『申曲日報』についてのノート†
『申曲日報』は、上海地方の伝統劇である滬劇系の情報を扱った日報である。「申曲」という呼称は、民国3年(1914)にいわゆる社会改良運動に呼応するかたちで生まれたもので崑曲への濃厚な意識がうかがえる。これによって「申曲」以前に使用されていた東郷調や本灘という呼称が完全に消滅したわけではなく、むしろ幅広く命脈を保っていた。これは『申曲日報』創刊前夜に現れた「滬劇」という呼称がすぐさま新しい権威ある呼称として唯一の存在にはなりえなかったことともつながるものだろう。時代を画する言葉として華々しく登場したのであれば、『申曲日報』という名称じたい再考の余地があったはずだからである。
創刊は民国30年(1941)3月6日である。映画や話劇といった別のジャンルとの交流が盛んになっていたこと、その交流が促したともいえる王雅琴の上海滬劇社の登場などから、1940年前後の申曲/滬劇界(以下、「申曲/滬劇」は「滬劇」に統一する)は変容の過程にあったということができるかもしれない。
当該日報に先んじて刊行されていた『申曲画報』(1939年7月9日創刊、三日おきの刊行、主編:張龍輝、葉峰)、『申曲劇訊』(1940年8月10日創刊、週刊、主編:葉峰)に深く関わった葉峰が主編である。滬劇の関係者はその出自に不明な点が多いものだが、葉峰も同様で生卒年すらはっきりしていない。筆名は「大阿福」で、「大阿福信箱」というコーナーを当該日報に設けている(図版A)。そのタイトルの脇に描かれているのはイヤリングをした中年の婦人といった風情の顔だ。しかし『上海滬劇誌』(上海文化出版社、99年)は葉を「彼」とあきらかに男性として紹介しており、実際の性別さえ詳らかではない。同じく『上海滬劇誌』には、46年から52年まで『滬劇週刊』を主編し、その後上海の新聞『亦報』に「滬劇五十年」という記事を連載したこと(図版B)、また藝華滬劇団で詞作と宣伝工作を兼担し、『黄浦怒潮』(58年8月、藝華滬劇団、新光劇場)の創作にも関わったとしている。「滬劇五十年」は、上海通社が36年に刊行した『上海研究資料』の「申曲研究」のように滬劇史を詳述した数少ない記事で、52年4月1日から計54回連載されている。なお上海図書館分館には『帰来』(文化出版社、57年)という滬劇の劇本が収められており、おそらく葉峰の編んだものかと思われるが、筆者は未見であり詳らかではない。
当該日報は第678期(43年1月31日)を刊行したのち休刊する。体裁は42年4月までが16開(27×19㎝)4版(4頁)で、その後4開(38×26㎝)2版に変わっている。現在マイクロフィルム化されており、上海図書館で閲覧することができる。
さて紙面の内容だが、まず1面には「閃電新聞」、「特写鏡頭」という欄が設けられ、最も新しくニュース性の高い記事が掲載されている。基本的には滬劇界の動向、俳優などへのインタビューが多いようである。2・3面の見開きページには、俳優や劇団の公演情報が掲載され、読者の素朴な疑問に葉峰が答える「大阿福信箱」(これは『申曲劇訊』でも設けられていたようである)、幕表(伝統的に滬劇は登場人物、場、プロットを指定するだけの幕表戯)「申曲劇本」などが設けられている。4面は人気滬劇俳優の紹介記事「申曲百美図」・「申曲百将図」、滬劇の唱の詞句を掲載した「播音室(放送室の意)」、編集記にあたる「編輯室」などで構成されている。当然のことながら、記事以外に広告も各面ふんだんに現れていることも付け加えておく。
