省分会(訳注:復興運動推進委員会台湾省分会)は強力にその普及活動を押し進め、これまでたびたび国劇巡回模範公演を挙行し、上演観摩清唱コンクール、国劇文武場研習会、国劇舞踏研究会などの活動を指導してきた*8

と、あらためて国粋と定義され、以降各種の普及活動が実施されている。中華文化復興運動推進委員会は翌年の1967年7月に成立しているが(台湾省分会はさらにその翌年)、その副委員長をつとめた陳立夫の国劇に対する態度に関して、以下のような記述がある。

陳資政(訳注=陳立夫)はまたこのように述べている。「略…国劇は芸術の精華を集め、また自ら暗黙の内に道徳仁義の宣揚に威力を発揮する。これがその尊ぶべきところである」。この言に従うと、国劇芸術を振興することができれば、あらためて道徳を整備することができる。道徳が整えられれば、文化の復興が可能となる。それゆえ国劇芸術は、今日の文化建設の上で非常に重要な役割を占めているのである*9

1962年に始まった「電視国劇」に関する書籍の序文からの引用だが、ここでも王叔銘将軍の場合と同様、伝統的価値観の媒体として国劇が称揚されている。先に触れたように、国劇ということば、そして国劇=国粋という概念は、1965年以前に出現してはいた。しかし活動範囲が限定されていたため、当初は実質的にその機能を十分に発揮していたとは言い難い。それが1965年以降、大陸の文化大革命に対するリアクションとして、国粋としての意味をより強力に背負わされ、またその機能を発揮させるべく環境整備が行われたのである。国民党が共産党の文化政策へのリアクションとして国劇に対する政策を実施していった背景を、研究者の王安祈は以下のようにまとめている。

「伝統演目を上演すること」と「老戯の復活上演」という二つの重点項目の背景は、政府の遷台後の文化全体、さらには政治の趨勢と密接な関係がある。中共の「革命」文化に対して、台湾の国民党政府は「正統」の継承を自らの任務とし、採択した文化政策もまた「伝統の復興」であった。京劇の観客の大部分も、芸術的観点はその政治的立場と一致しており、対岸の共産党が伝統演劇を任意に改造することに不満を持ちつつ、一方で細心の注意を払って台湾京劇の正統な地位を守るべきだと考えていた。当時の大部分の劇評家が常に念頭に置いているのは、すべて「北平の富連成科班では云々」といったことであり、伝統的なものを正統と見なす文化的気風は非常に明確であった*10

時期による意味づけの強弱には触れていないが、国劇ということばに、台湾の政治的、歴史的文脈から来る特殊な含意が付与されていた様子がこの記述から見て取れるだろう。

結び

以上、国民党の遷台前後から1960年代に至るまでの、台湾における国劇概念の歴史を通覧してきた。多くを二次資料によったため、冒頭に述べたように、初歩的な整理という段階に止まるものであるが、二十世紀前半に大陸で使われ始めた国劇ということばが、国民党遷台に付随する形で台湾に伝わり、さらに文化大革命に対するリアクションとしてその意味を強化していったプロセスをある程度素描し得たと思う。 なお、これ以後の1970年代末から1980年代にかけて、郭小荘の雅音小集(1979)や呉興国の当代伝奇劇場(1986)など、新作演目や新たな演出形態を追求する民間劇団が設立され、従来の国劇という枠組みから一定の距離を置いた活動が出現する。さらにその後、本土文化運動等の影響を被り、1990年代に三軍国劇隊がリストラされ、国軍内の劇団が全て消滅するという、小稿で素描した国劇の発揚という方針とは全く相反する動きが現れている。こうした新たな局面については、また機会を改めて記述したいと思う。

  • 本研究ノートの執筆直後、台湾清華大学の王安祈教授に直接お話を伺う機会を得た。ここで扱った対象に関して、より詳細な情報をご提供いただいたが、今回それらを新たに組み入れる余裕はなかったので、以後また稿を改めて論じることとしたい。
  • 本稿は、平成14年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))「近代北方中国の芸能に関する総合的研究-京劇と皮影戯をめぐって-」(課題番号:14310204、研究代表者:氷上正)による研究成果の一部分である。

*1 余上沅の国劇運動については、松浦恆雄「国劇運動再考」(『野草』第50号、1992年)に詳しい。
*2 『新民叢報』3巻17期。阿英編『晩清文学叢抄 小説戯曲研究巻』、中華書局、1962年所収。
*3 邱坤良『新劇與旧劇 日治時期時期台湾戯劇的研究(一九八五~一九四五)』、自立晩報社文化出版部、1992年。および徐亜湘『日治時期中国戯班在台湾』、南天書局有限公司、2000年。
*4 温秋菊『台湾平劇発展之研究』、学芸出版社、1994年所収。
*5 毛家華『京劇二百年史話 上・下巻』、行政院文化建設委員会、1995年。
*6 さらに、1945年から1954年までの台湾における演劇活動を記した焦桐編「戦後台湾戯劇年表」によれば、1950年から「鉄路国劇研究社」、「保安司令部官兵康楽委員会国劇組」など、国劇ということばを冠した組織名が出現する。
*7 台湾省政府新聞処『台湾復興四十五年専輯 文化建設篇 教育発展與文化建設』、1990年。
*8 同注7。
*9 王元富『電視国劇論述』、黎明文化事業公司、1982年。
*10 王安祈「文化変遷中台湾京劇発展的脈絡」、『伝統戯曲的現代表現』、里仁書局、1996年。