これらの内容からいくつかの特徴を挙げるとすれば、①「唱本」由来の唱の詞句などの文字テクスト、②劇団の公演情報や役者の動向などのニュース、③写真の多用、④俳優を偶像化したり劇界の内幕を暴露するような記事、⑤「大阿福信箱」や「読者論壇」のような読者とのコミュニケーションを活用した内容、⑥滬劇を座標軸にしながらも映画や話劇、レコード、ラジオといったジャンルやメディアを横断するような記事、ということになろう。
ところで創刊号の1面トップの「閃電新聞」は、国語(標準中国語)映画に出演することが決まり「影曲双棲(銀幕でも劇壇でも活躍するということ)」を実践しようという王雅琴の記事である(図版C)。注目すべきは次の二点であろう。ひとつは、上海語というバナキュラーな言語に拠って立つ滬劇というジャンルの枠組みを乗り越えようとしていること、もうひとつは伝統劇から映画という別のジャンルへ越境しようとしている点である。後者は特に珍しいケースと言うわけではないが、どちらも新しい試みへと突き動かされていた当時の状況をよく伝えるものであろう。大きな彼女の写真がまず目を引く。純粋な演劇ニュースとみる向きもあろうが、銀幕という華々しい世界に当時の滬劇界を牽引する若さに溢れた美人女優が進出するという出来事を追う姿勢には胡散臭さも漂う。例えば3月9日には同じく王雅琴が「国語を学んでいる」とか21日のトップ記事では彼女が「じんましんになったが注射を打って直った」というようなものだ。これらは特徴として挙げた④に関わるものだが、さらにシリーズ化したともいえる興味深い記事の連鎖をたどってみたい。
第一報は41年3月24日の一面に載った記事である。「昨晩七時に大世界の屋上(庭園)にて王豔琴、何者かに刺される」という衝撃的な内容であった(図版D)。王豔琴は名優王筱新の次女でありまた創刊号のトップを飾った王雅琴の妹でもある。新進気鋭のニューフェースといったところだ。彼女は頚部を刃物で刺され廣慈医院に運ばれたが、傷は重篤なものではなく時間が経てば全快するだろうという医師のコメントもある。
しかし翌25日のトップ記事は思いもかけないものだった(図版E)。「王豔琴小姐傷重斃死」「凄絶!惨絶! 一代藝人香消玉殞 申曲界同聲一哭」彼女は治療の甲斐もなく死亡したのだった。病院に運ばれた彼女は、高熱にうなされそのまま昏睡状態に陥った。当局は犯人の検挙に全力を尽くしているが、いまだ有力な手がかりはつかめない。彼女は皇后劇院で『大家庭』の主役を姉の雅琴とダブルキャストで務めるはずだった。『大家庭』は映画界の大物・張石川の演出で脚本は新進気鋭の戈戈である。「申曲」という枠にはおさまりきれない新しい劇界を担うべき逸材が突然世を去ったことはまさに衝撃的としかいいようがなかったであろう。
26日の記事(図版F)は彼女の遺体が同仁輔元堂に運ばれ検察官によって検死されるまでを淡々と描写している。写真は父親である王筱新の悲しみに暮れた姿だ。検死後の遺体を目にする機会を持った記者の描写が生々しい。「遺体は紫の柄が入ったチーパオを着せられ、裸足で、髪の毛は少し乱れている。まるで生きているかのような顔つきである」「傷口は咽喉の中程で、長さはだいたい二寸くらい。裂けた部分は既に医師によって縫われており、その深さを窺い知ることはできない」同日の「大阿福信箱」では読者の疑問に答える形で、犯人が劇界の人間か否かということがうわさの中心として広まっていることを暗に示している。また「読者論壇」(図版G)では、前途有望な若い女優の死を悼む文章も掲載され、この血なまぐさい事件の影響の大きさを物語っている。
27日に王豔琴のデスマスクの写真が掲載されたあと、28日には更に衝撃的な事件の真相が明るみになる。彼女と同じ劇団にいた杜鴻賓は報われない彼女への片思いを募らせていた。そこに新進気鋭の劇作家・戈戈と彼女がいい仲であるとのニュースが流れる。根拠のない出鱈目であったが、これが杜を刺激してしまった。逆上した杜によって彼女は刺殺されるに至ったのだ。戈戈はこの結末をひどく悲しみ、父親の王筱新に彼女の婚約者になることを懇願した…。
この事件はこれで終わらなかった。30日には主犯の杜鴻賓が服毒自殺を遂げる。その一切がまた当該日報の紙面を埋めた(図版H)。
このように演劇そのものとはあまり関係がないが、劇壇の内幕を詳述するような記事は、上記のような衝撃的な内容とまではいかずとも、数多く掲載されているのがこの日報の特徴である。内容もさることながら、驚くのは報道のスピードの速さと、現場写真の多用である。これは、ある程度の取材体勢が固まっていたことを示している。
速報性に優れている一方で、滬劇界のオピニオンリーダーのような立場を示すべきであるとの意見が掲載されていないこともない。3月7日の「藝人漫筆」で先の戈戈は滬劇の持っている独自性を認めながらも、俳優たちが抱いている革新、刷新の必要性に着目し、「まさに真に正確な立場に立つことのできる新聞が必要で」あり、『申曲日報』の二大任務は「申曲の観客に対し申曲が改革のただなかにあることを宣伝する」と同時に「改革に努めている申曲界人士を鼓舞激励し、申曲がもっと進歩的で素晴らしい道を歩むことができるようにさせる」ことであると述べている。あるいはまた読者からの投書で、いわゆる内幕暴露系の記事の多さに辟易する、路線を改めるべきだという意見も見える。しかし全体の傾向としては、これらが少数意見であることは否めない。
さて、滬劇研究は、まだ未開拓の分野といってよい。まとまった研究を時代順に並べても前述の上海通社による「申曲研究」(『上海研究資料』36年)、葉峰「滬劇五十年」(『亦報』52年)文牧・余樹人「従花鼓戯到本地灘簧」、周良材「灘簧戯與時代的関係」(共に『上海戯曲史料薈萃第二集』86年)、周良材「百年滬劇話滄桑」(『上海文史資料選輯第62輯 戯曲菁英(下)』89年)、『上海滬劇誌』(99年)と非常に少ない。
では、この『申曲日報』を今後の滬劇研究のためにどのように活用していけばいいのだろうか。
ひとつには、上海滬劇社の誕生や話劇界からの人材流出によっていわゆる「申曲」が「滬劇」へと質的に変化していく過程を研究する上で、当時の生々しい状況を微に入り細に入り参照できるということが挙げられる。特に重要になのは、劇壇の人物関係や詳細な公演情報(劇団、演目、公演場所等)になろう。実際のところ現在唯一の滬劇の大事記が掲載されている『上海滬劇誌』にさえ、漏れている情報は多い。特に49年以前の状況については、細かな情報の整理がついていないのが現状である。
もうひとつは、滬劇そのものの変容に対してインパクトとして作用したであろう周辺の演劇ジャンルとの関係についてである。例えば、王雅琴は既に述べたようにこのほんの少し前に上海滬劇社を組織し、第一回公演『魂断藍橋』を成功させている。滬劇『魂断藍橋』はマービン・ルロイ監督のアメリカ映画『哀愁』(原題:Waterloo Bridge、40年)を基にしたもので、劇作と演出は話劇界にいた戈戈である。王雅琴はこの公演の成功で映画界への進出も果たしている。しかし話劇や映画だけでなく、京劇や越劇といった劇種との交流などの実態については、俳優や関係者の回顧録の類でしか確認することができない。「滬劇」の枠を離れたより広い範囲での人的交流などをこの日報で確認していく作業は意義深いものになるだろう。
さらには、このような日報の存在を支えた当時の上海という場の特殊性、あるいは常に「新しいもの」であろうとした同時代の演劇との同質性についての探求にも活用されていくべきである。いずれにしても滬劇研究は緒についたばかりだ。この日報の分析はその大きな始まりの一歩になることは間違いない。